その後の話 結衣の手紙
「いやいや、なんで俺が凛の母親の実家に行かなきゃいけないんだよ」
凛から一緒に旅行しようと提案をされたのは付き合い始めてから間もない八月、ちょうどお盆に差し掛かろうとしていた時期だった。
長年封じ込めていた幼馴染への恋心を解放したばかりの俺にとって凛との旅行は夢のようなイベントだったけど、提案された目的地は凛の母親の実家だったのだ。
「お父さんは海外赴任中、お母さんは色々あって大変だし、ちゃんとお墓参りもしなきゃってことで今年のお盆は私が一人で田舎に帰ることになったんだけど、その付き添いに任命されたのがリクちゃんってわけ」
「たとえ彼氏でも俺が一緒に帰省するのはおかしな話だろ」
何より凛の母親、つまり結衣の姉の実家はかつての俺の故郷でもある。しかも日取りは故人や先祖の霊を迎え入れ、送り出すと信じられているお盆。自分がそんな時期に前世の故郷に帰るなんて冗談でも笑えない。まるで生き霊になったかのような気分だ。
凛は意地悪っぽく口を尖らせた。
「リクちゃんは可愛い彼女を一人にしていいの? 不良の人に連れ去られたりするのが不安じゃないのかなぁ?」
その煽り文句は
「確かにあの街の不良の中にはタチが悪いのもいるから気をつけろよ。特に駅の裏手にあるラブホテルには近づかないほうがいい。縁起が悪いから」
思わずそう口にすると凛は怪訝な顔つきになる。「裏手のラブホテルって何?」
俺は慌てて言った。
「そもそも高校生の男女が一緒に泊まりの旅行なんて親がよく許したな」
「リクちゃんは成績優秀、年齢の割に大人っぽいってことで、何かと信頼されているんだよ」
同学年の二倍生きているんだから学校の勉強くらいできない方がおかしいし、実際に生きた年齢にしては随分と俺はガキっぽい。そんなことはもちろん口には出せなかったが。
凛は断固として言った。
「とにかく決まり! リクちゃんの親の許可も取り付けてあるんだから。ちゃんとお泊まりの準備しておくこと!」
こうした経緯があって俺と凛は二人で新幹線に乗車し、かつての故郷に向かうことになった。初めは嫌々だったけれど、遠い記憶と風景が重なり始めると、自然と鼓動が早くなる。父や母、友人たちが住んでいるあの場所は今はどうなっているのだろう。過去と決別して生きようと決めたものの、心動かないと言えば嘘となる。
そして、新幹線から在来線に乗り継ぎ、目的の駅に降りた時、耳をつんざくくらい盛大な蝉の鳴き声が俺たちを迎えいれてくれた。駅のホームの向こうに広がる懐かしい風景を見て、あぁ、本当に来てしまったんだと思う。十五歳の夏、かつての自分が過ごすことがなかった季節、俺は幼馴染と二人で馴染み深い駅に立っているのだ。
駅前はよく通った本屋がコンビニになっていたくらいで、それほど違いはなかった。目につくのは街に貼られている高槻徹の選挙ポスターだ。どのポスターも破かれたり、卑猥な落書きがされていて見るも無惨な代物だ。あんなスキャンダルを起こしてしまい地域の恥と認識されるのは当然なのだろうけれど。
一度、荷物を凛の祖母の家に置こうということになってバスに乗り込んだ。凛の祖母の家、つまり結衣の家は俺が住んでいた実家のご近所だ。自ずとバスが角を曲がるたびに、かつての記憶が鮮明に蘇る。結衣と一緒に歩いた通学路。バレンタインのチョコを突然もらったブランコのある公園。いつも通り過ぎていた壊れた自動販売機は今も錆びついたままだった。
バスから降り、結衣の家に向かう途中、思わず俺は足を止めた。盆提灯を玄関先に掲げるのはかつての俺の生家で間違いなかった。誰かが住んでいるのは明らかだ。表札や二階建ての家屋はずいぶん古びたがあの頃と同じままで、庭に関しては綺麗に手入れがされていた。チャイムを鳴らしたら一六年前、四十代だった母親が自分を受け入れてくれるんじゃないかという錯覚を起こす。生きているとしたら父と母はすでに還暦を迎えているというのに。
「リクちゃん、何ぼーっとしてるの。暑いから行こう」
「あ、ああ」
かつての家族の姿を一目みたいとも思ったけど、凛に手を引かれるまま後にした。一番の親不孝をしてしまい本当に申し訳ありませんでしたと心の中で謝りながら。
結衣の家もまたあの頃のまま残されていた。ここで一人暮らしをする凛の祖母は入院中とのことで、郵便受けにはガムテープが貼られている。
「おばあちゃん、リクちゃんのこと話したらぜひ会いたいなんて言ってたけど、入院しているんだから仕方ないよね」
家に入り荷物を下ろすと、凛は出かける前に軽く汗を流してくると言って風呂場に歩いていった。待っている間、誰もいないリビングにいるのも落ち着かなくて、なんとなしにいつも過ごしていた部屋、結衣の部屋に向かった。
結衣の部屋は十六年間そのまま時が止まっているかのようだった。今でも結衣の母親は何も捨てることができないでいるのだろう。本棚に置かれている教科書は高一のもの、ハンガーラックには当時の制服が吊るされていた。
学習机には結衣とかつての俺が肩を組む写真。確か一緒にフェスに行った時に人に頼んで撮ってもらったものだ。最後の決断をするまでのあの時間、結衣はどんな気分でこの写真を見ていたのだろう。そんなことを考えていると、不意に立川という名字が目に入った。
写真と同じように机には日に焼けた封筒が置かれていて、結衣の文字で「立川和也君へ」と書かれている。
姉から聞いて結衣は一時期立川和也に恋をしていたことを知っていた。そして最後の日々に結衣に寄り添ったのは他でもないあの男子。見てはいけない、そう思いつつも俺は封筒に手を伸ばしていた。
封筒の中には一枚の古い便箋。やっぱり見ないでおこうかと躊躇っていると、背後の扉が音を立てた。
咄嗟に便箋をポケットにしまう。そして振り返った瞬間、ハッと息が止まった。
「似合ってる?」
シャワーを浴び終えた凛は浴衣に着替えていた。凛は少し照れた様子で襟を直した。
「どうしたの? まじまじと見て。似合ってないかな?」
「もちろん似合ってるけど……」
思わず目を見張った理由は、凛が着ている浴衣の模様にある。風鈴模様の紺の浴衣はかつて結衣が着ていたものと一緒だったからだ。そのせいでどうしても凛が結衣にダブって見えてしまう。凛は言った。
「これ、例の結衣おばさんが着ていたもので、お母さんが私に合わせてくれたんだ」
「でもなんで浴衣なんて?」
「今日はこの街のお祭りらしいよ。こういう時にしか着る機会ないから準備しておいたの」
そう言えば街では蝉の鳴き声に祭囃子の賑やかな音が混じっていたことを思い出す。そうだった。ここでは毎年、お盆のこの時期に地域の祭りが開催されるのだ。
「お墓参りに行ってからお祭り見てみようよ」
その時の俺は十六年ぶりに訪れたこの街で思わぬ人物と再会することになるとは考えてもいなかった。
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