第10話 父の残した宝物
次の日も、裕星はマリウスのいるアパートの玄関先で
何日か通い続けた頃、もうこのまま日本に引き返した方が良いのではないかとすら思えた。
しかし、裕星は今回、父親の遺言状と一緒に生前愛用していたバイオリンを預かっていた。
自分には必要のないものだが、世界で活躍した父親が大切にしていた唯一無二の遺品だ。
これをいつか父親と同じ道を引き継ぐ者に託そうと思って持っていたのだった。
パリに来て、もう既に一週間が経とうとしていた。
しかし、未だにマリウスと会うどころか、どんな顔をしていて、どんな子供なのかすらもわからなかった。
このままでは、裕星はここに定住する方が良いのか、それとも日本に引き返すべきなのかを考えるようになっていた。
裕星は、とりあえずホテル生活からコンドミニアムに移る事にした。
パリの街角でパンやフルーツを買って、自分の部屋で一人ぼっちで作る朝食は味気なかった。
毎朝、窓辺にやってくる
今の裕星は歌うことも、曲を作ることも、人を愛することも全くできずに、ただの抜け
やがて、1週間が過ぎようとしていた頃、裕星の元に電話が入った。あのアパートの中年女性からだった。
「ムッシュー海原? 実は今朝マリウスが学校に行ってから、まだ戻って来ていないんだよ。
もう夕方なのに……。学校は4時に終わってるはずなの。ここから近いので、もう帰ってないといけない時間なのに……困っちゃうわぁ、いつも問題ばかり起こしてくれるわね!」
女性は少しイライラしている。
「その小学校はどこですか? 僕が近くを捜してみます! でも、マリウスの顔を知らない。何か写真があったら、僕にメールしてもらえませんか? アドレスは……」
裕星はマリウスの画像を受け取ると、すぐ小学校に向かった。
小学校は小奇麗なレンガ造りの建物で、周りをフェンスで囲まれ、不審者が入れない仕組みだった。近くには公園もあるが、犬の散歩をしたりジョギングをする大人ばかりで、日本でいう公園とはかなりイメージが違う。子供たちが遊べるような遊具のある公園ではなかった。
裕星は日も暮れ始めた公園内の大きな池沿いの散道を歩きながら、マリウスがどこかにいるかもしれないとくまなく捜し始めた。最近は誘拐などの事件も多発していることもあり益々心配だった。
すると、池のほとりの、たった一つの外灯の下にひっそり置かれた古い木のベンチに座って、一人池に石を投げ続けている子供を見つけた。
裕星はそっと物音を立てないように顔を確認しようとゆっくり後方から近づいて行った。
草木の伸びた茂みを抜けて、池のほとりのベンチに近づくと、小学生らしき男の子がふてくされたように池に石を投げつけている。
外灯が照らし出したのは、栗色の髪と瞳、スーッとした形の良い高い鼻。ほんのりピンク色の頬にふっくらした唇の美少年、まさに送られてきた画像のマリウスだった。
裕星は脅かさないように、自然を装って近づいた。
「こんにちは。君は小学生? 僕はこの辺は初めてなんだけど……あのさ、ここの公園の池には魚が住んでるんでしょ? だったら石なんか投げちゃ、魚がビックリしちゃうんじゃない?」
裕星が声を掛けると、じろりと睨んだかと思うと、
「関係ないよ!」とまた池に石を投げ続けている。
「君、何て名前? 俺はこの間日本から来たばかりなんだ。暗くなってきたし、この辺の事はよくわからないから迷っちゃってさ。僕は日本でバンドをやってるんだ。でも、最近まったくギターを触ってなくてさ、何かムシャクシャしちゃってこの公園に来てみた。
君も何かムシャクシャすることがあったの?」
裕星が静かに自分の事を話しだすと、少年は石を投げるのを止めて、裕星の方を向いた。
「僕、ここに住めなくなるかもしれないって――」
「――どうして?」
裕星は少年が話し始めてくれたことが嬉しくなり静かに問いかけた。
「今住んでるとこは、ママの知り合いのおばさん
僕がいると迷惑なんだよ。でも、あそこを出ちゃったら、僕はもうパリにはいられないかもしれない」
「どういうこと?」
「僕のお兄さんという人が来て、僕を外国に連れて行くかもしれないっておばさんが言ってた。二度とパリには帰れなくなるから、ここにいた方がいいって」
「――そうか、そうだったのか。でも、おばさんが迷惑してるっていうのはどうして?」
裕星は不思議に思って訊いた。
「おばさんの家には、僕と同い年の友達がいるんだ。その子には色んな物を買ってくれるけど、僕には駄目だって。
それに、学校でも僕は勉強が好きでいつもいい成績なのに、おばさんに褒められたことはないんだ。いつも落第点取るその子ばっかり可愛がって、僕を置いてきぼりで家族で食事に行ったりしてる。
悲しいけど、僕は他人だから仕方ないよね。
でも、パパが残してくれたお金のお蔭で、僕も学校に通えて食事ももらえるし、文句は言えないよ。
だけど、僕のお兄さんって人のこと、全然知らないんだ。知らない人と一緒には暮らしたくない。
その人だってきっと僕の事迷惑だと思ってるよ」
「そんなことない!」
裕星はつい大きな声を出してしまった。
「あ、いや――そんなことは無いと思うよ。だって、君のお兄さんはたった一人の家族なんだろ? お父さんがその人と暮らしなさいって言ったんだろ? だったら、君のお父さんを信じてその人に会ってもいいと思うけど……」
なぜか裕星は今まで自分が初めて知った弟の存在をつい厄介に思っていたことを見透かされたような気になって、それが間違いだったことを今改めて気付いたのだった。
12歳の弟の切ない葛藤を聞いて裕星は胸が痛かった。
「ねえ、君って大きくなったら何になりたいという夢はないの? 僕は昔から父親の影響で曲を作ってきたから、曲を作って皆の心を癒す歌を歌う歌手になろうと思って来たんだ。
もちろん、それでバンドに入ったんだけどね」
自分の事を話せばきっと少年も話してくれる。裕星は期待しながら少年の言葉を待っていた。
すると、「――僕は、大人になったら バイオリニストになる。ママが教えてくれたんだ。僕のパパは有名なバイオリニストだったんだって。でも、僕が生まれる前に死んだんだ――。
だから、僕もパパのように世界的に有名なバイオリニストになるんだ。3歳の頃からずっと、パパと同じバイオリニストだったママに習ってきたんだよ。そして、時々ここで練習してた。おばさん家じゃ弾けないからね。
そして、いつかはパパの名前の隣に僕の名前が並ぶようになりたいんだ」
マリウスの大人びた決意に、裕星は圧倒された。まさかまだ12歳の子供が、父親のような立派なバイオリニストになりたいという夢をこれほどハッキリと持っていたとは。裕星は弟が誇らしいような、尊敬の念も湧いてきた。
「そうか、頑張れよ! 僕も応援してるよ! 一緒に音楽の世界で頑張ろうな!」
すると、少年は初めて裕星の目をしっかりと見つめて、うん、と頷いた。
「さあ、家に帰らないと、暗くなってきた。家まで送るよ」
心配する裕星に、マリウスは「大丈夫だよ! すぐそこだから。ありがとう。え、と……あの……」と何か訊ねたそうにしている。
「ああ、僕の名前? Yuseiと言うんだ」
「Yusei、ありがとう。またね」と手を振って走って帰って行った。マリウスはどうやら裕星が兄の名だということも聞かされていなかったらしい。
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