忌淚

NAO

忌淚

 もう分かっている。これが僕の最後の夜だ。最後の夢だ。ここを抜けて、僕は死ぬ。生きる気は毛頭ない。生かされていても生きたくはなかった。終わりにすることで、自分の口で終わったって言い切りたかった。


 月は奇麗だった。コンパスで引いたような円形は白銀に輝き、とても冷たい。完成された冷感のように感じても、よくよく見るとそのところどころに黒いぶちを混ぜていて、結局はお前も一緒なのかと溜息を零した。


 ベッドに倒れ込む。味気ない真っ白なシーツがまた整えられている。それをこうやって思うがままに乱れさせられるのはこれを使う僕の特権だ。ぐしゃぐしゃになったシーツを整える人の気持ちを考えるのはもういいかなって、そう諦めたから僕はこうやって自分の世界をここに生み出せている。


 今日は悪くない一日だった。空気は澄んでて心地よかったし、小鳥のさえずりは僕も彼らと同じ生命なんだってことを理解させてくれた。


 だからこそ死のうって思った。どれだけ僕が心で叫ぼうとも、同じ命たちは知らん顔でぐるぐる廻っている。それがあまりにも腹立たしかった。いつもいつも。


 シーツの皺が無粋な窓から差し込む月光に照らされ白黒の砂丘のように見えた。部屋の電灯はもう消えていて、薄暗がりの中で得た暗順応をもとにこの光景を僕は微睡んでいた。


 ああ──眠い。ここまで来て少しだけ心は引き気味になっていた。拭いきれない恐怖ってものがある。人が死を恐れるのはなんでだったっけ。


 だけど──そんな恐怖をよそに、溶け込むように僕は僕の世界へと沈み込んでいく。ふわふわ浮いているようだけど、体の重みはいつもの倍はある。太るなんて縁のない人生だったけど、こんなに重いなら太りたくはないかな、なんて思ってくすりと笑ってたと僕は思う。



 夢のくせに少し現実っぽい景色を見せてくるのは嫌がらせだろうか。眠るのは逃避するためだ。なんでも出来る。自分が中心の世界で自分が物語を作る。それが出来るから「ゆめ」って響きなんじゃないのか。出来ないなら僕は「ゆめ」なんて呼ばない。


 このばしょは学校か。まともに通えたこともないのに不思議とその情景が見える。


 廊下や教室は清潔なように見えて隅を覗くと埃が溜まっている。掃除当番の学生たちは塵取りに埃を集めるのをめんどくさがって人目につかない場所に汚れを溜める。目に見えるものと見えないものが交互に羅列していてそれらが目まぐるしく行き来する。


 校庭には乾いた砂が敷き詰められ、整備されていない地面は隆起し、まるで地雷のようだった。それを踏んで躓き消える子もいれば、それを掻い潜り続けて生き延びる子もいる。生き延びた子は消えたこの子とをいちいち思い出している暇はなさそうだし、なによりも消えた子たちは自分のことを覚えていてほしいとも言ってはいなかった。互いの気持ちが交わればこっちが悪いとかそういった一方的な糾弾もなくなるのだろうか。


 

 場面は切り替わり、夕暮れの陽が生まれ、空は絶命間近の紅い血のように暮れる。そんなことを気にせずにずっと暗がりの安寧を求めた彼や、暮れの寂しさと言ったものを物欲しそうに見つめる彼もいる。世界は実に多種多様だ。どれが正解とも言えないのだろうけど、これが間違いだと言い切ることもできない。胸を燻るような痒みをいくら抱えたって、それに同情して教えてくれるような神様だっていない。


 彼は陽の当たらない直線を歩き、乱れることなくその命を全うする。彼は陽が当たる曲線を走り、乱雑に歪みながらもその命を全うする。さて、どちらが幸せだろうか。


 暖かさを知らずに変わり映えのない日常を孤独に生きること。


 暖かさゆえの温度差に悩まされ、風邪を引きながらも日が来るごとに日が変わるそんな毎日を送れること。


 僕はどちらにもなりたくない。僕の人生は前者だろうけど、後者に憧れるわけでもない。生きているってそんな輝かしいものでも燻んだものでもないと思うんだ。だって輝いてると眩しいし、燻んでるとぼやけてしまう。どっちもいいことなんてない。所詮そんなものだって気づいたんだろう。


