第6話 悲しい笑顔のわけ

「どうするって?」


「俺に付いて来ないか? パリで一緒に暮らさないか?」


「それは……、それは今すぐにはお返事出来ないわ」


 裕星は、美羽の悲しそうな顔を眉をひそめて見つめた。一緒に行けないとなれば、もう数年以上も離ればなれになるしかない。美羽は自分に付いて来てくれると確信していただけに、裕星は動揺していた。



 実は、美羽にとっては、養父の天音神父のことだけでなく、修道院に隣接する孤児院で、自分を姉のように慕ってくれる女の子が気掛かりだった。


 ちょうど1年前に児童保護施設から孤児院に連れてこられた10歳の多感な年頃の佳奈かなという女の子がいる。


 母親と一緒に暮らしていた頃はネグレクトや虐待を受けていたと聞くが、その母親も事故で一年前に亡くなってしまってからは天涯孤独てんがいこどくの身となってしまい、この孤児院に預けられた。


 決して他の者には心を開こうとせず、他の世話係や孤児院の子供たちの中でも孤立していたが、美羽にだけは心許し、いつも気が付くと隣にピタリとくっ付いて過ごしていた。

 美羽は、彼女の心の傷をいやそうと、いつも声を掛け続け、何かと世話をして一人ぼっちにならないようにしてあげていた。


 その女の子を置いて、自分は無責任にも孤児院を離れ、裕星とパリで幸せに暮らすことなど今はどうしても考えられなかったのだ。


「私がボランティアをしている孤児院を離れてしまったら、沢山迷惑を掛ける方がいるの。――でも、何年も裕くんと逢えなくなるなんて、とても考えられないわ。

 私、突然でどうしていいか分かりらない……。でも、やはり今は、裕くんとは一緒には行けない」



 裕星は、美羽にキッパリとパリには来られないと断られたことにショックを隠せなかったが、しばらく二人の間に沈黙が流れ、裕星は考え込むようにうつむいて目を閉じていたが、パッと目を見開くと、全てを納得したかのように美羽に告げた。


「分かった──俺は明日の夜のフライトでパリに行く。だけど、クリスマスには戻って教会のコンサートで美羽の歌を聴くつもりでいるよ。ただしクリスマスに帰れなければ、たぶん数年は向こうに住むことになると思う。

 その覚悟はしておいてくれ。


 ──美羽も頑張れよ。俺がいなくても、美羽のことを必要としてくれる人間は大勢いる。俺が美羽を独り占めする訳にはいかないからな――」



 そう言うと、車から降りて美羽のいる助手席のドアを開けて、レストランの中へとエスコートしてくれた。

 その夜のディナーは文字通り、『最後の晩餐』のようだった。


 美羽は食事をしながらチラチラと裕星の顔を見ていたが、裕星はただ黙ったまま淡々と食事をしていただけだった。二人の間にこれほど冷ややかな空気が流れることがかつてあっただろうかと思われるほど、せっかくの貴重なデートの最後は味気ない沈黙の内に終わってしまった。



 教会の前まで裕星に送ってもらったが、美羽は車からすぐには降りることが出来ず、下を向いて裕星の言葉を待っていた。しかし、裕星からは一言も言葉を発せられなかった。

 美羽はうつむいたまま、ハァと小さく息を洩らすと、


「裕くん、今日はありがとう。あの……本当にいままでで1番楽しかったよ」

そっと裕星の顔を覗き込むようにして言うと、裕星は悲しそうな顔でただフロントガラスの向こうを見据みすえ、一度もこちらを見ることもなくかすかにうなづいて、さっと左手を差し出して何かを美羽に渡してきた。


 美羽が裕星から受け取って見ると、一通の手紙のようだった。


「これは……?」


「1ヶ月後のクリスマスコンサートの後で開けてほしい。何も無ければ必ず帰ってくるから、それまで持っててくれ」


 美羽が車を降りると同時に、裕星はアクセルを踏んで大通りの車の流れの中へと消えて行ってしまったのだった。





 美羽は裕星の手紙を両手で胸に抱いたまま、いつまでも裕星の車のテールランプを見送っていた。

 赤や黄色のライトが交差して、もう裕星の車を見失ってもまだ、ずっと大通りの裕星の帰って行った方角を見つめていたのだった。



 とうとうこの日が来てしまった。12月25日、教会クリスマスコンサートの日。シスターたちは正装のトゥニカを着てウィンブルを被り、声を揃えて日頃の練習の成果、ゴスペルを見事に歌い終えた。


 しかし、約束した今日のクリスマスコンサートに裕星の姿はなかった。


 とうとう美羽のソロ『Rhapsody of Love』が終わりに近づき切なく響いている。


『離れても ずっとあなたを想ってる きっと貴方も同じでしょ?


 今やった気付いた 泣きたいほどにあなたを愛してたこと 私の心はいつもRhapsody of Love』



 美羽の瞳は涙が溢れて止まらなかった。

 もうこれでお別れなのだ。これからは裕星のいない生活が待っているだけ――。



『貴方が見つめる先には光が 私が追いかける先には闇が だけど、一瞬光が差し込んだ

 貴方が振り返って私の元にやってきた

 涙で繋がった愛だから いつか離れてしまっても 必ず心は繋がっている 私の愛の狂想曲で 』


 最後のフレーズを歌い終わって、オルガンが後奏(エンディング)を響かせている。

 美羽は、思わず裕星を追って駆け出し一緒に行ってしまおうかと何度も考えていた……。

 しかし、それは今目の前にいる小さな子供たちのキラキラとした瞳と無邪気な顔を見て思いとどまる事になった。


 美羽は涙を見せないように深く頭を下げ、そして、目を閉じて、そっとシスター伊藤に支えられ扉の外へとけて行った。




 明日からは新年に向けて教会では更に忙しくなってくるだろう。

 きっと自分の気持ちもその忙しさに紛らわされて、いつしか裕星への気持ちも薄れる日が来るのだろうか。

 美羽は、もうこれからは何も考えないようにして、孤児院の世話係としての質素な生活に心から従事していこうと決心していた。



 1ヶ月前、裕星がパリに旅立った翌日から、美羽はいつものように孤児院で、子供たちの世話をしていた。

 一年前にここに来たばかりの佳菜かなが、朝出勤してきた美羽の後ろをずっと付いて来る。


「佳菜ちゃん、今日は一緒にお昼ご飯の用意を手伝ってくれるかな?」


 うん、と笑顔で大きく頷いて、佳菜はちょこちょこと美羽の後ろに付いてキッチンに入ってきた。

 美羽は野菜を洗ってくれるように頼んで、自分は玉ねぎを切っていた。切りながら美羽の目に涙がどんどん溢れてくる。


「……? お姉ちゃん、泣いてるの?」

 心配そうに佳菜が美羽の顔を下から覗きこんでいる。


「……ううん。泣いてないよ、玉ねぎが目に沁みただけよ」

 美羽は急いで袖で目をごしごしと擦った。


 それでもじっと美羽の顔を見つめて心配そうにしている佳菜に気付いて笑顔を見せた。


「大丈夫だよ! さあ、頑張ってお昼を作ろうね!」


 自分では精一杯の満面の笑みだったが、それは子供の佳菜にも見たこともないほど心が痛くなるような悲しい笑顔だった。

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