第三話 父親、そして義妹と義母



 父上からの折檻の傷も癒え、僕は回復した身体の調子を確かめながら、父上の執務室を目指して廊下を歩いていた。

 そう、いよいよこの公爵家から出る時がやって来たのだ。


 執務室に辿り着いた僕は、嫌な汗をかく手の平をズボンで拭ってから、深呼吸して気持ちを落ち着けて扉をノックする。



「入れ」



 中からは、簡潔極まりない父上の声。「失礼します」と断りを入れてから、僕はゆっくりと扉を開け執務室の中へと入って行く。



「……覚悟は、出来ているようだな」


「はい。旅など初めてなので、このような服装で大丈夫かは判断しかねますが。これで平気でしょうか?」


「構わんだろう。華美な貴族服を着ても、長い旅ではいたずらに朽ちさせるだけだ。それでも平民の服に比すれば、上等過ぎるくらいだろう」


「そう……ですか。ならば街で一度、衣服を調達した方が良いかもしれませんね」



 本当ならすぐにでも叩き出したいところだろうに、律儀に僕の質問に答えを返してくれる父上――ゴトフリート・ヴァン・シャムール公爵閣下。

 前世の、四ノ宮しのみや夏月かつきの記憶が混じり馴染んだ今ならば、このお方が、この人がどれだけ僕を……自身の息子を慈しんでくれていたのかが良くわかる。





 僕が八歳の時に、母上は馬車の事故で身罷みまかられた。僕はその時母上の膝に乗って、馬車の窓から顔を出して道行く先を眺めていたんだ。


 そして突然路地から子供が……僕と同じくらいの子供が飛び出して来たから、僕は咄嗟に大声で『危ない!!』と叫んだんだ。その声に御者は焦って馬車の操作を誤り、僕はその急制動によって呆気なく窓から投げ出された。


 奇跡的に大した怪我も無く。しかし身体を起こして振り返った僕の目に映ったのは、筋を逸れて猛スピードで角を曲がり……その遠心力に振られて建物に突っ込む、母上が乗っていた馬車の姿だった。


 馬は馬車から放れて暴走し、街は一時大混乱に陥った。

 僕は泣き叫びながら、ぐしゃぐしゃに潰れた馬車の残骸をかき分けて母上を見付けたけれど――――全身を強く打ち付け、おびただしい量の血を流していたあの人は、すでに事切れていたんだ。


 その時から。


 僕は自身への当て付けのように、操作を誤ったあの御者を憎むように、あの時飛び出して来た平民の子供を恨むように……言動を廃れた、荒いものへと変えていった。


 思えばあの時から二年間、現在の義母はは上が嫁いで来るまでの間、父上は。

 侍従や使用人が居るのはさて置き、男手一つで忙しい政務の合間を縫って、僕と兄上達三人もの子供の面倒を見てきたのだ。


 義母上を連れて公爵家に帰って来た時は、どうせ僕の面倒を押し付ける気なんだろうと愚にも着かない捻くれた考えでもって、義母上とのち義妹いもうとのことを睨んでいたように思う。


 だけど僕なら、当時の父上の気持ちも、何故義母上が父上について来たのかも、理解出来た。


 父上は確かに限界だったのかもしれなかったが、母上を失い、兄達とは違って思うがままに荒れる僕に、もう一度母親の愛情を与えたかったのだ。

 僕は兄上達と比べても、特別母上に甘えていたから。だから自分の子供のために夜な夜な酒場で踊りを披露していた義母上に、子供への強い愛情と責任感を感じ、めとったのだろう。


 そして義母上も。

 そんな子供への愛情を確かに感じ取ったからこそ、父上について来ることを決めたんだろう。





「父上。最後に、義母上とエリザベスに挨拶をさせていただけませんか?」



 僕は真っ直ぐ、父上の目を見ながらお願いする。

 戻って来るつもりはあるものの、旅とは何が起こるか分からないから。


 前世の日本のように街のあちこちに交番があったり、行き先を示す親切な交通標識が溢れているわけじゃないんだし。そもそも旅だなんて、前世と合わせても生まれて初めてなんだしさ。



「良かろう。ただし見送りは禁じるゆえ、応接間で待て。それと……」



 その言葉にホッとする僕から視線を外し、執務机の引き出しを漁る。

 彼が取り出したのは、皮の袋だった。



「わずかだが、金貨が二十枚入っている。旅道具を買うなり路銀に充てるなり、好きにせよ。私も見送ることはしないゆえ、ここで最後に言葉を伝える」


「謹んで拝聴いたします」


「うむ。サイラスよ…………達者でな」



 僕は深く頭を下げ、どこまでも情けの深い我が父上の執務室を後にした。





 ◇





 応接間のソファに座る僕の耳に、ノックの音と、勢い良く開かれる扉の音が届いた。



「サイ兄様ッ!!」



 返事も待たず顔を上げた僕の胸に飛び込んで来たのは、六歳離れた義理の妹――エリザベス・ヴァン・シャムールだった。

 慌てて抱き止めつつ扉に目をやれば、困った顔をしながら入室してくる義母上の姿もある。


 エリザベスはカサンドラ義母上の別れた元夫との子で、公爵家の血は一滴も入ってはいないため、家の相続権は持っていない。

 白いその肌は義母上の小麦色の艶やかな肌色とは違うが、他は美しい義母上とそっくりな、将来に非常に期待が持てる十二歳の自慢の義妹いもうとだ。



「サイ兄様、このおうちを出るというのは本当なのですか!?」



 母親譲りの漆黒の長い髪を揺らし、こちらも黒くクリンとした瞳に涙をたたえて、僕の胸の中から悲しげに見上げてくるエリザベス。



「エリザベス、サイラスお義兄にい様を困らせてはいけません。これはお義父ちち上様のご決定なのですから」


「でもっ、母様……ッ!!」



 振り返って、同行した母親であるカサンドラ義母上に抗議しようとするエリザベス……エリィを、僕は抱きしめて止める。



「エリィ、座って」



 そう言って、遂には瞳から涙を溢れさせてしまったエリィを。彼女を僕はソファに座らせて、指でそっと涙を拭ってやる。



「本当に、ごめん」



 そうしてエリィと向き合ってから、を口にしたんだ。



《心よりの誠意ある謝罪を確認しました。ユニークスキル【土下座】をアクティベートします》



 あの時――父上に謝罪した時と同じように、頭の中にアナウンスが響いた。




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