第7話 戻れない。

 その日のわたしの様子は、傍から見てもおかしかったらしい。


「……どうしたの、エレーヌ」


 覇気のない声で、いつもの同期が話しかけてきた。

 そっちこそどうしたの……とこちらも聞き返したくはあったけど、まずは質問に答える。


「恋ってろくでもないのね。初めて知った」

「何それ。似合わないセリフ」


 苦笑しつつ、彼女は講義用のノートをカバンから取りだし……動きを、止めた。

 教室の入口の方を凝視ぎょうしし、カタカタと小刻みに震えている。


「……マノン?」


 名前を呼んでも、反応はない。

 視線の方に目を向けると、こちらに歩いてくる警察官の姿が目に入った。


「マノン・クラメールさんでしょうか。……お義父とう様の事件について、お話を伺いたいのですが……」

「……!! 私じゃないッ!!!」


 こんなに追い詰められた彼女の表情を、それまで見たことがなかった。


「事件当日にはちゃんとアリバイがあるって、それぐらい調べたらわかるでしょ!?」

「落ち着いてください。我々は何も、貴女が犯人だと決めつけてはいません」


 警官はそう言ったものの、目の奥にある疑心は隠しきれていなかった。

 彼女が母親の再婚相手と仲が悪いことはわたしも知っていたけれど……その義父が殺されていたことは、その時、初めて知った。


「……ただ……最近、多いんですよねぇ。怨恨えんこんによる殺人」

「やっぱり犯人扱いしてんじゃねぇかよ!! 冗談じゃねぇっつの、あんな詐欺師のことなんか、何も知らないっつってんだろ!?」


 警官のぼやきに、マノンは今まで見たことのない形相ぎょうそう激昴げきこうする。


「詳しくは署で話しましょうか。……一応、言っておきますとね、『遺体に手を加える』のも犯罪ですし、『誰かに殺害を依頼する』に至っては、殺人と同罪ですよ」

「……あ……」


 さぁ、とマノンの顔が青ざめていく。教室中の視線が注がれる中、彼女はぎりりと歯を噛み締め、キッとある人物をにらんだ。

 アシスタントとして、講義の準備をしていた「彼女」は、「なんの騒ぎ?」とさっき初めて気が付いたかのように振舞っている。


「ノエル……ッ」


 睨まれた相手の名前が告げられる。

 ノエルは狼狽ろうばいすることさえなく、マノンの方へ歩み寄った。


「……なんだか分からないけど……そう、助けて欲しいのね!」


 ごくごく自然に、彼女……彼? はそう言った。


 助けを求めた?

 本当に?


