第3話 いつ狂わせたの?
その日はファッションショーの準備で忙しかった。
「ちょっとエレーヌ! また髪色変えたの!? もぉ~服のイメージに合わなくなっちゃうじゃないっ!」
大袈裟な身振りで語りかけてきたのは、先輩のノエル・フランセル。紫の髪とワインレッドの口紅が印象的な男性だ。ノエルは活動用の名前で、本名はもう少し男らしかった気もする。
「だってカレシも変えたし、イメチェンしたくって」
「……まあいいわ。司会のアタシがビシッと決めたげる!」
テンション高く言い放つと、ノエルはどこかへと歩き去っていってしまった。
「……あの人、なんか怖いんだよね」
わたしと同じくモデル担当をしている子が、わざわざ隣に来て囁く。
「何が? 確かに個性的だけど……」
「うーん……。なんか目が笑ってないし……。それに、この前、スッと真顔になるのを見ちゃったんだけど……びっくりするほど冷たい顔で……」
「たまたま疲れてたんじゃないの? 気にしすぎだって」
そうかな……とぼやきながら、彼女はそれきり何も言わなかった。
「何かあったら相談に乗ってくれる人らしいし、疲れることだってあるんじゃない?」
適当に慰めてみると、「そう、そうね」と、覇気のない返事が返ってきた。
***
ショーの最中、カレシが見に来てたから、手を振っておく。
心臓が高鳴る。……わたし、また「似合わない」って思われたんじゃないかしら……なんて、バカみたいな不安が脳裏に浮かぶ。
そうこうしているうちにわたしの順番が終わり、舞台裏に引っ込む時間がやってくる。
司会のノエルとすれ違いざまに……ふと、「怖い」という声を思い出した。ノエルはちょうどセリフがないらしく、カーテンに隠れたテーブルからドリンクを手に取っている。
彼は背が高いから、表情を見るなら見上げなくちゃいけない。……気付かれないように、視線を向けて……
「……何よ」
ゾッとするほど冷たい声が、背筋を撫でた。
グレーの瞳が、ギロリとわたしを睨みつけている。
「あ、えっと……ノエルさんってぇ、結構カッコイイなぁ~って!」
動揺を見せないよう、誤魔化した。ノエルはトン、とドリンクを元のテーブルに戻し……
「褒めても何もでないわよっ! さっさと控え室に戻んなさい」
と、いつもの調子でウィンクを返した。
***
ノエルが「怖い」と言われた理由は何となくわかった。
裏表がある人間なんてザラにいるけれど……あの視線の冷たさは、もっと異質な恐怖を感じさせた。……あまり、触らない方が良さそうね。
外の空気を吸いたくなって、会場の外へ。
カレシに声をかけようかとも思ったけど……なんとなく、一人になりたかった。
両端にマロニエの木が植えられた道を通り、休憩できる場所へ……と、思った矢先。建物の陰に、ちらと亜麻色を見た気がした。
予感に従い、追いかける。見覚えのある後ろ姿が奥の方へ進んで……やがて、スケッチブックを広げ、空を見上げた。
「うーん……ここじゃないかな」
ぼやくカミーユ。
スケッチブックに広がるのは、どこまでも続く水平線。まだデッサンの段階だけど、近寄って覗きたくなる魔力があった。
ポールの絵にはなかったもの。正真正銘、トクベツな才能。
「ねぇ」
思わず声をかけた。
振り返った蒼い瞳が、私を映す。
「……あれ、君、ポールの……。ショーは? 終わったの?」
やっぱり、彼は気付いていた。
そのポールですら、わたしに気付かなかったのに。
「終わった」と素直に答えてもよかったのだけど、あえて違う言い回しをした。
「あなたに会いに来た……って、言ったら?」
「えっ」
白磁のような肌に、赤みが差したのがわかる。
そのまま歩み寄り、頬に手を添える。
「……ポールは?」
「とっくに別れたわ」
いつでも唇を奪える距離。息遣いさえも聞こえるような間近に、彼の顔がある。
「君……気を引くの、上手いよね」
何かをためらうように、カミーユは言葉を濁す。
警戒しているのか、それとも勇気がないのか。……まだ、分からない。
「カミーユ」
名前を呼ぶ。蒼い瞳が見開かれる。
……どうしてだろう。いつもなら簡単に続けられる会話が、全然続かない。何も言葉が出てこない。
交わった視線を逸らしてしまうまで、いったい何秒かかったかしら。
「……ここ、人通り少ないんだよね。二人きりだとまずいんじゃない?」
冷や汗が、彼の細い首筋を伝って落ちる。
「知ってる。あなたを見かけなかったなら、こんなところ来てないわ」
「それって……」
カミーユは目に見えて狼狽した。
耳まで赤くなって、視線が泳いでいる。
モテそうな顔をしているくせして、意外に純情なのかもしれない。
「田舎出身っていうの、本当なのね」
「モントリオールは田舎じゃないし。 ……それに……こんなふうになるの、君の前だけだよ」
カミーユは真っ赤になったまま、私の手を握った。ペンだこだらけの厚い手から体温が伝わる。人形のような顔のくせして、その手は温かい。
「ショーでもこっち見てたし……微笑んだでしょ。それくらいわかるよ」
「……また、似合わないって思った?」
「あ……ごめん、前のこと気にしてた?」
「気にするわよ。あなたみたいな素敵な人に「似合わない」なんて言われちゃったんだし」
ごめん……と眉根を寄せ、本当に申し訳なさそうに、カミーユは俯いた。……こんな情けない顔、他の女は知っているのかしら。
「それで……今はどうなの? 似合ってる?」
首を傾げ、前よりも明るくした髪を揺らしてみる。
「似合ってるよ。……もう少し明るい方が好きだけど……でも、充分似合ってる」
「じゃあ……」
背伸びして、彼の耳に口を寄せる。
「今、ここで、わたしのオトコになれる?」
え、と、うわずった声が聞こえる。
……握られている手を逃がさないように、こちらから握り直す。
「ねぇ……どうなの?」
今度は視線を合わせ、また、問う。
初夏の匂いが、風に乗って
彼の唇が動く。
「いいよ」
観念したように、彼は言った。
薄い唇が、わたしの唇に触れる。
「……今だけね」
「今だけ?」
「うん。どうせ、新しい恋人もいるんでしょ?」
ためらっていた理由がなんとなくわかった。実際、間違ってはいない。
「乗り換えるかもしれないのに」
こちらからもキスをして、挑発してみる。彼は「へぇ」と、呆れと期待が混ざったような溜め息を漏らした。
思えばこの時は、彼も、わたしも、本気になるつもりなんてなかった。
……でも、予感をしていなかったわけじゃない。
「ってことは、僕がそいつにぶん殴られてもいいんだ?」
ブラウスに手をかけ、彼は苦笑する。
……指先の震えは、見なかったことにした。
「……まあ、でも、そういうのも悪くないかもね。もしそうなったら、大人しく殴られてあげるよ」
わたしはまだ彼にとって寄ってくる女の一人でしかなくて、彼もまた、わたしにとって遊んでくれる男の一人でしかなかった。
少なくともその時は、そうだった。
「悪趣味ね」
「君に言われたくないよ」
彼がわたしの首筋にキスを落とし、軽く
恋の炎が
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