Episode7
「お、らっしゃい」
「こんばんは」
戸を開いてすぐに上方から声がかかり、挨拶を交わす。
続いて俺がポケットから回数券を一枚取り出してその声の主――番台さんへと手渡した。
「まいど! ゆっくりしていっておくれ」
「はい、ありがとうございます」
ダンジョンでの練習を終えた俺は、一度家に帰ってから近所の銭湯へと来ていた。
家で風呂に入るつもりが、事の他練習の成果が上がったために気持ちの高揚を抑えられず、つい足を運んでしまった。
持ってきた鞄の中からタオルや着替えを取り出して、脱衣所にある籠の中に入れていく。
創業100年を超える建物は内装もほとんど当時の姿のまま残されていて、古き良き昭和の時代の匂いを感じさせていた。
最近では足立区にも何軒かのスーパー銭湯ができて、古い銭湯は姿を消すことも多くなっているが、この「よもつの湯」は今も尚力強く残っていて、俺のような貧乏人にも癒しを与えてくれている。
浴室に入ると、夜の十時を超えているためか人影はまるでなく、唯一、最奥の浴槽に一人いるだけのようだった。
その人は壁に描かれた赤富士を背に、両手を後ろの浴槽の縁にかけて目を瞑っていた。
威風堂々といった感じで鎮座する姿はまるで不動明王を彷彿とさせ、もしこれが初めての対面であったなら、その迫力と威圧感にビビって即時にUターンして帰っていたかも知れない。
しかし幸いなことに、俺は既に何度もこの威圧感を味わっていて動じることはない。むしろその人と再会できた喜びに笑みが溢れていた。
椅子に座って一通り身体を洗い終えた後、その人のいる奥の浴槽へと向かい、ゆっくりと足を入れる。
「あっちぃ〜……」
ピリッとした感触に襲われながらも全身を浸けていくと、くうぅと変な呻き声が出てしまった。
この浴槽の設定温度は45℃。かなり高めだが、近所のおじい連中は何ともなしに平然と入っていくから不思議なものだ。
「おお! 誰かと思えばミクルじゃねえか」
俺が熱さに悶えていると、威勢の良い声が響き渡った。
「ギンさん、ご無沙汰です!」
俺もつられて声を弾ませる。
――荒鬼 銀次(あらき ぎんじ)さん。元々は俺のじいちゃんの知り合いで、じいちゃんが亡くなった後も何かと気にかけてくれている、俺の恩人のような人だ。
「調子はどうだ? ちゃんと飯食ってるか?」
「ばっちりです。ご飯もしっかり食べてます」
「そうかそうか! 困ったことがあったら何でも言ってこいよ!」
毎回会う度に行うやり取りを切っかけにして、お互いの近況について語り合っていく。
「そういえば、また消費税が上がるらしいですね」
「ああ、嫁もそんなことを言ってたな。次は20%か? なんでこの時期に税を上げんのか俺には理解できねえなあ」
「大災厄の復興費用を使いすぎたとかじゃないですか?」
「だったら尚更上げちゃ駄目だろう。あれで一番苦しんでんのは国民なんだからよ」
「うーん……まあ、確かにそうですね」
みんなお金がないという話は聞いている。特に家や家族を失った、いわゆる被災組と言われる人達の苦労は大きい。俺もその一人だが……じいちゃんがいてくれて、本当に良かったと思う。
「これから、どうなっていくんでしょうね」
「地方の復興がまだ追い付いてねえからなあ。そっちをどうにかできたら、日本も元気になっていくだろうな」
「なるほど、今は東京ばっかりですもんね」
「んだなあ。まあ東京が大事なのは分かるがよ。地方も回復させていかないと、いつまでたっても完全復活とはいかねえわけよ」
最近では冒険者達の能力を使って復興のスピードも上がってきているが、それでもまだ膨大な時間と労力が必要となるだろう。
その後もギンさんとの会話は続いていった。
もう間もなく還暦を迎えるというギンさんは、多少頭には白髪が目立つものの、鍛錬された身体には一切の弛みがなく、溢れ出るエネルギーも衰えることを知らない。
時折、ギンさんが豪快に笑ったり身振りをする度に圧倒されそうになりながらも、楽しい時間が流れていった。
そして会話の種は俺の冒険者生活のことへと移り、ギンさんがこう訊ねかけた。
「まだ六町に潜ってんのか?」
六町とは六町ダンジョンのことで、まだ六町ダンジョンでの攻略を続けているのか? という意味だ。
「まだ潜ってます……なかなか四階層の敵が手強くて」
俺が尻すぼみに言うと、ギンさんが大袈裟に天を仰いで声を張り上げる。
「かあああああ! あんなところで苦戦しているようじゃお前、いつまで経ってもひよっこのままじゃねえか!」
「ひよっこって! いやまあ、確かにそうですけど……」
「六町の四階層っていやコボルトか? あんなもんは仲間を呼ぶ前に個別に叩いちまえばいいのよ。いいか! そもそも冒険者ってのはだな――」
げっ、始まってしまった……。
ギンさんの言葉を聞きながら俺の心中に諦観の念が広がってゆく。
こうなってしまったら、もう最後まで聞くしかない。
ギンさんは熟練の冒険者で、俺が冒険者を始めた頃から色々なアドバイスをしてくれている。
そのどれもが的確で、毎回参考にさせてもらってはいるのだが……いかんせん、一度語り出すと本人が満足するまで終わらないのが辛いんだよなあ。
早く終わるようにと祈りながら……数分後、もうそろそろお湯に浸かっているのも限界を迎えようかという頃に、
「――という事なんだよなあ」
ギンさんが得意気に頷きながら話を纏めたのを見て、俺がすかさず捲し立てる。
「ははあ! そういうことなんですね! 流石ギンさん! ありがとうございます! これから俺ももっと頑張っていきます!」
頼むから終わってくれ! という俺の願いは届いたようで、ギンさんは豪快に笑って、まあ、がんばれよ、と締めの言葉を述べた。
はあ……助かった。
俺はホッとして、逆上せる前に一旦湯船から上がろうと腰を浮かせる。
「さて、一回でよ――」
だが、その時、
「おっと! そうだそうだ」
ギンさんが何かを思い出したようだ。
な、なんだ?
