Episode7


 異変を察知したと同時、俺はベンチから立ち上がり剣を握って駆け出した。


 野営エリアの中央――付近にある篝火に照らされた闇の中、まるで空間から滲み出すかのように黒いもやが出現していた。


「なんだ、このもや……」


 黒いもやは空中に浮き、蒸気のようにゆらめいていた。


「これが敵なのか?」


 とてもそんな風には見えないが……。


 しかし、地霧や蜃気楼といった自然現象ではないはず。


 このもやからは強力な魔力を感じる。それも、とても嫌な感じの魔力を……。



 ――試しに斬ってみるか?



 いや、だが。


 触れることで発動する敵の罠かも知れない。


 俺が戸惑っていると、周りの冒険者たちも気付き始めたようだ。



「おい、なんだあれ……?」


「黒いもや?」


「陽炎……じゃあないよな?」



 次第にざわめきが大きくなっていく。


 そのざわめきに呼応するかのように、黒いもやの魔力がさらに増していく。


「大きくなっている……?」


 黒いもやが徐々に大きく、広がっているように見えた。



「なんか大きくなってないか?」


「なってるな……」


「なんだ、この感じは……」



 異変を察知した何人かが黒いもやの方に目を向けているが、誰も近付こうとはしない。


 黒いもやの傍にいるのは俺だけだ。


 ……どうする? このまま静観してていいのか?


 葛藤が巡る。


 その間にも、黒いもやは広がり続ける。


「斬ってみるか……」


 どうなるかは分からないが、このままだとマズい予感がした。


 俺は覚悟を決めて剣を握り直す──その時だった。


 ぞわりと、背筋が凍るような感覚に襲われる。


 人間一人が入るほどの大きさまで広がっていた黒いもやの内側から、何かが浮かび上がってきた。


 人のような形をしたそれは、しかし決して人のそれではなく――



「……お、おいっ! あれって!」


「嘘、だろ……」


「みんな気を付けろっ!」



 現れた瞬間に、辺りの気温が一気に下がったような感覚に襲われる。


 心臓の鼓動が早くなり、全身がこれ以上ないほどの危険を察知していた。


 それは一見、レイスのような格好をしていた。


 前側がはだけた黒い襤褸のローブを纏い、ローブの内側には体がなく深淵だけが漂っている。


 フードを被った顔は髑髏がそのまま張り付いているかのように生の実体がなく、ローブの裾から覗く手も骸骨のように細い。


 紫色の霧を周囲に纏い、地に脚はなく空中に浮かんでいた。



「あれってまさか……!」


「なあ、おいっ! どうなってんだよっ!!」


「て、敵だぁああああああああ!!」



 周りで何かを言っていたが、俺の耳には届かない。


 目の前の異形から目を逸らすことができず、身じろぐことさえできなかった。


 騒乱とする状況の中、それがゆっくりと動き出す。


 髑髏の顔が静かに、こちらへと向けられる。


 視線が合った。


 虚無の目だ。


 窪み落ちた闇が――深淵が、俺を見ている。


「う……うわぁああああああああああああっ!!」


 反射的に俺はそれに向かって、剣を振り抜いていた。


 だが――


 ガキィィイインッ! と、鉄の擦れ合うような音を立てて、剣が弾かれる。


 反動で上体を逸らしながら、俺の目の端に紫色の半透明なシールドのようなものが映っていた。


 ――魔力障壁。


 異形は自らを囲うように、強力な結界を張っていたのだ。


 それでも咄嗟に剣を戻して、もう一度斬りかかろうと剣を構え直す。


 思い切り魔気で強化した一撃を振ろうとして――


 ──何故か、ぴたりと静止した。


 俺の持ち上げた腕が、体が止まっている。


 動かそうとしても動かない。まるで、金縛りにでもあったかのように。



 ――なんだ……なにが起きた……?



 唯一、静止した体の中で目だけは動かすことができた。


 目だけを頼りに周囲を探り、下を向いた時だった。


 俺の胸に何かが当たっているのが見えた。


 ――指。


 指が、当たっている。


 目の前の異形が左手を伸ばし、そこから突き出された人差し指が、俺の胸に触れていた。


 ――まさか……指一本で動きを止められたのか?


 驚愕に心が染まる中、複数の激しい足音が耳に届く。



「おい、あれ……!」


「なっ……! どうなってるんだ……!」


「分からないが、とにかく助けにいくぞ!」



 セキュリティゲートから飛び出してきた守衛の人たちだ。


 状況に困惑しているようだが、俺を助けようと全員が即座に剣を抜いた。


 その様子を見た他の冒険者たちも、同じように戦闘態勢に入ったのが分かった。


 しかし……



「くっ……くそっ……」


「手が、震えて……」


「おい、誰かいってくれよ……!」



 彼らは動けなかった。


 全員、剣や杖を構えたまま立ち尽くしている。


 目の前の“それ”を知り、自らの実力ではとても敵わないことを理解していたからだ。


 故に、最初の一歩を踏み出すことができない。


 凍り付いた時間の中、異形が俺から視線を外して前を向いた。


 そして、ふわりと空中に浮かび上がる。


 まるで、周囲の闇を吸い込むかのように轟々と音を立てながら、体中に紫色の稲妻のようなものをバチバチと走らせ始めた。


 奴の体内で、膨大な量の魔力が集束しているのを感じる。


 そしてその魔力を感じた瞬間、俺は理解した。


 ──ああ、そういうことか。


 止めようと思った。


 だが、体が動かない。



 そして――



 誰かの叫び声が野営エリアに響き渡る。



「全員伏せろぉぉおおおおおおおっ!!」



 ファントムが集束した魔力を一気に解き放った瞬間、紫色の稲妻と共に、大地が揺れるほどの衝撃が襲いかかってきた。

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