第11話 12歳のませた弟

 裕星は、とうとう自分が兄だということを言いそびれ、マリウスの後ろ姿を見送りながらため息を吐いた。


 顔も知らぬ同士が一緒に住むにはまだまだ時間が掛かるかもしれない。世話になっているあの家族も、マリウスを養育費目当てで離したくなさそうだ。このままでは、マリウスは肩身の狭い生活を余儀よぎなくされるだろう。


 好きなバイオリンを十分させてあげたい。中学高校と進学していけば、やりたい勉強や必要なものも増えてくる。それを伸び伸びさせてあげたいと思っていた。しかし、他人の家に厄介になっている身の上では、迷惑がられて、思うような生き方がしづらいのは確かだった。

 たった一人の血のつながった家族のために、裕星はこれから将来のことまで考えてあげたい気持ちになっていた。



 翌日、またアパートの女性から連絡が入った。

「昨日は、マリウスが戻ってきて、日本人の男の人に会ったって言ってたけど、あなただった?」


「――ええ、そうです。しかし、まだ彼は僕が兄だということは知りません。言いだせなくて……」


「そう。マリウスが公園で背の高い日本の男性に会ってたって言い訳するから、嘘だと思ったのよ」


「いえ、彼は嘘は言っていません。送って行こうかと言ったのですが、近いから大丈夫だと。でも、少し話はできました。僕は彼の夢を叶えてあげたいんです」


「夢? どんな夢を言ったというの?」


「父親のようなバイオリニストになりたいと……」


「バイオリニスト?」

 呆れたようにそう言うと、アハハハと電話の向こうで大笑いしている声が聞えた。


「何かおかしなことでも?」


「そんなの無理に決まってるわよ。ウチにそんな金あるわけがないわ。そんな大きな夢を見るのも大概たいがいだわね」


「それはどうでしょうか? 父が残した遺産があるはずです。それは彼の教育費には十分な額ですよ」


「そんなこと言っても、その教育費は弁護士が管理してるのよ。だから、どんな学校に行こうが、私たちに貰える金は決まってるの。それなら、そこいらの学校で十分よ」


 そんな理不尽なことを、と裕星は許せなかった。


「そのために僕が来たんですよ。僕がわざわざ日本から彼に会いに来たのは、父親の遺産を彼に正当に使わせるためです」


「だから、それが出来ないのは、マリウスが拒んでいるからでしょ?」


「それは、あなたがマリウスに余計な心配を植え付けたからでしょ?」


 裕星と女性のやり取りは、口論のようになっていった。




「僕は正当な手続きで彼を引き取ります。今までお世話になっていたことには感謝しています。その十分なお礼もします。

 だが、彼にはこれから夢を叶えるため生きて行ってほしいんだ。

 両親がいない人間でも、夢を叶えられるということを信じていてほしい。

 僕はただのサンタにすぎませんよ。彼の夢を叶えるためのね」


「そこまで言うのなら、彼がイエスと言うかどうか試したらいいわ。彼はパリを離れたくない。それに見ず知らずの男と生活したくもないはずよ」


「分かっています。だから時間を掛けて彼を説得します。その間はお世話になると思います。弁護士にもそう伝えておきます」


 そういうと裕星は電話を先に切った。



 まだこれから先の見通しも付いていなかった。真っ暗なトンネルを抜け出る日は来るのか?

 美羽は今頃どうしているだろう。

 パリの空は同じ地球の日本の東京の空と繋がっているはず。夜空を見上げると、裕星は美羽がコンサートの練習のためにいつも歌っていた歌、自分の母親の持ち歌でもあった『Rhapsody of Love』が頭の中に流れてきた。




 その後もまたマリウスと会えない日々が続いていた。こんなことをしていたら、年を越してしまうかも知れない。

 裕星は焦る気持ちがふつふつと湧いてきた。美羽と逢えなかったときでも、二人は繋がっていると思うだけで幸せに毎日が過ぎて行ったが、今はその愛の絆さえ見失ってしまっていた。

 自分が父親から課せられた責任は、父親からの愛情にも似て、目には見えなくとも重く圧し掛かっていた。


 自分を残してパリに渡った父親だったが、裕星にも十分なほどの仕送りをしてくれていた。

 そして、こうして音楽の世界で成功を収めることができたのも、父親の支えがあったからだと言える。

 とうとう父親は呆気なく他界して、触れることも言葉を交わすこともできなくなってまったが、その愛情はとてつもなく大きく、しかし、とてつもない重荷になっていた。


 偉大だった父親の愛情に応えなければならない責任感で、ここまで来たとも言えるかもしれなかったからだ。今でも、あの世界的に有名なバイオリニストで作曲家の海原唯月かいばらいつきの二世として報じられることに抵抗を覚えていたが、両極端な表裏一体の因縁に裕星は翻弄ほんろうされ続けてきたのだった。



 マリウスに会えなくなって数日経ったある日、日も傾いて来た頃、裕星はあの公園を訪れていた。もしかすると、またマリウスと会えるかもしれないと小さな期待もあったが、そうそう偶然は起きるはずはないだろうと宛もなく歩いていた。


 裕星が池の周りの遊歩道を歩いていると、先日と同じあの場所にあの少年がいた。マリウスだった。



「君! 今日もここに来てたんだ?」


「あ、Yusei! 待ってたんだよ。毎日ここで待ってたんだ。いつかまた会える気がしてさ」


「ここで? そうだったのか。俺はもう二度と会えないと思ってた。おばさんはどうなった? 何か言ってたか?」


「おばさんは、僕が公園でYuseiに会ったことだけ話したよ。でも、もう会わない方がいいと言われた。知らない人とは口をきかない方がいいって」


「そうか――。でも、会えてよかった。もう一度会いたかったんだ」


「僕も! だから、毎日ここで会えるかもしれないと思って。ここしか来るとこないから……」


「もしよかったら、俺のコンドミニアムに来ないか? 俺は今一人暮らしなんだ」


 マリウスは迷うことなく首を縦に振った。





 部屋に入るなり、マリウスが唸った。

「ふぅ~ん、なんか質素だね。何にもないや。Yuseiは恋人もいないの?」


「なんだよ、突然! ここには数日前に来たばかりだって言っただろ? まだ何も揃えてないんだよ」


「でもさ、何しに来たの? 家族とか友達とか、恋人と別れて来たのかよ?」

 マリウスはませた口の利き方をした。


「――ああ、まあそんなとこだ」

 素直に答えられて、驚いたのはマリウスだった。


「可哀そう……」


「なんだよ、大人に向かって、可哀そうって。君だって大変な思いをしてるじゃないか」


「僕は大丈夫。実はもう少ししたら、あそこを出て孤児院に入るつもりなんだ。

 18歳までは入れるって言うから、そこに入って、そこから音楽学校に通う。それなら、誰に気を遣わずに行けるだろ?」


「それでいいのか? この間話していたお兄さんと暮らしたくないのか? たった一人の身内なんだろ?」

 裕星は自分のことを他人のようなふりで訊いた。


「――うん。それはしない。お互いのためにも」


「お互いのためって?」

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