第3話 アイドルの宿命
「頻繁にはなかなか会えなかったけど、親父は優しかった記憶があるよ。ああ見えて、母親に対しても優しくしていたと思う。
母親は気の強い女性だったから、二人が何度も口喧嘩をしてる姿は嫌というほど見せられたけどな。
でも、親父がいつも俺に言ってたのは、母親の悪口なんかじゃなく母親の良いところばっかりだった。
『お母さんは、本当は優しい人だ。綺麗で上品で少し気が強いけど、この世界はそれくらいじゃないと生きていけないからね』って、いつも言ってたな――。
でも、親父はある日突然姿を消したんだ。仕事で、たぶんその頃パリに行ったと聞いたけど、その後の詳しい消息は俺にも分からなかった。
両親の結婚生活って言っても最初の5年間だけで、俺が物心ついたときにはもう別居のような状態だったから――その後も時々帰国しては俺に会いに来てくれてたんだな」
「そう、だったの……ごめんね、裕くんにとって辛い思い出ばっかりだよね。お父さんがどんな人が知りたいなんて言ってしまって……」
「いや、いいよ。俺も悲観的な話ばかりで悪かったな。今じゃ二人には感謝してるよ。俺を生んで育ててくれて」
「裕くん……」
美羽は裕星が話した父親の話をもっと聞きたいと思った自分を後悔した。
本当は両親に仲良くしていてほしかっただろう子供の頃の裕星が、辛い思い出を胸の奥深くに仕舞いこみ、せっかく楽しかった話をしてくれたのに、と。
「あ、そうだ、美羽。俺たち、忙しくてなかなか逢えないだろ? 今日くらいは普通のカップルみたいに街で堂々とデートしてみないか?」
「街で? それはどう考えても無茶じゃない? 裕くんはとっても有名人なんだから」
「ちょっと暗い話しちゃったからさ、お
そう言って裕星がボディバッグから取り出したのは、大き目のニット帽と濃い黒色のサングラスだった。
「ちょっとスリルあるけど……でも、それなら大丈夫、かしら」
美羽がフフフと肩をすくめた。
裕星はベンツを都内に向けて飛ばしていた。ドライブ中、二人は時々目を合わせて何の他愛もない話で笑い合った。幸せは、こんなちっぽけなことで十分だ。美羽はたった1時間のドライブが何ヶ月分かのデートのように感じられて心が満たされていた。
日曜の夕方の都内は日中より更に人出が増え賑やかになっていた。
恋人たちは寄り添いながら歩道を歩いている。カフェやレストランはもう既に満席だったが、裕星は気にすることなく、車を道路の駐車スペースに停めると、美羽の右手をさっと握ってツカツカと店に向かって歩いていった。
「ゆ、裕くん、どこに行くの?」
小声で美羽が訊くと、「そこ、ほらオープンスペースのあるカフェで一度カフェオレを飲んでみたかったんだ」
見ると、歩道に
「でも、ここだと道を通る人から丸見えだけど……大丈夫かしら?」
裕星はちょっとサングラスを下にずらして少し暗い店内を覗くと、「美羽、大丈夫だから、ここに座って待ってろ。カフェオレでいい?」
迷わずズンズンと店内に入って行ってしまった。
美羽は屋外に一つだけ空いていた丸テーブルに着くと、恐る恐る周りを見回した。
──本当に大丈夫かしら? 途中で裕くんだと気づかれて気まずい思いをしないといいけど。
美羽の心配もよそに、さっき裕星が店内に入って行ったことに気づく者はおらず、周りの人々は恋人同士二人きりの空間に浸っているようだった。
美羽が落ち着かない様子でテーブルに着いてからもあちこちキョロキョロしていると、店内から白いカップを二つ両手に持って颯爽と《さっそう》裕星が出てきた。
帽子とサングラスで変装してはいても、背の高いスラリとしたスタイルの良さは、周りを圧倒するほど
美羽がぼ〜っとして見とれていると、「どうした?」とテーブルにカップを二つトンと置いて少し背中を丸めて座り、美羽に顔を近づけた。
「ほらね、大丈夫だろ? 普通にしてれば、誰も俺に気づく奴なんていないよ」
「うん、そうみたいね。でも、裕くん、ここはホントに落ち着かないわ。ハラハラして私の方が
「美羽、今日はおどおどしないで堂々としてろ。俺たちのことなんて誰も見てないし、美羽が今までしてみたかったデートをしてみないか? いつもはデートらしいデートができなかったから、すまないと思ってたんだ」
「ホントに? じゃあ、裕くん、この後はクレープを食べて映画を観て、それから公園に行かない?」
「そんな中高生みたいなデートがいいのか?」
「うん! だって、デート自体私にとっては初めてなんだから。裕くんは私が初めてお付き合いした男の人だもの、子供みたいなデートだって嬉しいの」
「――そうか。いいよ、行こう! 俺だって、正式にデートなんてものしたことないけど」と笑った。
──裕くんは今までお付き合いした人いなかったのかな? そういえば、この世界に入る前はずっと音楽の勉強ばかりしていたって聞いたし、高校時代は憧れの先輩や先生に声も掛けられずに遠くで見てただけだったって言ってたわね。
だけど、裕くんほど素敵な人だったら、きっと周りの女の子たちが放っておかなかったでしょうに……。
美羽は裕星の顔をしげしげと見つめながらずっと妄想に
「美羽、良からぬことを考えてるな? 顔に出てるぞ」
そう言われ、ハッとして美羽が自分の顔を
天使は私じゃなくて、裕くんの方なのにな……。
「さあて、と。今度はクレープだったな。どこで売ってんだ?」
裕星はスマホを出して操作し始めた。
するとその時、近くの歩道を通りかかった高校生の女の子二人連れが、足を止めて裕星の方を見ながら、ニヤニヤ耳打ちしている。
──イケない! 気づかれてる。
美羽は女子高生たちから裕星の顔が見えないように、「裕くん、あそこ、あれってなんて読むの?」
美羽は
顔を上げて、そちらの方を
「そ、そうなんだ。あ、あっちのお店は?」
「――? 美羽、何かあったか? さっきから変だぞ」
「あぁ、実は、そこの歩道に立っている女の子二人なんだけど、どうやら裕くんに気づいてるみたいなの。さっきからずっとこっちを見てるみたい。どうしよう?」
小さい声で裕星の耳に近づいて言った。
裕星がサングラスの奥からチラリと歩道を覗くと、女子高校生らしき二人がニヤニヤしながらこちらをじっと見ている。すると、今度はポケットからスマホを取り出して、写真か動画でも撮ろうとしているように見えた。
なんという勘の良さだろう。これだけ変装していたのに、どうやって気づいたのか、彼女らの鼻の利き方はもう野生の本能並みだ。
裕星はそっと美羽の耳に近づいて、「そろそろ席を立とうか。でも、急がないでゆっくり立てよ。そのままさっさと車に戻ろう」
裕星がポケットから車のキーを取り出して、ゆっくり立ち上がった。
女子高生たちは、スマホを片手に腕を絡ませ合ってこちらに話しかけようかとモジモジしていたようだったが、裕星が立ち上がったのを見て、キャッと小さく声を上げてソワソワしながら友達同士顔を見合わせた。しかし、不幸にも裕星がどんどん遠のいて行く姿をなすすべもなく恨めしそうに見送っていただけだった。
美羽も、後ろを振り返ることなく、全く彼女たちの視線に気付いていないように装い、まだ飲みかけのカフェオレを
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