 私の疑念をかき消すよう、ノエルは警官に食ってかかった。


「ちょっと! 黙って聞いてりゃ何よッ! マノンは警察のお世話になるようなこと、何一つできる子じゃないわ! 可愛い後輩に言いがかりつけるのはやめてちょうだいッ」


 野次馬がどよめく。

「ノエルさん、すげえ」「後輩のために立ち向かうのか……! 勇敢な人だ!」なんて、声も聞こえる。

 ……けれど、マノンの顔色はさらに青ざめた。


「……うそ」


 まるで、信じられない何かを目にしたかのように、彼女はその場にへたり込む。

 そんな様子に気が付かないのか、野次馬たちの旗色は完全に「ノエルの味方」へと移り変わっていた。


「いいぞ! やっちまえ!」

「どうせ言いがかりよ!」


 有利な状況になったはずなのに、マノンは俯いたまま、震えている。


「とにかく、これ以上講義の邪魔をするなら訴えるわよ!」

「……わかりました。今回はこれで」


 警官はノエルを睨みつけ、


「カルトの教祖っていうのはね、大抵そんな瞳をしてるんですよ」


 そう吐き捨てて、去っていった。




 ***




「ごめん、……トイレ、行ってくるね」


 講義中、席を立ったマノンを見送り……やがて、わたしも後に続く。当然、講義に集中なんてできるわけがない。

 トイレに向かうと、アシスタントの役目を終えたノエルが出てくるのが見え……咄嗟とっさに、身を隠した。


「どういうつもり……!」


 声を潜めた怒号に、聞き覚えがある。ノエルが振り向いた先には、予想通りマノンが立っていた。


「助けてあげたんじゃない。何が不満なの?」


 ノエルの声はいつもよりも冷たく、刺々しい。


「あんた、勝手に『あれ』をいじったんでしょ。それで『ああなった』なら自業自得よ」

「……ッ、だ、だって……ほ、ほんとに『やる』なんて、思ってな……」

「あの様子じゃ私が『やった』なんて根拠はないわよ。不利なのはあんた一人だったわ」


 声を潜め、二人は語る。

 内容はぼかされているけど、何の話か、わかってしまうような気がした。

 ……聞かなかった振りをしなければ、危ないとも理解した。


「……話はそれだけ? この後、待ち合わせがあるんだけど」

「…………わ、私は、どうすれば……?」

「一応、方法は考えてるわ」

「ほ、本当に……?」

「ええ、教えてあげてもいいわよ。……今度こそ、私を信じるならね」


 心臓が高鳴る。

 警察にわざわざ伝えるほどの正義感もなければ、被害者……マノンの義父……に情がわくほどお人好しでもない。

 だけど、人は、案外簡単に人を殺せるのだと、そう知ってしまった。


「いつものバーにする? 場所は変えてもいいわよ」

「……か、変える……。ま、また、連絡する、けど……本当に、助けてくれるの……?」


 全てを聞く勇気もなく、その場を立ち去った。


「……あら」

「……!?」


 その場から離れる間際まぎわ、あのグレーの瞳に睨まれた気がして、振り返る。


「野良猫かしら」


 姿はもう見えない。

 ぼやく声が遠ざかる。心臓の音が頭蓋に響く。

 どこをどう走ったのかも分からない。どれくらい走ったのかも分からない。

 ノエルから逃げたかった……と、いうよりは、


「殺人」が案外身近にある


 そんな事実を、頭から追い出したかった。


「エレーヌじゃないか、どうしたんだい?」


 ふらふらと歩いていると、聞き覚えのある声に呼び止められた。


「ポール……」


 身体中ペンキまみれのポールは、わたしが何か言う前に「ははぁ」と告げて、教室の中に声をかける。


「カミーユ! 彼女が来てるよ!」


 確かに、会いたかった。

 自然に足が向かったのも、きっと、彼と話したかったから。

 そう、そうよ。わたしが恋した人なんだから。

 あんなに美しくて、わたしの大好きな絵を描くような、美しい人なんだから、何も言わずに抱き締めてくれるはず。なんなら、ノエルから守ってくれるはず。……間違いない。


「ごめん、後にして」


 けれど、帰ってきた言葉は、


「今大事なとこだから」


 あまりにも、冷たかった。

 ポールが苦笑しつつ、言う。


「あの様子じゃしばらくかかりっきりかなぁ。あいつ、絵のことになると夢中だから……」


 ねぇ、わたし、今すごく怖いのよ。

 心が張り裂けそうなくらい、不安なの。

 わたしよりも絵の方が大事なの? ねぇ。

 どうして、どうして、ねぇ、どうして?

 あんなに、あんなにキレイな絵を描けるんだから、わたしの気持ちぐらいわかってくれるはずなのに。


「……え、ちょっと、作業の邪魔は」


 ポールが止めるのも聞かず、教室に入っていった。

 カミーユは真剣な面持ちでキャンバスに向かっている。情熱を秘めたまなざしが、描きかけの絵に注がれている。

 わたしにすら注がれないような、わたしには向けてくれないような、そんな、熱い、愛を込めた、激しい、生命すら注ぎ込むほどの、視線。

 それを、どうしてわたしに向けてくれないの。


 背後から抱きしめた。彼はびくりと震えて、恐る恐る振り返る。

 そして、ようやくわたしを見た。


「……は?」


 怯えたような、怒っているような蒼い瞳がわたしを映す。違う、違う、それじゃない。さっきまでそんな目、してなかったのに!


「……応援したいならさ、邪魔しないでよ」


 ため息をついて、彼は再び絵筆を動かし始めた。

 描かれる世界が、彼の世界があまりにも美しくて、心をかきむしられる。


 わたしの心は、ドロドロに濁ってしまったのに。

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