一抹の不安を感じながら、恐る恐るギンさんの方へと顔を向けて答えを待つ。
するとギンさんが、にやり、と不敵に笑ってみせた。
え……? ま、まさか――と、俺の頭の中に嫌な思い出が蘇る。
「あれ、いっちょやっとくか?」
「い、いやあ、今日はやらなくてもいいんじゃないですかねえ?」
――非常に、不味い。
過去の経験からすれば、この後に起こるのは間違いなく悲劇である。
俺は何とか回避ルートを見つけようと頭を働かせるが――結論、どこにも生存ルートはないらしい。
ギンさんが湯船の中で腕を広げたかと思えば、両手が赤い輝きを放ち、ギンさんを中心とした周囲にもやのような物が立ち込め始めた。
「気合い入れろよッ! ミクルッ!」
「マ、マジでやるんですかあああ!?」
ギンさんの喝と俺の悲鳴とが浴室に木霊する。
周囲のもやはどんどんと濃くなり、魔力の密度が上がっていく。
――業火のギン。
腕が立ち、名を上げる冒険者であれば自然と二つ名が付くものだが、ギンさんもまたいつの時からかこう呼ばれるようになっていた。
ギンさんが持つ炎の魔法スキル、また、そのスキルを使った時の姿が由来となって誰かが呼び始めたのだが、本人の熱い性格も相まって正に相応しい名前であるように思う。
……実は、ダンジョンでの練習中に俺が魔法について参考にさせてもらっていたのは、ほとんどこの人の言葉だ。
本当に感謝してもし切れないぐらいの恩があってとても良い人だと思うのだけれど、時々やり過ぎることがあると思う。
そう、今のように――!
「よっしゃあ!! いくぜっ!!」
「ひぃええええええええ!!」
ギンさんが気合いの声を上げたかと思うと、両手の先から炎の玉が出現する。
ソフトボール程度の大きさのその二つの炎は湯の中で燃え盛り、一気に湯船の温度を上げていく。
46℃……48℃……50℃……。
上昇するお湯の温度に揉まれて、身体の表面温度が、体温が上がっていく。
「まだまだぁあああああああ!!」
「ぐぅうううううう!!」
ギンさんの熱量と共に炎は一層勢いを増し、大気が揺れ、世界が振動しているような錯覚に襲われる。
見れば、ギンさんの身体が赤く発光し、薄らと炎を纏っていた。
52℃……54℃……56℃……
――熱い、身体が焼けそうだ。
心臓が早鐘を打ち、意識がぼうっと浮かび上がる。
これ以上は、ヤバい。
「だあああああっ! 死ぬぅうううう!」
俺はそのまま湯船から飛び出し、床に倒れ込む。
――ヤバすぎる、マジで三途の川が見えた気がする。
「だっはっはっは! 今回は十四秒だな! ミクルよ! また少し成長したじゃねえか!」
朧げな意識で声の方を見やれば、魔法を解除したギンさんが仁王立ちになっていた。
十四秒。確か前回は十二秒だったから二秒更新したわけだ。
「はは……は……。俺だってちょっとは強くなってるんですよ」
大の字になった格好で、床に張り付いたまま声を振り絞る。
ああ、タイルが冷たくて気持ち良い……。
「おうよ! その調子でがんがん強くなっていけ! だっはっはっはっ!」
火照った身体は真っ赤になり、落ち着くまでにしばらくかかりそうだ。
まあ、やり方は多少乱暴だが、これもギンさんなりの激励なのだろう。
気持ちは凄く有り難い、けれど。
なんか、最近こんなんばっかだな俺……。
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