あの頃の話2’
トモと交流するようになって、私は彼に色々な話をするようになった。教室の中で、あるいはブランコに乗って。彼は、空気を読むのが上手な人だった。というのはつまり空気を乱さないようにするのが上手いということで、言い換えれば空気みたいな人だった。私と彼の間には常に距離があって、彼もそれを分かってるみたいだった。だから彼と会話しているときは、丁度良くて無難な相槌が返ってくる壁に話しかけているみたいで、それが当時の私には何とも心地良かった。
それが少し変わったなと明確に感じ始めたのは次の年、私達が4年生の年だった(彼とはまたクラスが同じだった)。私は周りから、所謂腫れ物扱いを受けていた。幸い普段過ごすのに支障はない程度だったけれど、それでも私と関わっていれば奇異な目で見られるのは予想がつく。トモはそういう視線に敏感だったはずなのに、いつの間にか私と関わるときのそういった視線を無視するようになっていた。
少し不思議だった。彼が私に好意を抱いているとか、友達として距離を詰めてくるようなことがなかったから。相変わらず彼は私にとって都合のいい壁だったけれど、私たちの関係はそれを保ちながらも確実に変わっていった。
私が覚えているトモとの会話の中で、丁度その頃の話が一つある。私が宮沢賢治の『黄いろのトマト』の話をしたときのことだ。私には、この物語がある種トラウマだった。いつもなら私がトモにする話にオチはなく、行く宛もなくダラダラと感想やら何やらを壁に投げつけているだけだったのだけれど、この時は少し違った。
『黄いろのトマト』に出てくるハチドリの剥製は、物語の中での語り手としてある兄妹の物語を主人公に聞かせる。その物語とは、幸せに生きていた兄妹二人が
私の大人に対する恐怖と、その兄妹からみた大人の恐ろしさが似ていたこと。大切な物がある二人と、何も持たない私。色々要因が組み合わさって、私にはその「かあいそう」がやけに不気味な文字に見えて、トモに話すしかなかった。人に話してどうにか恐怖を紛らわせたかったのだろう。
私はトモにこう聞いた。この兄妹は可哀想だと思うか、と。返事には大して期待していなかった。
*
「 」
「そう。トモは現実的なんだね」
かあいそうにねぇ。私はきっとこうは言われないだろう。
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