第8話 動き出した時計の針

「婚約書って……そんなのが通用するわけないじゃない。単なる子供のお遊びよ」

「余裕を見せようと必死ですね。ですが、あなたの言う通りこれはお遊び。何の効力も持たない紙切れです」

「でしょう? それに、あなたのことを慧斗けいとは覚えていなかったじゃない」

「それを言うなら楠木くすのきさんもですよ。私、あなたにも会ったことがあるんですから」

「……私があなたと……?」


 こんな清楚でお嬢様な女の子と会ったなら、いくら昔でもきっと覚えているはず。

 けれど、そのどちらの単語を検索しても、秋葉あきはの脳内でヒットするものの中に荒木あらき 乃愛のあという人物の姿はなかった。


「もう何年前でしょう。慧斗さんと私は時々、公園で会っては一緒に遊んでいたんです」

「……小学校低学年の頃かしら」

「私はあの日、引っ越すからもう会えなくなると伝える勇気を振り絞ろうとしていました。それなのにあなたが慧斗さんを無理に連れ戻したから……」


 その言葉を聞いて、秋葉は全てを思い出した。

 あの日は慧斗の妹である未来みらいの誕生日で、いつの間にか抜け出していた彼にその準備を手伝わせようと公園に探しに行ったのだ。

 あの頃は今のようにキツい性格ではなかったものの、目的があるとそれ以外何も見えなくなる癖は変わっていない。

 家に連れ帰ってから、慧斗に女の子がいたということを言われた。それが乃愛のことだったのだ。


「あの時の私はお金持ちの家に生まれたことが嫌で、お稽古も習い事も全部すっぽかして逃げていました。身なりも庶民の格好をしていたから目立たなかったでしょう」

「何が言いたいのよ」

「あれから嫌だった習い事は全部真面目に取り組みました。完璧な女性になるため……いえ、慧斗さんの横に立つ者として恥ずかしくないように」

「……あなた、まさか……」


 何かを察した秋葉が言葉を詰まらせると、乃愛はニヤリと笑いながら胸を張る。

 そして「そのまさかですよ」と人差し指を立て、その先端を秋葉へと向けて言い放った。


「私は決意したんです。あの日とは逆に、私があなたから慧斗さんを引き離してやると」


 何年も積み重ねられてきた怨恨えんこんとも言える執念。彼女はそれを、ようやく本人を前に口にすることが出来たのだ。

 しかし、秋葉はまだ理解していない。自分から慧斗が引き離されるということの本当の辛さを。


「別に、私は慧斗のことなんて何とも……」

「知っていますよ、スカートめくりの件。あなたが彼にして欲しいと懇願したことも」

「なっ?! まさか話したの?!」

「いえいえ、慧斗さんは何も。ですが、そもそもそうなるように誘導したのは私ですからね」


 彼の好きそうな容姿になり、彼の好きそうな仕草と言葉遣いをして、彼の心の深くへと潜り込んだ。

 そうすれば、自分の気持ちに気が付かないまま、幼馴染という距離に甘んじている秋葉の気持ちを爆発させるには導火線すら必要ない。


「あなたは別にスカートめくりをして欲しいわけじゃありません。慧斗さんの目を、自分に向けたいだけなんですよ」

「そ、そんなわけないじゃない……」

「だったら、どうして高校生になってから急に金髪に染めたのですか? 少し前まではあなたも私と同じだったのに」


 乃愛の言葉一つ一つが、まるで全て調べ尽くされたかのようにグサリグサリと刺さってくる。

 確かに彼女が高校デビューとしてギャル風の格好をするようになったのは、慧斗の部屋でそういう系統のえっちな本を見かけたからだ。

 けれど、「へえ、こういうのが好きなんだ」とからかってやろうなんて軽い気持ちで変えただけで、深い意味なんてどこにも――――――――――。


「私……慧斗のことを……?」

「彼はもう私のものです。今更気付いたってもう遅いんですよ、バーカ」


 秋葉の知る限り最も綺麗で、最も清楚で、最も憎たらしい顔。それが冷たくトゲのある毒を吐いて去っていく。

 すぐに何か言い返してやりたかったけれど、慧斗との間で無駄にしたこの数年はあまりに重過ぎた。

 彼女は膝を付き、手を付き、握り締めた拳を床にぶつける。確かにもう手遅れかもしれないけれど、ここで言われたままにしておくことは出来ない。


「余裕を見せたこと、後悔させてやるわ……」


 秋葉の中で決意の固まる音がした。

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