 陽が落ちると用意されていた月が主張し始める。そらに向かって熱は放出され、 地面は全てを費やして蓄えてきた熱を奪われていく。彼を見ていた空気さえも彼と同じように引き込まれ、熱は元ある場所へと帰る。放射冷却は略奪だった。だけどそれには正当性がある。勝手に取られたものを取り返しただけ。だけど字面だけでは絶望的なまでにそらは悪者だった。誰かが最初から見てればいいけど、彼を知るのは夜からなので、誰も知らない。そんな役回りをそうやって続けるうちに黒い斑点をつけたんだろう。


 風が吹くビルの上に僕は立っている。そこから見下ろした街には命の息吹が根付いている。暗くて寒い夜なのに、それを吹き飛ばすほどの黄金色の魂があちらこちらに浮かんでいる。僕なんかよりずっと輝いているのに不思議と負けた気にはならなかった。だって僕はそれをこんなにも高い場所から見下ろせているんだ。僕だけがこの世界を一望しているという全能感。なんでも出来る気がするってこの高台から僕は助走をつけて飛び降りた。

 

 風を切って墜落する僕の眼に、結露して生み出された水が溜まる。そして落下の重力に引き摺り込まれてそれは流れ出し、空に登っていく。これを僕はなみだというべきなのだろうかと落ちる間ずっと考えていた。僕の眼から生み出された結果。だけど正しい生まれ方じゃない。過程と結果のどちらを重視するべきか。そんなもの分からない。なんせ頭は軋むし、正直痛いんだ。耐えきれなくなって結局僕は「涙」を流してしまう。


 この涙は冷たかった。熱を奪われた空気にも負けないくらい冷たかった。色んなものを奪われてきた結果だろうか。時間、体、運命、そして友達。


 どちゃっ。と。水気を含んだ音が下の方から聞こえた。覗き込んでみると僕が死んでいた。体は潰れていて血溜まりを作りながら地面にめり込み、同化している。僕はそんな僕を見て馬鹿と呟く。どうせ僕のことだ。行動原理はろくでもないものに決まっている。僕はビルの階段をゆっくり降りて、彼の姿を見ることにした。


 僕は背中からめり込んで死んでいた。かろうじて顔は奇麗に残っていて、目には涙を浮かべている。痛かったのか。可哀想だと思ったから僕はその涙を掬い取ってあげた。貧弱な体から流れ出る紅い血だけが生きているように流れ出していて、それを堰き止めて体に戻せば生き返るんじゃないかってあり得ないことを考えてみる。


「……返さないで」


「なんで? 帰ってこれるかもしれないのに?」


「もういいんだ。寝させてくれ」


「なんで寝たいの?」


「簡単さ、眠いからだよ」


「そう」


 僕は彼を置いて街を去る。彼が満足したなら僕はもういらないだろう。だって彼はずっと後悔していたことを自分の身を払って返済した。それを知って眠くなっちゃったなら好きにさせてあげるのが自分ってやつだ。




 目が覚めた。奇麗な月があった場所には鬱陶しい太陽が入れ替わるように置かれていた。今日も一日頑張ろうと背伸びしてから走り出すいつものおじさんが窓越しに見える道路にいた。太陽はおじさんを歓迎している。おじさんもそれに応えるようにいつものルーティンを開始した。


「さ、もう一眠りしよう。もう、一度で眠りにつこう」


  僕はふらついた足取りで進んで真っ新な屋上に辿り着く。空気は澄んでて心地よいし、小鳥のさえずりは同じ命を呼び込んでいるようにも聞こえた。僕はそれに惹かれて柵に止まる名前も知らない小鳥を眺める。誰かを呼んで、誰かを待っているみたいだった。


「……君は待ってるのか。返せるものは返したから、僕も行くよ」


 止められなかった僕。弱くて大事な内線を失った僕。彼にさえも忌み嫌われた僕。だけど流してきたその贖罪のなみだは混じり気のない忌淚きれいなものだったって信じて、僕はこの世界から彼みたいに飛び降りた。



                     完

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