9. 独りは駄目

「地図? どこのだ?」


 トルッサが、顔の皺をぐっと深めて眉を上げた。

 トルッサの店の奥、彼の事務室ともいうべき場所で、さして広い部屋ではない。2人が腰掛ける椅子は膝を詰めんばかりだし、周りの棚には帳簿らしき束がみっしりと詰め込まれ、あるいは所狭しと机上に投げ出されている


「どこのでもいいんです。できれば、トルッサさんの方で間違いないと太鼓判を押したくれたやつの方がありがたいけど」

「まあそりゃいろいろあるが、どこのでもいいってこたないだろう」

「うーん、じゃあなるべく上の方から見た、縮尺の大きい奴を。紙でも皮でも、どちらでも」


 精査は僕の方でしますから、と言うポルカルッタに、トルッサの視線がぎらりと刺さる。


「言っとくが、わしの店で扱う以上はいい加減な品はないぞ」

「あ、僕の方も手持ちを出します。値はそちらで付けて貰って、差額を払うという形で」


 荒い繊維で出来た紙の地図を、トルッサに手渡す。

 ふん、と鼻から息を吐きながらそれを検めるトルッサ。思いがけず精緻な筆跡で、山岳や河川の形状だけでなく植生や竜種の活動範囲などが事細かに記されている。


「これは、お前が描いたのか?」

「そうじゃないのもありますけど、まあ大体は」


 とんだガキだ、とトルッサは呆れた。

 測地測量の技術すら大半が失われたこの世界において、地図と言うのはまず正確な物を作ることが難しい。それに、見知らぬよそ者が持ち込んだ見知らぬ土地の地図の真偽を確かめ価値を測ることもまた、容易ではない。それを、地図の真偽はこちらで突き合わせるからと言い、また自分の作った地図の価値を測ってみろとも言う。つまりポルカルッタの提案は、トルッサを試す行為とも取ることが出来る。

 舐めるなよガキが、と言いたいのをぐっと堪え、努めて冷静な声を出す。


「今この場で値を付けることはできん。ただうちにも詳しいのがいるから、そいつと相談することになる。そうだな……2日、いや明日の昼まで時間は貰うぞ」

「ええ、ええ、勿論」


 真面目くさった顔で頷きながらも、ポルカルッタにすれば内心喝采を上げたい気分だった。


 さて、ワイアはと言えば、トルッサの店で清算が済んだ時に別れた。砂金を等分にして入れた皮袋を「これでいいのかよ」というような顔をして手渡す丁稚をよそに、2人は極めてさっぱりと互いに別れを告げたのだった。


「ここまでありがとう。本当に、助かったよ」

「なんてこたねえ」


 じゃな、と手を振りながら去ってゆくワイアの後ろ姿に暫く見入っていたポルカルッタだったが、あくる日の夜、宿屋の食堂であっさりと再会を果たす。


「あれ、ワイア」

「よう、少年。ここの宿だったか」


 ワイアは酒杯を片手にこちらに手を振って寄越した。宵の口だが、ワイアの顔は随分と赤い。

 今生の別れを告げたつもりがすぐに再会することほど気まずいものはないし、ポルカルッタも内心そう感じないでもなかったが、それでもワイアの顔をまた見ることの出来た喜びが随分と勝った。


「まだ村にいるんだね」

「まあな」


 ワイアも、似たような思いを抱いているようだった。気持ち視線を避け、「しばらく手持ちにも困らねえしな」と言いながら首筋の辺りを痒そうでもなしにさすっている。


「ここ、いい?」

「ああ」


 ポルカルッタが向かいに腰を下ろす。夕食を摂ろうと食堂にやって来たのだ。


「あ、適当でいいです。あるもの下さい」


 そう女将に向かって手を振れば、でっぷりと太った二重顎の女将が、顎下の肉をたわませながら無愛想に頷く。


「てっきり帰ったものかと」

「まあ、もう帰る場所もねえからな」


 そう言われると、ポルカルッタとしても何も言えなくなってしまう。


「ああ、悪い。そんなつもりじゃなかったんだが」


 ううん、とポルカルッタはかぶりを振る。


「僕だって似たようなもんだよ」

「家族がどうしてるのか、気にならねえか?」

「気にならないって言えば嘘になるけど、まあ皆元気にしてるんじゃないかって、思うよ」

「そうか……」


 少しばかり続く沈黙に耐えられず、新たな話題を紡ぐ。


「ねえ、亡くなった家族のこと、教えてよ」

「そうだなあ」


 ワイアは、盃を揺らしながら視線を宙にやる。まるで、在りし日をそこに思い描くように。

 大きかった祖父の背中が、長じるにつれ小さくなっていくように感じたこと。

 その分ワイアの背が伸びゆくことを、何だか祖父から盗んでいるようで申し訳なく思った幼い日々。

 狩りを教えてくれた父親、刀の手入れには誰よりもうるさかった母親。

 熊を殴り倒せるほどの豪傑だった兄と、誰も予想だにしなかった胡歌鶏栖コカトリスの毒による急逝。両親の嘆き。

 長光を継いだ日のこと。眩しい朝日を刃に煌めかせ、鞘に仕舞いこむ儀式めいた父親の手つき。

 しばらく続いた不猟の日々。そして一人で遠出し、1週間ほどをまたいでたんまりと獲物を担ぎ帰ってみれば、里が壊滅していた。


「怒瑠権か……」


 我が目で見た事はないが、ワイアの氏族たちがこぞって掛かっても歯が立たない強大な生き物を想像して、ポルカルッタは背筋を寒くした。


「歯が立たないなんてことはねえ。長光が、こいつがあれば怒瑠権だって仕留められた筈だ」


 ワイアが、鞘を軽く叩く。心配するなとでも言うように。


「じゃなかったら、お父が負けるわけねえ」

「うん……」


 随分と、ワイアは酔っているように見えた。吐く息はむっと酒臭く、視線だって定まっていない。


「なあ、少年」

「なに?」

「人間、独りってな、やっぱ駄目だよ」


 それは自嘲か、あるいは孤独な旅路を辿る彼に向けての警鐘だったか。


「そう、なのかな」

「そうだ。あの日、あたしが他の誰かと狩りに出てたんなら、怒瑠権の襲撃よりもっと早く帰れた筈だ」


 ただの結果論に過ぎないだろうが、ポルカルッタには、それを言う事が出来ない。


「なにが氏族いちの狩人だ。とっとと男捕まえて夫婦めおとんなって、子供の何人でも産んでりゃ、こんな、独りになることだってなかった」


 でも、僕は貴女に助けてもらったよ。

 そんな陳腐な慰めを掛ける事は、ポルカルッタには出来なかった。人間は、独りでは生きられない。堪えようもない実感と共にそう零す生命の恩人の姿は、ひたすらに彼の胸を抉った。

 だからかもしれない。自分の、秘めた欲求を口にしたのは。


「僕はね、ワイア」

「え?」

「地図を作りたいんだよ」


 突然脈絡のないことを言い出すポルカルッタに、ワイアは顔を上げ、きょとんとする。


「地図を、作る」


 繰り返した。ワイアは、訳が分からないという顔だ。


「どこのだよ?」

「全部」

「全部って」

「世界中の大陸と海を描いた、大きな、一枚の地図」


 トルッサがそれを聞いていたならば、荒唐無稽さに顔を顰めていただろう。チャズなら吹き出していたかもしれない。一介の、非力な子供が何をできるのだと。今のこの時世にあっては、それが当たり前の反応と言えた。

 だが、ワイアはそうはしなかった。ただ、大真面目に訊いた。


「できんのか」

「僕一人じゃ、無理かもしれないけどね」


 ポルカルッタははにかむ。


「でも、僕の子どもか、そのまた子どもの頃には、出来てるんじゃないかな」

「本当かよ」

「ざっとした試算だけど」


 どんな計画があるのか、とはワイアは訊かない。自分にそれを理解するだけの素養が無いことを、何とはなしに察していた。ただ、動機は気になった。


「人間に足りてないのは、地図だと思うんだ」


 そう、ポルカルッタは言う。椅子に深く腰掛け、背筋を伸ばして真っすぐワイアの眼を見つめながら。


「どこが棲むのに適してるか。どの道を辿れば遠い地に荷物を無事運べるか。どこが危険で避けるべきか。どこにどんな人がいるか。地図さえあれば、人間は協力し合って、版図をもっと広げられる」


 実を言えば、ポルカルッタの得たその答えは甘く見積もっても最上から3つ目か4つ目のものに過ぎない。文明再興に最も必要なイベントは、工業力の再獲得ともいうべきものである。大統一地図の作成は、彼の際めて個人的な希求であるだけだ。しかし、ワイアには知る由もなく、彼女はただそれを、困難な事業であるとだけ理解した。


「それは、つまり独りじゃ難しいってことか?」

「うん」


 照れくさくなったのか、ポルカルッタが笑って巻き毛の頭を掻いた。


「独りは、やっぱり駄目かもね」

「だな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る