第5話 第1の死者〈セイ・ユートピア〉

 ◇


 夜の森の狼シュワルデッガーの赤い目がすぐそばまで迫って、ぎゅっと目を閉じた。


 牙が突き刺さる痛みを覚悟する……


 が、いつまでたってもそれは訪れなかった。


 それどころか、どんっと鈍い音と、ギャンッという呻き声が立て続けに聞こえた。


 なに……?


 恐る恐る目を開けると……。


 夜の森の狼シュワルデッガーが僕と少し離れた場所の木の下で、白目をむいてのびていた。


 え……? なんで?


 奴はまっすぐに僕の方へと向かっていたはずだ。

 何が起こったのか把握できないでいると、後ろから草を踏みしめるような音が聞こえてきた。


 ああそうか、誰かが僕を助けたのだ。


 そう思った途端、脱力した。


 失敗してしまった……。


 道中で人は見かけなかったが、もしかしたら僕が来るよりも前から、ここで狩りをしていたのかもしれない。


 まさかこんなところで自殺しようとしているとは思わないだろう。貧弱な僕が丸腰で襲われているのを見過ごしたら、きっと寝覚めも悪い。


 いくら死にたかったとはいえ、善意で助けてくれた人に礼の一つくらいは言わなければ。


 そう思って、振り返った時。



「助けてく……!」



 呼吸が、止まった。



 そこには、いるはずもない人物が立っていた。



 僕の色鮮やかな思い出。



「なにやってるの?」


 静寂の中に響いたのは、狂おしいほど恋い焦がれた、いつかの声。


 心臓が跳ねた。息が震える。


 もうずっと昔のこと。それでも鮮明に覚えている。


 マジェスタの取り巻きに石を投げられていた時に、かけられた言葉。

 僕のヒーロー


「セイ……?」


 セイだった。間違いなく、セイ。


 僕の記憶の中より、ずっと綺麗だ。


「疲れたって言ったっけ?」


「え……?」


 セイはずんずんと僕に近づいた。12歳の時、僕より背の高かったセイは、今では僕より頭ひとつ分小さかった。


『セイ、僕はもう疲れたんだ』


 家を出る前に、木の塊にかけた言葉を思い出す。


 ああそうか、僕はきっと夢を見ているんだ。


 本当の僕は、狼に食いちぎられてもう死んでいるのかもしれない。これは、僕の願望が見せた幻。


 それでもよかった。

 こうして、生きて動いているセイを見られたのだから。


「僕は死んだの?」


 僕の前で立ち止まったセイは、じっと僕を見つめると、おもむろに手を振り上げた。


 バチンッ



 耳元でそんな音がしたかと思うと、僕の体は横たわって、左頬が地面に着いていた。

 じんじんと、右頬が痛む。目前には先ほどの夜の森の狼シュワルデッガー。ヒッとすぐに体を起こして後ずさる。


 セイにおもいっきり頬を打たれたようだった。突然のことに処理が追いつかない。


 夢のくせに、痛い。めちゃくちゃ痛い。


「目が覚めた?」


 セイが僕を見下ろして言う。その藍色の瞳には怒りが滲んでいるように見えた。


「なんで」


 なんで、夢の中のセイがそんなことを言うのか。


 なんで、セイはそんなに怒ってるのか。わからない。


 しかし、セイは僕の言葉を別の意味で解釈したようだった。


「リュウが私を呼び戻した」


 ……どういうこと?


「これ」


 セイが見せたのは、手首にきらめくブレスレット。セイの母親にもらって、ずっと僕の手元にあったものだ。


「つけられて、動けるようになった」


「え……?」


 つけられて? 僕がブレスレットをつけたのは、あの木の塊だ。僕が3ヶ月かけて作った、セイの像。


「私が今ここにいるのはリュウの力だよ」


 なんだ、どういうことだ。あの木の塊が、ここにいるセイになったとでも言うのだろうか。これじゃあ、まるで……。


「ここって現実?」


「もう一発必要?」


「いやっ、いいです!」


 慌てて否定する。

 右頬は熱を持って、今も痛み続けている。


「体は大きくなったのに、リュウは変わらないね」


 呆れたように、セイが手を差し出した。


 言外に成長していないと言われているのに、その言葉の意味を理解すると、喉の奥から熱いものがこみあげてきた。


「僕は変わったよ」


「……わかったから。泣かないで」


 情けなく声を震わせる僕に、セイはぎょっとしたようだった。


 もうなんでもいい。


 これが夢でも現実でも。こんなに幸せなことがあるだろうか。


 僕の人生で1番輝いていた時間。色鮮やかだったセイとの日々。

 あれから僕は変わってしまった。つまらない人生を送ってきた。いつも輝いていたセイには話せないほど、しょうもない生き方をしてきた。


 それなのに、君は僕を「変わっていない」と言う。


「ずっと、会いたかった」


「知ってる」


 僕の言葉にセイが返答してくれる。それが嬉しくて仕方ない。



 グルルルルッ


 うなり声が聞こえて、身を固くする。

 そういえばここは夜の森の奥地。夜の森の狼シュワルデッガーの縄張りだ。僕の持ってきた生肉の匂いにつられて、何体か寄ってきたようだ。


稲妻ミヌセニング・テラ


 数本の光の筋が見えた。かと思うと、どさどさと重い音がして、うなり声が聞こえなくなった。セイが魔法を放ったようだ。


光の球ミヌエンド・バイト


「うわっ……」

 セイの周りに3つ、光の球が浮いた。一気に周囲が明るくなる。目視できる範囲で、4体、シュワルデッガーが倒れているのが見えた。


 僕1人じゃ1体だって倒せないのに……。


「とりあえず、ここを出よう」


 光に照らされたセイの美しい銀髪に見惚れる。


 差し出された手をとると、柔らかくて、ひんやりと冷たかった。



 ◇


「ねえ、ほんとに行くの?」


「……何をそんなに怖じ気づいてるの?」


「いや、だって……」


 僕たちは今、ギルドに向かっている。

 討伐したシュワルデッガーを持ち帰ろうとセイが提案したのだ。

 セイが森の木を使って魔法で作った台車を、僕が1人で引いているという構図だった。

 重い。非力な僕の腕は、既に限界を訴えていた。


「依頼を受けたのはリュウでしょ?」


「そうだけど……」


 まさか、こんなことになるとは思っていなかったのだ。夜の森の狼シュワルデッガーを討伐するんじゃなくて、夜の森の狼シュワルデッガーに討伐されるつもりで依頼を受けた。

 もう2度と、ギルドに足を踏み入れることもないと思っていた。


 そもそもシュワルデッガーの討伐は手慣れた冒険者がチームを組んで挑むものだ。『雑用係でくのぼう』の僕が1人でこの依頼を受けたときにも相当不審がられたというのに……。


「あの建物?」


 夜中でも煌々と明かりがついている建物。セイが指したのは、間違いなくギルドだった。


「うん……」


 気が進まない僕を置いて、セイはどんどんと進んでいく。その凜々しい後ろ姿に、やっぱりこれは夢なんじゃないかと思った。


 でも、セイと一緒ならなんだっていい。


 気を抜くと、また泣きそうだ。


 台車を引いて、セイの後を追う。

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