2. 正直に告白すれば
鈍色の分厚い雲が立ちこめる空の下、白亜の地層が覗く白樺の林の中で、彼女はポルカルッタのそれに数倍する目方のありそうな掌を差し出した。
正直に告白すれば、この時になってようやく、ポルカルッタは彼を助けたその人物が女だと気付いた。
「どうした? 魂でも食われちまったか?」
「ううん……ごめんなさい。あまりのことにびっくりして」
ポルカルッタは、おっかなびっくり手を差し出す。女はそれをぐっと掴むと、まるで小枝を摘まみあげるように軽々とポルカルッタの身体を引き上げた。思わずたたらを踏むような格好になってしまう。
両の足で立って改めて見ると、女は見上げるような長身だった。それも単に背が高いと言うだけではない。身軽さを身上とする軽戦士のように要所を革の防具で覆うばかりの軽装だから、体型ははっきりと分かる。首は太く、肩から背中にかけての線は筋肉がみっしりと盛り上がって獰猛な肉食動物のような厳つさで、腿はポルカルッタの胴よりも太いのではないかと思われた。だというのに、腰の上、腹の辺りはぎゅっと窄まっていて、胸は大きく張り出し革防具の隙間、襟ぐりの下から深い谷間を覗かせている。ポルカルッタの氏族には見られない燃えるような赤毛の直毛といい、まるで別の種族だった。
む、と女が眉を顰める。
「なんだ、見せもんじゃねえぞ」
「あ、ごめんなさい……」
ポルカルッタが顔を赤らめて俯く。
その、あんまり立派な身体だったものだから……恥じ入るような彼の言葉を、女は豪快に笑って受け流した。
「あたしはワイア。少年、名前は何てんだい?」
「ポルカルッタ。ポルカルッタ・ルディンルラナ」
今度は、女が眼を白黒させた。
「ポル……なんて?」
「ポルカルッタ・ルディンルラナ」
ぐ、と女――ワイアは口元をへの字に曲げながら視線を宙に泳がせる。全く聞き取れなかったのだ。
「あ――」
それを察してもう一度ゆっくり言い直そうとしたところを、ワイアが遮った。
「畏まった挨拶は後だ、少年。すぐここを離れるぞ」
「どうして?」
「アイツがすぐ戻ってくる。下手したら、わんさと子分を連れてな」
「どうして分かるんですか?」
「そういう奴らだからさ。何匹か追い払って呑気に宴会してた氏族が翌朝には全滅してたなんて、よく聞く話だよ」
いいから行くぞ、と手を引くワイア。
「ちょ、ちょっと待ってください。どこへ行くんです?」
「ここから少しでも遠くへだ。死にたいのか?」
苛立ちを隠そうとしないワイアに、ポルカルッタは確とは抗えぬままへどもどと言葉を返す。
「あの、僕のモーターサイクルがあります。それに乗りましょう」
「モーターサイクルって、さっき乗り捨ててたアレか?」
ぶっ壊れたんじゃないのか、と訝しむワイア。
「バッテリー切れを起こしただけです。ほんの少し時間があれば取り替えられます、安全で陽の当たるところに行けば充電だって」
「2人、乗れるのか?」
乗り捨てた所は、遠目に見ていた。華奢なポルカルッタには少々取り回しが難しそうな大きさではあったが、2人乗りともなると、それも彼よりも何倍も重いに違いないワイアを乗せて、まともに走れるだろうか。
「多分ですけど」と言って、ポルカルッタは退かない。
「発条も調整が利きます。その……重い荷物を載せるのにも慣れてますから」
時間が惜しいんでしょう、と言われれば、ワイアも渋々頷かざるを得ない。
分かった、分かったよ、と言って木の幹に刺さった槍を軽々と引っこ抜き、ポルカルッタに続いて林の中に足を踏み入れた。
「へえ、少年。やるじゃねえか」
そう声を掛けるワイアは、ポルカルッタの操縦するモーターサイクルの後部座席に、ちんまりと腰を掛けている。槍と刀は、ぶっ違いにして背中に背負っていた。あとはやや小振りなナイフを2本、それが、彼女の持つ武装のすべてだった。
ポルカルッタの言う通り、バッテリーを交換すれば問題なく動いたし、ワイアを乗せても走行姿勢は安定している。履帯を履いた2輪は最高速度こそさほどではないが、それでも徒歩とは比べものにならない速度は軽く出て、礫地だろうが泥濘だろうが力強く地面を進んでくれる様は何とも心強い。
「空になったバッテリーはどうすんだ?」
風を切る程の速度ではなくしかも殆ど密着した体勢なので、声を張り上げて会話する必要もない。
電動だから機関の駆動音も、殆どと言っていいくらいになかった。
「日光があれば、太陽光シートを広げて蓄電できます。まあ、時間は掛かっちゃいますけど」
「そいつはすげえな」
素直に、驚きの声を上げる。この時代にそこまでの先進技術が現存していることと、それを使いこなすポルカルッタに対する驚嘆である。
人類がネットワークを始めとした先進技術を失ってからどれ程の年月が経ったのか、正確に把握している人間はもういない。人類社会を作り上げ維持してきた基盤を失うことは、取りも直さず版図の大部分を失う事を意味した。万物の霊長は最早存在せず、人類はとっくにその地位を地上を我が物顔で闊歩する大小様々な動物たち――取り分けて言うなれば、それは竜種に違いない――に譲り渡した。
爪も牙も、それに代わって得たはずの力も喪失し世界中に孤立した人類は、一時確かに絶滅の危機に瀕したと言える。しかしそうはならなかった。散り散りになった人間たちは最小から2つめ、村単位のコミュニティをのみ存続させることに辛うじて成功し、それらは今日『氏族』と呼称される。彼らは氏族間の長い長い断絶の時を経て、あるものは滅び、また別のものはそれぞれの多様性を獲得しつつ生き延びた。
きっと、ワイアの大きな体躯も彼女の氏族特有のものだろうとポルカルッタは思う。
「お姉さんは、」
前を向いたままそう声を掛けるポルカルッタを、ワイアが制した。
「ワイアだ」
「ワイアさんは、」
「『さん』もなし。敬語も抜きだ。
「はあ……」
自分は少年呼びの癖に勝手な物言いであるが、ポルカルッタは素直に従った。
「ワイアは、この辺りの出身なの?」
「まあ、近いっちゃ近い。歩いて3日ぐらいかな」
「いつも一人で狩りを?」
「最近はな。ほんとは違う。皆して3日がかりででけえ熊を追い詰めたりとか、よくやったもんだ」
「今は違うんだ」
「あたし以外は、みんな死んじまったからなあ」
「あ……ごめん」
「謝るこたねえよ。ある日帰ったら、皆殺しにされてた。
珍しいこっちゃねえだろ、そう言うワイアの口調は、実にあっけらかんとしている。確かに小さな氏族が全滅したなどと言う出来事はこの御時世履いて捨てる程あるが、それにしてもその怒瑠権とかいうやつに恨みを持ったりはしないのだろうか。狩猟に特化した氏族の思考形態はそんなものなのかしら、とポルカルッタは内心首を傾げる。
「怒瑠権って、もしかしてさっきの?」
「ありゃ、ただの
「そうだね……ここから随分東から来たから、生き物の生態なんかも結構違うよ」
「えらく長旅なんだな。どこへ行くんだ?」
「どこって言われても……取りあえず安全で、バッテリーが充電できるぐらい開けた場所かなあ。もう少し行った辺りにあるんでしょ?」
ワイアがかぶりを振る。
「そうじゃなくてだな。その、どこを目指して旅をしてるんだ? 食いもんだとかは?」
ワイアにしてみれば、不自然極まりないことである。目の前のとび色の巻き毛をした子供は、独りきりでろくな武装も持たず、矮蛮の森にまで踏み込んで一体何をしているのか。それに、長旅と言うなら今まで食料などはどうしていたのだろうか。
「小さな動物なんかならクロスボウで狩れるし、保存食も水もまだ結構残ってるよ」
どうやら、座席の下にかなり大きな保存スペースがあるらしい。車体の側面に括りつけている半透明の容器の上の方で、水面が揺れるのが見えた。なるほど、水の確保には抜かりないようだった。
「で、目的地は?」
「強いて言うなら、最寄りで、行商やら流通なんかを生業にしてる氏族のところかな。色々取引がしたいから」
「取引だあ?」
「食べられない毛皮のとことかさ。東方の珍しい動物だったら、良い値段で売れるんだよ。肝を燻したやつなんかは薬にもなるし」
「それで、あちこち旅をしてるってか。危ねえ目にも遭うだろ」
「さっきみたいな、本当に死にそうになったのは初めて」
「だろうともさ。言っとくけどな、この辺はあんな奴ばっかだぞ。おめえみてえななまっちろいガキなんか、命が幾つあっても足りやしねえ」
ぐっと身を寄せて、噛み付くように語気を強めるワイア。
悪い事は言わないから親元に帰れ、そうワイアは言いたいのだが、ポルカルッタは思いがけず背中に押し当てられる大きな胸の感触にどぎまぎしてしまって、それどころではない。
「こ、この辺りで今日は寝る?」
既に白樺の林を抜け、開けた草原に出ている。辺りに矮蛮のような大型の獣はいないようだ。時折大きな岩が草時の下から顔を覗かせ、その脇に隠れるように一跨ぎできるくらいの小さな川も流れている。
岩に身を寄せるようにすれば焚火も出来て、いざという時身を隠せるだろう。ポルカルッタはそう考えた。分厚い雲の向こうで、もう陽が傾きかけているのが分かる。今日は暗くなるのも早いだろう。だったら、早めに寝床は確保しておかなければ。
「いや、もうちょい真っすぐ行った辺り、あの辺だ、見えるか?」
ぐっ、と顔も寄せて指を前方に伸ばすワイア。
「見える見える、見えるけど近いよ」
「なんだ少年、ちゃんと前向いて運転しろ。あの森だ、あそこがいい」
「どうして?」
「まず、背の高い木がある」
「……うん。他には?」
「後で教えてやる」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます