お登勢

@HAKUJYA

お登勢

夜中にひいぃと切れ上がった女の声が聞こえた気がして

お芳は布団の上に起き上がった。

気のせいだったのだろうか?と、思うより先に

二つ向こうのお登勢の部屋あたりの襖が

やや、荒げにあわてて開け放たれ

廊下を忍び走る人の気配を感じた。

「え?」

お登勢に悪さをしようと、店の誰かが忍び込んだのかもしれない。

だが、お登勢は、八つの歳で此処に来たときから「おし」だったのだ。

と、なると、お芳がさっき目を覚まされた悲鳴はなんだったのだろう?

かすかな、疑問を感じながら

とにかく、お登勢の様子をみにいかなければ・・。

と、お芳は隣に寝ているはずの亭主の剛三朗をおこそうとした。

だが、

剛三郎は「寄り合いで遅くなる。お芳は先に寝ていなさい」

と、言ったとおり、まだ、帰ってきてはいなかった。

羽織を寝巻きの上にかぶると、お芳は手燭に火をつけ、

ゆっくりと、お登勢の部屋に歩んでいった。

お芳の胸の中は複雑である。

お登勢はおしである。

此処に来たそも、最初から

お登勢は口がきけなかった。

お登勢が口が利けなくなった訳をかんがえても、

お登勢の身の上におきたことが、

未遂である事をいのるのであるが、

なによりも、

お芳がわざわざ、お登勢の部屋を夫婦の寝間の横に

整えてやったことが

何の功も奏さない事に悄然としているのである。

お登勢は口が利けない分を其の目でおぎなおうとするのか、

随分気働きの出来る、利発な子供だった。

手先も器用なのをみてとると、

お芳は早いうちにお登勢に仕立物を教え込んだ。

思ったとおり、縫い物の腕は見る間に上達し

今ではこの呉服屋の大事な針子になっていた。

口がきけないのでは、

不便だろうとお芳は文字も教えた。

これも、飲み込みが早かった。

もちろん、お登勢にすれば自分の意志を伝える

唯一の手段であると、必死だったせいでしかないのだが。

気性は大人しい。

口が利けないことがお登勢に、

一歩引いて相手の様子を伺うくせをつけた。

ゆえに気働きにちょうじたのであるが、

お芳はお登勢の縫い物の腕も、

性分も聡さも、不幸な生い立ちもふくめて、

お登勢を可愛がっていた。

お登勢が年頃になると、

何よりも其の可憐な顔立ちに

お芳は不安をいだいた。

男衆をうたがうわけではないが、

口の利けないお登勢を

手籠めにすることなぞ、

簡単なことであろう。

そう考えた、

お芳はお登勢を自分の寝間にちかい、

二つ向こうの部屋にすまわせたのである。

それでも・・・。

なにかあったら、

お登勢は身寄りが無い。

ここで、赤子をうむしかなくなる。

店の中の醜態を隠せる事もなく、

風聞がひろがる。

これも、お芳が懸念したことである。

だが、お登勢の綺麗なこと。

手代の常吉が、お登勢に話しかけるとき

うっすらとほほをそめているのも、

丁稚の重吉が店先にでた、お登勢を

ちらりちらりと、

盗み見ているのも知っている。

そんな妙な態度をとるのは常吉や重吉ばかりではない。

こんなこともあったから、

お芳はいつか、お登勢の身の上に

なにかあるだろうと、

思ってもいた。

お登勢が此処に来る事になった境遇を思うと

それは、

お登勢にとって、

地獄のような試練であろう。

できれば、

ごく普通に所帯をもってほしいと願うのは、

とうぜんのことであるが、

お登勢は口がきけない。

いくら、綺麗でも、

いくら、気立てがよくても、

いくら、縫い物ができても、

いくら、賢くても、

口の利けない娘を

嫁に出してやる相手を

探す事はお芳にはできなかった。

だから・・・。

くるべきことがきてしまったのであり、

無事であろうが、なかろうが、

それを確認しに行く事は

くるべき時を迎えるしかなくなった

お登勢が始まった事をしることでしかなくなり、

寝間の横にお登勢の部屋をしつらえたことなど、

なんのまじないにもならないことだというのである。

そっと、お登勢の部屋の前にたち、

お芳はお登勢に声をかけた。

「お登勢・・・なにかあったのかえ?

はいるよ」

いいしなに、お芳はふすまをあける。

ろうそくの火の中にお登勢がうかぶ。

布団の上にすわりこみ、前あわせをかきいだき、

お登勢はお芳をみつめあげた。

どうやら、

お登勢は無事のようである。

お登勢はふるえながら、

お芳が部屋に入ってくるのを待った。

「お登勢?だれかがきたんだね?」

お登勢の首がうなづかれると同時に

お登勢の口から

「おかみさ・・・ん」

言葉がもれだしていた。

「おやあ?あんた・・・?」

お登勢が部屋に忍び込んだ男に抗うためには、

なによりも、

ふたつむこうの部屋のお芳に

異変を知らせる以外手立てがなかったのである。

「くちがきけるようになってるじゃないか?」

今度はお登勢はこくりとうなづいた。

今までのように

文字で説明する必要もなくなったお登勢であるが、

十年近く言葉を発さなかった口は

流暢な言葉を忘れているようであった。

「もっけのさいわいってとこかねえ」

お芳はわらってみせたが、

其の心の底に

お登勢が声を発する事が出来るようになった、

恐怖と、

声が出なくなった恐怖が

同じようなものであった事を思うのである。

お登勢をここにつれてきた清次郎は本来女衒であったが、

女衒の清次郎が

お登勢を此処につれてこなければならなかったわけを

語った。

そのお登勢の境遇が、お登勢の声をうばったのだ。

お登勢の声をうばった恐怖が

ふたたび、

お登勢の声を取り戻させるとは、

清次郎も思ってもみなかったであろう。

お芳はお登勢の無事を尋ねなおすと

十年近く前の

清次郎の話を思いなおしていたのである。



お登勢を呉服商の木蔦屋につれていったのは、

清次郎であるが、

故郷の姉川で、戦があったころ、

清次郎はみちのくにでむいていた。

女衒などいってはみるが、

清次郎は下っ端の下っ端もいいところである。

一筋になった女衒なら、

名代の売れっ子女郎を右から左に

おきかえるだけで、銭をかせげるのであるが、

清次郎はそうもいかない。

と、なれば、芽の出そうな女をあちこちに

うりにいくことで、名を売ってゆく事しかない。

清次郎がみちのくにでむいたのも、

女郎屋にたたきうる、女童を物色しにきたのである。

ところが、めぼしい顔立ちの女童といきあたらない。

しかたがないから、しょばをかえるかと

まだ、北にあがろうかという道中であった。

似たような男をかぎとるのは、お互いが放つ

臭気のせいであるかもしれないが、

むこうは、ぎゃくに、南にむかっていた。

「血原にいくといい」

駆け出しの女衒は同類に伝えられた

その場所におもいあたらなかった。

「血原?」

「姉川の・・・姉原のことだ」

清次郎は此処で、初めてふるさとの

姉原が戦にまきこまれ、

戦いの舞台になってしまったことを知った。

「なんだと?」

なぜ、姉原が、「血原」と、よばれるのだ?

浮かび上がってくる想像は

清次郎の背骨をきしませ、

ひやりとした汗をふきださせてくる。

四年も前に百姓を嫌って姉原をとびだした、

清次郎である。

女衒の端くれ。

人買などになっても、故郷に戻る事はあるまいと、

決めていた清次郎である。

「まて、詳しい事をきかせてくれ」

清次郎は男の後をおいはじめていた。

水無月の末日。

姉川の合戦は終焉をむかえた。

姉川、姉原の一帯には、壱万人以上の死者がでたというが、

男には事実はわからない。

ただ、

其の辺りが姉川と呼ばれるに至った河の話である。

「姉川の水がの・・・。真っ赤にそまったそうじゃ」

琵琶の湖に流れ込む水は湖水を赤く染め

赤い流れに揺らめきながら、

幾百もの死体が湖にながれついた。

「田んぼもの、死体がごろごろ、しておるそうじゃ。

稲もの、血をすうて、赤い米ができるじゃろうといわれておる」

村人は手をあわせ、土を堀り、死人を弔ってやっていたが、

「姉川の上のほうからも、まだ死体がながれてきおる。

この暑さじゃ。むごいほどにくさいに、

水をすうて、腐乱しおる。気味がわるうて、

よう、ひろいあげてやれん死体が、琵琶の湖にながれこんでいるそうじゃ」

それで・・・。

それで・・・。

血原か・・・。

今頃は青々とした稲が姉原を

しきつめているはずであったろうに、

戦いに踏みにじられ、

忌まわしい血を吸いて、

稲が足をつけた土地は血原と呼ばれるようになった。

「村人は無事なのか?」

清次郎が一番聞きたかったことである。

男はあざ笑うかのように清次郎に答えた。

「どの村のことをきいている?」

男にわかるわけはないのであるが、

戦いに巻き込まれただろう村は

ひとつやふたつではない。

それ程に広範囲が合戦の舞台になったという事だけを

聞き及んでいた。

男の答えに清次郎は

両親の安否を自分で確かめに行くしかないと

判った。

血原にいけば、女童を買える。

男がくれた知らせは

清次郎を震えさせていた。

父母をなくした、孤児がいるといういみか?

それは、村が合戦にのみこまれたという意味でもあるのか?

それとも、

田畑の惨状をいうのか?

くいつなげないほどに、田畑があらされ、

村人は子を売るしかないと覚悟をきめたということか?

「まさか・・・。この俺が・・・」

清次郎のつぶやきを男は黙って聞き流した。

「この俺に、村の女童をうりはらえというのか?」

なにか、委細があると飲み込んだ男は

口を開いた。

「それで、女童も村人もたすかるということだ」

確かにそうだろう。

清次郎も今までそういって、

女童を買ってきた。

わずかの銭で女童の父母は窮地を乗り越えられる。

女童もひもじい思いをせずに

きれいなべべを着て生きてゆける。

ちょいと、いっときの苦痛をこらえれば、

男は

女童が安楽に暮らせる銭を渡してくれるありがたい神様のようなものだ。

おまけをいえば、この神様ははいて捨てるほど

わいてでてくる。

だが、勝手なものだ。

わがふるさとの女童を女郎屋にたたきうらなければならないなどと、

かんがえたくもないことである。

そんな不幸は、ふるさとの村人のだれひとりも

おっていてほしくない。

清次郎の父母はもとより、

村人の誰一人も不幸になっていないように、

村が戦火にまきこまれていないように。

祈る気持で歩きとおした、清次郎が

姉川の地ににたどり着いたとき、

清次郎はこっそりと、村の最初の家を訪ねようと決めていた。

そこには、幼馴染の晋吉が住んでいる。

晋吉の無事も確かめたかった。

今更、あわせる顔も無い父母の無事も

晋吉に問い合わせる事にしたかった。

晋吉は清次郎より、

三っつほど年が上だった。

清次郎が百姓を嫌って父母を困らせていたにくらべ、

晋吉は二十になる前に所帯をもった。

清次郎が村を飛び出した頃には、

確か、晋吉の子供も六才を数えていたように思う。

まっとうに

お天燈さまの下を歩けないような自分に比べ、

晋吉は女房子供、父母のために

野良に畑に田んぼにと勢をだしていただろう。

なにかあるなら、親さまをすててゆくような、

俺にあるべきで、

晋吉は無事でなければならない。

幼馴染の無事を願いながら、

晋吉の無事はまた、父母の無事に通じると思いながら、

姉川の姉原に踏み入る清次郎の胸に

不安は募る。

姉原にちかづくにつれ、

異臭が漂い始めてくる。

地に吸われた血が

夏の蒸し暑さに

地べたから、蒸れにおう。

そんな感じだった。清次郎の不安はぞんがいで、晋吉は無事であり、

晋吉の口から、父母の無事も知った。

「あいにいってやらねえのか」

晋吉がおずおずときりだしてきた言葉に

清次郎はやはり、首をふるしかなかった。

「そうか」

会いに行くなら、はじめから、自分のところにきて、

両親の無事をたずねはしないだろう。

「で、今はなにをして、くらしている。

女房はもらったのか?」

矢継ぎ早に清次郎の身の上をたずねる晋吉の

昔ながらの情がありがたい。

が、

清次郎は悲しく首を振るしかない。

晋吉には、嘘をつけない。

「親をすて、故郷をすて、

あげく、俺は人買いをやってるよ。

こんな人間に女房なんか、

来は、しねえ」

「そうか・・・・」

それでも、両親のことが、気になって無事を確かめに来た

清次郎である。

「ならば、お前が来た事だけは、はなしてもいいか」

清次郎がみせた、せめてもの親孝行であり、

清次郎の父母も息子がいきていることだけはしりたくもあろう。

「ばかをいうな」

「そうか」

心に負い目をもった男は父母の無事さえわかれば、

そっと、村をたちさってゆくきのようである。

「それよりも・・・」

清次郎は晋吉のこの先の暮らしぶりがきになった。

「お前がとこの田んぼは・・」

清次郎はここにくるまで、田畑をみつめながら、

あゆんできた。

どこの田んぼも合戦の跡をとどめていた。

「ああ。逃げ惑う武者をおいこんで、たんぼも、むちゃくちゃにされてしもうた」

実りは期待できない。

そうなると、

晋吉の暮らしはこの先どうなるのであろう。

土間の向こうに子供が四人。

父親の元にやってきた客人を

ちらちらと盗み見ている。

よそ者とおもっているから、いっそうめずらしいのだろうが、

晋吉の長男、晋太だけは、

清次郎を思い出そうと、じっと、清次郎をみつめていた。

「いつのまにやら、四人もこどもができていたんだの」

二人目の子供が、誕生をむかえるころに村を出たようなきがする。

「いや・・・」

晋吉は首をふった。

「いや、わしがの子は三人じゃ。ひとりは、あずかっておる子じゃ。おぼえておるか?

佐久左衛門がとこのお登勢じゃ」

「ああ、童ながら、器量の良い子じゃったな。おぼえておる・・・」

清次郎の言葉が途切れた。

そして、疑問を解く言葉をなげかけながら、

清次郎はいやな予感を覚えていた。

「じゃが、なんで、佐久左衛門のところのお登勢を・・・」

あずかっているのだ。

人の子をやしなえるほどに、裕福な暮らしができないのが、

百姓である。

作のよしあしでわが子までいつなんどき手放せば成らないか、判らないのが百姓である。

「佐久左はの、落ち武者をかくもうてしもうてな。追っ手が、かくもうたことに

腹をたてたのだ。落ち武者を切り殺しただけであきたらず、佐久左を切り殺して、お重さんを・・・」

追っ手は身重だった女房のお重を犯すと、その腹に刀をつらぬいた。

お重は無論、腹の子も絶命。

腹の子も四月にはいる頃だったという。

「それをな、縁の下に隠れたお登勢がみていたんだろう。

晋太がお登勢をみつけて、縁の下からひきずりだしてくれたんじゃ。

それから、ここで、お登勢をあずかっておるが、

かわいそうに、お登勢はおそろしゅうて、たまらんかったのじゃろう。

口がきけんようになってしもうておる」

「なんと・・・」

だが、

七、八の子供の身におきた不幸に手を貸してやるどころではない。

「わが子はむろん、お登勢までを食わしてやってゆけそうにも無いに・・」

晋吉が弱音を吐いたのは、訳がある。

「清次郎。おまえ、人買いじゃというたの」

お登勢の父親である佐久左衛門は、

十年ほど前に姉川に入ってきた

いわば新参者である。

当時、まだまだ、開墾が進んでない

山の際の田んぼをあてがいぶちに

異種の血を入れてゆこうとする

百姓の知恵があった。

同じ血筋の婚姻が時に

奇形や病弱を継ぐ。

これを怖れる百姓の知恵は

異族の血を入れることに頼った。

が、実際、この地にきた者の多くは妻子を伴っていた。

次の世代で血がかわるということであるが、

この土地にねづいてくれるが良しであるし、

間違いなく根付いてくれた上で

其の子どもの代で血がかわるもよしである。

そんななか、

独り身の男は佐久左衛門だけであった。

だから、佐久左衛門の妻はこの村の者でなかった。

これが、先に言うように

一代なりと、村に根付けば、娘達も安心して

嫁しこす気になるであろうという読みのとおり、

どこの馬の骨ともわからぬものに

嫁しこす娘も居ない。

だが、

村によびよせておいて、

妻をあたえぬも、おかしなことである。

人身御供というわけでもないが、

寺預かりの捨て子だったお重が

佐久左衛門の妻に差し出されたのである。

その佐久左衛門とお重が死ぬと

お登勢の身寄りはないといっていい。

寺預かりにもどそうにも、

お重を嫁にだすことで、

寺もようやっと肩の荷がおりたとも、

ようやっと、

やっかいものをほうりだせたとも、いう状況である。

そこに、お登勢を戻した所で、

お登勢の身の上が不遇でしかない。

まして、

お登勢はくちがきけなくなっていた。

そんなお登勢をやっかいもののように、寺に戻すに忍びない。

晋吉は情にながされて、そうは想ってみた。

が、実際、

この先、田の実りは無いに等しい。

寺もそれは同じで

寄進なぞあてにできない今。

お登勢を押し付けられる機会を逃れた今、

今更、晋吉の申し出を受ける事は無いだろう。

そして、悪い事に晋吉の現状はお登勢独りをなんとかすればいいと、言うものではなくなっていた。

くちべらし。

其の最たる抜粋は、長男の晋太にも、むけられるものであった。

晋太は十になる。

奉公に出せる子供は晋太くらいだろう。

家の中でもようやっと役にたつようになってきた

晋太をてばなすのは、手足をもぎとられるようであるが、

まだ、年下のほかの役にも立たない弟、妹をさしだしてみたとて、

奉公先での不遇が思いやられる。

いや、それ以前に奉公先が見つかりそうも無い。

晋太の先行きと

お登勢の先行きを考えると、

どこかに奉公にだしてやったほうが、なんぼか、幸せに暮らせるだろうと思える。

ここにいたら、みなで飢え死にすることは、目に見えていた。

清次郎は村を出るときに

結局、お登勢と晋太をつれてゆくことになった。

都に帰った清次郎は

すぐに、晋太の奉公先を探した。

同じ長屋に染物屋に勤める彦次郎がいた。

そのくちききで、

晋太は染物屋に丁稚奉公と、とんとんと話が決まった。

だが、問題はお登勢である。

清次郎の顔が利くところといえば、

女郎屋しかない。

清次郎がひとこと、声をかければ・・。

お登勢は綺麗な顔立ちをしている。

口がきけぬことなど、

身を売るに、なんのさしさわりもないだろう。

だが、そうはいかぬ。

晋吉がどんなおもいで、お登勢と晋太を清次郎に託したか。

これを考えると、

お登勢を岡場所になぞ、うっぱらうわけにはいかない。

上にお登勢の口が利けなくなったわけを考えても、

そんな、むごいことが出来るはずも無い。

「お登勢は眼の前で母親を犯され、そして、殺された」

晋吉はそういった。

お登勢の父親はきっと、

「声をたてるな」

そう言ってお登勢を狭い縁の下におしこんだんだのだろう。

声を立てたら、どうなるか。

お登勢はその答えをまのあたりにし、

その恐怖に声を失ったのだろう。

そのお登勢を女郎屋にたたきうったら、

お登勢はどうなるだろう?

声をうしなうことで、

心を狂わせる事をかろうじて、回避しているといっていい

お登勢だが、

客をとらされるようになるには、

まだ、何年か間があるだろう。

が、

其のとき、お登勢は母親が受けた恐怖を、わが身で味わう事になる。

「余程・・・。女郎屋に・・・」

口の利けない童の引き受け先を探しつかれると

清次郎に嫌な思いが湧く。

その思いを変えたのが、

ほかならぬお登勢であった。

どこにも行く当てが無いお登勢。

やっかいものにしかなれないお登勢。

その自分の居場所をつかむかのように、

お登勢は清次郎のために

こまめによく動いた。

部屋の掃除に食事のしたく。

井戸端のおかみ連中にまざり、洗濯もした。

どうにかして、

やっかいものにならないように、

お登勢は精一杯清次郎の身の回りの世話をし、

自分の事は自分でやりこなしていた。

どうにか、いきてゆく場所をつかみとるしかないと、

必死なお登勢を

女郎屋にうっぱらうことなどできない。

必死なお登勢にまけてはいられぬ。

お登勢を安心して任せられる商家を

探し出すまで、

お登勢の身の上を、口の利けぬことを

ようよう、わかった上で、

引き受けてくれる所をみつけるまで、

俺も弱音をはいちゃいけねえ。

な~に。

よく頑張るお登勢だ。

きっと、みつかる。

お登勢の必死さ。それだけを見ても

この童が奉公にでても、きっと、役に立つ。

清次郎を信じさせるに足りるお登勢であった。

お登勢が清次郎とともに暮らしてゆくために

おかみ連中に混ざり、

井戸端であれこれ、用事をこなしたことが、結果的に

お登勢の行く末を開かせる事になった。

「人買いの清次郎が人売りをしないでいるよ」

くちさがないおかみ連中は

清次郎が売っぱらわない女童の事をとり沙汰に

井戸端の話しにする。

当のお登勢が井戸端に現れれば

鵜の目鷹の目は当然のことになる。

「おやあ?あんた、いくつだい」

「名前はなんていうんだい?」

お登勢はかけられる言葉にはにかむように、

微笑んでうつむく。

人に声をかけられる。

思いをかけてもらえる事を素直に受止めていると、

おかみ連中も直感していた。

その直感で言葉を発さないお登勢が、

「おし」である事にも気がつくと、

途端に

同情と励ましをむける心意気のあついおかみ連中にあいなるわけである。

そして、小さな手で清次郎の着物を洗う。

うじが湧いているような清次郎の家の畳もふきあげる。

「よくやってるよお。あんなろくでもない男のところに

おいといちゃ、かわいそうなくらいだよ」

清次郎めは、あの子をどうするきなんだろうね?

え?

おしなもんだから、買い手がつかないんだよ。

じゃあ、いずれ、どこかに?

そうだよ。うっぱらわれるとしらず、

一生懸命ここで、くらそうとしてるんだよ。

かわいそうに。

いじらしいじゃないか。

どうにか、なんないかねえ?

こんな話がおかみの間でとびかうと、

へたな男より

行動も早く、

おおくのつてと情報をもっているのが、おかみ連中である。

ちょいと、きいてみてくるよ。

中のひとりが、ひょいと、たちあがると、

井戸端をあとにした。

おかみのひとりがでむいた場所が

木蔦屋であり、

次の日に清次郎が朝から

お登勢をつれて話を聞いてもらいに行く事になったのである。

木蔦屋は大きな呉服問屋である。

清次郎ごときが、顔を出せる場所ではないと、

はなから、あきらめていた場所であるから、

当然、清次郎がお登勢のことを

口利きに云っているわけが無い。

だが、そこが、女同士のおかみ連中である。

いまじゃあ、

大店の女将と、うなぎ長屋のおかみ。

その境遇は天と地ほどの差があっても、

「娘の頃に一緒に習い事にいったもんさ」

と、言い出すものが居る。

「昔から、面倒見のいい優しい子だったよ」

昔のよしみできいてきたげたから、

あんた、その子をつれいってみてごらん。

清次郎の返事など聞く気も無く、

いう事だけをいうと、

お登勢の頭をなであげて、

「あんた。利口な子だよ。お芳ちゃんは、面倒見のいい人だから、

あんたが、頑張ってはたらきゃあ、ちゃんと、みてくれるよ」

こんな男の所にいたら、ろくな事になりゃしない。

お登勢にいう必要も無い言葉はしっかり、のみくだすと、

「あんたも、そのほうがいいだろ?」

と、清次郎をねめつけた。

「恩にきるぜ」

清次郎の本心であるが

おかみは

「あはは」

と、わらって、

「あとから、この子になきつくことのないように、

あんたもまっとうな商売をするこったよ」

辛い意見を忘れずにつけたして、

おかみは清次郎に手はずをつたえた。

「刻限にやあ、おくれるんじゃないよ。

お芳ちゃんは、したらない人間には、きびしいからね」

清次郎は振って沸いた良い話に胸をなでおろしながら、

お登勢に言い添えた。

「晋太はな。染物屋に奉公にはいったからな。

呉服問屋なら、ひょっとすると、

たまには晋太の顔くらいは、みれることがあるかもしれねえ。

そしたら、ちっとは、さびしくなかろう?」

お登勢がうんとうなづくのをみると、

清次郎ははっとした。

どんなに、しっかりしていても、

まだ、八っつの子供。

寄る辺のない身の上が一転、また、二転。

知る人もいない、

右も左もわからない都の空の下。

晋太と離れ離れになったこともどんなにか、悲しかった事だろう。

それが、

丁稚同士、顔をあわせることはおろか、口をきくことだって、

できはしないだろうが、

幼馴染の晋太がまた、お登勢の近くに帰ってくる。

それが、お登勢の不安を乗り越えさせている。

「あんちゃんが傍にいるんだね」

お登勢が口をきけたらそういっただろう。

そして、朝。

清次郎は髭をあたり、

こざっぱりした意匠の着物に着替えると、

お登勢をつれて、

木蔦屋にでむいていった。

木蔦屋のお芳というのは、

もともとがこの店の跡取り娘で

婿をもらって、かれこれ、十四、五年たとう。

長屋のおかみがいうように、

確かに面倒見がいいのは事実であるが、

そこは、

商売人である。

下手な同情や甘い情けに流されての面倒なぞはみない。

それをあかしだてるかのような、お登勢とのやり取りがある。

清次郎とお登勢を前にすると

お芳はまず、

「ああ。お育さんから、きいてるよ」

と、清次郎がことわりをのべるのをさえぎった。

そして、

お登勢の前にしゃがみこむと、

お登勢の瞳をじっと、のぞきこんで、

「あんた。いくつだい?」

と、訊ねたのである。

面食らったのは清次郎である。

おかみから、話をきいてると、いうのであれば、

眼の前のお登勢が口をきけないというのは、

承知のはずである。

それを、わざわざ、「いくつだ?」と、たずねるというのは?

さては、お登勢が口をきけぬことは、黙っておいたのかと、

清次郎もあわて、

「年は・・」

と、口ぞえをしようとしたとたんに

お芳にしかられたのである。

「あたしは、この子にきいてんだよ。おまえさんにきいてるんじゃない」

とりつくしまもない切り口上に、清次郎は口ごもりながら

お登勢がおしであることを

つたえようとしていたが、

お登勢は左の手の平を出し、右の指三本をそえて、

八っつであることを、お芳にしめしてみせていた。

「ふ~~ん。いい子だねえ。清次郎さんだっけ。

あたしはね、この子が気にいったよ」

お芳のはきはきとした、物言いは一人娘で育ち、云いたい放題が許された境遇のせいかもしれない。

「なにがいいといったってね。この子は口がきけないんだろう?

でも、ものおじしないね。そこがいい」

お芳はちゃんとお登勢が口を利けない事を知っていた。

「そしてね。この子は頭がいい。頭がいいってのはね、

自分が物がわかる事じゃないんだよ。

相手に判らせることが出来ることが頭がいいというんだ」

口の利けないお登勢に年を尋ねてくれたお芳に

なんとか、わかってもらおうと手を出して

数を表して見せたお登勢である。

「そして、この子は人の気持に応えようとする。

自分より先に相手の気持を考える」

お芳はほうと、ため息をつくと、

「清次郎さん。この子はこんなに小さいのに、

余程厳しく育てられたか、余程、辛い目にあってるとあたしにはそうみえる」

お登勢の前を立ち上がると、

「どちらにしても、女衒のおまえさんが、この子と縁をもつということがすでに、この子の不遇をかたってるとおもうけど、

なのに、物怖じや畏れを見せずにちゃんと、あたしの問いにこたえてくれる。あたしはね、そうやって、ひたむきにいきてゆこうとする人間の事には、いくらでも、助きをしてあげたいとおもう。

どうだろうね。

あたしのほうから、この子を預からせてもらえないかと

いわせてもらいたいんだけどね」

清次郎は、お登勢の性分をみぬき、それを大切にしたいといってくれるお芳の言葉に胸をつまらせ、

でてこぬ言葉の変わりに両手をあわせお芳を拝んだ。

「いやだねえ。あたしは観音様じゃないんだよ」

笑ったまま、お芳は、

「じゃあ、今度はおまえさんからの話をきこう」

云いたい事をいうと、ずいと、身をひいて、

聞き役にまわるという。

清次郎はお登勢が口が利けなくなった身の上話しだけは、

きちんと告げておこうと想った。

女衒の清次郎からお登勢をあずかって、

それから、もう十年が過ぎたのだと、お芳は思いなおしている。

清次郎があの時伝えてきたお登勢の身に起きた事を

今更のごとくに思い起こすお芳である。

「お登勢は眼の前で父親を殺された。

だけじゃあない、身重だった母親は

手篭めにされ、刀を腹につらぬかれちまったんだ。

お登勢はそれを一部始終みていたにちがいねえ。

そして、お登勢は口がきけなくなった」

口がきけなくなったのか

口をきかなくなったのか、

いずれにせよ、ななつや、やっつの子供が

みる惨状じゃあない。

よくも、まあ、それでも、この子は・・・。

『強い子だねえ。それでも、必死で

いきてゆこうとしてるんだねえ』

お芳のためしに、お登勢は十分に応えて見せている。

『狂っちまっても、おかしくない。

なのに、一生懸命人を信じてるよ』

で、なければ、

女衒の清次郎がこの子を女郎屋に売らずに置くわけがない。

綺麗な顔立ち。

口がきけないのなんて、別にどうってことない世界に

この子をうりとばせないのは、

この子の性分がさせることだろう。

人の心をふみつけにして、

人を売るのが、女衒であるのに・・。

「清次郎さん。よくぞ。あたしをたよってきてくだすった」

お登勢がまっとうな道を歩むことをお芳に託そうと、

してくれた、清次郎に応えるとともに、

お登勢の生き筋を導いてやると決めた。

それからのお芳はことあるごとに、

お登勢のためになることは、

すべて、おしえていった。

お登勢にはいろはも教えた。

お登勢は飲み込みもはやいばかりでなく、

文字も流暢にかいた。

数をおしえてゆけば、帳場に使えるかもしれないと、

そろばんもおしえた。

反物のめききもいい。

お芳のきがつかなかった、織傷をみつけて、

お登勢が首を振って見せたことがある。

「この子はかんがいい」

そうなれば、欲もでる、

針をもたせてみれば、丁寧な仕事をする。

いつのまにやら、

お登勢をよびつけては、

「どうだい?この生地・・・。

中村のお嬢さんが、新ものがほしいと・・」

お芳がみなまでいわずとも、

お登勢は

中村のお美代さんをおもいうかべるのだろう。

生地がお美代にあうと、思うと

お登勢は帯を持ち出してくる。

生地の柄を映えすぎさせず、

帯にみおとりもせず、

「ああ、お嬢さんににあいそうだねえ」

そして、実際、お嬢さんに来て頂いて

あわせてみれば、

お嬢さんもおきにいりになるということが、

たびかさなると、

目利きにも縫いにも、帳場にも使えると

お登勢の存在はお芳になくてはならぬものになってきた。

そんな十年だったのであるが、

とうとう、お芳が、心配していた事が

おきてしまったのである。

幸い、事件は未遂で、

お登勢の声が戻ると言う

駒がついた。

「そうだ。お登勢、誰かわからないなら、

お前。まだ、口をきけないふりをしておいで・・」

お登勢の部屋に忍び込んだ男は

お登勢の声であわててにげだしているが、

結局

お登勢はやはり口が利けないのだと、わかれば、

もう一度、

わるさをしに、忍び込んでくるかもしれない。

「そこを、ふんづかまえて・・・」

お芳の名案は

お登勢の顔を曇らせるだけだった。

「女将さん。あたしは、怖いです。

ちゃんと、口がきけるようになったと、

わかったほうが、もう、こないんじゃないでしょうか?」

そうかもしれない。

「誰の仕業だか、わかんないのも困ったことだけど、

お登勢が、そういうんなら・・・」

お芳は何の疑念もいだかず、

お登勢の言葉をうけとめた。

が、このとき

お芳はお登勢を手放してゆかなければならなくなる

事態がはじまっていたのである。

「まあ、お登勢にはそのほうがいいだろうね」

とは、いってはみたものの、

お芳は癪にさわってしょうがない。

だいたいこんなことがあっては、いけないと、

わざわざ、お登勢を近くの部屋にすまわせたのである。

それでも、このていたらくなのであるから、

いかにお登勢が綺麗なおなごかということになってくるのであるが、

いかに綺麗であるから、

男衆が妙な気を起こすのもわからないではない。

わからなくもないが、

女将自らがわざわざ守りをしいたお登勢としりながら、

部屋に忍び込むとは、

これはどういうことであるか。

すなわち、

『あたしをなめてかかってるってことじゃないのかい?』

店の中に不穏分子がいる。

自分の威勢がくつがえされている?

『やはり・・・ほうっておけない』

と、なると、やはり

忍び込んできた男が誰か突き止めなければいけない。

「ねえ。お登勢?本当に誰だったか、わからないのかい?」

お登勢はとたんに、おびえた顔に変わる。

「声をきかなかったかい?」

聞いた後から、お芳は自分の失敗だったと思った。

声を取り戻せたことに上気していたお登勢の頬がすっと、血の気を失ってゆく。

『ああ。いやなことを一緒に思い出してしまうんだ』

お芳はやはり、このことは不問にするが、

お登勢のためには、よいと考えることにした。

せっかく、声を取り戻したお登勢の気持ちを

もう一度浮き立たせるために

お芳はお登勢にひとつの使いを頼むことにした。

「まあ、いいよ。もう、ききゃあしないよ。

それよりも、ほら、あしたにね・・染物の使いにいってくれないかい?」

お芳の言葉にすまなさそうに頭をたれたお登勢の

顔がくっと、もちあがってきた。

染物屋には、お登勢の同郷の晋太という男がいる。

その晋太にお登勢の口がきけるようになったことを、

しらせることができるということである。

「あ?女将さん?いいんですか?」

お芳の目論見を聡く見抜くと

お登勢はやはりうれしそうである。

「ああ。晋太さんもよろこんでくれるだろうよ」

「はい・・」

ずいぶん前に知り合いはいないのか?

そうたずねたとき、

お登勢は「そめもののやのしんたさん」

と、ひらがなでかいてみせた。

今はもう、漢字で晋太とも、染物屋とも

かけるけど、

字をおしえたての頃だと思う。

「ふ~~ん。おまえの親戚になるのかい?」

お芳の問いに

「あんちゃん」

と、書いて見せた。

「おやあ?お兄さんがちかくにいるのかい?」

清次郎からは、そうとはきいていなかったが・・・。

と、首をかしげると、

「ほんとうのあんちゃんじゃないけど、

あんちゃん」

と、かいてよこしたから、

お登勢が、兄のように慕ってるということだけが、

理解できた。

用事にかこつけて、

染物屋にいけば、いやでも、晋太の耳にも

木蔦屋のおし娘の口がきけるようになったと

うわさはなしがはいろうし、

うまくいけば、晋太がちかくにいれば、

お登勢が使い事をしゃべるところを見るかもしれない。

「ああ、あんちゃん、びっくりするだろうなあ」

独り言が声になるのに、自分で驚いて

狐につままれたような顔をするお登勢に

大笑いさせられながら

「まあ、明日、一番にいくといいよ」

と、いいおいて、お芳は自分の部屋に戻ろうとした。

その耳に

夫の声が聞こえてきた。

「おい?だれもおきていないのかい?

あけてくれないかねえ・・・」

どんどんと戸をたたく音が聞こえる。

「おやあ。ご機嫌のようだ・・」

いささか、酩酊したか?

酒気を帯びた声が軽く呂律を崩している。

「先に寝ておいていい・・・なんて、いってたくせに、

結局はこうなるんだから・・・」

誰かが閂をはずしてやらなきゃあ、

家の中にはいれないんだから、

先に寝ることなんか本当には出来はすまい。

それでも、体をやすめておけばいいと

声をかけるのが、婿養子のならいなのか、

ほんらいもっての優しさなのかは、わからないが、

「お~~~い。はやく、いれてくれえええ」

亭主の声がおおきくなってくるようで、

お芳はあわてて、玄関に向かっていった。

剛三郎を二人の寝間にむかえいれると、

お芳の話は

剛三郎の寄り合いの中身など

頓着することもなく、さっき起きたお登勢の事件になる。

「なにが、腹がたつといったって、

おまえさんの留守をねらって、

お登勢に悪さをしようなんて、

まあ、悪人の風上にもおけないよ」

悪人に風上と風下があるとは知らなかったと

剛三郎は

笑いながら、

「その様子じゃ、お登勢はぶじだということだな」

と、洞察が鋭い。

お登勢が無事でなければ、お芳も

お登勢の心痛を思って、忍び入った男のことばかりなぞに

怒り狂っていられまい。

「ああ。そうなんだよ。お登勢は無事なんだ。

そうだよ、お前さん。

おかげでといっちゃあなんだけど、お登勢はしゃべれるようになったんだよ」

「ほう!!」

と、声を上げた剛三郎にもうれしい知らせということであろう。

「まあ、人間万事が塞翁が馬。なにがあるか、わかりゃしないけど、

ま、こんなこともあるんだよねえ」

だからといって、

男の事に腹が立つのはおさまらない。

「無事だから良かった。って、いいたいけどね。

誰だか、わかりゃしないことをいいことに、

黙って口をぬぐっていられるのかと、思うと胸糞が悪くて・・」

お芳がしゃべりだしたら、剛三郎はいつも聞き役に回る。

お芳の鬱憤のぶちまけどころは剛三郎であり、

お芳が肩身をおかずに剛三郎には甘えられるというところであろう。

お芳の憤怒を聞きながら、剛三郎は事件の中身を類推し、理解してゆくのである。

「と、いうことは?お登勢にもわからないのかい?」

「どうだろうねえ?お登勢はわかっているのかもしれない。

だけど、おそろしくて、誰かということができないのかもしれない」

「ああ・・」

剛三郎もお登勢の身の上は承知のことである。

「俺はな。男に忍び込まれることより以前に

お登勢が男と女のことを一生恐れて暮らしていくことのほうが

重大な問題だとおもってたんだよ」

だから、

と、剛三郎はお芳を引き寄せた。

「おまえさん。やめておくれよ。まだ、お登勢はおきてるよ」

軽い酩酊が剛三郎の抱く気をあおるのは、

いつものことであるが、

「なに、かまいやしねえ」

と、いう剛三郎のいつもに、お登勢がおきてるだろうと、抗って見せたが、

「なあ、だから、いいんだよ」

と、剛三郎が言う。

「どういうことだよ?」

お登勢にお芳の甘声をきかせてやるのが、

剛三郎の酔狂な趣向で、あるというのだろうか?

「なあ、しってのとおり、お登勢は目にお前でおふくろさんを犯され

殺され・・・。

だから、きっとな、男と女のことはおそろしくて、しかたがないだろうと、

俺はおもってるんだ。

だけどな・・・。

お芳・・・」

寝巻きのすそから手をいれながら、

「男と女のことってのは、おそろしいもんじゃねえよなあ」

と、お芳の身体に尋ねてくる。

剛三郎は感きわまるお芳の声が

お登勢の心のうちの恐ろしさを

解きほぐせるとかんがえていたのである。

剛三郎の目論みはあながち外れていないといっていい。

布団の中にもぐりこんだものの

お登勢の目はさえたままだ。

ねつけないままのお登勢に

お芳と剛三郎の話し声が届いてくる。

何を言ってるかまでは、わかりはしないが、

やがて

お芳の声が話し声とは、異なるものになる。

その声がどういう意味合いのものか

理解するのに、

お登勢もしばし時間をようした。

何度か度重なって

その声を聞くうちに

お登勢もすんなり理解したといっていいだろうか。

「仲がいいんだけど、子供にゃあ、恵まれなかったねえ」

と、他の奉公人がいっていた、

『仲』がこのことなのだとうなづきながら、

お登勢はいっそう不思議に思った。

何よりもお登勢は

男と女のことは恐ろしいと感じていた。

だが、一方で

その男の女のことで

お登勢もこの世に命を得たのである。

だから、

本当に愛し愛されている夫婦の

男女事は

けして、恐ろしいものではないのだと、

判り始めていた。

それを理解させたのが、

剛三郎の目論んだとおり

「お芳の甘声」であった。

妙にそそられたなぞということではない。

『あの、勝気で、男勝りの女将さんが・・・』

こらえきれない声を上げて

剛三郎にすがっている。

普通なら弱みを見せない女将さんであり、

みっともない姿なんか、

けして、みせない。

ちょいと、手に怪我した。

と、いって、血をなめてみせる。

が、

後で、ひどい怪我だとわかるのである。

そんな調子の女将さんがだんな様との

いざなぎ事に我を忘れる。

だから、

男女のことはそうは、恐ろしくないのだと

お登勢に自然とおしえていたのであるが・・・。

そうはいっても。

それは、やはり、愛し愛されたもの同士のことだからである。

お登勢の部屋に忍び込み

悪さをしかけた男は

母を殺した男と同じ。

自分の欲望だけを満足したい。

その後、

お登勢だって極端に考えれば殺されていたかもしれない。

事を成し遂げた男に

口封じのために殺されていた事だってありえたのかもしれない。

ぞっとする思いが

お登勢を包み込み

布団の中にいっそう縮みこんだお登勢の耳に

お芳の甘い声は、

ひどく幸せに聞こえてもいた。

『あたしもいつか、きっと、誰かと一緒になれる日がくるよね?』

もう、おしじゃなくなった自分である。

布団の中でそっと、

「い・ろ・は・に・ほ・へ・と・・・」

文字の手習いのごとく

音を発してみて

お登勢のこの先がいっそう開けだすことを

信じよう。

お登勢はそう考えるようにしようと決めた。


昨日のことがまだ、

癪に障ると朝からぶつぶつ独り言を繰り出しながら

お芳がおきてみれば、

剛三郎はさっさと、おきぬけ、

庭に降り立って

鉢植えの手入れをしている。

「おまえさんったら、あいかわらずだねえ」

剛三郎は四十になったころからだろうか。

盆栽なぞという老人めいた手慰みをはじめたのは、

夫婦の間に子が無いせいでもあろう。

松の鉢植えが一段とおきにいりのようで、

案の定、今日も

眺めて見

すかして見

松のご機嫌伺いがおきぬけの仕事なのだ。

ともに、庭に降り立って俄植木職人の腕前を見つめていたお芳だったが、

ふと・・・。

気がついた。

「あたしったら、昨日の男が屋敷の中のものだとばかり思い込んでいたけど・・・」

ひょっとしたら、屋敷の外から入ってきたのかもしれない。

ちょっと、確かめてこようと

お芳は裏木戸に足を伸ばした。

だが、

お芳が思ったこととは違い

裏木戸には、しっかり鍵がかかっていた。

「やはり・・・・。うちの人間かい?」

裏木戸があいてりゃあ、

なかのものを疑う嫌な気分を味あわずにすむ。

お芳の妙な期待はくじかれた。

だが・・・。

朝露に鮮やかに

土を踏みしめた痕がある。

お芳は剛三郎の元にかけよると、

「おまえさん?あ・・・足跡が・・・」

と、ひょいと剛三郎の足元を見た。

裏木戸から続く足跡が剛三郎にのびているように見える。

「なんだい?おまえさんも裏木戸の錠をみにいったのかねえ?」

剪定に余念がない剛三郎だから、おおきな声でお芳が尋ねる。

「あ?吃驚させるな・・・あん?なんだというんだ」

「やだよ。昨日の男が外から入ってきたならおっかないじゃないか」

そう思って裏木戸の錠をたしかめにいったら、お前さんも

みにいってたんだね?

矢継ぎ早に畳み掛けるお芳に

剛三郎が笑いながら答えた。

「そうだ。おまえになにかあっちゃあいけない」

剛三郎の言葉にお芳は噴出すしかなくなる。

「こんなおばあちゃんのところにやってくる夜這いなんかいるもんかい」

「なになに・・・。すてたもんじゃないさ・・・」

剛三郎は背中ごしにお芳にこたえてみせたのは、

昨日の夜のお芳の様をいうのだろう。

「やだね、朝からなにをいうんだよ」

ちょいと、剛三郎をつねっておいて

お芳は朝飯を食べ終えたら

お登勢に約束したつかいをたのまなきゃと

思い直すと

「おまえさん。妙なことをいってないで、

早く、朝飯をたべてしまおう」

お芳の誘いに

「あとでいく」

と、こたえると、

先にたべてしまうよと

屋敷に上がるお芳をはすかいにみながら

剛三郎はまだ、口の中でつぶやいていた。

「なにが、みょうなことだよ・・・。

たしかにおまえはすてたもんじゃない」

だけど、

もっと、確かに夜這いだって

お登勢みたいに若くて別嬪な娘の方が良いに決まっている。

昨日の夜這いが裏木戸の鍵を閉め忘れた。

いや、

閉める隙が無かったというのが妥当であるが、

鍵を閉めなおしにきたついでに

足跡がのこっちゃいないのも確かめた。

夜露が振る前の乾いた地面には

剛三郎の足跡はのこっちゃあいなかった。

あとは、

お登勢が剛三郎だときがついているか、いないか。

気がついていて

黙っているなら、

お登勢とこの先馴れ合いをもてるということになる。

きがついていないなら・・・。

剛三郎も思いを遂げる策を弄するだけである。

いままで、さんざ、

お芳の甘声をきかせつづけたのも、

いつか・・・お登勢を・・・

こう思ったからだ。

どんどん美しくなるお登勢を

たおってみたいとも

我が物にしたいとおもいつめてしまうのも、

「それもこれも、お登勢が綺麗すぎるからだ」

確かにお芳もすてたもんじゃない。

だが、いったん、火がついた男の

執念というものは、

その火がきえるまでどうしようもないものなのだ。

お芳にやあ、すまないが、

俺にとっても、

お芳にとっても、

お登勢にとっても、万事まるくおさまるように考えている

剛三郎である。

お登勢が

剛三郎を受け入れるだろうと

信じれる男は

「まあ、しあげはごろうじろ」

と、剪定はさみをちょんとならして、庭をあとにした。


頼まれた使いは単に仕上がった染物をとりにいくことだけである。

今までもなんどか、こんな使いはしたことがあるが、

今までのお登勢は店先に入り、会釈をして、笑みをうかべることを忘れずに

番頭さんから、仕上がったものをうけとる。

これだけしか出来なかった。

だが、今日からは違う。

忙しそうに背を見せて働く染物屋の奉公人の丁稚の後ろを黙って通り過ぎることもない。

出掛けにお芳が

「晋太さんとはなしができるといいね。番頭にきいてごらんよ」

と、いってくれたことさえ、今までと違う。

暖簾を潜り抜けたお登勢を見つけると番頭は棚におさめた、頼まれ物に手をのばしかけた。

番頭のその手が止まった。

暖簾をくぐったお登勢がいま、確かに言葉を発していたと思ったからだ。

「おはようございます」

聞き違いか、暖簾をくぐったお登勢の後ろに木蔦屋の女将がいるのかもしれない。

番頭は思い直して、挨拶をかえしたが、

番頭の前に歩み寄ってくるのは、やはり、お登勢ひとりであり、

いつものごとくに柔らかな笑をうかべたお登勢である。

「おはようございます。出来上がった品物を取りにまいりました」

流暢な言葉が目の前にたった娘の口から漏れてきたのだと

判るまで、番頭はお登勢を呆然とみつめつづけていた。

「え?あれ?あ?ああああ。お登勢ちゃん、あんた、しゃべれるようになんなさったかい?」

お登勢は綺麗な娘である。

口がきけたなら、その声もどうだろう?

鈴を振るような声というのが美声の喩えにあるが、

その娘らしい可憐な声音が番頭の耳に届いたのである。

「いやああ、そりゃあ、よかった。よかった」

我がことのように喜ぶと、番頭は棚の品物を振り返った。

棚から引っ張り出した反物をお登勢に渡すその後ろで店先にいた丁稚が突っ立ったまま、

こっちをみているのは、

お登勢がしゃべるのをみて、驚き喜んだ番頭の気持ちとおなじだろう。

「女将さんがずいぶんよろこびなさったろう?」

お登勢を一番可愛がり目をかけているお芳であることは、

誰の目にも明白なことだった。

「はい。たいそう、よろこんでくださっています。・・・・それでも」

お登勢の言葉尻がかすかにくらくなった。

「おや?なにかあったのかい?」

しゃべれるようになればしゃべれるぶんだけ、

言葉の行き違いも生じてくる。

『急にしゃべれるようになったんでしょう?それが急にうまく、言葉なんかつかいこなせないでしょう?気になさらないことです』

番頭は些細な言葉使いの問題なのだろうと、お登勢を慰めるつもりだった。

だが、お登勢が言い出したことこそ、

出掛けにお芳にきいてごらんといわれたことだった。

「私がしゃべれるようになったことを伝えたい人がいるのですが・・・」

店の奥の染め場に続く渡り場をかすかにのぞくお登勢の目つきで、

番頭は伝えたい人がこの染物屋の働き手の誰かだと察しがついた。

奉公人の誰かがお登勢としりあいであるなどということは、奉公人の中から、聞いたことがない。

だが、奉公人が仕事を放り出して、店先に出てきてお登勢と話すという勝手は許されないことだから、お登勢と知り合いだということが、番頭の目に判りにくいことである。

まして、お登勢は口が利けなかった娘なのだから、ことさら、わざわざ、店先にでてきて、話をする必要もない。

と、なると

知り合いだということが判る余地がなかっただけなのか?

それとも、

知り合いというよりも、お登勢と思いを重ねている人間ということなのだろうか?

それならば、こっそり、店を抜けてあって話をすればいいだろう?

ここで、わざわざ、話をする必要はないだろう?

それとも、

しのびあうほどの仲でなく、お登勢がひそかに思いを寄せている相手ということか?

と、なると・・・知り合いともいうか。

この店でお登勢と知り合う人間と言えば、

店先と染め場を自由にゆききする、若?

お登勢が思いを寄せる相手が染物屋の長男徳治であるなら、話はわかりやすい。

たまに店先に出てきた徳治がお登勢に声をかけることもある。

その徳治にお登勢がほのかな、恋心をいだいたと・・・。

番頭は胸の中で勝手なあて推量をしおえると

「お登勢ちゃんがじかにつげたいんだね?だれだろうね?ちょいと、よんできてあげましょう」

推量とおり徳治の名前がお登勢の口からでてくるだろうと番頭はおもいこんでいた。

お登勢の思いが汲まれ、呼んで来てあげると番頭に伝えられると

お登勢の顔のくぐもりが取り払われた。

奉公人が店先で、あうことなぞよほどのことでない限りできることではない。

本来ならば番頭も断りを入れるはずであるが、

そこが、お得意さまである木蔦屋のお登勢のことであり、

お登勢の口が利けるようになったというめでた事である。

「さて?誰なんだろうね?」

肝心の呼びつける相手がわからないのでは話にならないのであるが、

徳治の名前が出てくると思っている番頭は

番頭の分をこえる行いであることなぞきにならない。

ところが、お登勢の口から出てきた名前が番頭の首をかしげさせた。

「あ・・あんちゃんを」

お登勢にとって晋太の呼び名は「あんちゃん」でしかない。

胸の中で、

音にならない喉の奥でお登勢が呼び続けた名前がそのまま、口をついてでた。

お登勢は首をかしげた番頭に「あんちゃん」でわかるはずもないのだと

気がつくと、あわてて、「晋太さんを」と、いいなおそうとした。

が、番頭が首をかしげたのはあんちゃんが誰にあたるのか、わからないということではなかった。

「お登勢ちゃんの?お兄さんがここにいるのかい?」

お登勢の知り合いが此処に居るということさえ初耳で、

これにもいささか、おどろかされた。

もちろん、お登勢の口から、そんなことをきくことなぞ今までは出来なかったのだからとうぜんではあるが、

番頭がいろいろとあて推量をした、その知り合いが兄だというのであるから、

ますます、おどろいた。

「お兄さん?こりゃ、驚いた」

奉公人もお調べがあるわけでもないのにいちいち、どこの誰と親子兄弟だと、名乗りをあげはしない。が、それでも、木蔦屋のお登勢である。この店によく顔をだしていたのだから、

染め場で働く奉公人だって、多少はお登勢を知っている。ならば、「あれが俺の妹だ」と、いいだしそうである。言い出せば仲間内から、番頭の耳にもうわさが入ってきそうである。

それとも、自分の耳にまで届いてないだけなのか?

お登勢が妹であることをだまっていたのは、お登勢の口がきけなかったせいも、

あるかもしれない。

妹の不遇を多くは語りたくなかったせいなのかもしれない。

「え?誰だろう?」

番頭の誤解を解くべきであろうが、お登勢は矢継ぎ早に尋ねられた番頭の問いに

晋太を兄だとおもってもらっているほうが、この先も話をしやすいし、

顔を見ることが出来なくても「兄はげんきですか?」と、たずねることも出来やすいと考え直した。

これが、ただの奉公人同士であれば、

「私事」となるが、兄妹なら、少し違う。

実際、お登勢にとって晋太はあんちゃん以外のなにものでもなく、

あの惨劇のあと、縁の下で震えるお登勢を引っ張り出してくれたときから

お登勢を支えつづけてくれたあんちゃんである。

姉川を遠く離れた都に住むことになったときも

あんちゃんが同じ町の空の下に居ることがどんなに心強かったことであろう。

お芳の口がとがるのを横目に見ながら洸浅寺の盆栽市をのぞいてくると、

外に出た剛三郎はやはり、洸浅寺を通り過ぎた。

染物屋に出向いたお登勢が帰ってくるのをみちぶちでまちうけていても、

不自然に見えないように、剛三郎はしきり腕組をして首をひねり、いかにも、考え事があって

此処にいるわけがある様子を繕っていた。

そうやって、待ってるうちにお登勢が戻ってきて

何か、考え込んでる剛三郎をみつける。

お登勢がどういうだろう。

「だんなさま?こんなところでどうなさりました?」

こういうだろう。

「いや・・・じつは、お芳が・・な・・」

半分も言わないうちにお登勢が身を乗り出してくるに決まっている。

「女将さんがどうなさったんですか?」

お登勢がたずねてきたら、

「実はお登勢のことでもある。きいてみたいことがあるのだが、話がこみいってくるし、通りすがりの人にきかれてもなんだし・・・。

どこか、人の目に触れないところで・・・」

こういって、お登勢を出会い茶屋にでもつれこんで・・・。

男と女の顛末ができあがってしまえば、あとは、なしくずし。

女なんてのは弱いもんだ。

剛三郎の首尾ができあがってきているというのに、

肝心のお登勢がまだ、戻ってこない。

お登勢も昨日の夜這いを剛三郎ときがついているのか、いないのか?

朝みかけたお登勢も剛三郎に対して普段と変わらぬお登勢の振る舞いに見えた。

本当にきがついていないのか。

あるいは、きがついていて、何もかも承知のこと、

つまり、お登勢も剛三郎のてかけになるきでいるのか?

いずれにしろ、いやいやであろうが、応諾の末であろうが、

女なんぞ・・・。

「抱いちまえば、こっちのものよ」

男のうぬぼれが自信になるにたりる、色恋もこなしてきた剛三郎でもある。

お芳のまえでは、抜け目なく婿養子の剛三郎であることに卒がない。

お芳にも剛三郎の挙動に不審すらもたせない。

婿養子でしかないわが身の保身にろうたけた剛三郎が代をついで、十五年。

お芳の商売の上手と老舗の肩書きがあったとはいえ、剛三郎が木蔦屋をささえて要に

なってきた十五年でもある。

「一度くらい、こそこそせずにやってみたってかまわないじゃないか?」

ましてや己の血を残す・・・となれば、

男の本懐といってもいい。

自分の言い分が通せる次期があまりに遅すぎたともいえるかもしれないが、

四十半ばを過ぎ、男としてのこの先を考えれば、

剛三郎の気持ちにうなづけるものがあるはずである。

こう考えれば、いまがちょうどいい時期なのかもしれない。

お登勢もめっきり、女びてきている。

悪い虫に横取りされる前に剛三郎こそがお登勢をもぎとってしまうしかない。

で、あるのに・・・・。

肝心のお登勢がまてど、現れない。

おかしいな?

と、おもいつつも、店に帰ってくるに此処を通るしかないはずであるから、

剛三郎はうでをくんでは、ほどき、お登勢をまつしかなかった。


そのお登勢はといえば、番頭に告げた晋太の名前にかえされたとおりを胸にくりかえしていた。

「晋太は屋移りで店には昼からくるだろう。

この店の裏の橋をわたって、五町もあるけば、甚部衛長屋がある。

その右手の三件目だよ」

「あんちゃんは?」

「ああ。もう二十もすぎるからなあ・・」

いつまでも店子として、住まわせておくわけにも行かない。

もうひとつはこの店の跡継ぎの徳冶の年齢もある。

そろそろ、嫁をもらっても、おかしくない。いや、むしろ、遅いくらいかもしれない。

徳冶夫婦の部屋もいるだろう。

若い衆を通いにきりかえるだけで、部屋があく。

一本になった若い衆から、順に通いにさせて、徳冶の嫁取りにそなえようというところだろう。

と、いうことは、徳冶の嫁取りもちかいのかもしれない・・・。

だが、これも番頭の推量でしかない。

詳しいわけが推量でしかないから、番頭も口を告ぐんで、お登勢のあんちゃんの晋太が今日はここに居ないことだけをはなした。

「ありがとうございます。いってみます」

お登勢が頭を下げるのをみつめながら、

いわれれば、晋太とお登勢ちゃんはどこか似ていると思いなおしていた。

やはり在郷という広範囲で見ればよそ者のお登勢といえど近在の血が混じった姉川の同郷人の顔つきが何とはなしに似ているのはあたりまえのことであろうが、

少なくとも番頭の目には「いわれれば、なるほど、にておる」と、うなづけるものがあった。

あんちゃんはもう、一本立ちになるんだ。

それはあんちゃんが、

もう、いつ所帯を持っても良いという事になるのかもしれない。

いつのまにか、

そんな年齢になっているんだと、

お登勢はふと、ためいきをついた。

男と女。

こんな性を考えてしまうのも、

昨日の事件のせいである。

あんちゃんが一人前の男になるように、

お登勢も

自分が望もうが望むまいが

女である現実を容赦なく叩きつけられた。

自分の性を意識させられることであるならば、

できるなら、

例えば、

きちんと嫁取りの話でも、舞い込むことで

女である自分を見せ付けられたかった。

「ふぅぅ」

小さなため息が出てくるのを

そっと、かみ殺して染物屋の裏の橋を渡りかけると、

「おや?お登勢ちゃん。お使いかい?」

川の中の足場で、染物を洗っていた

徳冶がお登勢に気がついた。

お登勢は橋の上に立ち止まると

「はい。ちょっと、そこまで・・・」

と、徳冶に返した。

お登勢が言葉を返してきたことに

徳治はよほど、おどろいたのだろう。

「え?」

手に持っていた洗い布を

危うく川の流れに浚えられそうになるのを

手繰り寄せると

「お登勢ちゃん?ちょ、ちょ、ちょっと、そこでまっていておくれ」

慌てて足場から川岸に降り立つと

側にいた丁稚に洗い布を押し付け、

お登勢の側に駆け寄ってくるようだった。

そして、

草いきれに蒸す土手を上がり

徳冶はお登勢の傍らに立った。

「お登勢ちゃん・・・?しゃべれるようになんなすったのかい?」

お登勢は、ちょっと不思議な目つきを

していたに違いない。

確かにお登勢が喋れるようになったことは

徳冶を驚かせたかもしれない。

が、店を回って出てくれば良いものを

葛が絡まる土手をわざわざ上がってきてまで、喋るお登勢を確かめることもなかろう?

「あ、いや?聞き違いだったのかな?」

押し黙って、不思議な目で徳治を見ている

お登勢であれば、徳治も空耳だったかと思う。

そろそろ、嫁を貰わないかと、父母が煩くなってきていた。

かねてから、想いを寄せていたお登勢のことを

嫁にもらってもらえまいかと、何度口に出そうかとおもったことだろうか。

だが、

口のきけないお登勢であることを考えると

父母の反対はもとより、

住み慣れた場所から、

染物屋の若女将への変化にお登勢自身が

云といわない気がした。

だが、さっき、お登勢が喋ったきがする。

そうなれば、

徳冶の心配はなくなったといっていい。

お登勢が喋ることができるなら・・・。

徳冶の夢想が空耳をきかせたかと、

かんがえなおすしかないと

思い始める頃に

お登勢が

「ああ、徳冶さん。手をきりなすってる・・」

土手の茅にふれたのだろう、

徳冶の手に細い線が赤い筋を作っていた。

「あ、いや・・。そんなことはどうでもいい・・・。お登勢ちゃん・・・。

喋れるようになんなすったんだねえ」

手の甲をぺろりとなめあげると、

徳冶は確かめた事実が真実であることに

胸が張り裂けるほどの

大きな動悸を感じていた。

だが、

お登勢の用事を邪魔しているときがつくと、

徳治はすんなりと引き下がった。

「お登勢ちゃん。ひきとめてすまなかったね」

「いえ、こちらこそ、徳冶さんの仕事をとめさせてしまいました」

お登勢がぺこりと頭を下げ、歩き出すのを見届けると

徳冶は今度は土手を下らずに

店に入っていった。

店先の暖簾を推して入ってきた客の気配に

番頭は

客が暖簾をくぐるより先に声をかけようとするが、

「いらっしゃ・・」

その声が止まった。

暖簾をくぐった客が若頭・徳冶だったからである。

「おやあ?」

おかしなことである。

若は裏の洗い場にいたはずである。

自分はさっきからここにいるのだから、

裏の洗い場から店先を通った若をみていはしない。

「なんです?土手をあがってきなすったんですか?」

からかったつもりだったが、

徳治はむすりとした顔で

「そうだ」

と、答えた。

「なんで・・・ま・・た?」

訳を問いかけた番頭が気がついた。

さっきお登勢が店を出て行ったばかりである。

さては、お登勢ちゃんが喋れるのにきがつきなすったか?

橋を渡るお登勢に声をかけてみれば、

喋り返すお登勢に

土手を上がってたしかめてみたのではないだろうか?

番頭はそろりと、自分の推量をたしかめることにした。

「ああ、そういえば、お登勢ちゃんがしゃべれるようになんなすってましたよ」

徳冶はいっそう、むっつりとした顔になる。

間違いなくお登勢は喋れるようになっている。

この喜びが

徳冶の顔をいかにかえさせてしまうことだろう。

徳治は必死で苦虫をかみつぶすふりをしようと懸命だったのである。

「そのようだな」

なんだか、そっけない返事に番頭は

さらに、気がついた。

若は間違いなく土手を上がってお登勢の側に行ってお登勢が喋るのをきいている。

そこまでして、

お登勢の側に早く行こうとしたという事はすなわちどういうことであるか?

馬鹿でも判る。

そして、子供の頃からのこの癖。

胸の中に隠し事が有るたび、

妙につっけんどんになる。

こんなときには図星を突いてはいけない。

番頭はきがつかないふりで、

お登勢からのもう一つの意外な知らせを

噂話のように、徳冶に話し始めた。

「お登勢ちゃんのお兄さんってのが、うちの晋太だったんですよ。

びっくりしましたよ。

で、お登勢ちゃんは晋太のところに

喋れるようになったことをしらせにいくってことでしたよ」

甚部衛長屋の右手の三件目。

お登勢はたどり着いたその場所に入って行った。

晋太の背中が見えて

晋太は畳を吹き上げていた。

「あんちゃん」

家の中に人が入り込んだのも気がつかないくらい

一生懸命畳を吹き上げていた晋太の手がとまった。

お登勢はもう一度晋太を呼んでみた。

「あんちゃん」

晋太の顔がゆっくりとねじまげられ、

声をかけてきた相手を確かめる。

晋太を「あんちゃん」と、呼ぶものは

妹と、弟、ふたりしかいない。

声は女の声だ。

妹が・・・?

姉原から、ここまで、でてきたのか?

それは、どういうことだ?

妹も奉公にだされることになったか?

あるいは、両親になにかあったか?

確かめるのを戸惑う「あんちゃん」の声に晋太は

直ぐにはふりかえることができなかった。

だが、もう一度

確かにあんちゃんと呼ばれた。

晋太はそっとふりむいてみた。

「あ?」

そこに居たのはお登勢である。

と、いうことは・・・・?

「お登勢・・しゃべれるようになったんかあ」

「うん・・・」

「あ、あ、よかったなあ」

晋太の気がかりのひとつでもあった

お登勢のおしがなおったのだ。

お登勢はそれを晋太に知らせたくて

わざわざ、でむいてきたのだろう。

「あんちゃんも、一本立ちになんなすったんだあ?」

「あ?うん・・・」

自分のことはどうでも良い。

それよりも・・・。

「お登勢、また、どうして、急に・・・?」

喋れるようになったんだと晋太がたずねた。

「それがね・・・」

それが、一番、晋太に会いたかった理由である。

「ああ・・・。あんちゃん・・。また店にはいらなきゃなんないんだろ?」

ゆっくり喋りたいけれどそうは行かないだろう。

「そうだな。でも、これからは、いつでも、此処にくればいい。

いつでもゆっくり、しゃべれる」

晋太の自由と

お登勢の声の自由が重なり、

話したいことは山ほどある。

「うん。また・・くる・・・」

お登勢の顔色がすこし寂しそうに見えたら、尋ねずには置けない。

「なにか・・・あったんか?」

「うん・・・ちょっとね・・・」

ちょっとじゃない。

怖かった。

怖くて、怖くて・・。

お登勢の顔がつと、下を向いた。

「なんやあ?はなしてみんかい?」

「う・・・」

泣き出したお登勢に晋太は手ぬぐいをにゅとつきだし・・・。

「はなしてしまわなきゃ・・・らちかんぞ」

やっぱり、あんちゃんらしくお登勢をしかりつけた。

お登勢は晋太と一緒に畳をふきあげながら、

ぽつり、ぽつりと、昨日の事をはなしだした。

「で、そいつが誰かわからないのか?」

お登勢の身の上に起きたことが未遂であると判ると

晋太の胸の中に怒りがわきだしてくる。

と、同時にお登勢が声をなくした時を思い出す。

無残な姿のお登勢の父母のことよりも、

お登勢も一緒にころされてしまったのか?

そればかりが気になった。

あたりにお登勢の亡骸はない。

生きている。

どこかに隠れているんだ。

晋太は、土間に寝転がされたお登勢の両親の死骸に

添い寝でもするかのように

横にころがって、

土間の下のすきま・・・。

縁の下に目をこらしてみた。

奥の方に黒い影がある。

「お登勢?」

お登勢、もう、大丈夫だからでてこい。

晋太が声をかけても、お登勢は身じろぎひとつしなかった。

「お登勢?生きてるんじゃろ?」

何度呼んでみてもお登勢は返事もしなければ、

身動きひとつみせない。

「お登勢?」

きっと、この土間の上で起きた惨劇を

お登勢は一つ残らず

みてしまったんだろう。

お登勢はそのむごさに

その恐怖に気をうしなっているのかもしれない。

晋太は縁の下にもぐりこんだ。

お登勢の無事を確かめ

お登勢を日の光の下に呼び戻してやりたかった。

はいつくばって

お登勢の側ににじりよってゆくと、

お登勢はやはり、生きていた。

だが、茫然自失。おどおどと焦点をむすべない瞳が

うすくらい縁の下のなかで、

必死に晋太をみつめようとしていた。

「お登勢・・来い」

お登勢を縁の下から引きずり出すことが先だった。

瞳に力がこもらないように、

お登勢の手にも足にも何の動きが見えない。

晋太は縁の下をいったん抜け出ると

こもを持ってかえってきた。

そこにお登勢の体をねかしこむと、こもを引いて

お登勢を縁の下から

引きずり出すことがようようにできた。

「お登勢。しっかりしろ」

晋太がお登勢をゆすぶってみても、

いつものように

「あんちゃん」

と、晋太をよばないばかりではない。

お登勢は何の言葉も発そうとしなかった。

一時のこととおもっていたのに、

お登勢はそれからも、ずっと、しゃべらなかった。

それでも、

お登勢は晋太の家に身を寄せるしかなくなった

不幸はきちんと、判っていた。

判っていたから、

寄る辺のないお登勢になったとわかっていたからこそ、

お登勢は自分のできる精一杯をつくしてみせてくれた。

小さな手で縄を縫い、

粗朶もひろいにいった。

晋太の家で必死に生きてゆこうとしたお登勢だったのに、

あの合戦の傷跡は一層、膿みだし、

お登勢はおろか、

晋太も、くちべらしの為に奉公にだされた。

それでも、お登勢の持ち前の気丈さだろう、

木蔦屋で、随分、女将に可愛がられ

重宝されていると、きいた。

そんなお登勢だから・・・。

他の誰にも判るまいが・・。

そんなお登勢だから・・・。

喋れなくなるほどに自分を押し殺してきた。

そのお登勢が

晋太の前で泣き出した。

「怖かったよう。怖かったよう」

十年前のあの日。

暗い縁の下から引きずり出されたお登勢が

口に出したかった思いが

ともにふきだしてくるようで、

晋太は唇をかんで、

お登勢に掛ける言葉を捜していた。


「なあ、お登勢」

晋太がいいだしたのは、一つの妙案だと思ったからである。

「何処のどいつかわからないのは、しかたがないとしても・・・」

晋太にはお登勢がしゃべれるようになったくらいで、

お登勢に悪さを仕掛けた男が

大人しく諦めるとはおもえなかった。

「店のものか、外からはいってきたか、いずれにしろ・・・。

夜もゆっくり、ねむることができないばかりか、

店の中の人間をこいつじゃないか?って

疑いながら

怖れながら、

木蔦屋に居るってのが、おまえに一番良くないってきがするんだ。

丁度、俺が一本立ちをした時にこんなことがわかるってのも、

なにかのおひきあわせというかなあ・・・。

だからな、

お登勢。お前、こっから、通い奉公にさせてもらったら・・・どうだ?」

なによりも、誰よりも

お登勢の身の上と

お登勢の心のありようを気に掛けてくれる晋太である。

ありがたいと拝みたくなる晋太の申し出だったが

お登勢は首を振った。

「女将さんへの恩返しひとつもできてないのに、

後足で砂を掛けるように思える」

確かにその通りだろう。

お店のことを考えれば、お登勢が外に出てゆくという事も、

外聞としても、良い噂が立ちはすまい。

「でも、どうにも、ならないようだったら、

もしかして、その男が店の中の誰かだったりしたら、

あんちゃん。

登勢は、あんちゃんとこに、にげてきます」

積年の涙を振り絞ったのか、

先ほどと違ってお登勢の声は明るい。

話させるだけ、話させたことが、功を奏し

お登勢の心を随分かるくしたのだろう。

いつものように、気丈で明るい、お登勢の顔に戻っている。

「おかみさんもきにかけてくれてるし、

此処でにげちゃ・・いけないかな?って」

そうだ。

そうやってお登勢はいつも、頑張ってきたんだ。

「そうだな・・・」

一抹の不安を感じながらも

お登勢が自分で決めたことをみまもってゆくだけだと

晋太は自分に言い聞かせた。

それでも・・・・。

「なんか、あったら、いつでも、あんちゃんとこにくるんだぞ」

それだけは念押ししておきたかった。

ちょっと、と、思っていたのに、随分手間をとってしまって、

女将さんが心配なすっているかもしれないと、

お登勢の足は小走りになる。

あんちゃんが一本立ちになったことも

嬉しい伝えごとになる。

ひとりで暮らせるという事は染物の技を

大方を取得できたからこその自由でもある。

あんちゃんは子供の時から器用でやさしかったから、

染物ひとつにも、丹精こもるものをつくっているに決まっている。

良かった。良かった。と、お登勢の胸の中があたたかくなってくる。

頑張れば、ちゃんと、みてもらえるんだ。

あんちゃんがそう証だてて見せてくれている。

あんちゃんに負けぬよう、お登勢もがんばらにゃあ・・。

胸のうちの喜び事と語り合いながら小走りのお登勢が

洸浅寺に差し掛かると、

「お登勢、おい、ちょっと、お待ち」

声をかけられた。

えっ?と後ろをふりむくと

横の小道から、剛三郎がひょいと顔をだしてきた。

「ああ・・。だんなさま・・・」

整わぬ息をこらえて、お登勢は主人の様子を伺い見る。

そして・・・。

「洸浅寺の植木市ですか?

なんぞ、よいものがございましたか?」

てっきり、盆栽の一つでも持ち帰らされるのだとふんだのである。

「あはは。いや、そうじゃないんだ」

ずいとお登勢にちかよると、

「ちょっと、お登勢に話があってな・・・」

「話?・・わたしにですか?・・だんなさまが?・・・」

なんだろう?

「うむ・・。木蔦屋のこの先のことと、お登勢のことと、

ちょっと、考えてみてほしいことがあるんだが・・・」

剛三郎が仔細に腕を組んでみせると

お登勢はじっとりとかんがえこんでしまっていた。

昨日のことは女将さんから聞かされて周知の剛三郎のはずである。

そうやって、夜這いを掛けられるという事自体、

お登勢もそろそろ、潮時なのかもしれない。

これを機に、嫁にでもいかないか?

こういうことかもしれない。

年頃の娘が居るだけで、夜這いなぞという事件がおきるのであれば、

木蔦屋もぬけている。

長年、店に尽くさせて、嫁にも出してやらず

あげく、夜這いの餌にさせた。

こういわれたら、木蔦屋の風聞にもかかわる。

お登勢が木蔦屋に居ることがよくない状態になっているのだ。

「あの・・・」

あるいは、でてゆけといわれるのだろうか?

それとも、晋太のいうように、通いになれというのだろうか?

そうすれば、本当になにかあっても・・。

お登勢さえ黙っていれば済むことだ。

「うん。お芳とも、はなしあったんだ。

まあ、お芳にはお芳のかんがえがあるようだけど、

私にも、私の考えがある。

どっちにしろ、お登勢にとって、けして、わるい話ではないとおもっているのだが・・・。

お登勢がどう思うか、

云といってくれるか、どうかということなのだが・・・・」

どうやら昨日の夜這いが剛三郎だとさえ思いつかないどころか、

疑う気配さえない、お登勢にも見える。

「判りにくい話なんだが・・・」

と、剛三郎はいよいよ本題に入ってゆく。

「店の中で話すのもなんだし、

お芳と違う考えがあるというのも、

お芳にいうのも、すまなくて、

ここで、お登勢をまっていたんだが・・・」

お芳と違う考えを初めからお芳にいえるわけがないのであるが、

内情を知らないお登勢も

剛三郎の言い分だけを聞けば、

剛三郎の考えも聞かせてもらわなければならないと考えさせられる。

剛三郎の口術でしかないのだが、

「木蔦屋の先のことにもかかわることでもあるし、

こんな人通りのあるところで、

しゃべれるようなことでもない・・・」

と、辺りをみまわして、

「ああ、ちょっと、そこの茶屋の奥の間をかりて・・・。

そこで話をしよう」

と、とんとんと流れをじぶんむきにかえると、

お登勢の不安そうな顔をのぞきこんで、

「いや、なに、そんなに心配することじゃないんだ。

お登勢がこの話を聞いて、嫌だと思ったら、

ことわってくれりゃあいいんだから・・・。

まあ、

話をきいてやっておくれじゃないか?」

そこまで、いわれれば、お登勢もきかざるをえない。

洸浅寺横の茶屋が本来その名の通りの茶屋でないことを

知るわけがないお登勢は剛三郎の言われたとおりに

その奥の間に入ってゆくことになる。

そして、剛三郎は

「嫌だったら・・・ことわってくれりゃあいい」

という口とは裏腹に

断るに断れない事実をこしらえる算段でしかなかった。


お登勢がそんな状況に陥ってるなぞと、

しるわけもないのが、徳冶である。

土手を登って正面から店にはいっていった徳冶は、

番頭の言葉にわずかに、戸惑った。

「お登勢の兄が晋太である」

徳治はお登勢の口が利けるのが事実だとわかった途端に、

すぐさまに

両親に頼みを入れるつもりだった。

「お登勢を嫁にもらいたい。仲人をたててくれまいか」

と。

この話が口先のことでないのを明かすためにも

はっきりと、仲人を立てたほうが良いにきまっている。

そして、木蔦屋に行ってもらわねばならない。

と、考えをめぐらしていた。

ところが、

「お登勢の兄が晋太である」

と、知らされて、徳冶は一瞬戸惑った。

晋太の了承を得るのが先だろうか?・・と。

だが、この場合、仲人といっても、本人同士の気持ちが定まっている、

形だけの仲人ではない。

お登勢との婚儀を仲立ちしてもらう本当の仲人で

ぜがひでも、お登勢の「云」を、貰ってきてもらわねばならない。

その人選こそ、父母に頼むしかないのである。

『晋太には、はっきり、きまってからでよい』

と、徳冶は判断した。

急に兄妹だとわかったこともある。

実際、晋太がお登勢の生活を支えてきてやった名実ともの兄妹ともいいがたい。

そして、

何よりも、晋太は此処の奉公人である。

上と下の身分というには、仰々しいが、

それでも、徒弟師弟の習いもある。

「そうか」

番頭につっけんどんに答えると

徳治は

まず母親の姿を探した。

そして、居間の横の板の間で

染物の図案を起している父親とともに

聞いて欲しいことがあると

徳治の神妙な顔に母お吉はさっするものがあるとみえて、

慌てて、

居間に向かう徳治の後を追ったのである。


茶屋の奥には小部屋が四っつある。

たたきのわたり土間を挟んで、左右に二つずつ

部屋があるが、お登勢と剛三郎のように

やんごとなきひそかな話をかわすか、

洸浅寺参りの九段の石坂に棒になった足を畳の間で

のばしたかったか。

部屋の前のたたきには、足駄がそろえて置かれ

一つ、空いていた部屋に茶屋の婆は二人を通した。

四畳の小さな部屋には、これまた、小さな飯台がおかれ、

茶屋の婆はそこに形だけのしょうが湯をおいて、

剛三郎から、銭をうけとる。

それで、婆の用事は終わる。

あとは、その客が用事を済ませて、

勝手に外に出て行くのを店先の番台で見送るだけである。

「ごゆっくりと」

含みのある言葉を掛けて、

婆が部屋の外に出てゆくと、

お登勢は飯台をはさんで

剛三郎の前に座った。

話を促す糸口がつかめず黙り込む剛三郎に見えた。

お登勢は、自分の推量のものでしかないが、覚悟はついてる。

剛三郎に

「だんなさま・・きかせてください」

と、お登勢がたずねた。

「うん。実はお芳も前々から考えていたことなんだ。

お前の口が利けるようになったからって訳じゃないんだって、

事だけは、わかっていてほしいんだがね」

なんのことか、まだ、良くわからないが

それでもお登勢は「はい」と、うなづいてみせた。

「実は、お芳は、お前に木蔦屋の跡をとってほしいといってるんだ」

「え?」

お登勢にとっては、あまりにも意外な話である。

「つまり・・・。

子供養子にはいってくれまいかということなんだがね・・・」

ああ・・・。

それで・・・。

剛三郎の前置きも意味がわかった。

そして、そのことで剛三郎には剛三郎の考えがある。

女将さんとは意見が違うというのは、そうだろうと、お登勢は思う。

何も、奉公人のお登勢を養子に取らなくても、

女将さんの親戚なり、剛三郎の親戚なり、夫婦にかかわる血筋のものは、他にいるだろう。

「女将さんのお話はありがたいことだと思います。

そんなに、登勢なんかのことを、大事に思ってくだすって・・・」

でも、と、お登勢が断りをいれようとすると、

剛三郎はそうと、察しがついたのだろう、

「いや、わたしも、お芳の考えにこれっぽっちも、依存はないんだよ。

むしろ、私もお登勢なら、願ったり、かなったりとおもっているんだ。

できるなら、お芳の願い通りにお登勢に云といってほしいんだが・・・・」

これからが、剛三郎の本領である。

じわり、じわりと、絡め手でお登勢をとらまえてゆく。

その一手がうたれはじめていた。

「だがね・・・」

と、剛三郎はお芳の意見と違う自分の意見があることを

はっきり、お登勢にかぎとらせようとしていた。

「はい」

聡い娘である。

剛三郎の意見をお登勢自身にかんがえてみてくれないかと、

言われているのだと悟ると

剛三郎の次の言葉をじっと、待っていた。

「おまえを気に入っているのは、お芳同様、私もそうであるんだがね。

だから、なおさら、そうかんがえるんだが・・・。

お前を子供養子に貰って、どこかの男を婿にとって

血筋でもないものに、身代を好き勝手にされるのも、なにか、さみしいものがある」

と、いうことは、お登勢を養子にもらって、

女将さんあるいは、旦那様の血筋のものを婿にいれろと、こういうことであるのか?

でも、それは、本末転倒の気がする。

まず血筋のものを養子にいれ、

お登勢を嫁に貰おうというのなら、話がわからないでもない。

無論、そうだったら嫁に入ってもいいというお登勢ではないが。

「だんなさま・・・。登勢などでなく、誰か血筋の方が縁故にいらっしゃるのではないのでしょうか?」

遠まわしに断りを入れてみたつもりだったが、いってみて、

お登勢も気がついた。

誰か・・・。居るのなら・・・。

お登勢なぞを養子にもらおうなぞと、考えるわけがない。

だが、そうなると、

仮にお登勢が養子にはいったら、

血筋の誰かを婿に取るという考えも成り立たなくなる。

血筋の誰かがいないという事は先程の剛三郎がいったとおりが

あらわしている。

子供がないばかりに、身代を守ることが、

こんなにも、むなしい作業になると、

剛三郎が無言で言っていた。

そんな剛三郎にいらぬことを言ってしまったとお登勢が

気ずつなくおもっていると、

案に相違して

お登勢の言葉に剛三郎はぐっと飯台に身をのりだした。

「そこなんだよ」

「そこ?というのは」

「血筋ということさ」

ますます、話が見えなくなった、お登勢は

剛三郎の次の言葉を待つしかなくなる。

「そこが、お芳と私の意見のちがいなんだがね・・・」

「はあ・・?」

「私はね、さっきも言ったとおり、

お前のことは本当に、きにいっているんだ。

だからね。

なにも、お前に婿を取ってなぞとかんがえなくても、

お前が安じていてくれてるように、

血筋に身代を譲ればいいとおもっているんだ」

剛三郎のいう意味あいが直ぐにわからないほど、

お登勢は剛三郎にとっても

自分にとっても、

二人が男と女であることをこれっぽっちも意識したことはなかった。

だから、

お登勢は剛三郎にやにわに手をとられ、

「お登勢・・・私の子供をうんでくれないか・・・」

と、いわれるまで、

真の意味合いを理解できなかった。

剛三郎に手をとられて、はじめて、

お登勢は剛三郎の真意と、

昨日の夜に、お登勢の寝間に忍び込んだ男が誰だか判った。

えり合せに差し込まれた

ひやりと湿り力仕事をした事のない柔らかな手の感触が、

お登勢の手を包む剛三郎のそれと同じものだった。

なにもかも、つじつまがあってくると、

お登勢は今、自分がとんでもない窮地に立たされていることも

理解できた。

『あの時と・・・同じだ』

お登勢の思うあの時とは、昨日のことなどではない。

姉原の縁の下に潜り込んだ時のことである。

『やりすごすしかない。

じっと、黙って、やり過ごすしかない』

うっかり、叫び声をあげたり、

顔色を変えて、抗って見せたり

下手ないいわけで、剛三郎から、にげようとしたら、

剛三郎はあの時、母を、父を、殺した武者と同じ。

己の感情のたけりのままをぶつけてくる。

だが、

このままでは、

剛三郎の思いのままにされるしかない。

『とにかく、この場を逃れることさえ出来れば・・・』

お登勢の胸にあんちゃんの言葉がよみがえってくる。

何か有ったら、あんちゃんところに来い。

この場さえのがれることができれば、

お登勢には、逃げるところがある。

あん時と同じ。

やっぱり、あんちゃんがお登勢を引きずり出してくれる。

だから・・・。

『どう、すればいい・・・。どう、すればいい・・・』

お登勢の胸にかすかな、痛みが走る。

今はそんな事に拘っている場合ではないが・・・。

お登勢の口がきけなくなったのは、

恐怖のせいばかりでも、

父に声を出すなと言われ、

強く、自分に念じたせいばかりではない。

父の窮地に

母の窮地に

一声も抗うことも出来ず、

止めてくれと

懇願することもせず、

ただ、ただ、己を守り

己をかばい生き延びた自分への責めがある。

その己保身が今、また、

お登勢に小さな痛みを与えていると、きがつかぬまま、

お登勢は今

自分を守りえるための策を労し

普段のお登勢では、

考えもつかない

酸いも辛いもかみわけた

女狐のごとく

したたかな女に代わろうとしている。

だが、今は

その悲しみが

お登勢の胸を刺していると、

問い直している場合ではない。

顔色を変えず、

嫌悪も見せず、

その手を振り払いもせず、

お登勢は

剛三郎の申し出に

「はい」

と、うなづいて見せた。

抗うかと思ったお登勢が

まんざらでもない様子で剛三郎にしなやかな手を

預けている。

こんなことならば、昨日に一騒動おこして、

危ない橋を渡る必要もなかったかと

剛三郎はかすかな、後悔をもたぬでもないが、

もとより、

やはり、お芳の甘声を聞かせた労が功を奏したかと

己の策に甲斐があったと、しんと、己惚れる。

「お登勢・・・。お前、わたしのことを・・・」

憎からずとおもっていてくれたのか?

昨日の夜這いがわたしだと、わかっていたら、

お前はすんなり、わたしのものになってくれていたということか?

「はい・・・。女将さんには・・・。

もうしわけないことですが、ずっと、お慕いしておりました」

嘘である。

嘘でしかない。

だが、お登勢は捕らえられた籠の鳥の振りに徹した。

逃げる鳥を捕まえるのは定法だろうが、

懐く鳥は手の平に乗せ自由にさせるだろう。

『なにか・・・。なにか・・・・。術はないか・・・』

わずかな活路を切り開くために

お登勢は、籠の中であっても、

剛三郎に無理やりに押さえつけられることだけは、

回避しなければならないと

己を押し殺し、心にもない嘘を装った。

「お登勢・・・。こっちへ・・おいで・・」

剛三郎が、お登勢の虚偽かとうたがいもせぬのは、

常日頃のお登勢の生真面目で、実直な振る舞いのせいである。

お登勢が木蔦屋の身代を狙ったりするわけもなく、

ましてや、そのために剛三郎の手に落ちるまねをするような、

欲得づくの女でもない。

ひたむきで、ひかえめで、よく、気がついて、

人の気持ちをよくうけとる。

ただでさえ、かわい気のある気性のお登勢に

ひそかに、

剛三郎を慕っていたと告げられれば、

剛三郎も、いっそう、お登勢がいじらしくなる。

おいでといいながら、剛三郎の方が

お登勢ににじりよってゆくと、

お登勢をその胸にかきいだいた。

『夢をみているんじゃないだろうねえ?』

だが、現にお登勢は剛三郎にしなりと、身体を預けている。

『たなから、ぼたもちというが・・・。

こりゃあ・・・・。

たなから、天女さまだ・・・』

思わぬことの成り行きに

剛三郎のほうが、すっかり、舞い上がっていた。

剛三郎の胸に顔をうずめたお登勢のうしろ髪あたりから、

若い娘らしい、甘い香りがほのりと登り・・・。

剛三郎はお登勢の甘やかな若さにむせかえりながら、

もう一度、しっかりと

腕にお登勢のかきいだきなおし、

お登勢の生身の存在感に酔っていた。

ややすると、

剛三郎はお登勢を胸の中からそっと、離し、

じっと、お登勢を覗き込んだ。

「お登勢・・・いいんだね?」

今から、これから、お登勢とは、男と女になるんだよ。

と、剛三郎は言う。

お登勢はうつむいた。

うつむいたままのお登勢の胸の中は、

一計を探り当てようと必死である。

『どうすればいい。なんと、答えれば、だんなさまは

すんなりと、あきらめてくれるだろうか?』

今日は、遅くなっているから、今度にしましょう。

こんな言葉で、剛三郎に点いた火が消えるとは、思えない。

『だが、このままでは・・・』

頭の中で、恋仲の男と女を描いてみる。

『女が好いた男と肌を合わせたくない、と、断る理由が

すんなり、男に受け入れられる・・・と、したら・・・』

お登勢の考えに出口が見え始めた気がした。

が、時はお登勢が出口にたどり着くのを

のんびり待っていてはくれない。

「お登勢・・・」

剛三郎がお登勢を再びひきよせると、

お登勢の身体をゆっくりと床に傾け落としはじめていた。

「嫌です」

お登勢は思わず、本音を口に乗せてしまった。

乗せた言葉をそのままにするしかない。

「お登勢・・・?」

剛三郎が怪訝な顔になり始めていた。

咄嗟。

「嫌・・」その言葉を逆に肯定するしかなくなった、お登勢が、

咄嗟。と、言うしかない。

断る理由がお登勢の口から勝手についてでた。

「だんなさま・・・。登勢は・・・・障りの最中なのです」

怪訝な顔が俄に崩れると

ああ、なるほどと、得心した笑みが漏れた。

お登勢は瓢箪から駒のごとくの、成り行きのまに、

剛三郎がみせた一瞬のひるみを見逃さなかった。

『この手が通じる・・・』

そこで、そそくさと、立ち上がって逃げようとすれば

剛三郎は聡く、お登勢の嘘とかぎとってしまうだろう。

お登勢はもう一度、身体を起すと

自分から、剛三郎の胸にすがっていった。

そして、

剛三郎の胸の中に居たい女のふりに徹したまま

「だんなさま。登勢のさわりがあけるのに、五日ほどかかりましょう。

その時まで・・・」

『おあづけってことかい?』

剛三郎もいかにも残念であるが、

障りのさなかの房事も、ぞっとしない。

それに、無理やりお登勢をどうにかしなくても

お登勢はもう、剛三郎のもの、同然だった。

だから、

「お登勢のいうようにしよう。

それじゃあ、もう、五、六日したら・・・」

そうだねえ。こんな布団のひとつもないよな、逢引場所でなく・・・。

黒門町の小料理屋の部屋をひとつ、かりて・・・。

ゆっくりと、お登勢を・・・。と、

胸算用の剛三郎に

お登勢はもう一つの駄目押しをだした。

「だんなさま・・・。それに、今日は用事が随分、遅くなってます。

これ以上・・・遅くなって、女将さんに探しにでも来られて、

二人が・・・」

お登勢が、二人という言葉をとめて、二人というのにさえ、いかにも、

嬉さと、恥ずかしさが入り混じるという様でうつむいたが、

「二人のことが、今、あかるみにでては。こまるとおもうのです」

確かにお登勢のいうとおりだ。

お芳には、いずれ、なにもかも、あからさまにしなければ、ならなくなるが、

有無をいわせぬ状況になってからのほうがいい。

つまり、

お登勢がはっきりと、剛三郎の子を宿したときが、いい。

だが、そうなる前に

お登勢との、それもまだ、馴初めても居ないが、

お登勢との仲がお芳に知られたら、

お芳はお登勢を剛三郎から取り上げ、

どこかにやってしまうかもしれない。

「そうだねえ。

蟻の穴からでも水は漏れるという。

今日は・・・。

お登勢の気持ちを知っただけを良しにして、

お登勢は先に帰った方がいいだろう。

今日、二人が会った事も、もちろん、内緒にしておいて、

まだ、お芳の子供養子の話もきいてないことにしておいておくれ」

「はい・・・」

と、うなづいたお登勢を寄せ付けると

剛三郎は襟あわせから手を差し込んで

お登勢の乳房に触れた。

触れた手をそのままにお登勢の口を吸った。

しんなりと剛三郎の手に落ちるお登勢だと判ると

いっそう、

「お登勢・・・。今度の逢瀬がまちどおしいねえ」

剛三郎に身体を預けたまま、

お登勢が喉の奥で云とうなづいたのが

剛三郎に、伝わってきた。

そして、寸刻のちには、お登勢は自由の鳥さながら、

薄暗く、狭い茶屋をぬけだし、

昇りきった日がつくる、自分の影を追いかけながら、

木蔦屋への道を急いだ。

胸に抱いた、海老茶色の風呂敷の中には

染物屋から、託された使いの品がある。

それをぐうと、胸に抱いていないと、

お登勢の胸がつぶれそうに、痛い。

剛三郎に触れられた事よりも、

ねとりと、口を吸われたことよりも、

『女将さん・・・・、なんていうことだろう・・・』

女将さんがあんなに信じ、敬い、大事にしていなさる

だんなさまは・・・・。

女将さんを裏切りなさる。

そして、

そうさせるのがお登勢なのだ。

何も知らせちゃいけない。

剛三郎をして、

この先、

あん時は、ちょっと、魔がさした・・・で、おわる事にするのだ。

そのためにも、

毛ひとつもうたがいもしない、女将さんを崩しちゃいけない。

何もかも、なかった事にしてしまうためにも、

この先にも、何もおこらないためにも、

お登勢は木蔦屋に居ちゃいけない。

出てゆくしかない。

だけど、それは、あまりにも恩知らずに見えるだろう。

出来れば、ずっと側に居て

女将さんに御仕えしたかった。

でも、お登勢こそ火中の栗、

自分が居れば、

いずれ、こずれ、に、

厄災の種。

事態は悪くなるだけ。

だけど・・・。

だけど・・・。

女将さんになんて、いえばいい?

窮地を脱した安堵もつかの間に、

お登勢の胸の中にめまぐるしいほどに

悲しみと憤怒とやり切れない思いとこの先のこと・・・と、

収集がつかない諸々を抱き込んだ胸の底から、

はっきりと顔を出すのは

女将さんとの決別という先行きしかなく、

それも、

剛三郎に追い詰められる前に何とかせねばいけない。

急を要する。

なによりも、

そのことがお登勢に応えた。


店の正面から暖簾を押して、中に入ってゆくのは

お登勢に預かり物があるからだ。

お登勢はいつもと変わらぬ自分に勤めるのだと言い聞かせながら、

帳場に座っているだろうお芳をさがした。

はたして、

お芳は算盤をくりながら、お登勢の帰りを待ちわびていた。

暖簾のゆれを目で追うお芳がさまにお登勢をみつけると、

「女将さん。遅くなって・・」

と、詫びをいうお登勢を押しとどめた。

「ゆっくり、話ができたかい?

晋太さんはびっくりしただろう?」

夜這いのことまで、お登勢が晋太に話したかは、判らないが、

晋太にとっても、お登勢の声が戻った事は喜びであろう。

「女将さん。すみません・・遅くなって・・」

「ああ、ああ、なにいってんだよ。

十年ぶりにしゃべることが出来たんだ。

今日一日、話したって足りゃすまいに、

でも、まあ、今度からはいつでもしゃべれるんだ、そう思って

こらえておくれよ」

お登勢がすまながる必要なぞないと言ってくれるばかりでなく、

ゆっくり、積もる話をさせてやれなくて、すまないと

お芳が言う。

「女将さん・・・。ありがとうございます」

お登勢への心配りは、奉公人に対して以上のものであるのは、

重々に承知である。

お芳は四十半ばになるだろうか、

歳を言えば、お登勢にとって母親に当たるだろう。

だが、母親以上にお登勢に色んな事を教えてくれた。

口が利けない分をかばうためにも、

商いの元である裁縫はもとより、読み書きから、算盤。

奉公人に対しての仕込みとしてだって、

破格の扱いである。

それだけでも、もったいなく、ありがたいことであるのに、

今のように、お芳は心底、お登勢を思いやってくれる。

『女将さん・・・』

そのお芳を裏切る真似を、例え嘘であっても、

これ以上続けたくはない。

だから・・・。

此処をでてゆくしかない・・・・。

だけど・・・。

本当のわけをいえない。いっちゃあいけない。

何も言わず

恩知らずの汚名を被って、女将さんを気落ちさせて、

後足で砂をかける真似をするしかない。

「もうしわけ・・・ありません」

お登勢は胸のうちの思いを口に乗せていた。

「なに、いってんだよ。

いい、って、いってるじゃないかねえ」

お登勢の胸中を知る由もなく、

うつむいたお登勢の気をもちあげようと、

お芳は凛と張った声で明るくお登勢を叱り付けた。

「めでたいことなんだから、めそめそしちゃ、おかしいよ。

さ、もう、そのことはきりかえて、お商売にもどるよ」

お登勢の前に手を突き出して

使いの反物をおよこしと

お芳は笑って見せた。

剛三郎は昼になっても戻らない念のいれようで、

とんぼつりのごとく、

いったきり返ってこない剛三郎に

お芳も流石に業をにやしたか、

「もう、また、松の木かなんかを探しに山にはいっているんじゃないだろうねえ」

と、独り言がおおきくなる。

剛三郎がお登勢に自分から話すといってたのだからと、

それなりに

女房らしく、剛三郎をたてて、

お登勢には

自分からは話すまい、と、おもっているのだが、

木蔦屋の先行きにもかかわる大事な話を後にして、

山にでも入っているのかと思うと

無性に腹立たしくなる。

「お登勢・・・だんなさまをみかけはしてないよねえ?」

だいたい洸浅寺の植木市を覘いて、

それから、めぼしいものが無いと、

思案六法・・・・。

もう少し足を伸ばして、隣町の植木市にまでいくか・・・。

それとも、あいもかわらず、盆栽仲間とはなしこんでいるのか、

いずれにしろ、同じ方向に出向いたお登勢がひょっとして、見かけているかもしれない。

だけど、剛三郎をお登勢がみかけたくらいなら、

そのついでといっちゃあ、なんだけど、

お登勢を養子にもらおうという話もしそうなものだろう。

お登勢の様子をうかがいみているかぎり、

剛三郎に話をきりだされたという風もない。

だいいち、

それだったら、

剛三郎が直ぐにお登勢の返事をつたえに直ぐに帰ってくる。

もしかして・・・・。

お登勢は剛三郎に話を聞かされていて、

ひょっとして、

断っている?

それならば、

お登勢があえてしらぬ顔をするかもしれない。

剛三郎は、剛三郎で悪い返事をつたえつらく

あちこち、ほっつきまわってる?

急いた思いがお芳に暗鬼をおこさせる。

だから、いっそう、剛三郎をみかけているわけがない。

まだ、お登勢は何もきかされていないだろう。と思いたい。

随分、妙な聞き方をしたもんだと

お芳は苦笑しながらも、

「やっぱり、まあ、みかけているわけはないよねえ?」

と、同じ事をたずねた。

たずねながら、お芳はお登勢の顔色を伺っていた。

「あ・・。あ、また、洸浅寺にあがっていなさるんじゃ・・?」

やはり、お登勢も同じ事を言う。

だけど、お芳はちょっと、妙だと思った。

わずかであるが、

お登勢は何か言い惑った。

それに、

お登勢にたずねているのは

見かけたか?みかけなかったか?

で、あって、剛三郎がどうしているだろうか?ではない。

こんな話し振りでお登勢が妙だと思うのは

今までの慣習があるせいだ。

お登勢は口が利けなかった。

だから、お登勢に物をたずねると、

お登勢はまず即座に否か肯かを伝えようとする。

お前、知ってるかい?

知らなければ、お登勢は首を横に振る。

それで、事がたり、事が済む。

が、知っていれば、

時にお登勢が文字を書いてお芳に

詳しく伝えなければ成らない。

口が利ければ、簡単に伝えられることも

お登勢には、伝えるなりの算段が必要になる。

だから、まず、お登勢は

たずねられた事に付いて否か肯かを先にあらわす。

これがお登勢の今までの習いだった。

それが、急に口がきけるようになったからと

崩れるものだろうか?

そこが妙だと思いながら、お芳の癇にも障った。

「お登勢。人が尋ねている事に答えるのが筋目じゃないか?

確かに、今の答えで、お前はどうやらだんなさまをみかけてないって、

判らないでもないよ。

でも、それは、あたしに

『お登勢はみかけてないようだな』って考えさせているだけで、

あたしが尋ねていることの答えじゃない。

口がきけるようになれば、それなりの口の利き方ってのも、

必要になってくるのはあたりまえのことじゃないか?

え?

これがお客様だったらどうだい?

「この反物を明日までに仕立ててくれるかい?」

そう、たずねられて

「私は夕方に一つしあげものがあります」

って、答えてるのと同じなんだよ。

明日までに仕立てられるか、どうかをたずねられて、

お客様にそんな答えが通じると思うかい?」

言ってしまえばあとはさっぱりしたもので、

腹にためておけないお芳の性分をお登勢も良くわかっている。

そして、このお芳の叱りはいつも、お登勢のためになってきていた。

その・・・。

厳しく優しく、道理を解くおかみさんにどれだけお登勢が

人として育まれてきたか・・・。

「・・・」

こぼれてきそうな涙をこらえたぶん、お登勢は何も言えずに黙った。

『お登勢・・・?』

やはり・・・・・。

妙だと、お芳は確信した。

こんなに涙もろい娘じゃなかった。

いや、娘だろうから、きっと、影で隠れてなくことはあったろうが、

こんなにも、

ましてや、いつものごとくのお芳のちっとの叱責で、

泣き顔になりそうな自分を見せる事はなかった。

「お登勢・・・?

なにか・・・あったのかい?」

剛三郎がどうのこうの、返事より、

子供養子の話が伝わっているのか、よりも、

お登勢の小さな異変が

お芳の胸に大きくつっかえ出していた。

つじつまあわせにどうだん躑躅をひとつ買い込んで、

剛三郎は昼も過ぎた刻限に

ぶらぶらと帰って来た。

「おまえさん、昼はどうしなすったんだい?」

と、問い詰めるお芳への答えもいつものごとくで構わない。

そして、

庭に躑躅の鉢を持って行きがてら、

仕立物にかかずらわってるだろうお登勢を

ちょいと、覘いて・・・・。

だが、店先に顔を出した途端

剛三郎の楽しい思案も吹っ飛ぶ

お芳のいきなりの切り口上を浴びせかけられることになる。

「おまえさん、ちょっと、きいてみたいことがあるんですがね」

主人がかえってきたというのに、

おかえりでもなければ、

帳場にすわったまま、

お芳の目つきまで、座っているように見える。

「なんだね・・・いきなり・・・」

お芳のこういう感情むきだしも、剛三郎には慣れたことである。

お芳にいわれる先に

「じゃあ、これをおいて、部屋にいくよ」

と、お芳の話が剛三郎と膝詰めになることも判っている。

裏庭に抜ける廊下を渡りながら

剛三郎はお芳の剣幕の元がなにかを推し量っている。

『お登勢の事がばれるわけがない。

遅く帰って来たのは、いつものことだ。

まあ、せっかちなお芳のことだから、

いつ、お登勢に話をしてくれるのか?

って、事だろうな』

はたして、躑躅を盆栽棚において、水をいっぱいかけて

ゆっくりと夫婦の部屋にはいってゆくと、

お芳が既に待ち受けていて、正座のまま、ぴっちりと背筋を伸ばしていた。

「ん?なんだね?」

触らぬ神に祟りなしではないが、

やけに切り詰まったお芳に下手な言葉をかけないほうがいい。

柳に雪折れなしの柔らかな物腰で剛三郎はお芳の前に座った。

「それがね・・・」

と、先に見せた怒っているかのごとく切り口上が瞬時に崩れて、

お芳が不安気に口ごもる。

「なんだね?きになるじゃないか?」

腰にぶら下げたラオの煙管に手をのばしだす剛三郎である。

それは、言い換えれば

お芳の話をゆっくり聞こうじゃないかという剛三郎の

表れでもある。

煙草盆を剛三郎の前におしだしながら・・・。

「お登勢のことなんだけど・・・」

お登勢のあの涙が気がかりでしかたない。

養子の件は断りたいと申し訳なく思っているお登勢だからなのか?は考えすぎなのかもしれない。

と、うだうだとおもい悩んでいるより

剛三郎がお登勢にはなしたか、どうかを

聞いた方が早いと思ったのである。

「ん?お登勢がどうか、したのかい?」

剛三郎は抜けめがない。

用心深く、お芳の言葉を待ちながら

先に帰って来たお登勢の様子を探る。

二人の口裏あわせが何処で崩れているか、

判りはしない。

崩れていると知らずに、矛盾したことを

喋れば、そこから、全てが崩壊する。

お登勢に触れることもまだだというのに、

お芳に露見して、いらぬ邪魔立てをうけてもつまらない。

「それがね、お登勢が帰ってきてから、妙なんだよ」

「ん?なにが?妙なんだい?」

お芳の言葉に合わせて、相槌を打てば、

お芳は自分の心のままに話し出す。

これも、長い付き合いで判っているいつものお芳である。

「それがね・・・・。ちょっと、叱っただけで、涙ぐんだりするんだ・・・」

「ほお?」

なるほど、と、剛三郎の中ではしたり顔になるものがある。

長年、お登勢を大事に育て、面倒を見てきたのがお芳であり、

傍目から見ても

お芳がお登勢を娘のように思い、

お登勢もまた、そのお芳に敬慕の念を寄せている、と、わかる。

だが、

お登勢はそのお芳を裏切り、剛三郎と

男と女に成ることを選んでいる。

裏での、お登勢の思いは確かに先程、剛三郎に見せたように

剛三郎のものになろうとする従順な女のものでしかないだろう。

だが、

一歩、表に返せば、そのことは

女将さんにすまないといった、お登勢の心そのもの。

お芳を前にすれば、

お登勢はそのすまなさにいっそう、こうべをたれるしかなくなる。

『こりゃあ、お登勢にとっちゃあ、地獄のようなものだな・・・。

だったら、いっそ、別宅をかまえちまうか・・・』

だが、今は剛三郎の企てを先に考えている場合ではない。

お芳の言い分を聞かねば成らない。

「お登勢にといつめても、仕立物があるからとにげちまうし・・・。

あの調子じゃ、何も言おうとしないだろう。

だからね、おまえさん・・・。

なにか、心当たりがないかい?」

お芳にすれば、養子の件を話したのかどうかを尋ねたのであるが、

剛三郎の方は、何処まではなしても、お登勢にさしさわりがないか、

多少成り、糸目が見えた。

お登勢さえ、剛三郎のものであるのなら、

むしろ、外に出した方が、都合が良い。

だからお登勢を外に出やすいようにするためにも、

養子の件は、なかった事にしたが良いと剛三郎は判断した。

「そうか・・・やっぱり・・・そうか・・・」

と、剛三郎は神妙な顔を繕う。

「そうかって?・・・おまえさん?」

やはり、剛三郎はお登勢にはなしていたんだ。

そして、お登勢はその話を断ったに違いない。

「実はな、朝の話をお登勢にはなしたんだ。

話したんだけど、

お登勢は云といってくれなかったんだ・・・。

俺はお登勢に無理強いもしたくないし、

まあ、この話は聞かなかった事にしてくれってな・・・」

剛三郎の話は部分的には嘘ではない。

確かに、聞かなかったことにしてある。

だから、

お登勢が自分の口から

お芳に何も言わなかったのもつじつまを合わせられる。

だが、はっきりと事実を告げられたお芳の顔色が薄くくぐもった。

『ああ・・・そうなのかい・・・』

お登勢が、よもや、断ってくるとは思わなかった。

そして、お芳がそう思っているからこそ、

剛三郎もどう事実を告げていいか、

重い気分を引きずって

帰ってくる足もにぶったということだろう。

だが、帰ってきてみれば、

お登勢が白状したも同然だったということだ。

「で、なんで・・・断る、なのか、きいてみてくれたのかい?」

「う・・・うん」

それこそが、一番、お登勢が言いたくないのだろう。

だからこそ、お登勢から、お芳にはっきりいわなかったのだろう。

「それがな・・・。

はっきり、いわないんだよ。

まあ、俺が・・・。俺が、だよ。

俺が思うにな・・・」

あくまでも、剛三郎の類推でしかないと念をおして

「たぶんな。

お登勢には好いた男がいるんじゃないのかな。

だけど、此処に養子にはいれば、

その男と添い遂げられなくなる。

だからといって、お前の気持ちを考えると

店の身代まで預けようというお前に、

男の方が大事ですから、とは、いえなかったんじゃないのかねえ」

「あ・・」

店大事で、お登勢にそんな相手が居るかもしれないと、

気にかけてやれなかったお芳である。

「ああ・・。そうだったねえ。

いくら、子飼いからの奉公人といったって、

人の気持ちまでこっちの勝手にはなりゃしないよねえ」

とは、いったものの・・・。

「だけど、それだったら、そうだといってくれりゃあ、

よさそうなもんじゃないかい?

もしも、なんだったら、夫婦養子にとるってことだって・・・」

と、諦め悪くお登勢をせめだすお芳になってしまう。

「だから・・・。

それは、俺のあて推量で、本当の所は判らないって、いってるだろう?

まあ、それでも、お前の言い分を考えてみるとな、

お登勢の好いた男が、例えばどこかの大店の後継ぎだったりしたら、

どうだい?

お前の言うように、夫婦養子って、わけにはいくまい?」

これも暗に剛三郎は自分を例えてみたてている。

「本当の所はわからないが、

お登勢には言うに言えないわけがあっての事だろうと思う」

確かに言うに言えないわけがある。

大店の後継ぎである剛三郎と

この先深い仲になるから、

養子になど、はいれません。

などと、ましてや、とうの剛三郎の女房に言えるわけがない。

剛三郎にすればお登勢の気持ちは手に取るようにわかる。

が、やはり、得心できないのが、お芳である。

「だったらさ、それでも、そういってくれりゃあいいじゃないか。

そうならば、そちらの大店にふさわしいくらいの仕度をこしらえて、

此処から、嫁にだしてやってもいいんだ」

いかにも、お芳の言い分を聞けばもっともらしくは聞こえる。

「お芳。ひょっとして、お登勢はそういえば

お前が仕度くらい調えてやるといいだすのが、わかっていたのかもしれないじゃないか?」

剛三郎の示唆をお芳は確かにそうだと思えた。

お登勢のことだからそれが、申し訳なくて

一層、押し黙ったのかもしれない。

「なあ、こちらが良くしてやろうと、思えば思うほど、

お登勢には、いっそう、気ずつなくて、しかたがないってことも、

有るんだって事も考えてやらなきゃいけないんじゃないか?」

一事が万事、剛三郎の言う通りである。

「だったら・・・・。

おまえさん。

あたしはお登勢にどうしてやるのがいいんだろうねえ」

いくらか、悲し気にうつむいたのは、

やはり、お芳がお登勢を奉公人以上の気持ちで思うせいである。

「普通の奉公人と同じように考えてやればいいんじゃないのかねえ?

誰かといい仲になって所帯をもちたいっていうんなら、

そうさせてやりゃあいいじゃないか?

いつまでも、「木蔦屋のお登勢」で、

いさせちゃあいけないんじゃないかい?」

そうかもしれない。

そうなのかもしれない。

いつの間にかお登勢を

自分のものにしてしまっていたお芳になっていた。

ふと、その時、その昔、女衒の清次郎に言った言葉が

お芳の胸によみがえってきていた。

―あたしはね、そうやって、ひたむきにいきてゆこうとする人間の事には、いくらでも、助きをしてあげたいとおもう。

どうだろうね。

あたしのほうから、この子を預からせてもらえないかと

いわせてもらいたいんだけどね―

そうだった。

あたしは預からせて貰ってるんだ。

助きをしてあげたい。

それだけが、あたしがお登勢にしてあげられることじゃないか。

いつのまにか・・・欲の皮がつっぱらかっちまったよお。

くすりと、自分を笑うと

お芳は剛三郎に

「そうだね」

と、うなづいて見せた。

うなづいたお芳に

剛三郎は此処が機会となにげない口調で楔をうっておいた。

「あんまり、無理強いするとお登勢が此処に居られなくなってしまって、でていってしまうかもしれないからね。

もう、何もいわず、

お登勢のしたいようにさせてやればいいじゃないのかね」

そうだ。

それを理由に、お登勢は此処を出てゆくことになる。

そして、剛三郎はお登勢が出てゆく先をこしらえてやらねばならない。

事の筋書きが面白いようにうごいてゆく。

まぶたの中にお登勢の白いうなじが浮ぶ。

今度こその逢瀬のときにゆっくり、お登勢に

算段を聞かせてやろう。

もう、家も借りてあるんだよとお登勢を喜ばせてやろう。

剛三郎の内にお芳には、あまりに悲しすぎる算用が有るとも知らず

剛三郎に話してよかったと

剛三郎を頼りにするお芳に

多少の後ろめたさを感じながら、

いうべき事を言い終わったと剛三郎は立ち上がった。

たちあがりざまに、

「まあ、ちょっと、俺からお登勢に

この話はなかった事になったからって

いいに行くよ」

と、剛三郎は部屋を出て行った。

ひとり、部屋に残されるとやはり、

お登勢がこっちに話してくれなかったことが

心に浮かび、ひかかってしまう。

そのこだわりを宥めるようとお芳は自分に言い聞かせる。

剛三郎の言うとおりにしよう。

あたしからは、お登勢になにもいうまい。

と・・・。

だけど・・・。

と、お芳は思う。

剛三郎の推量が本当だったとしたら、

お登勢は誰の事をおもっているというんだろう?

殆ど木蔦屋に居るばかりで、

お登勢が誰かとこっそり逢っている・・

とは、とても、考えられない。

ましてや、昨日まで口が聞けなかったお登勢が

どうやって想いを交わすことができるのだろうか?

こう考えると

お登勢が胸のうちに想いを秘めているだけに思える。

たぶん、そうだろう。

と、なると、剛三郎の言う

例えば、大店の跡継ぎというのは、

違う。

お登勢ひとりが胸に秘めている想いだけでしかないのだから、

木蔦屋の養子にははいれないと、かんがえはすまい。

お互いの想いが通じ合って

大店の嫁に入るんだとお登勢が覚悟を決めているなら、いざ知らず

いわば勝手な片恋で大店の嫁になるかもしれないと

考えるようなお登勢ではない。

だから、

お登勢の想い人がどこかの跡継ぎという理由で

養子の件をことわってくるという推量はなりたたまい。

後、考えられるのは、

晋太さんかねえ?

今日、お登勢が喋れるようになったと、晋太さんに伝えに行ってる。

そこで・・・。

お互いの気持ちが男と女の物だって、

打ち明けあったのかもしれない。

だとしたら、

染物職人としてのこの先を考えて

お登勢が夫婦養子にだって、入りたくないと、考えてもおかしくない。

晋太さんかもしれない。

殆ど晋太さんと合うことなぞなかったお登勢だけど、

お互いの性分を良くわかってるだろうし、

お登勢をみていてもそうだけど、

子供の頃の性分ってのは、

大人になっても殆ど換わりはしない。

人の気持ちを考えすぎるお登勢の性分を考えても、

晋太さんなら、気心がしれていて、

お登勢が構えてしまうこともないだろう。

お登勢にとって、唯一、安堵できる相手だろう。

晋太さん・・・なのかもしれない。

だとしたら、

お登勢がその内、今度こそ、はっきりと

一緒になると、教えてくれるだろう。

そうお登勢がきりだしやすいように、

『うちの人は、上手にお登勢に伝えてくれてるんだろうか』

少し不安になる。

でも、養子の話が白紙になってしまったんだから、

日がたてば、元通りのお登勢になって

お芳からもそれとなく、

晋太さんとの仲をたずねることもできるようになるだろう。

そのときには、気持ちよく

二人のことを祝ってやればいい。

お芳がそんな風に考えている間に

お登勢は

今夜にでも、木蔦屋を出てゆくしかないと、

覚悟をつける事態をむかえていた。


仕立て物は紡ぎの男羽織で上物である。

男物もまかせられるようになってから、

お登勢の腕にいっそう、磨きがかかったように思われる。

『針子としても、大事なお登勢だ』

いまさらのごとく、

お登勢の才は、木蔦屋になくてはならないものになっていると

剛三郎は意識する。

ふすまを開けた剛三郎の目にとびこんでくるのは、

一心に運針に目を張るお登勢である。

「お登勢」

声をかけられて、お登勢はやっと、剛三郎に気がついた。

お登勢は突然冷たい水を浴びせかけられたかのような、

驚きを必死で隠すしかない。

もちろん、剛三郎はそんなお登勢であると、

気がつきもせず

好きあった女に対して、ごく自然にそうするだろう、ふるまいを

お登勢に仕掛けようとする。

お登勢の側に座り込むと

剛三郎はお登勢の手をとろうとする。

手を取れば、そのまま、引かれるように

剛三郎の胸に甘えてくると思ったお登勢が

剛三郎の手をはらった。

「だんなさま・・。女将さんの目と鼻の先で・・

後生ですから・・・。

勘弁してください」

ああ、そうか。

やはり・・・。そうなのだと、

剛三郎は思う。

お芳に見せたお登勢の涙は

剛三郎への思いと

お芳への思いとに板挟みになったお登勢の軋轢だったのだ。

やはり、

お登勢を外にだしてやるのがいいと

剛三郎は確信を深くしたのである。

「お登勢。あんじなくていいよ。

お芳ももう、養子の件は取り下げるときめたし、

お前のすきなようにできるんだよ」

剛三郎はそれでも、お登勢の手をとったまま

お登勢の手をゆっくりとなであげて、ささやく。

「白銀町に、家をかりてあげる。

お登勢は此処をでて、

そこから、通うといい。

お前から、出るといえば、お芳ももう、文句はいいやしない」

そして、その家に剛三郎が出入りする。

剛三郎の筋書きは、まだある。

だが、いまはここまでにして、

お登勢の軋轢をひとつ、とりのぞいてやりたかった。

「あ・・はい」

突然すぎるとも、

この身に勿体無さ過ぎる処遇であるとも、聞こえる

戸惑いの答えぶりに、

剛三郎は

「いいんだよ。

お登勢は私の跡継ぎを産んでくれる

大事な人だ。

むしろ、肩身の狭い思いをさせてしまってすまないと

おもってるくらいなんだよ」

この先の図を描き出す剛三郎の喜々とした声色をきくお登勢の胸が

大きくきしみ、痛んだ。

『だ・・・だんなさまをも・・・うらぎっているのだ』

茶屋での剛三郎から、逃げ延びるために

お登勢は自分でも愕くしたたかさで

嘘の女を演じきった。

それは、姉川の縁の下で

自分を守りぬき、生き延びたお登勢の知恵がさせたものだったろう。

父の死を

母の死を

見つめながら、一言も声を発さず

守り抜いた自分を

さらに守り通さねば、

父の死に、母の死に

声を発さず、生き延びた自分が崩れさる。

此処で自分を守りきれぬなら、

あのときに、声を発し

父を呼び、母を呼び

死んでいた方がよほど・・・娘らしく生き抜いたといえるだろう。

父母への情愛を

自分が生き延びる事にかえて、此処まで生きてきた自分だ。

そんなお登勢の底が

女としての窮地を乗り越えさせる知恵を沸かさせた。

だけど、

結果的に剛三郎はお登勢を信じ

自分の先行きの一つをお登勢に託そうとしている。

旦那様をだまし、

女将さんを裏切り、

そして、このままでは、

お登勢自身を裏切ってしまう。

剛三郎の手から逃れることも急を要しはじめていたが、

これ以上、

剛三郎をだまし続けるお登勢を演じなければ成らないことも

二重におかみさんへの裏切りだと思えた。

今、此処ですっぱり、お登勢の本心を剛三郎にぶちまけたところで、

剛三郎が、お登勢をあきらめるとは、思えない。

諦めるくらいなら

お芳の目と鼻の先のお登勢の部屋に忍び込んで

思いをはたそうとなぞとすまい。

お登勢が嘘をついても、本心をぶちまけても、

どのみち、剛三郎はお登勢を自分の思いのままにしようとするだろう。

ただ、ひとつ、此処で身を守る法があるとすれば、

お登勢が騒ぎ立てるしかない。

「だんなさまが・・・」

大きな声で叫べば、剛三郎も流石に女将さんの手前、

その場は適当にいいつくろっても、

もう、この先、此処ではお登勢にちょっかいをかけないだろう。

だけど、それをしたら、どうなる?

女将さんの旦那様への信頼が地におち、

女将さんはいつも、旦那さまに

このお登勢に不安をいだく。

そんなことはできない。

かといって、

適当に言い逃れて、剛三郎をふりきってみても、

いまもそう・・・。

お登勢の手を握りしめている。

何度もかわしていれば、じれた旦那様が

間違いなく女将さんの隙をねらって、お登勢につめよってくるだろう。

『どうにもならない・・・』

ここにいれば、自分を殺して

手を預け、いずれは、なしくずし・・・。

これ以上、旦那様をだますような仕打ちをつづけることは

ありもしない期待をもたせ・・・あげく・・・。

お登勢は切羽詰って、逃げ出すしかなくなるだろう。

それくらいなら・・・。

だましたとののしられる仕打ちを既にしでかした自分であるなら、

『女狐』

と、いっそ、事実そのまま・・・。

そうおもわれたままで、

せめて、これ以上、嘘を積み重ねずすますしかない。

そして、これ以上・・・

旦那様に・・・。

触れられるたびにぞっとする思いが

もうお登勢に嘘をえんじられなくさせて、

嫌だと叫び出す前に

こらえが切れてしまう前に

もう、こんな嘘をつくろっちゃあいけない。

いくら、考えてもここを出るしかない。

女将さんにも・・・。

恩知らずだと・・・。

思われたまま・・・。

それで・・・いい。

そう・・・しかない・・・。

お登勢の覚悟に剛三郎の所作がいっそう拍車をかけた。

お登勢の手は細く柔らかく指先までなであげた剛三郎は

やはり・・・、

お登勢を寄せ付け、その口をすすろうとする。

「だんなさま・・・。

後生ですから・・・。

女将さんに・・・。

申し訳ないですから・・・」

だから出てゆくしかなくなったお登勢だから、

きっと、

剛三郎はお登勢のこの最後の言葉を

あとできっと、

お登勢が出て行った後できっと、

わかってくださるだろう。

「そう・・なのかい・・

しかたがないね・・」

あまり無理強いをして

押し問答を繰り返していてもらちがあかない。

そのうち、尾芳がいつまでもお登勢の部屋に入り込みっぱなしの

剛三郎を呼びに来るかもしれない。

そうでなくても、

お芳へのすまなさで

また、お登勢に顔色をかえられては、

又も、お芳に疑念を抱かせるだけになる。

「わかったよ。

今度・・・ゆっくりとね・・」

お芳の存在を意識させないところで、

ゆっくりと、ねんごろの仲になりたいと、

お登勢はそういってるのだと、

剛三郎は受け止めていた。

お芳もおさんどんよろしく、

袖をまくり挙げて、てつないにはいっていったくどに

いつも、朝餉の手伝いにはいる

お登勢の姿がみあたらない。

「おやあ?めずらしく寝坊かい?」

今まであったことじゃないから、

寝坊というより・・・。

具合でも悪くしたのかしらん?

と、お芳は挙げた袖、そのままに、

お登勢の様子を見に行く事にした。

お登勢の部屋のふすまの前でお芳は声をかけた。

「お登勢、はいるよ。

どうしたね?

具合でもわるいのかい?」

だが、部屋のなかから、お登勢の返事はない。

いよいよ、これは・・・。

熱でもだしているのかと

お芳は遠慮なくふすまを開いた。

「え?」

部屋の中にお登勢の姿はなく、

寝床もあげられていて、

部屋の真ん中に昨日の夜遅くまで

仕立てていた紬の男羽織が丁寧に折りたたまれている。

「や・・やだね・・」

お芳ははじめ、

お登勢が晋太さんと逢引でもしているのだと思った。

夜中に部屋を抜け出し

朝にかえる筈が

そこは、男と女。

別れを惜しんでついお天灯さまに先をこされちまった。

と、こういうことだろう。

「やだよ・・・。

盛りのついた牝猫みたいに・・・」

だが、男と女。

いったん火がついたら、そんなものかもしれない。

お登勢だって、やはり、女。

己を貫く恋情には勝てなかったということだろう。

それにしても、

と、思う。

『旦那様の手前。他の奉公人の手前・・・。

どう、いいつくろおう』

あくまでも、お登勢をかばってやるつもりの

お芳でしかなかった。

が・・・・。それから半刻がすぎても

お登勢が戻ってこない。

「いいかげんにおしよ。

ちょっと、目を瞑ってやろうにも

ほどがあるじゃないか・・・」

ぶつぶつと独り言がでてくるのは

いつものことであるが・・。

ふと・・・。

剛三郎の言葉が思い返された。

「あんまり、無理強いするとお登勢が此処に居られなくなってしまって、でていってしまうかもしれないからね。

もう、何もいわず、

お登勢のしたいようにさせてやればいいじゃないのかね」

お登勢が出てゆくわけなどない。

でてゆく宛てもないお登勢じゃないか。

そうおもってもいた。

まして、今までのお芳とお登勢の信頼は堅いものだと思ってもいた。

だが・・・。

昨日、お登勢は一言も涙の理由も語らず

あれから、お登勢に話しに行った剛三郎も、

やはり、断る理由もやはり聞けなかったという。

つまり、

お登勢とお芳の間には

何か話せないことが有るという溝が出来ているという事になる。

それを単純に

「お登勢もひとりの女なんだね」

と、お芳は勝手に得心していた。

ひとり。女。お登勢。

これはお登勢だけのものである。

お芳にいくら、お登勢の面倒を見てきたという責任と権利があったとしても、お芳が介在できる部分ではない。

ひとりの女であるお登勢。

これは、お登勢だけのものである。

だから、

浅ましいほどに「女」に豹変するお登勢であったとしても、

そこは、見てみぬふりで通すしかない。

おなじように、

お芳が剛三郎の前で見せる態度を

しのごのいう権利が誰にもないのと同じことである。

こうわりきってみたが、

朝帰りをやらかすお登勢に豹変すると、にわかに

信じがたいのも事実ではある。

「まさか・・・。

うちの人のいうとおりじゃあるまいね?」

お芳はもう一度、お登勢の部屋に入っていった。

たたみこまれた羽織をひろげ、良く見てみた。

「しあげてある・・・」

まだ、遣り掛けだと思っていたのに、

昨日の夜のうちにしあげてしまっていたのだ。

「なんだよ・・・。

飛ぶ鳥後を濁さず・・みたいじゃないか。

いやだよ・・・」

剛三郎のいうとおりでしかないのか?

お芳は確かめる自分をとどめようとしながら、

確かめて、まさか、出て行ったお登勢じゃないと

はっきり、お登勢の帰りを待ちたかった。

「ちょっと、ごめんよ・・」

押し込みの中のお登勢の持ち物を勝手に覗き込むのを

わびる口より先、お芳の手が押し込みを開き

お登勢の行李を引き出していた。

おそるおそる、行李を開けたとき

お芳の目に

あるはずもない

有ってはいけない

隙間があった。

「・・・」

お登勢の身の回りのものがなくなっている。

でていっちまったんだ?

なんで?

何で、でてゆかなきゃならない?

なんで、

でてゆくわけもいわず、

なんで、

突然、でてゆかなきゃなんない?

それに・・・。

いったい、どこへでてゆくというんだい?

銭だってもってやしない。

晋太さんだって、住み込み奉公じゃないか?

どこに行くあてがあるというんだ?

「それとも・・・」

お登勢の相手が晋太さんだというのが、

見当違い?

お登勢は・・晋太さんじゃない・・・、

それこそ、うちの人のいうとおり、

どこかの大店の跡継ぎと情をかわしていて・・・。

その人を頼ってでていってしまった?

「それにしたって・・・」

そうなら、そうと、いってくれりゃいいじゃないか?

それとも・・・。

やはり、お登勢は怒っていたのだろうか?

口が利けるようになったとたん、

子供養子にはいってくれないかなんて、

お登勢にすれば、いいように利用されるみたいで、

くやしくなっちまったんだろうか?

それでも、その話はなかったことにしてくれって、

うちの人が・・・ちゃんと・・伝えて・・・・。

「あ・・あの人・・・どういったんだろう?」

もう、お登勢と大店の跡継ぎの話ははっきりしたものに、

なっていたんだ。

勝手に所帯をもつ。

それも、木蔦屋の先を蹴って・・・。

これが、もうしわけなくて、

お登勢は追い詰められて・・・でていったんだろうか?

だとしても、

それで、そのまま・・・。どこかの大店の跡におさまりゃ、

お登勢が嫁に入ったって事がわかる。

勝手に飛び出し、

のうのうとどこかの嫁におさまりゃ、

いくら、木蔦屋だって良い顔はしない。

そんな、確執をのこすってことくらい・・・。

お登勢なら考え付くはずだ。

だとすると・・・。

出て行ったわけが他にある気がする。

剛三郎の言うように

『言うに言えないわけがある』

って、ことなんだろう?

黙って出てゆくしかないお登勢の相手。

と、いうことになるのかもしれない。

剛三郎はそこをなにか、感づいていたのかもしれない。

「おまえさん・・・おまえさん・・・。

ちょっと、きておくれよ」

庭の盆栽に水をうっているだろう、剛三郎に

お芳は大きな声でよばわった。


ゆくりと手を拭きながら剛三郎は廊下に腰をかけ、

下駄をぬいだ。

そのまま、部屋にはいってみたが、

お芳はいない。

「なんだよ?何処に来いってんだ?」

文句を一くさり、言った途端、

お芳の声がはねかえってきた。

「おまえさん。お登勢の部屋にきておくれよ」

二つ、むこうからのお芳の声が甲高い。

「なんだよ?

又、今度はなんだよ?」

お登勢がお芳と一緒にいるものだと思い込んでいる

剛三郎は

お登勢の態度に業をにやして、

お芳がつめよったのだろうと考えている。

「まったく、おまえの短気にはあきれる」

とは、いってみるが、

わざわざ、お登勢をおいつめてくれるのは、

剛三郎にとっては思う壷なのである。

堪えきれずお登勢に詰め寄ったお芳とお登勢の

間を取り持つ難儀も

はかりごとがすんなり通らせるための

ひと難儀。

口と裏腹にやはり、どこか、嬉気なのが

外に出ちゃあ、まずいと

剛三郎は大儀そうに

「なんだっていうんだよ。

あさっぱらから、

よそ様にまる聞こえの大声じゃないか」

と、お登勢の部屋のふすまの前で

まず呟いて見せた。

そして、ひょいと顔をのぞかせれば

お芳の怒り顔と

お登勢の困った顔が並んでいると思った。

ところが・・・。

「おや・・・。お登勢は?」

主のいない部屋に雇い主といえど、勝手にははいらないのを

常にしているお芳がひとり、

羽織を抱かえ、つくねんとつったったまま、そこに居た。

「でていっちまったんだよ」

お芳の返してきた言葉に

「えっ」

と、剛三郎も愕く声をあげた。

「おまえさんのいうとおりだ。

お登勢をおいつめちまったんだよ」

「ま・・まさか・・・」

そんなことはありはしない。

だいいち、まだ、お登勢の行く先をつくってやってもいやしない。

でてゆくのは火を見るにあきらかなしかけを労した剛三郎ではある。

が、いくら、お登勢がお芳に面とむかうが

いたたまれなくなったとはいえ、

急すぎる出奔である。

「まさかって・・・

おまえさん、そうじゃないっていえる心あたりがあるのかい?

いや・・・あるんだね?」

こんなときほど、ひとり娘で育ったお芳の押しの強さがいやに成る。

「いや・・・。そうじゃなくて・・」

下手にとぼければいっそう、事をややこしくする。

こうなったら、自分ごとにかこつけたわけを

人事のようにいってみるが逃げ手だと

剛三郎は臍を固めた。

そして、これからお芳に言う事が

いずれ、剛三郎のことであったと

後から解けてくるという事でしかない。

「俺が思うんだけどな・・・。

お登勢がどこかの大店の跡継ぎと一緒になるって了見だったら

お登勢だって、きちんと頭を下げてくると思うんだ。

それがいうにいえない相手だから、

お登勢は何も言わずに堪えたんだと思う。

その相手が誰かをいったら、相手も困るし

お登勢はなによりもお前に反対されたり

お前が悲しむとおもったんじゃないんだろうか?」

「ど・・どういうことだよ?おまえさん」

そんなに遠まわしに言われたらいっそう判らない。

「あああ。あのな、俺もそうじゃないかと思ったから

俺も・・・

お前にいいにくかったんだけどな・・・」

「やだよ。良くわからないのはすまないと思うよ。

おまえさんもあたしに気を使ってくれたこともわかったよ。

何を聞いても愕かないから

はっきりおしえておくれでないかい?」

「う・・・・ん」

しぶしぶという呈をよそおって、

剛三郎はぽつりとつぶやいてみせた。

「どこかの・・・大店の・・旦那の妾・・」

「あっ・・ええ?」

あまりにも意外な言葉がとびだしてきた。

お芳の胸がびくりびくりと動いているのが

自分でもわかる。

「なにを・・、そんな馬鹿な・・・」

剛三郎の話に何の裏打ちなんかありゃしない。

ないけれど、

それを違うといえる裏打ちもない。

違うといえる裏打ちもないどころか、

大店の旦那の妾。

そう考えれば、なにもかもにつじつまがあってくる気がする。

「じゃあ・・・。

お登勢は・・・もう、そこに行って戻ってこない覚悟で

でていったということなんだろうか?」

いったい、何処の大店の旦那だという?

妾を囲えるような大店で・・。

少なくとも

お登勢が出入りした店・・。

『染物屋の・・?

いや、ありえない。

あそこの夫婦は随分と仲が良いって、もっぱらの噂だし・・

小間物屋・・?

道具屋・・?

米屋はむこうがくるだけだし・・・』

すっかり剛三郎の術にはまって

お芳の胸の中で謎の旦那が詮議されている。

剛三郎は剛三郎で

「やれやれ、よほどつらかったんだろう」

と、お登勢の胸中を思い図る。

「そうだねえ。

おまえさんのいうとおりだとしたら、

確かに

何処ぞの旦那の妾になりますから

養子には入れません。とは・・・いえないよねえ・・・」

「あ?ああ・・・そうだなあ」

お芳の問いかけにさえ

剛三郎の気がそぞろになっているのも無理がない。

剛三郎は剛三郎で

お登勢が一先ず逃げ延びた先を考えていた。

「銭ももってないんだろう?」

「ええ。あたしがお給金をあずかったままですよ」

「だろうな・・・」

お芳はそれで

お登勢はどこかの旦那とうまくおちあってるのだろうと

考えているし

剛三郎は、お登勢と剛三郎の唯一の接点である

あの洸浅寺横の茶店で剛三郎が迎えに来てくれるのを

待っていると考えた。

銭ももたないで、茶屋に上がって待っているのは

さぞかし、心もとなかろう。

この場をはやく、いなして、

とにかくお登勢の待つ茶店にでかけねばならないと

剛三郎は話の腰を折り、この場を頓挫する機会を作るに専念しだした。

ふううとため息をついたお芳の口からは

もうなにも、ことばがでてこなかった。

いまだとばかりに

剛三郎はお芳にきりだした。

「ちょっと、洸浅寺にいってくるよ」

当然、お芳はとまどった顔になる。

「何も、こんなときに植木も何もあったもんじゃないだろう?」

おもったとおりの言葉がでてくると

剛三郎はやにわにたたみこんだ。

「ここで、じっと待っていて、お登勢がかえってくるのかい?

お前も店のことをやらなきゃなるまい。

俺も昨日、洸浅寺で中村の旦那にあったから、

付き合いでつつじをひとつ、かいこんだ。

そこが縁でまた商いがひろがってゆくってこともあるんだ」

盆栽だって商売のつてのひとつだと

剛三郎は言う。

「で、植木屋が今日もふたつ、みつ、出物をもってくるっていうから、

ちょいと、中村の旦那より先にみておきたいんだよ」

店の顧客とのつきあいだと言われれば

お芳も不承不承うなづくしかない。

「お前さんは・・・お登勢の行く宛てに心当たりはないのかい?」

つい、たずねたお芳も馬鹿だったとおもった。

「仮にもし、誰のところにいってくるって、

判ったとして、そこになんといいにいくんだ?

お登勢が

それで、もどってくるとおもうかい?」

ううん。ううん。と、首を振って再び

お芳は黙り込むしかなくなった。

むしろ、黙ってみのがすことしか、してやれないんだ。

と、しょんぼり肩を落としたお芳にもういちど、

「じゃあ、いってくる」

言い残して、剛三郎は出て行った。

店の帳場に戻っても、やはり

お芳はお登勢の事を考えていた。

剛三郎にああも、いわれると、

そうなのかもしれないと

おもうのだが、

お芳の中ではどうにもしっくり、納得が出来ない。

それが、なにか、なぜか、

ぼんやりとお芳はかんがえていた。

『なんだろうね・・。

なんだろう・・・。

何にひかかるんだろう?』

亭主の言う通りをはずして、考えるしかない。

「だいたい・・・。

どこかの大店の旦那?

これが腑に落ちないんだ。

そうだよ。それだよ。

だって考えてもごらんよ。

あのこは、目の前で幸せな暮らしと

家族をなくしたんだ。

そんなめにあった娘が

今度は、自分が人の幸せを奪うような、

家族の絆をむちゃくちゃにしてしまうような

妾になんか、なろうとおもうだろうか?

ばれなきゃいい?

自分の気持ちさえ満足なら良い?

いや、

お登勢はそんな娘じゃない。

いくら、本気でどこかの旦那にほれたって、

自分の父母を殺したような武者とおなじにはなりたくない。

自分の猛りに身を任せ、

人様を不幸のどん底におとしこむような、

そんな・・・。そんな・・・お登勢じゃない」

剛三郎にも

お芳にも、知らないわけがある。

わからないわけがある。

それでも、それでも、

お登勢が幸せになってくれるように、

あの娘なら、間違いはない。

今、改めてそう確信できたから

お登勢は幸せになるために出て行ったんだと

お芳は信じたかった。

帳場でまんじりと座り込んでいるお芳に

「女将さん、女将さん」

と、丁稚の喜助が大きくよばわるから、

「なんだね?何度もそんなに大きな声でいわなくても、きこえてるよ」

耳が聞こえてないみたいになんだね、と、癪にさわるものだから、

お芳の声が荒げに成るのを、手でそっと宙を押さえる仕草を見せて

喜助がいう。

「女将さん。お客様ですよ」

いわれて、見れば、たたきのむこうに突っ立ったまま、

身なりの良い五十がらみの男が丁寧に頭を下げた。

どうやら、喜助が何度も呼ばわる声がきこえていなかったお芳だったようである。

お芳に頭を下げた男はおずおずと

お芳の側によってくると、

「おかみさんですね?

実は今日は大事な話をうかがってもらおうと、

やってきたのですが・・・・。

ご主人様もご在宅でしょうか・・・」

「いえ・・・主人はちょっと、でかけておりますが・・・

おっつけ、もどってきます。

あの・・・。

私だけでも、

先にお話を聞かせて頂くわけには参りませんでしょうか?」

お芳の胸に期するものがある。

「ああ。それはようございますが・・・。

はなしというのは、

ご主人さまの了解をえるべきすじのものですので・・・」

話すだけの事になるのだがと、

言われれば、ますます、お芳は

この話が

お登勢の事。

それも、縁組のことだとおもえて仕方がない。

何処のあほうが妾にくれと使者をたてよう?

と、なると、縁組としか考えられない。

問題は・・・相手がだれかということであるが・・・。

「あ・・」

やっと、きのまわらぬことと、きがついて、

お芳は男を座敷に上がるように

すすめると、

男は

「それでは、遠慮なく・・・」

と、やはり、大事な話らしく

ゆっくりと話せる場所への勧めを受けた。

おく座敷にあないし

座卓の前にて男と対面ですわりこむと、

お芳は思い切って尋ねてみた。

「この店の奉公人のお登勢の事でしょうか?」

男はちらりとお芳をみた。

「さようです・・・。

私も不調法なことで、

仲人などというものなぞ、やったことがないのですが、

ましてや、

形だけの仲人でなく、

此方のお登勢さんを是非とも貰い受けるように、

一から、話をまとめてくれという、

まことの仲人という大役をたのまれまして・・・」

と、いうことは・・・・?

「あの、と、いうことは・・・。

お登勢となにか、約束をしたということでなく・・・?」

「はい。先方は

いたって、お登勢さんをきにいっておりまして、

まずは、ご自分の両親を説き伏せ、

あたまをさげて・・・。

お登勢さんをいつでも、迎えられる下地をつくりなすったんですよ。

そこのご両親から、

息子の本意をかなえてやってくれまいかと、

こんな私に白羽の矢がたちまして、

急でおどろかせたこととおもいますが、

さっそくにまかりこしたというわけです」

「はあ・・・?」

「愕かれるのも、無理がない。

当の本人同士に約束が出来ていて、

話にいってくれというのなら、

私も易いものです。

が、お登勢さんはもとより

お登勢さんの預かり人である、

木蔦屋のご主人、女将さんに

先にうんといってもらえというのですから・・・。

私も断られても面目が立たない。

先方の気落ちも見たくは、御座いません。

あまりに責任重大すぎて、

私の方が愕いてる始末です」

「はあ・・・」

お芳の中はこんぐらがっている。

お芳とて

お登勢とその誰かが約束を交わしていての上のことだったら、

お登勢が出て行ったわけにも納得がいく。

そして、お登勢もいずれ、そこにおちつくのだと安心できる。

ところが、そうじゃないという。

で、その先方さまとは、どちらさまでしょうか?

とも、ききたい。

だが、お登勢が出て行った今、

此方がうんという事も、いいえということもできないし、

お登勢に話してみましょうということも出来ない。

そんな状態のお芳が

先方様が誰であるかと問うことは出来ないことである。

ところが男の方が先方とは誰在るか?

と、たずねようともしないお芳に疑念をいだいていた。

「それと・・・。

お登勢さんには既に誰か?」

木蔦屋自体がお登勢に誰かをすすめているかもしれないし・・・。

気立ての良い、美しい娘であるお登勢を

嫁に欲しいと既に誰かの話がたっているのかもしれない。

だから、そちらは誰だろうとはたずねがたいのかもしれないと

不安になっていた。

「いえ・・・そうではなく・・・」

どういえばいいのだろう。

お登勢が出て行ったわけが、

先方さまに関係するのなら、

むしろ、

先方さまのせいであるならば、

子供養子の話を断るために

そちら様と一緒になるためにでていったようです。と、いえなくもない。だが、そこのところがさだかでない。

うかつにはいえないということになる。

だが、その人でない他の人の所に嫁ぐ気のお登勢だったらどうする?

いや、まさかとおもうが

剛三郎の言うとおり、

どこかの妾にでもなるつもりなら、

むしろ、そんなことをあきらめさせて、

この話をまとめてやった方が良い。

まとめてやった方がよいが、

どこかの旦那の世話になるためにでていった

などともいえるわけがない。

かといって、

茶をにごしていても、

お登勢とじかにはなしたいといわれたら、

やはり、いずれには、ごまかしきれなくなる。

どういえばいい。

お登勢の身の立つように・・。

出て行ったわけを繕うに

繕うわけを思い浮かべようと

お芳は黙り込んだ。

そして、剛三郎である。

中村の旦那をたてまえにとって、

急く足をそのまま、洸浅寺横の茶店にすべりこまると、

番台に座ったままの茶店の婆にたずねた。

「若い娘が、一人であがりこんでいるだろう?」

当然、

「ああ。ずっと待っておいでだよ」

と、返されてくるだろう婆の言葉が

剛三郎を裏切った。

「昨日、一緒に来た娘さんかい?・・・見かけてないよ」

「え?」

婆の顔つきをまじまじとのぞきこんでみた。

ずいぶんと娘を待たした男を

娘に代わり、しっぺをはって、からかっているものとは思えない。

「昨日の娘って・・・わかっているんだよな?」

「婆だと思って、ぼけたといいなするか?

娘もなにも、一人で来ている客なんか、いやしないよ」

「そ・・うか・・・」

剛三郎はそのまま引き下がるしかない。

茶店の外に出た足がそのまま洸浅寺をめざす。

そうだ。

俺が行きそうな場所といったら、

お登勢にとっては洸浅寺の方が確実じゃないか。

銭も持たずに茶店に上がりこむなんてことをする

図々しいお登勢のほうが不自然だと気がつくべきだった。

朝方に木蔦屋をぬけだしたか、

深夜に抜け出したか、判らないが

かわいそうに暗いなか洸浅寺にあがって、

きっと、洸浅寺の高縁の下で

夜露をしのいだのだろう。

可哀想に

暗闇の中、陽が空けるまでだって随分心細かっただろうに、

それをこらえてまでお登勢には、

もう・・俺しか、頼る宛てがないんだ。

俺が洸浅寺にあがってくる、

それを一心あて所にして俺を待っているんだ。

只でさえ、数の多い石段が

今日はやけに多く感じるほど、思いばかりせいて、

剛三郎がやっと境内にたどり着くと、

まず荒い息を整えなければならなかった。

身体をまえのめりに倒して膝に手を置き、息を継ぎながら、

剛三郎の目は境内を眺め回す。

参拝の人の数もまばらで、

お登勢が待っていそうな桜の木の下も見通せる。

一本一本の桜を順に眺めすかしたが、

此処から、見えるところの何処にも

お登勢の姿はなかった。

そうかもしれない。

石段の上がり際から、直ぐ見える場所。

衆目にその身をさらすに長すぎる時間、

お登勢は好奇の目から、逃れるため

本堂の裏にでも、いったのだろう。

剛三郎は再び歩き出した。

だが、本堂をふためぐりしても

まだ、お登勢を見つけられない。

そろそろ、俺が来る頃だと

お登勢も俺を探しに境内に戻ってみてるのかもしれない。

行き違えてお互いを追いかけあって

洸浅寺をぐるぐる回っているのかもしれない。

想像してみれば

おかしな図である。

だが、それはお互い恋しさの所産。

『中々おもはゆい・・・』

お登勢が此処にいないと剛三郎が気がつくまで、もうしばし、

時がかかるのであるが、

ここに居ないお登勢と気がついた剛三郎は改めて、考え直す。

『俺の推量違いか・・・。

と、なると・・・。

お登勢は何処でまっているのやら・・・。

待てよ・・・。

どこかに書置きでもしてあるってことか・・。

俺だけがわかる場所・・・。

盆栽の剪定箱・・・の中』

木蔦屋に戻って確かめてみるしかない。

踵を返すと

さっき上がってきた石段が今度は

剛三郎をすべり落とす坂のように見えた。

出て行ったお登勢と知らずに

染物屋の徳治から、仲人が立てられた。

お芳はそれが誰からのものか確かめることも出来ず、

お登勢の身の立つ理由をかんがえつめていた。

だけど、どう考えても、この不可解なお登勢の行動を

うまく、かばいだてる理由を思いつけない。

そして、

何よりもお芳はこの縁組でお登勢が幸せになってくれればいいと思う。

また、

お登勢が、けしてどこかの妾になぞならないと

信じる自分であれば、

なにもかも、あらいざらいに話して

先方様にお登勢を託した方がいいと思えた。

親御さんを先に説き伏せるほど、お登勢にほれこんでいるのなら、

お登勢の行方もきっとさがしてくれる。

そして、お登勢を見つけたあかつきこそ、

お登勢の居場所も出来るという事になる。

意を決し、うつむいていたお芳は男を見上げなおした。

「口の利けない娘を

そこまで、本意に思ってくださる方であるならば・・・。

なにもかも、お話しますので・・・。

私からの頼みだと思ってきいてくださいますか・・・?」

仔細ありげなお芳の真剣なまなざしを受け止めた男は

「私どものできる精一杯をつくさせていただきます。

どうぞ、きかせてください」

と、ふかぶかと頭を下げた。

ひとつ、息を深くついて・・・

まずお芳は事実を先に男に告げた。

「お登勢はもう、此処に居ないのです。

昨日・・・今朝かもしれません。

でていってしまったのです」

「え?」

思うに思いつけない意外すぎる事柄に男は小さく驚きの声を

もらしたが、

お芳がその理由こそを話そうとしているのだと、

お芳の次の言葉を待った。

「お登勢の事を話そうと思うと

何から話していいか、自分でもこんぐらがっていて・・」

迷い口の歯切れの悪さを気になさるなと押すように男が言う。

「女将さんの思うところから

はなしていってください」

出て行った理由は色々考えられる。

剛三郎の言うように

どこかの旦那の妾という線は万も一つありえないとはいいがたい。

この男も剛三郎のように、男の目線でみれば、

お登勢の出奔を妾奉公と考えることもありえる。

それをまず、ありえないと信じてもらうには

お登勢の姉川での出来事、

口が聞けなくなった理由からはなさなければならないだろう。

それでも、剛三郎のように、お登勢の境遇を知っていながら、

妾奉公を疑うのは、逆に

男の中に囲妾願望があるせいかもしれない。

考え詰めている事にふと、感じたひかかりを後にして

お芳はお登勢の姉川での出来事を話し始めた。

「あの娘の出所は姉川なんですよ。

此処に来るようになったのも、あの合戦のせい。

あの娘は・・・

目の前で両親を殺されているのです。

落ち武者をかくまったと、追っ手の武者に

父親は殺され・・・、

母親は・・・」

むごいことを口にのせようとすると、

お登勢の悲しみがそのまま、お芳の胸を刺す。

「母親は身ごもっていたそうですよ。

犯されたあげく、腹の子ごと、刀を・・・」

お芳が告げる、苦しく、悲しい事実を聞く男の眉間に浮んだ皺が

いっそう深くなっていた。

「な・・・なんということを・・・」

「お登勢は縁の下に隠れていたんですよ。

そこから、一部始終・・・。

そして、お登勢が助け出されたときには

口がきけなくなっていたんですよ。

お登勢はこの時、まだ・・・八つでした・・・」

お芳の瞳からこぼれそうになるものがある。

「そして、その後、私の所へつれてこられたんですけどね・・・。

口が利けないってことは、重々、承知の上で

私はお登勢の性分を、頭のよさを確かめてみたんですよ。

口の利けない子に

「おまえ、いくつだい?」

って・・。

そうしたら・・・、あの娘は・・・」

今、思い出しても感極まるものがある。

このお登勢こそを伝えなければならないと、

お芳はこぼれる涙をそのままに話を続けていった。

「つらいめにあってるというのに、

いじけもしない。

ものおじもしない。

たずねてくれた事に

たずねてくれた人の気持ちに

必死で・・こたえなきゃいけないって、

かんがえたんでしょう。

指を出して・・・八つって・・・

人の気持ちを先にかんがえて

一生懸命、まことを尽くそうって、

お登勢っていう娘はそういう娘なんですよ」

男の目頭にもうっすらとうかぶものがある。

「なるほど・・・

先方がこんな私に頭をさげてきたわけがよくわかりましたよ。

そういう話を聞けば

なおさらに私もこの縁組をみのらせたい」

男の言葉にお芳はいっそうの安堵を得た。

男は口にこそだそうとしなかったが・・・・。

この女将がお登勢さんを随分大事になさっていたということは、

今の様子で充分うかがい知れた。

それであるのに、

お登勢さんが此処をでていったとは不可思議なことである。

その疑念を解く話も女将の口からでてくるだろうと

男は再び話し出したお芳に耳を傾けていった。

「そのお登勢が・・・一昨日・・

口がきけるようになったんですよ・・・」

それは、めでたいことであろうに・・・。

それでも、

くぐもったお芳の顔から

よくない仔細があるらしいと男にはわかった。

「貴方がお登勢にあったことがあるのか、

見たことがあるのか、わかりませんが、

そりゃああ、綺麗な娘なんですよ。

ですから、お登勢にのぼせ上がって

悪さを仕掛けるものがでてきちゃ・・・

口の利けないお登勢になにか、あっちゃあいけないと・・・

私たち夫婦の直ぐ横の部屋をお登勢にあてがったんですよ」

言い訳に過ぎない。

それなりに自分も気をつけていたんだという弁解に過ぎないと

判っていながら、

お芳はやはり言い募っていた。

「それなのに・・・。一昨日・・・。

お登勢の部屋に・・・誰かが忍び込んだのです。

お登勢は先程も話したとおり

目の前で母親が犯されそして、殺されるのを見ているのです。

そんなお登勢にとって忍び込んできた男がどんなにおそろしかったか。

口の利けないお登勢は

自分を守るために・・・声をあげるしかなかったのです」

「ああ・・」

これもまた・・・なんということだろう。

声を取り戻した裏側にそんな辛いことがあったのだ。

「幸い・・お登勢が声をあげたことで

忍び込んだ男はその場を逃げ出し、

お登勢は無事だったんですが・・・

その人間が誰か突き止めることができていません」

この店の人間なのか、

外から忍び込んだ人間なのか

定かでないまま、

お芳はお登勢に難題を吹っかけてしまったのだ。

「なるほど・・・」

と、男は思った。

染物屋からも、お登勢が口の利けない娘であったことは

既に知らされていた。

知らされていたが、

此処は亀の甲である。

口が利けるようになった途端、嫁にくれは

いかにもてのひらをかえすようで、

あくまでも、口が利けようが、利けまいが、

嫁に貰いたいという態度に徹したほうが

良いと男はふんだのである。

だが、お登勢が口が利けるようになった裏側に

こんな恐ろしい事実があったとは、思いもしなかった男である。

ゆえに男はなるほどと思った。

忍び込んだ男は

この店の人間だと男は思った。

その人間はこの店にとっても必要な人間であり、

ひょっとすると、

所帯も持っている。

お登勢さんは、事の事実をあからさまにすると、

その人間が信用を失うばかりでなく、

木蔦屋にいられなくなり、

女房さんの耳にまで不埒な事実がはいることになる。

夫婦の仲にも亀裂が入ってはいけない。

女将がいうように

「人の気持ちを先にかんがえて

一生懸命、まことを尽くそうって、

お登勢っていう娘はそういう娘なんですよ」

を、そのままに受け止めると

お登勢さんはその男のために

事実を隠蔽したのであろう。

それでも、

男の存在自体もこわかろうに

恐ろしい過去がその男を見るたびにわきあがる。

それで・・・でていったのだろう。

と、男は考えた。

『だが、そんな恐ろしい男のことを憎みもせず

男の立つ瀬をまもってやろう・・・と、するなら・・

徳冶さん・・・あんたは本当に

見る目があおりなする』

男の「なるほど」という呟きに

お芳は首をかしげた。

何に得心しているのか?

少なくとも

此処までを耳にした男は

此処までのことで

お登勢が出て行った理由に思い当たったと聞こえる。

お登勢が出て行った理由。

それこそがお芳の一番気にかかる

一番判らないことである。

「あの・・・なるほどと、おっしゃいましたが・・・」

どう、成る程なのか?

成る程の程がわからないお芳である。

だが・・・。

男の方はもっと、聡い。

「あ?いや・・・。ほかにお登勢さんがでてゆく理由が

あるということですか?」

たずね返した男である。

その言葉は

はからずも、男にはやはり、なにか、見えているのだと

お芳に確信を持たせた。

「ええ、いくつか、思い当たることがあるのです。

それでも、どれも、これも、思い当たるばかりで、

私には、得心できるものがなくて、

何故、お登勢がでていってしまったのか。

それをはっきり知りたいと思っているのです。

ですから、

貴方の思い当たることをきかせてやってくださいませんか?

もちろん、私の思い当たることも、

全て洗いざらいにはなさせてもらったうえで、

お登勢を・・・。

そちらに託したい。

今は・・・そうおもっております」

と、いう事は

お登勢さんがどこにいるか、判っているということになるのだ。

つまり、

私がお登勢さんに直談判しにいってくれというのが・・・

頼み?

そういうことなのだろうかと思いながら

まだまだ、仔細ありげな話が広げられる前に

もう一つ飛び出した

お芳の頼みを先にせねばなるまいと

男は言葉を選びなおしていた。

「私には、お登勢さんが

忍び込んだ男が誰かを突き止めて欲しくないと

おもっているのではないかと・・」

「ええ、確かにお登勢は恐ろしいから、

知りたくないといっておりました」

あの日のお登勢の震えたさまがおもいだされる。

「いえ・・・。

そうではなくて・・・。

お登勢さんはその人間が誰かわかっているのではないかと、

思ったのですよ。

そして、その人間をかばっていると・・・」

「え?」

いや・・。

お登勢は誰か判らないといった。

あんなに、震えていた娘が咄嗟に嘘をつくだろうか?

それに、だいいち、そんな嘘をつく必要なぞないじゃないか。

お登勢の思い方、考え方は

むしろ、男の考え方なのかもしれない。

お芳にすれば、女を無理無体に手篭めにしようなぞという

とんでもない男をかばう必要もないと考える女の立場。心で思う。

加えて、女将の立場がある。

雇い主と奉公人。

この主従関係を思えば、主人が大事にしている人間を

己の勝手にするなぞという行動は

主を省みない。

後足で泥をかけるとも、

飼い犬にてをかまれるとも、

いくらでもいいようがあるが、つまるところ、

その人間は自ら、己への信頼をかなぐりすてた。

主人なぞどうでもいいといっているに等しい態度である。

そんな人間が誰であるか白日の下にさらさず、

不穏分子を雇わせておいてまで、

かばいだてるをさきにするなぞというのは

これはお登勢の甘さでしかない。

どうにも、お芳には、そこの部分でお登勢の

出て行った理由がこれではないとやはり思った。

「私も、そうかもしれないとかんがえたのですよ。

もし、その男が外の人間でなく、

店の中の人間だとしたら・・・。

でも、お登勢は木蔦屋のことをかんがえたら、

私には、それが誰であるかをつげるべきだし、

お登勢なら私には言うはずです」

お登勢だって、女将としてのお芳の考えくらい思いつけるはずである。

「ええ。私もそう思いますよ。

ですが、それが誰であるか、女将さんに告げたら

女将さんはその男をゆるさないでしょう?

たった、一言を告げたためにその男は路頭に迷い、

おそらく、妻帯しておるでしょう?

妻子までも路頭に迷わせ

それだけではない。

夫婦の仲も水がはいる。

たった一言のために

多くの人間が不幸になる。

お登勢さんは、男のしたことを

一時の気の迷いに終わらせるためにも

男とかかわる事のないところへいったのでしょう」

お芳という人間は確かに厳しい人間である。

それは、おそらく、

曲がったことをせずにすむ境遇にそだったせいであろう。

だが、お登勢は違う。

たった一言。姉川の縁の下で

「父ちゃん。母ちゃん」

娘らしく・・・あるいは人らしく・・。

父母を呼ばずに

自分の命を守った痛みを

胸の底に敷き詰めている人間である。

時に人は人らしく生きぬかぬ事で己を守る事もある。

それを間違いと誰が責められよう。

誰でも・・・

間違いはある。

間違いを糾弾するなら、その矛先はまずお登勢にむけられるだろう。

我も罪びと。

お登勢の胸をゆする悲しみは

お登勢の元に忍び込んだ男にも、むけられる。

間違いを糾弾することが、責務であろうか?

間違いを裁くことで、男を人らしく生かせるだろうか?

罪の痛みはいつか、自分に帰ってくる。

誰もが裁くことは無い。

己が己を裁く痛みはいつも、ついてまわるのだから・・・。

そして・・・。

この場合・・・。

男に間違いを冒させるのは、お登勢が居るからである。

間違いを冒すほうばかりが間違いだろうか?

間違いを冒させるほうだって、罪はある。

お登勢の厳しさは自分を問い詰める所にある。

お芳の厳しさは他人を問い詰めるきびしさであろう。

「女将さんには、申し訳ないけれど、その男は店の中の誰かでしょう。

けれど、お登勢さんは、その人だけでなく

その人の女房さんのことも考え、

男が自分を取り戻してゆく、

機会をつくってやったんじゃないでしょうかねえ?

誰でも・・・。

魔がさすって、ことはあるでしょう?」

「店の中の人間・・・」

ぽつりと呟いたお芳をみて、男は又、一つ

納得がいった。

「お登勢さんは、それをきかされた女将さんがきおちするのも、

みたくなかったんでしょう」

「そうかもしれませんね・・・」

それもあるのかもしれない。

色々な理由が複雑にからんでいるのかもしれない。

お芳はほかに思い当たることも

この男のふるいにかけてもらえば、

もうすこし、見えてくる気がいっそう、してきた。

「お登勢がそれだけの理由で出て行ったんだと思えないのは、

まだ、ほかにもわけがあるんですよ」

お芳は話してゆく道筋を思い返しながら

男にまだ、わけがあるきがすると、きりだした。

「次の日に・・・私はお登勢にかねてから

考えていたことではあったのですが・・・」

これも、いいわけだと、お芳は思う。

かねてから、考えていたなら、

もっと、早くお登勢の口が利けなかったときにこそ、

告げるべきだったのだ。

「お登勢の口がきけるようになったというのが、

それをはっきり決心させることになったんですが・・。

お登勢に此処に・・・。

木蔦屋の養子になってくれないかとたのんだのですよ・・・」

染物屋の徳冶が嫁に欲しいと必死になる娘である。

木蔦屋自らが養子に欲しがるのは至極当然とおもわれるが・・。

「と、いう事は此方には、跡を継ぐ方がいらっしゃらない?」

「ええ・・。そうなのです。

因縁というのでしょうかねえ・・。

私が木蔦屋の一人娘で生まれたんですよ。

本来・・・。女は嫁し越す者。

それを剛三郎を養子にとって、そのまま血筋が絶えるはずの

木蔦屋を継いできたのですが・・。

やはり、絶える因縁が本道だったのでしょうねえ。

どうにも、子供にめぐまれることなく・・・」

自然の条理を言えば、無理に無理を重ね、

あげく、それでも、まだ、無理をいった。

お登勢を養子にもらいたいということ自体

自然の流れに逆らうことでしかなかったのかもしれない。

「天に唾吐くかのように、定めに逆らった。

これを諭すかのようにお登勢から断りが入ったのです」

そして・・・

「それでも、お登勢が断りをいれてくるというのに

断る理由を言おうとしないのですよ。

私はこれは、お登勢に誰か先を約束したものが

いるせいかと考えたのです。

その人のために子供養子に入るのを断る。

その推量は筋がたつような気がしたのですよ。

ですが・・・。

それならそうだと言うお登勢だと思うのです。

晴れて、その人と一緒になるためにも、

はっきり、言いそうなことだと思ったのです。

主人と二人で、何故だろうとかんがえあわせてゆくと、

お登勢の相手というのが

人に言えない道ならぬものに思えもしたのです。

ですが・・。

先程・・・しょっぱなに話させてもらったように、

お登勢は目の前で怒りに狂った武者に父母を殺され、

幸せな暮らしを失った娘です。

こんな娘がよそ様の夫とか・・・。

こういう人と思いを通じ合わせるでしょうか?

貴方が先程おっしゃったことにも通じますが、

相手の方の女房さんを苦しめ、

人の暮らしを不幸にする、

このようなことをするでしょうか?

私は絶対できないお登勢だと思うのです」

やや興奮しているお芳を見つめ返すと

男ははっきりと、うなづいた。

「女将さんのおっしゃるとおりでしょう。

お登勢さんが出て行ったのは、

そんな人の道にはずれることをするためじゃないと、思います」

「私は、あなたを見かけたとき

お登勢の縁組だと直感しました。

これで、謎が解けた。

そちらの方で既にお登勢をかくまって?

かくまっては、おかしいですが・・。

その上その話を進めにきてくれたと思ったのですよ。

お登勢の居所もわかる。この先も安泰。

お登勢は幸せになるために出て行ったんだと

胸をなでおろしたんですよ。

でも・・・。

違っていたようですね」

お芳のはなしから、

お登勢の出奔先もわからないのだと

気がつくと男は

いよいよ、お登勢が木蔦屋に居るに居られなくなったわけに

思い当たった。

今までの話をまとめてみても、

男が思い当たったことが、的を得てると思える。

何処に行くとも言えず、

出てゆくわけも言えない。

子供養子の話も断る。

そして、人の幸せを大事に考えるお登勢であり、

女将を一番悲しませたくないお登勢であろう。

そして、お登勢の部屋に忍び込んだ男・・・。

店の主人が大事にしているお登勢に

不埒なことを仕掛ければ、

自分が路頭に迷うことに成るのは、火を見るより明らかである。

自分の口を干上がらせる馬鹿なことは

奉公人ならできることではない。

ましてや、奉公人なら

奉公先へ尽くし、恩義を返すのが条理であろう。

奉公人が主人の部屋の隣に居るお登勢のところに

忍び込む。

こんな大それた事をしでかすとは考えられない。

と、なると、

少々の無謀をしても、自分の首が絞まらず、

主人の横の部屋に忍び込むことに

主人への恐れを感じることが無い人間といえば・・・。

主人である、剛三郎本人しか居ないと考えられる。

ところが、

ここまで、いろいろ謎を解く鍵が出揃っているというのに

女将のお芳は

まったく、剛三郎を疑いもしない。

女将の剛三郎への信用はよほどしっかりと固められている。

夫を疑うことも無く、信頼しきっている女房は

妻として、有り難いほどに立派な姿であるが、

ゆえになおさら、

お登勢さんは

真実を話すことができないまま・・・。

追い討ちをかけるかのように、

子供養子の話がとびこんでくる。

それは剛三郎という罠に閉じ込められるにひとしい。

いや・・・。

むしろ、剛三郎の恣意を受け止める意志があると

言うに同じではないだろうか?

ここに居れば、剛三郎の思いを受け止めるしかない。

居ます。

こういえば、この先は男と女の顛末。

居ません。

こう言えば、女将に理由を聞かれる。

話すに話せないお登勢さんだ。

女将を悲しませたくないお登勢さんは、

とうとう、出て行くわけも言えず、

追い詰められてでていってしまったのだろう。

「女将さん。私はやはり始めに言ったとおり、

お登勢さんは誰かをかばって・・・と、いうよりも、

自分が出てゆくことで不埒な男をいさめたんだと思います。

子供養子の話を持ち出そうと、持ち出すまいと

お登勢さんは出てゆく決心だったんじゃないですかね?

おそらく、

女将さんがその男を探し出してでも

白黒つけるという心つもりであったことも判っていなさったんですよ。

だから、お登勢さんは自分が出てゆくことで

男が改心するということも考え合わせ

女将さんに詮議なさらないように祈っていると思いますよ」

「わ・・・私に・・・その男を許せ・・と?」

「ええ。気の迷いだったと男が気がつけば

それで、いいことじゃないんですか?

ほんのちょっとした気のまよいを、よってたかってせんじつめて、

男の足元を崩し去ることよりも、

お登勢さんは男が自分の過ちを悔いて

まっとうに生き直そうと考えて欲しいと思ったんですよ。

男にだってそういう良心があるはずなんですよ。

お登勢さんが姉川で

鬼のような武者の仕打ちを受けたことを考えてみても、

お登勢さんがそれを信じるという事が不思議に思えるほど

強い心をもっていらされる。

女将さん。

お登勢さんの心根を思い計って、

その男が誰か判っても、といつめちゃあいけませんよ。

元通り、まっとうにいきなおしてるんだ。

そう、信じておやりなさいよ」

それがお登勢が一番願ってること。

男の口から出た言葉は男にもやけに、らしく思えた。

男にすれば、もしも、を、考えているに過ぎない。

もしも、お芳が剛三郎の仕業と気がついたときに

どんなに傷つくことであろう。

その時にお登勢さんがどんな思いで、

此処をでたか、

それに気がつけば、

お芳とて乗り越えてゆけることではないか?

お登勢という娘の残した心配りを

お芳に教えておくことが

男には急務に思え、

それとなく、遠まわしにお登勢の思いを伝え終えると

男はひとつ、気になったことを尋ねた。

「女将さん。私はひとつだけ・・・

不思議に思うんですが、たずねてもいいでしょうかねえ?」

曰くありげにきかれれば誰でも

「どうぞ」というであろう。

お芳もそうだった。

「なんでしょう?」

膝を正すかのようにお芳がすわりなおすと、

男はくすりとわらった。

「いや、そんな、たいそうなことじゃないんですよ。

一つは、そんなお登勢さんなのに、

ひょっとして、どこかの所帯持ちの男と・・・

と、いう考えが何故わいてきたのか?

と、やっぱり、私には解せないのですよ」

ああ、そう・・。

そうだろう。

お芳とて、考えなかったことである。

それをかんがえさせたのは、ほかならぬ

夫の剛三郎である。

「ああ・・それは主人がいいだしたんですよ。

私は女ですから、女の見方でしか、考え付きません。

男というものに、囲妾願望があるとすれば、

お登勢にそういう思いを抱くものが居て

お登勢も男の思いにほだされることもあるのかもしれない、

と、なんとなく・・・

おもったのですよ」

「根拠があるわけじゃない・・・ってことですね。

私もここまでお登勢さんの境遇を聞かされれば、

万に一つもありえない話とはおもいます。

それでも、優しすぎるお登勢さんが自分を省みずに

情に流されることは、ありはしないかと不安にもなります。

もしも、もしも、そういう事になっているのなら、

そんな男に自分をなげ与えるようなお登勢さんであってはならはない。

もっと、ちゃんと、お登勢さんの真価を受け止め

お登勢さんを活かしてゆける相手と場所がある。

これを是非とも告げさせていただきたい。

ですから、

どんな些細なことでもいいのです。

お登勢さんがどこにいきそうか・・。

おしえてくださいませんか?

私が全力を尽くし探し出して・・・」

お芳が口元を抑え、わっと泣き出しそうな声を堪えると

その手が男を拝んでいた。

「それこそ・・・私が・・・貴方にお頼みしたい事です。

それを貴方から・・・そうやって、言っていただけるとは・・」

後の言葉はお芳の涙にうずもれた。

「お登勢さんだから・・・。

人の気持ちを先にかんがえて

一生懸命、まことを尽くそうって、

そういうお登勢さんだから・・・。

私もできうる限りの事をしたいと思わされます。

お登勢さん、

だからこそ・・・なんですよ」

男はお芳の合わせた手を

ほどくようにいう。

「なんでもない。

お登勢さんのお徳でしかない・・のですよ」

それはお登勢自らが招き寄せた想いだというと、

男はぽつりと呟いた。

「情けは人のためならず・・・

人に、人に、流してゆけば

結局は自分に帰ってくる。

昔の人は・・・良くわかってらっしゃった」

「本当に・・・その通りだとおもいます」

独り言めいた呟きだったが、お芳はうなづけずにおけなかった。

「それから・・・。

もう一つお頼みがあります。

お登勢をみつけだしてくれて、

縁組が固まる事になったあかつきには・・・。

私どもにどうぞ、お知らせ下さい。

お登勢がこの縁組を云とうなづくのであるなら、

私どもでお登勢の仕度をしたいとかんがえております。

ですから、先方様がどちらであるか、

今は敢て、たずねません。

事が成ったあかつきには、どうぞ、私にご一報ください。

私どものできるかぎり、精一杯仕度をさせてもらって、

お登勢が先方様で片身の狭い思いをせずにすむようにしてやりたいと

おもっております」

お芳の頼みごとに

男はほううと驚嘆の息をついた。

「女将さん。

それをきいて、私が思うことを・・・これだけはぜひ、

きいてやってください」

前置きして男はとつとつとしゃべりはじめた。

「女将さんはお登勢さんが子供養子の話を断ったことにもはらをたてないばかりか・・・。

そこまで、お登勢さんに尽くしてやろうとおっしゃる。

女将さん。

子供養子の話が成ろうが成るまいが、

お登勢さんは女将さんの子供に間違いないでしょう?」

「ええ。ええ。

私は自分の娘だと思ってますよ。

その娘が養子になろうが、成るまいが、

そんなことどうでもいいことなんだとよおくわかりました。

だって、お登勢は養子縁組なんかしなくても、

とっくに私の娘・・・そのものだったんですよね。

そう、おっしゃってくださっているんですよねえ・・・」

その娘がどこかの

お店の跡継ぎに見初められ嫁いで行くのなら、

充分に仕度を整えてやりたいと思うのは

親ならばあたりまえのことでしかない。

「本来ならば、私もきっちりと名前を名乗り

先方のこともあからさまにすべきことなのですが、

こういう事情であるのなら、

女将さんのおっしゃるとおり

事が成ったあかつきに全てをお知らせします。

それで・・・。ですが・・・。

お登勢さんの立ち寄り先など、思い当たることがあったら

おしえてくださいませんか」

女将の知りうるところに顔を見せているお登勢とは考えがたい。

おそらくどこか、例えば寺社仏閣などの高縁の下で夜露を

しのいだ後は

口入れ屋に駆け込み、どこか、住み込み奉公先を探すだろう。

口が利けるようになったお登勢であれば、

簡単に落ち着く先はみつかるだろう。

お登勢の知り合いなどをたぐってみても、

お登勢にすれば、出奔の理由。

つまり、

夜這いの事実・・・。

その主が誰であるかを告げなければ成らなくなる。

女将を思い図って出て行ったお登勢が

木蔦屋の主人の風聞と沽券にかかわることを暴露するとは思えない。

と、なると、誰にも頼れず、

口入れ屋にかけこんだと考えるのが妥当である。

それでも、

もしかして、事実を話し、かくまってもらえるような、

知り合いが居るかもしれない?

でも、これはありえない。

知己をたよろうにも

今まで口が聞けなかったお登勢でもある。

知り合いが知己になりえるとも思えない。

身寄りの無い、

あったとしても、お登勢を奉公に出すしかない身寄りであろう。

唯一、男が考え付くのは

お登勢を此処に連れてきた人間である。

どこかの口入屋が

その人で、

お登勢は再びそこを頼ったかもしれない。

「そうですね・・・。お登勢には、みよりがありません。

が、

ただ、ひとり、身寄りといっていい

『兄』と、いってもいい・・・同郷の人がいるのですが、

その人は、住み込みの奉公人ですから、

お登勢をかくまうわけにはいかないとおもうのですよ。

お登勢が事情をしゃべって、

その人の伝でどこかに落ち着いたと考えるにも、

丁稚奉公の身の上で

お登勢をかくまえるような伝をもっているともおもえません。

それに・・・。

つい昨日にその人の所に、喋れるようになったことを

伝えにいかせたのですから、

その人になにか、はなしていたら、

私どもが問い詰めに行って、

迷惑をかけてしまうことになると、

お登勢は考えると思うのです。

だから、ここにも、私への態度と同じように

何も言わずにでていったと、私はかんがえております。

もうひとり、お登勢を此処に連れてきた男が、

お登勢の知り合い・・と、いえるでしょうが・・・。

この男は、お登勢を連れてきたそれっきりの付き合いで、

今どこにいるのか、

私も尋ねようともしなかったのですが、

横町の黒板長屋にまだ・・いるかもしれません」

お登勢は、晋太が一本立ちになって、

ひとり暮らしが出来るようになったという喜び事を

お芳に伝えるまもなしに、

剛三郎の真意を聞かされた。

ゆえに

お登勢はお芳に晋太のことをしらすこともなく、でていっており、

お芳は晋太の一本立ちを知らないのである。

「ふうううむ」

男は腕をくんで考え込んでいた。

『兄』のような人はどこの奉公人であるのか、

それを聞くには、

やはり、先方が誰であるかを言わずして

問うは常識に外れている。

だが、先方の名前をあからさまにしておいて、

もしも、お登勢さんから『応』をもらえなかったら、そのときには

先方の名を明かしたは、恥をかかせるようなものでもある。

うかつに・・・、

いえることではなくなってしまったのも

お登勢の出奔があるからで、

もう一日早く、徳冶からのもうしでがあったら、

こうならずに済んだと男はいかにも悔しい。

「わかりました・・・。

でも、念のために、

お登勢さんを此処に連れてきた人が誰か教えてください。

そこに居なくても探してみます」

男に問われ、

「もう、お登勢とは縁もゆかりも無い人ですが・・」

お芳が答えたその人が

男には

またも意外すぎた。

「女衒の清次郎?

女衒が?・・・また・・なんで?」

見目良い童が居れば、金をちらつかせ、

親の窮地に漬け込んで

可愛い娘を銭にかえることも、しばし。

清次郎の事情を知らない男は

わざわざ、懐の銭をはたいて買ったお登勢を

女郎屋に売りつけなかった女衒が不思議に思えた。

「女将さんが・・・

どういういきさつかで、

女郎屋にうられかけたお登勢さんを

救いだしてあげなすったんですね?」

単純に男はそう、考え直した。

そして、そんな、女衒などであるなら、

お登勢さんは行ってないと思えた。

だが、

「いいえ・・。

救うなんてとんでもないことですよ。

まあ、それは、私の話ですが

清次郎さんの名誉のために言っておきますが

私はお登勢を此処に連れてきた清次郎さんに

銭を渡そうと思ったんですよ。

姉川で自分の懐をはたいて

お登勢を買ってきたんだと思ったから、その分だけでも

返してやらなきゃって、思ったんです。

だけどね・・・。

清次郎さんは『お登勢を売りに来たんじゃない。』って、

びた一文うけとらなかったんですよ。

そして、女衒の自分と係わり合いがあるなんて事が

世間様に知られてはお登勢がかわいそうだから、

もう、二度と此処にはこないし、

そっちからも・・・くることもないだろうが、

来ちゃいけないって、言い残して

それっきりになったんですよ。

だから、黒板長屋も引き払ってるんじゃないかと思います」

お芳の言葉がますます、意外である反面、

ここでも、お登勢さんは人の情を動かしていったんだと

察しがついた。


木蔦屋での用事が不首尾に終わったと

手ぶらで帰るわけも行かず、

男は郭界に足を伸ばした。

蛇の道は蛇、の、通り、

女衒のことは郭界にきけば直ぐ分かる。

郭界の入り口から三軒目。

こじんまりした構えをしているが、

そこに任侠の徒がいる。

郭界の秩序を守り、

かわりに上前をはね、

かたわら、ときおり、

賭場も開いている。

歓楽街の任侠といえば、また女衒の元締めといってもいい。

そこで、清次郎のことをたずねあげるが、いっそうはやいと

男は踏んだ。

この界隈においても、今だに顔が聞くこの男の

生業は米問屋である。

今は隠居という身分に落ち着いてしまったが、

人の命をつないでゆく

米という食物の上がりは大きく

商売の伝も含め、この界隈に大枚を落とし

豪遊の旦那としても、今も語り草になっているようである。

男は若気の至りが、思わぬ役に立つことが

おかしく、くすりと、ひとり笑いを浮べ、中に入って入った。

「おや・・・おひさしぶりで・・・」

組頭が男を見つけると早速、札をわたそうとするのであるが・・・

「なんだい?

こんな昼間っぱらから、賭場をひらいてるのかい?

残念だが、もう、すっかり隠居三昧で

札のくりかたもわすれちまったよ」

「ご冗談を」

笑い返す組頭に

お断りの挨拶もそこそこに用件を伝える男の顔がきっ、と、

真顔になる。

「時造親方は奥にいなするかい?」

男の真顔に組頭は

「どうぞ」

奥へ行ってくださいと手をのべた。

それから、半時もしないうちに男は

女衒、清次郎の前に立つことになった。

「時造親方にきいてね・・・」

此処に来たんだといえば、いいと、いわれたとおり

時造の名に清次郎が居住まいを正した。

「自分などに・・・米問屋のご隠居さまともあろう方が

何の用事ですかい?」

清次郎が構えた返事を返すのは致し方が無い。

だが、その言葉に臆し、

回りくどいことを言っても、はじまらない。

「お登勢さんのことで、聞きたいことがあって

わざわざ、きたんだよ」

お登勢の名前に男の目がいっそう、こちらを探る目つきにかわる。

だが、それは、間違いなく

清次郎がお登勢を覚えているという事である。

清次郎も用心深い。

男の目論見が見えないうちは

自分からお登勢を知っている。

覚えているとは、口に出そうとしない。

「お登勢?・・・そりゃあ?誰だろう?」

「とぼけなくてもいいよ。

十年前・・かなあ?

お登勢さんが八つの歳だったねえ?

おまえさんが、姉川から、木蔦屋につれていったんだよねえ」

「あんた?

なんで、そんなことをしっていなさる?」

思わぬ、襤褸を出してしまった清次郎は

あっと、口を押さえた。

「今から、此処に来た事情を説明するから

きいておくれだよね?」

男がねめつけてくる視線に

たじろぎを感じるのは、男が真剣なせいだ。

そして、

お登勢に何か有ったのかもしれない、

不安が胸に兆し

清次郎は「うむ」と男の言葉に応じていた。

男が木蔦屋に出向いっていったのが、

さるところの跡継ぎとお登勢の縁談をまとめるためだときかされると、

清次郎はほう~~と声をあげた。

「そうかい。

そうだよなあ。

お登勢ももう十八になったんだ。

鬼も十八、番茶も出ばな・・。

なるほどなああ。

まあ、しかし、よくも、喋れない娘を・・・、

いや・・・。

ひょっとして、喋れるようになってるのかい?」

十年近い歳月、

木蔦屋のお芳の気性もあった。

お登勢によくしてくれると信ずるに足りるお芳でもあった。

お登勢も持ち前の気丈さと賢さで、

木蔦屋にかわいがられておろう。

それに安心してもいた。

まっとうにお日様の下を歩けもしない自分が、

心配するも笑止と気に留めなかったせいもある。

だから、お登勢が今どういう風になっているのか、

清次郎は一つも知らなかった。

「そこなんだよ。清次郎さん」

そこといわれても、

どこ?なにが、そこなのか、清次郎はつままれた顔で

男を見つめ返した。

「お登勢さんは喋れるようになんなすっていたけど・・・。

喋れるようになったある事件のせいで、私が木蔦屋に行く前に

木蔦屋を出ていって、しまったんだよ」

「なんだって?

いったい、何があったんだ?

あ?

じゃあ、その縁談の話ってのは、

おしゃかになっちまったのか?」

「いやいや、そうじゃないんだ。

私はこの縁談ををまとめたいと思って、いるんだよ。

だから・・・、此処にきたんだよ」

清次郎はくすんと鼻をすすった。

「お登勢に何があったかは、後でゆっくりきかせてもらうとして、

つまり、ご隠居、あんたは、

お登勢の行方がわからないって、事なのかい?」

そうでなければこの男が自分のところにくるわけがない。

「中々、物分りが早いねえ。

だけど、お前さんの様子では、お登勢さんは

此処にきてはいないようだね」

清次郎がとぼけているんじゃないのかと

暗に釘をさしてみせると

「だいいち、俺は木蔦屋にお登勢を預けてから

直ぐにやさをかえているんだ。

それから、お登勢にあったことも無い。

俺の居場所を捜そうとおもったら、

あんたと同じ、

例えば郭界隈に顔をだすしかねえだろう。

お登勢が・・・。

娘っ子がそんなところにどうやって行くっていうんだい?」

「私も十中八九、そうだとおもっていたんだが、

それでももうひとつ、お前さんになら聞けると思うことがあってね」

「俺にきけること?」

「まあ、ただしくは、木蔦屋ではきけなかったことなんだがね」

「なんだろう?」

「うん。

お登勢さんの知り合いに姉川の同郷の人間がいるだろう?」

「ああ?

それもお芳さんからききなさったのかい?」

「まあ、そうだ。

ところが此方は縁談を持ち込んだのが誰か言わずじまいに

話をきいたもんだから、

それが何処の誰かを聞かせてくれというわけにも行かず、

女将もお登勢さんがその人にはなにもいってないだろうから、

お登勢さんが出て行ったことをいうは、寝耳に水で、

気の毒とおもったんだろう。だれかいおうとしなかったんだ」

「ふ~~ん」

長い相槌を打つほど清次郎はかんがえこんでいた。

無論、清次郎も晋太がいっぽんだちになったことなぞ知る由も無い。

「まあ、俺もたった今、かんがえてみたが、

お登勢は晋太には、何もかもはなすんじゃねえかな?」

「そうですか?

その方は晋太さんとおっしゃるんですね。

私も木蔦屋の女将も

お登勢さんが出て行ったわけを考えると

話したくても話せない。

話さないだろうとおもえるのですが・・・」

お登勢が出ていった後ろには

どうやら、複雑な事情があるらしい。

「だが・・。

それでも、お登勢は晋太には話す。

そして、何処に出奔するとしても

晋太にはいずれでも、行く先を教えに来る」

「そうですか?」

どうにも疑わしくなるのは

清次郎がこの十年の木蔦屋でのお登勢を様子を

かけら一つ知らないといったからである。

が、そこまで、猜疑され、疑われれば

清次郎もお登勢が晋太にだけは話す根拠を言うしかない。

「これは、俺もお芳さんにはいわなかったんだけど・・・。

お登勢が姉川でどんなむごい思いをあじわってるかは、

ききなすったかい?」

「ええ、縁の下で・・」

「そうだ。その通りだ。

だけどな・・・。

縁の下で自分を失いかけていたお登勢をみつけ、引っ張り出すほど、

お登勢の事を気にかけていたのが、晋太なんだよ。

お登勢は晋太にたすけだされたんだ。

誰よりも、晋太がお登勢を気にかけ、心配し、

助け、ささえてくれる。

そんな晋太だから、

お登勢は甘えられるんだと思う。

俺はほんの何日か晋太とお登勢と一緒にくらしたんだがな。

布団も無いていたらくでお登勢と晋太が子猫のように

寄り添って眠っていたよ」

なるほどと男は思った。

子供の頃からの知り合い、つまり、幼馴染ともいおうが、

この人間はのちに知り合った友人とは

どうも、一段違う場所にいるといっていい。

性格というものは

大人になっても下地の部分はほとんど、かわらないといっていい。

良い性分にしろ、

悪い性分にしろ、

幼い頃に見た素地のままの性分は

なぜか、こちら側もすんなりと受け止めてしまう。

それに較べ、歳を取ってからの友人は非常に出来にくい。

己の考え方や立場や損得などという

いらぬ知恵が介在し

相手をそのままに受け止めるより

付き合うに足る人間か

あるいは、どの程度の付き合いをするかを

先に詮議し、その結論にしたがう。

無垢だった自分が

綺麗な心で何もかもを許容した相手である分、

幼馴染というものは一層、大事な存在になりえるのであるが

それが

お登勢の場合・・・。

命の恩人といってもいいかもしれない。

正気をなくし、くるいかけた

お登勢を

力強く現実に引き戻したのは

晋太の思いだろう。

『お登勢。くるっちゃあいけない。

どんなに辛くても

お登勢は頑張っていきなきゃあいけない』

お登勢の精神が快方に向かったのは

晋太という人間によって

『お登勢こそ、自分こそが大事』と気がつかされたせいだ。

ちっぽけで、一人じゃ生きてゆけない、役にも立たない、

そんな自分を晋太が大事に考えてくれる。

「お登勢、生きなきゃあ」

お登勢を支えてきたのは、このときの晋太の思いである。

このことにより、

お登勢は晋太に対する信頼を一層、深め、

文字通り、信じ、頼る唯一の相手になっていた。

こういうと、

お芳は頼ることができないのか?

と、いうことになってくるが、

まさにその通りといってもいい。

晋太以外の人間に対し、

お登勢はいつも気を配っていた。

素のままの感情をぶつけるなどというわがままを、

押さえ込んで、相手の状態を判断する。

言い方を代えればお登勢のほうが相手をかばって見ていた。

こんな相手にお登勢が心の底を見せることも出来なければ

頼ることも出来るわけが無かった。

だから、清次郎のいった事は的をえており、

聞かされた男も

今までの人付き合いで

清次郎の言おうとしている事に

うなづける、酸いも辛いも噛み分けた苦労があった。

「なるほど・・・。

確かにおまえさんの話を聞けば

晋太さんというのが、

『兄』のような人と言われたのに、得心するよ。

私は、

口入屋にも、いってこようとおもっていたんだけど、

その前にやはりその晋太さんをたずねてみようとおもう。

晋太さんというのが、

何処にいるのか、

おしえてもらえまいか」

男の言葉に清次郎はゆっくりと男を斜めからみあげなおした。

「笑わせちゃあいけないよ。

木蔦屋にならいざ知らず、

この俺にも、お登勢に縁談をもちこもうという相手が誰か

あかそうともせず、

こっちの知ってることだけを喋れっていうのは、

むしがいいっていうか。

信用が置けないっていうか。

え?

その相手が何処の誰かも判らない。

ひょっとすると、とんでもない輩かもしれねえじゃないか?

おいそれと、

俺もしゃべりたくねえ。

俺から晋太の居場所を聞き出して

晋太にだって、そんな態度でしゃべるつもりかい?」

清次郎のいう事はもっともなことである。

「そうだったな。

だけどな、その人はとんでもない人間じゃない。

とんでもないのは

むしろ、木蔦屋主人の剛三郎だ。

お登勢さんにとんでもないことをしかけやがって、

やむにやまれずお登勢さんは出て行ったんだよ。

だからこそ、お登勢さんをいっときも早く探し出して、

嫁に貰いたいと真剣に考えている人間が居るって事だけでも

つたえてやりたいんだ。」

「な・・なんだって?」

女衒なぞという生業をこなしていれば

嫌でもこうでも、男と女の醜聞、痴情の果ては耳に入ってくる。

男のわずかな言葉から

お登勢の身にあった事を直ぐに察することが出来るほど

女衒に染まりきり、なりきった清次郎である。

「ああ・・・。

いや、つい私も腹が立ってしまって、

お前さんを吃驚させたけど、

何、お登勢さんの身代は無事だったんだよ」

「おい、冗談じゃないぞ。

そりゃあ、普通の娘なら、

涙を呑んで諦めもしようし、

場合によっちゃあ、それを機会に妾にでもなろうって

考えられるかもしれない。

だけど・・・。

お登勢は・・・」

目の前で母親が犯され、殺されるのを見ている。

「俺が・・・どんな思いで木蔦屋にお登勢を預けたか

判っていて、

無事だったからそれでいいだと?」

清次郎がぐっと、こぶしを握ると

そのまま立ち上がろうとする。

「ちょっと待て。どこに行こうというんだい。

何処に行こうとおまえさんの勝手だけど

木蔦屋に殴りこみにいこうなんて、

了見をおこしちゃいけないよ。

そんな事にならないためにも

お登勢さんは黙って出て行ったんだ。

落ち着いて最後まで話をきいてからにしてくれないか」

清次郎が座りなおすのを待って男が話し始めたことは、

まず、お登勢の部屋に男が忍び込んだ事からはじまり、それが切欠でお登勢の声が戻ったこと。木蔦屋の女将は十中八九、夜這いが剛三郎の仕業であると思えるのに、気がついてないということ。ゆえにお登勢が女将をおもいはかり、事実を知らせることも出来ず、かといって、そのまま木蔦屋にとどまれば

剛三郎の恣意にのみこまれてしまう。

やむにやまれず、木蔦屋のため、

剛三郎の改心のため、

女将のため、

そして、何よりも自分の身を守るためにお登勢は

出て行ったのだ。と、清次郎に話し終えると

清次郎のこぶしが今度は目の下のたまり水をぬぐっていた。

「おそろしかっただろうに・・・。

どんなにか、おそろしかっただろうに・・・。

それでも、お登勢はまた

そうやって、人のことばかりきにかけて・・・」

「だからね。

そんなお登勢さんだから

先方も是非とも嫁に欲しいって、いうんだよ。

私はどうにでもして、この話をまとめたいから、

お登勢さんの居場所を突き止められる報せがほしくてね。

だからね・・・。

その人は

染物商、井筒屋の若頭、徳冶さんだよ。

なあ、

これで晋太さんが何処にいるか・話し・・て・・も・・ら」

口をあんぐりとあけたままになった清次郎に

男の言葉がとぎれた。

「なんだい?また、

なにか・・あるのかい?」

「な・・なにかも・なにも・・。

晋太の奉公先が

その井筒屋なんだよ」

言い放たれた言葉の弾が

男の口もこじあけたかのように、

男の口から

「え?」

と、言葉がでたきり、

男の口もやはりあんぐりとあけたままになっていた。


「なんて、こったい。

灯台元暗しってことかい。

だったら・・・」

晋太にききにいこうと

思った男がはたと考え込んだ。

お登勢に木蔦屋という後ろ盾があったからこそ

男が仲人にたてられたのである。

それが今は無い。

そういってもいいだろう。

お登勢さんに直接話をするしかなくなったわけだ。

そこにとりもち顔で話しに行く?

いいや、おかしい。

これは人任せ、仲人任せにみえるだけではないか?

晋太さんの所に聞きに行くのも

おなじじゃないか?

お登勢さんが此処に居ます。見つかりましたよって、

お膳立てがそろってから、尻がやっとあがる?

是非とも嫁にという態度にやあ、みえやしない。

そんなんで、お登勢さんが

嫁に行ってもいいなんて、思ってくれるわけが無い。

と、なると、

こりゃあ・・・・。

はやく、徳冶さんに知らせて

直ぐに晋太さんにたずねてもらったほうが、いい。

そして、徳冶さんが自ら

お登勢さんを探しあてるんだ。

そうだ。そうだ。そうでなくちゃあ、いけない。

男はすってのところで

いらぬでしゃばりをせずにすんだ自分に

胸をなでおろすと、

清次郎に言っておくことを口中に含めた。

「なあ、おまえさん。

この話を木蔦屋の女将にはなしたらな。

お登勢さんの嫁入りしたくは

自分にさせてくれといってきたんだ。

お登勢さんが黙って出て行ったわけもわからず

随分心配しなすっていたんだ。

女将はお登勢さんを本当の娘のように

おもっていなさる。

だからな、だからこそ、

娘とも思うお登勢さんに我が亭主がとんでもない了見を

持ったなんて知ったら、

女将は二重に苦しむだろう?

そこのところを判ってやって

おまえさんは今までどおり

なにも知らぬ存ぜぬでこらえてやってほしいんだ」

「判ってる。判ってるよ。

ましてや、お登勢の事をそうまでしてやろうって

お芳さんなら、

もう、俺もなんにもいうことはない。

それよりも・・・あんたがたいへんだろう?」

清次郎の見抜いたとおりである。

男はこれから木蔦屋にいって、

お登勢の出奔を話し、

縁談を纏められなかった、と、いわなければ成らない。

が、

お登勢が長年の恩がある木蔦屋をあしげにしたと

おもわれては、

成る話がならなくなってしまう。

と、なると、どうしても、

お登勢の出奔のわけ。

つまり、剛三郎の醜聞に触れるしかない。

徳冶に話すだけなら

徳冶の胸におさめてもらうだけでいいが、

井筒屋の夫婦にはなすということは、

剛三郎の信用を地に落とす事になる。

そのうえで、

剛三郎の醜聞を他言してくれるなと

いわなければ成らない。

悪さをしかけておいて、

それを人に話すなは、いかにも

盗人猛々しいではないが、手前勝手なことと、

剛三郎への評価はますます、地に落ちる。

こんなことはお登勢こそがのぞんでいないことだろう。

だが、話すしかない・・の・・だろう。

清次郎はそんな男の気の重さを

みぬいていたということである。


清次郎の住家を後にした。

胸の中の算段が男の歩みを鈍め

男はぽつり、ぽつりと歩く。

行き先はもちろん井筒屋であるが、

男の胸に浮ぶのは

事実を告げる重苦しさと

お登勢が知ることではないのに、

告げられることを憂うお登勢の顔である。

『このまま・・・話がまとまっても・・・。

お芳さんは何の問題も無いが、

剛三郎は・・・。

お登勢さんにしこりを残すだろうなあ・・・。

剛三郎にすれば、自分の元を逃げ出して、あげく、

お芳さんに事実を告げられないのを

逆手にとって、嫁入り仕度までおっかぶされたとおもうだろう。

こりゃあ、いわば、

暗黙のおどし、すかし・・・。そう、取るだろうなあ。

こんな思いをもたれちゃ、

お登勢さんが・・・。

いや、剛三郎自身が気の毒かもしれない・・・。

なにか・・・。

いい方法がないか・・・』

考えながら歩いてゆけば、嫌でも歩みは遅くなるが

それでもやはり

井筒屋についてしまう。

暖簾の前で大きく息をすい、

ふんっと鼻からぬくと、

男は軽く小首をかしげ

話してゆく構えが出来た自分に頷いた。

「ちょっと、邪魔するよ」

暖簾をくぐった男の声に

親子がすぐに迎え出るをみると、

やはり、

待ちくたびれて長の首になっていたと判る。

「奥にあがるよ」

男が先に声をかけると、

親子はさまに男の付き人になりかわり、

廊下を歩きだした男のあとに従った。

男が井筒屋奥の間に上がりこんだ頃、

木蔦屋にやっと剛三郎が

戻ってきた。

相変わらず一目散に庭に降り立とうとする

剛三郎に

「おまえさん。ちょいと、盆栽はあとにして・・・。

こっちへ来ておくれよ。

良い知らせがあるんだよ」

「まあ、待ちなよ・・・」

お芳の言葉をかわしておいて、

剛三郎は剪定の道具箱をのぞいた。


あるはずのものが無い時の

人間の顔は、どこか、魔が抜けた表情になる。

思考と感情がいっぺんに止まり

頭の中と同じに顔まで無表情に近い。

とまった時が動き始め

剛三郎は此処にあるはずのものがないわけを考え始める。

蓋をあけりゃあ、直ぐ分かる場所にかきおきなんぞ

残しておいて・・・。

側にお芳がいて、一緒に覗き込んだら

それは何だ?

ひょっとすると、

お登勢が何か書いて寄越しているのではないか?

見せろ。

と、ひと悶着が起きる。

あげく、そこに

『何処そこでお待ちしています』

等とでも、かかれてあったら、

いくらお芳でもどういう意味か、判る。

お芳にでなく、

何故、剛三郎に書置きを残すのかと、

いう事だけでも、充分に疑いの種があるのだから、

お芳が簡単に覘きこめる場所に置くぬかりを

お登勢がするわけがない。

俺も考えが甘い。

と、剛三郎は今度は剪定箱ごと持ち上げ

箱の下を覘きなおした。

『ここではない・・・』

と、なると・・・。

剛三郎だけが気がつく場所が他に思いつかない。

何処までも、お登勢が自分のものだと思い込んだ男は

今度は別の方法を考える。

『誰かを・・・使いに寄越すきか?』

まてよ?

さっきお芳が知らせがあるといっていたな。

それか?

誰かが来た?

だが、俺が居なくて、お芳が居たものだから・・・。

何か、当たり障りの無いことをいって帰った?

ついでに何を言ったか?

お芳が黙っていてもこっちに誰か来たことを

話したくなる嬉しいおせじか、

商売がらみのことか?

そうかもしれない。

それで、ゆっくり商談したいと俺を呼び出す算段をつけたか?

だな?そうだな。

だったら、

お芳の話をききにいくか。

剪定箱の蓋を閉めなおすと

剛三郎はやしきの中に入っていった。


お芳が用意した麦茶の湯飲みを手の中に収め

「ああ・・もう・・こんな時期になってるんだな」

と、常を装い、

「それで、良い知らせっていうのは?

なんだい?

お登勢がみつかったのかい?」

お芳にとって良いしらせというならそうだろう。

お芳にかこつけて、

かまをかけてみれば・・・。

「ううん。そうじゃないんだよ。そうじゃないんだけど、

おまえさん、

吃驚おしでないよ・・」

「なんだよ?

偉く、もったいをつけるじゃないか?」

お登勢が見つかったより、良い知らせで、

おまけに俺が愕く知らせって、なんだろう?

「あのね、お登勢に縁談なんだよ。

お前さんが出かけてる間に五十半ばくらいかねえ。

身なりの良い・・あれは、どこかの大店の旦那か、

町役か・・・」

喋り出したお芳であるが

相槌も打たない剛三郎に

さては、とんと吃驚しなすったねと

剛三郎をまじりとみつめてみた。

だが、剛三郎の顔つきが妙にこわばっている。

「おまえさん?」

お芳の浮いた口調に調子を合わせ切れなかったほど

剛三郎の心中は波立っていた。

『どういうことだ?

縁談?

それは、どういうことだ?

お登勢がどこにも、居なかったのは、

つまり・・・そういうことか?

お登勢はどこかの男と既に夫婦約束をかわしていた?

それなのに、

子供養子だの

果てには俺の妾になれだの・・。

そんなことを言われて、事実をしゃべることが出来なくなって

俺を振り切るために嘘をついたってことか?

ふっ

そうかもしれない。

だいたい・・・今までのお登勢をかんがえりゃ

あんなふうに男の胸の中にあまえてくるなんて事自体

できる娘じゃなかったはずだ。

それを・・・。

どこかの男と深い仲になった『女』だからこそ、

見せる手管だと気がつかず

おぼこい娘の必死の恋情だと思った俺が

あまいというか・・。

うまく、たばかれたというか・・。

こんなことなら、あの時

障りだろうが、何だろうが・・

あ?

あははは・・。

それも嘘?

え?

お登勢・・お前、よくもしゃあしゃあと・・・。

ようは、

俺はお登勢にうまく袖にされたってわけだ。

そして、

そ知らぬ顔で相手の男との縁談話をもちこませる?

こけにするのもいいかげんにしろ』

黙り込んだ剛三郎の顔に険が走っている。

「おまえさん?

どうしたんだい?」

お芳の声に剛三郎は我に返る自分を取り戻し始めていた。

「ああ・・いや・・縁談といっても、

お登勢が此処を飛び出してゆくような相手では

ろくな人間であるまいとおもえてな」

顔つきの変わったのは既に尾芳に気が疲れていることであらば、

それなりの繕いが必要で

縁談の相手が心配だと剛三郎は切り抜けた

だが、

お芳は剛三郎の考えすぎだと笑い出す。

「だってね。

そりゃあ、あたしもそう思ったよ。

でも、むこうがいうのには、

どこかの大店の若旦那がお登勢を見初めて

この話をまとめてくれって、で、ひと肌ぬいだってことだよ。

お登勢が出て行ったことさえ知らなかったんだよ」

「と・・いうことは?」

「だからさ、

その若旦那としめしあわせてのことじゃないってことだよ。

まあ、それで、

あたしも、此処に居ないお登勢を

どうぞってわけにもいかないじゃないか。

仕方ないから、出て行った事をはなしたんだけどね・・・」

剛三郎がそれでも、やはり、怪訝な顔をする。

しめしあわせてのうえでないと、得心するに、

なんの証拠も、根拠もみえないというところである。

「で、その若旦那っていうのは、

どこのどなた様だっていうんだい?」

「それが・・・。

お前さんが帰って来たらきちんと名乗りを上げて

相手のことも話すつもりだったんだろ。

ところが肝心のお登勢がいないってんじゃ、

在った話にもなりゃしないじゃないか。

むこうはお登勢を探すっていうし、

あたしも、お登勢が出て行った理由を考えると

ぬけぬけと

どちらさまでしょうか、なんてきけやしないよ」

「な?なんだよ。

まるで、こっちがお登勢をおいだしたみたいにいうじゃないか。

お登勢は自分の勝手でとびだしちまったんだ。

それをなにも、こっちが負い目に感じる必要はないじゃないか」

お芳は、肩からぬけてゆくような大きくため息をつく。

「おまえさん。

本気でそう、おもっておいでなのかい?」

「本気も何も、実際、そうだろう?

お登勢のすきなようにさせてやればいいって

昨日もはなしたじゃないか。

そして、こうやって、お登勢がでていったんだったら、

お登勢が自分の好きなようにしたんだって、

かんがえてやればいいんじゃないか」

いかにももっともらしく聞こえるが

剛三郎にすれば、お登勢の出て行った理由から、

話題を遠ざけてゆきたいだけでしかない。

「ああ。あたしもそうも思ったんだ。

だから、うかつに、

ただ、お登勢が出て行ったことだけを話したら、

お登勢が此処を足蹴にしたようにもおもわれようし、

出て行くわけを告げずに言ってしまったことも

それこそ、おまえさんのいうように、

でてゆくわけをいえないのは、

どこかに妾奉公でもする気かとむこうも思うかもしれない。

だから、あたしは

夜這いのことから、お登勢の生い立ちから、

何もかも、話して

お登勢がでてゆくわけはいわなかったけど、

けして、間違ったことをする娘じゃないって

それをしんじてもらいたくて・・・」

「ああ・・・。お登勢はそんな娘じゃない・・」

その言葉にお芳はいくばくか、胸をなでおろしたが、

剛三郎の呟いた意味は違う。

「それで、その人が言ってくれた事こそが

お登勢が此処を出て行った理由だと思うんだ」。

此処に来た男がお登勢の出奔の理由を詮議がましくするのも

気に入らないが

人様の奉公人の内情にまで首を突っ込んで

しゃしゃりでて、お芳に何をふきこんだというのか。

「ちょ、ちょっと、待て。

何処の誰かも言わない、

誰の使いで来たかも言わない。

おまえ、そこをきちんときかないで、

その話が本当かどうか、確かめもせず

夜這いがあったのどうのと、しゃべくっちまうなんて、

うちの店の恥じゃないか。

主人の目の不行き届きだとも、

お前が言っていた通り

主人の威も落ちたもんだ。

奉公人に舐められたもんだと

思われるだけじゃないか。

どこの誰か話してくれて、それが、確かなものなら

わからないでもないが・・・」

剛三郎の中に生じた危惧がある。

いくらお芳だって、長い間商売をやっているんだ。

人を見る目はある。

だから、お芳だって納得までは出来ないまでも、

男を信用したという事になる。

と、いうことは、その男は・・・。

それなりの人物と風格を見た目からも

話術からもそなえていると考えられる。

これは、どういうことになるか・・・。

そんじょそこらの、伊達者くらいじゃないってことになる。

つまり・・・。

商連の主人格。

あるいは、町役。

商連の主人格なら・・。

事の真相を見抜かれた日には

商連会からの信用を失うのは自分になる。

だから、

剛三郎は夜這いの主が自分で無い風に話が進んだのかを

お芳をしかりつけてみて、確かめていた。

「ああ。やっぱり、おまえさんも

本当は店の中の誰かだとおもっていたんだね」

じゃあ・・・。

本当は剛三郎も何もかも承知だったんだ。

お登勢が男をかばってやったことを見抜いて、

ああ、ああ。

それで、お登勢の好きなようにさせてやれって・・・。

「なんだよ?

その男もそういってたのか?

店の中のものだって?」

「そうだよ。

そして、お登勢の事も

その夜這いの男の事をよくよく、かんがえてやったんだ、って。

その男にだって、生活があるだろうし・・。

女房もいるだろう。

こんなことが主人にあからさまになっちゃあ、

男が路頭に迷う。

女房さんの信用も無くし、夫婦がばらばらになったあげく、

たっきの道が無くなる。

一人の男の人生を潰しちゃ行けない。

自分が出てゆくことで男も改心してくれるだろうって、

男をかばうために理由もいわず

黙ってでてゆく恩知らずを装うしかなかったんだろうって

だから、女将さんはそれが誰か判っても

といつめちゃあいけないよって、ねえ。

そこまで、いってくれるんだ。

縁談の話は無論、

お登勢を探すって事も本当だよ。

探しだして、必ず話を纏めて知らせにくるって

そういってくれたんだよ」

「なるほどな」

と、剛三郎はお芳にうなづいて見せた。

だが、

お芳の言うとおりの意味で得心したわけではない。

剛三郎が取り繕った和やかな表情とは

まったく裏腹の怒りが剛三郎の胸中に渦巻いている。

『探し出してみせる?

とっくの昔にそいつは

お登勢の居所なんか、判ってらあ』

お登勢こそが、その男に

夜這いが誰であったかは、もとより

茶屋の奥の間で、剛三郎が告げたことも

話しているのだ。

そして、男はわざわざ、此処に来て

お登勢にちょっかいを出すなと

牽制をかけたんだ。

「女房さんの信用も無くし、夫婦がばらばらになったあげく、

たっきの道が無くなる。

一人の男の人生を潰しちゃ行けない」

などと、遠まわしに

俺のことを例えて見せて、

おどしをかけているのだ。

剛三郎の怒りは此処にきわまる。

『姑息な真似をしやがって・・・

育ててもらった恩を忘れ

果てには、おどしかよ?

え?

好いた男がいるなら、居るで

はっきりいえばいいじゃないか。

俺だって、それがわかりゃあ、無茶はいいやしない。

え?それにしたって、どうだい?

今までの恩をかんがえてみりゃあ、

黙って、一度や二度のなし崩しを堪えるのが

筋じゃねえか?

それを、大儀面をさげて、

恩あるご主人様に意見するってかい?

え?お登勢・・・。

おめええ、随分、偉くなったもんじゃないか?」

得手勝手な剛三郎の怒りに見えるかもしれない。

だが、

確かに、

剛三郎の言うように、男がお登勢の差し金であるならば

奉公人、そして、育ててもらった恩。

これを考えれば

お登勢は己の分を過ぎているといえる。

剛三郎が納得したものと思い込んだ

お芳の話はまだ続く。

「それでね・・。

あたしはおまえさんに勝手にすまないと思ったけど・・・。

その人にお登勢を見つけて

縁談がまとまるなら、

お登勢の嫁入りしたくはうちでさせてもらうって、

いっちまったんだ。

ねえ、お前さん・・・そりゃあ、かまわないよねえ?」

「あ、ああ。

そりゃあ、むしろ、こっちが、やらなきゃならないだろう」

剛三郎は腹の中で怒りつづけたまま

『このままで、すませはしない』

と、考えている。

このままでは、済ませない。

と、いうは、お登勢が何処かの嫁に納まるのを、

そのまま、指をくわえてみていはしない、と、いう事である。

男のその気を煽るだけ、煽っておいて

男が大人しくあきらめるわけが無い。

剛三郎は思いをはたす策を

お芳の提言に見出していた。

お登勢の居所がわかったとして、

剛三郎がお登勢をもう一度どこかに誘い出すのは

不可能だろう。

お登勢も用心して、でてきはしない。

だが・・。

大義名分というものがある。

お芳という存在もお登勢には泣きところである。

「だいたいな。長年此処にいたお登勢が

黙って此処を飛び出したなんてのが、

人の耳に入ったら、どう噂されるか。

ろくでもないことをいわれたら、

商にも、かかわってくる。

そうこうしてるうちに

どこかの大店の嫁に入ったって、ことになる。

木蔦屋の子飼いからの奉公人が飛び出して

あげく、嫁に行っても

その嫁ぎ先とは疎遠で、

木蔦屋はそ知らぬ顔をしている。

こうおもわれちゃあ、こりゃあ、良くない。

俺は今度は逆にお登勢を子供養子になおした上で、

木蔦屋の娘として

此処から嫁にだしてやるべきだとおもうんだ。

だから・・。

お登勢が見つかったら、

此処に戻らせて、此処からだしてやればいい。

いや、そうしなきゃ、

木蔦屋の外聞にかかわるとおもうんだ」

嫁ぐまでのほんの少しでいい、

戻ってきてくれと

お芳に頭を下げさせれば、

お登勢は戻ってくるだろう。

そして、

お登勢がここにもどってくれば・・。

ほんのちょっと、

剛三郎の思いをうけとめるだけで、

あとは、お登勢の自由勝手になる。

『こんなことくらいで

長年の恩をかえすことができたんだ。

易いもんだろ』

手中に収めたお登勢を夢想しながら

剛三郎はお登勢を宥める言葉を胸の中にねじこんでいた。


剛三郎の提案にお芳は

深々と頭を下げた。

「おまえさん。

有難う。本当に有難う。

いつも、あたしは、おまえさんを後にして、

あたしの勝手で決め事をつくっちまうというのに、

いつも、おまえさんは、怒りもせず、あたしの味方になって、

後押ししてくれる。

有り難いと思ってるよ」

頭を下げたお芳を見つめる剛三郎に去来するものがある。

『俺は・・・

そんなおまえを、どこかで疎んじてるんだと思う。

いつも、いつも、お前の言うとおり。

そして・・・。

俺に従順だと思ったお登勢も

結局、お前と同じ。

なにひとつ・・・。

俺の思い通りにゃあ、なりゃあしない・・・』

女房を牛耳切れない男の鬱積は

お登勢を囲うことで、晴らされて行くはずだった。

剛三郎が望んだ一縷さえ、手に入らないと、わかった今、

空を切った望みは捨てるしかない。

捨てるに、諦めるに、

一度、抜いた刀の猛りは

人肌の柔らかさでぬぐうしかない。

一縷と思った分だけ、諦めきれない猛りが

剛三郎をがんじがらめにし、

お芳への後ろめたさを

お芳への不満にすりかえさせていた。

「それでも、ねえ?おまえさん。

そうまでいってくれるなら、

やっぱり、

うちのほうでも、お登勢を探さなきゃ、

こりゃあ、おかしいんじゃないのかね?」

お芳は剛三郎とは違い

お登勢が頼るあても無くひとりぼっちで、

どこかにいると思い込んでいる。

お芳の思うままにあわせ

ふと気がついた振りをして見せた。

「お登勢は

きっと、住み込み奉公先を探すに違いないと思うんだ。

口入れ屋をあたってみるとか・・。

例えば、繁華な場所の飯屋とか・・。

忙しげで猫の手もかりたいってとこなら、

お登勢の器量も手伝って、直ぐに話がきまるんじゃないか?

仕立て屋なんぞに、行けば

直ぐに木蔦屋のお登勢だってわれちまうし、

針と糸には、かかわらないきがするな」

「ああ・・。

そうか。そうだね。

お登勢はもう、口がきけるようになってるんだ。

自分で口入れ屋にいって、奉公先を見つける事だって

できるよね・・。

どうも・・。

あたしは、お登勢が此処に来た八つの時みたいに、

行くあての無い、

どうにもしょうがない、お登勢とおもいこんでしまうよ」

いいながら、

お芳は

お登勢を此処に連れてきた清次郎のことも思いかえさせられていた。

自分も清次郎をたずねてみよう。

そして、口入れ屋もたずねてみようし、

飯屋は、もとより・・

仕立て屋にも念を入れてみようと

考えなおしていた。

井筒屋に上がりこんだ男こと

米問屋。大西屋の隠居であるが、

親子みつどもえで雁首を並べられると、

さすがに立て板に水の如くには言葉が出てこない。

何処から、話してゆくかを順序だてていたはずだが、

良い知らせを待つ親子に

お登勢の出奔を告げるのが、いかにも残念である。

「大西屋さん・・・。いかがでしたか?」

うずうずと、尻が動くかのような息子徳冶を目の端に

置く事にこらえかねた井筒屋の主人・徳エ門が

口火を切った。

「それが・・・。

お登勢さんは木蔦屋を飛び出して、

行方がわからなくなっているんですよ」

まず事実を告げてから、

お登勢の深い事情を話してゆくしかないだろう。

お登勢の出奔を聞かされて

徳冶の表情は酷く、こわばったものになっていた。

「で・・・出て行ったって、

いったい?なんで?

何処に・・・」

お登勢を恋し、信じる男は

お登勢の出奔の窮地に手を差し伸べられなかったと

己を責める。

お登勢に何があったのか?

よほど、困り果てた末のことだろう?

あれだけ、木蔦屋で可愛がられていたお登勢が

木蔦屋を飛び出さなければ成らなくなっていた。

それも、知らずに

安気に、仲人などを立てた。

お登勢にすれば、それどころじゃなかったんだ。

「大西屋さん。お登勢ちゃんに何があったんです?

お登勢ちゃんは今、何処にいるんです」

問い詰める徳冶の顔が蒼白に成っている。

「う・・ん。

徳冶さん。心配なのは良くわかるが、

ちょっと、おちついて、話をきいてくれないかな?」

だいの男が取り乱す。その思いの熱さに

水を掛けてみても無駄だと思いながら

大西屋は徳冶にむきなおった。

「お登勢さんの声が戻ったのは、

徳冶さんからもきいていたことではあるのだが・・」

「ええ・・・」

「このたび、木蔦屋に行ってみて、

お登勢さんの声が戻ったわけが、わかったのですよ。

そして、そのわけが

お登勢さんを木蔦屋にいられなくさせたのですよ・・」

「声が戻ったわけ・・・?」

橋を渡るお登勢を追いかけて

土手を上がったとき

お登勢ちゃんはいつものように

明るい目の色をしていた。

木蔦屋をでてゆかなきゃならないような、

そんな、追い詰められたものは

徳冶にはかけらもかんじとれなかった。

むろん、これは、無理も無い話である。

この後にお登勢は剛三郎の

心の底をきかされることになったのである。

徳治が見かけたお登勢は

声が戻り、お登勢に悪さを仕掛ける人間も

もうちかよってこまい。

そう、安心もしていただろう。

そして、心配をかけていた晋太あんちゃんに

声が戻ったと、これから、告げに行く。

お登勢の心は浮き立ち弾んでいた最中であったのだから。

「お登勢ちゃんは随分うれしそうにみえたのですが・・・」

ふうむ?

と、大西屋はかすかに考え直した。

『と、いうことは・・・?

この時は、お登勢さんは、でてゆくつもりではなかったということか?

すると・・・。

このあと?

剛三郎になにかいわれたか?

されたか?

おい・・・。まさか・・・」

こりもせず、剛三郎が深夜にお登勢にしのびよった?

お登勢さんは・・・

それで、出奔の決心をかためた?

いや、それより・・。

お登勢さんは・・・無事だったのか?

剛三郎の恣意にのみこまれてしまったのか?

だが、いくら、何でも、

そうなりゃあ・・。

お登勢さんも叫ぶ・・だろう?

あ?

だが・・。

木蔦屋の女将に事実をしらせたくないお登勢さんなら、

むしろ・・・。

剛三郎がそれをたてにして、

お登勢さんに目を瞑って観念しろと脅かすことだってありえる。

おい・・。

どうなっちまってるんだ?

新しい事実に一瞬、大西屋は戸惑い、ゆすぶられたが、

まずは、

お登勢さんの出奔のわけを話さなきゃ成らないと

膝をなおした。

「徳冶さん。そのことは、また、ちょっと、後にしましょう。

徳冶さんには、別に話したいこともありますから・・そのときにということで・・」

話をもどすと、

大西屋は一気に事実を告げる事にした。

「実は、木蔦屋で夜這いがあったのですよ。

男がお登勢さんの部屋に忍び込み

あわやというときに

お登勢さんが声を上げ叫んだんです。

男はそれで、にげだしていったので、

お登勢さんは無事だったのですが・・・・」

「え?」

徳冶の顔色が怒りの色に変わる、と、同時に

「それで、お登勢ちゃんの声が戻ったということなのですね?

そんなところに・・・

お登勢ちゃんをおいておくわけにゃあいかない。

出て行って、正解です」

お登勢をかばいとれる自分でなかった悔しさが

言下にしきつめられていた。

徳冶はこの場を頓挫して

直ぐにでも 晋太に聞き及びたい。

『お登勢ちゃんは、お前のところに

きていないのか?』

だが、大西屋の隠居が言う。

「徳冶さん。そりゃあ、あなたにすれば、

簡単にそう、いいきれることでしょうが・・・」

徳冶から徳エ門夫婦にむきなおると、

「お登勢さんは随分小さい時に

木蔦屋に引き取られたわけですから、

木蔦屋には、深い恩義があるはずでしょう。

それが、夜這い如きで

木蔦屋を飛び出したと聞けば、

お登勢さんを嫁に迎えることが不安になる。

辛いことがあったら、

困ったことがあったら

それを解決しようとしないで

お登勢さんは息子をほうりすてて、

にげだしてしまうんじゃないか?

そんなお登勢さんを嫁にむかえてもいいものだろうか?

そう、考えるでしょう?

でも、これが、息子を思う親心というものですよね?」

大西屋のいう事はもっともなことであり

徳エ門の側に黙って座っていた妻女の

お多喜が微かにうなづいた。

「ですから、

お登勢さんがでてゆかざるを得なかったわけを

判ってもらわなければならないと思いますし、

この先、お登勢さんを見つけだして

縁組が整ったあとでも、

このことが、ご両親の不安の種として、

心の隅に残るのでは、お登勢さんが気の毒ですから・・」

と、前置きして

大西屋が剛三郎の仕業であることを話そうとした。

ところが、徳エ門が

「いや。皆までいいますまいな。

私にはおよその察しがつきます。

木蔦屋のお芳さんは

お登勢さんの事は実の子供のように

目をかけていらした。

お登勢さんもお芳さんを母親のように慕っていた。

それは、傍目から見ていても、良くわかっていることです。

ですから、恩を仇でかえすようなことを

お登勢さんがするわけがない。

夜這いなど、ましてや、未遂であるなら、

お登勢さんなら、

木蔦屋にとって、良い方向で解決するように、

お芳さんに進言なさるでしょう?

ところが、それができない・・・。

お登勢さんの部屋に忍び込んだ男の正体が

問題なのでしょう?

つまり・・・。

木蔦屋夫婦は、仲の良い夫婦ですからね・・・」

夫を疑うことも知らないほど仲の良い夫婦を、

お芳の信頼を、

こわしたくないから

お登勢さんは出て行ったんですねと

暗黙に含ませ、

徳エ門が

夜這いの正体にも、お登勢が出て行った心底にも、

思い当たるといっていた。

「私は、徳治がお登勢さんの名前を出してきたとき

非常にうれしかったんですよ。

確かに徳冶が心配していた通り、

喋れないということは、うちの商いには、

不向きです。

ですが、お登勢さんなら・・・。

小さな時から、お芳さんに連れられて、

此処にきていましたし、

長じては、ひとりででも、使いに来てました。

そのお登勢さんの気配りといいましょうかねえ。

声がだせないぶん、

常ににこやかにふるまう。

暖簾をくぐるときも

ゆっくりと頭を下げてね。

心のうちで「はいりますよ」

そう声をかけているんですよ。

思いから、発するものは、見ていて判ります。

態度に全てあらわれてくるものですから。

そんな娘さんだから、

私は口が利けようが、きけまいが、そんなことなど

どっちでも良いことだったんですよ。

そのお登勢さんを嫁に貰ってくれと

徳冶が言い出してきたときは、内心で

徳冶の目の高さをほめてやったくらいなんですよ」

だから、

お登勢の出奔について、

お登勢を妙に疑ることは無いと徳エ門は笑った。

「それよりも、

むしろ、徳冶なんかの嫁になることを承知してくれるか、

そっちのほうが心配です」

お登勢を是非とも、嫁に貰う所存であると きかされれば、

大西屋も、もう、これ以上、告げることは無い。

「そういってくださるなら、

お登勢さんの行方に思い当たるところもありますので、

私も、乗りかかった船という事で

お登勢さんをさがしたいとおもっておりますが・・・。

何よりも、徳冶さん自らが

お登勢さんを探すことが

お登勢さんの首を縦にふらせれるんじゃないか?と、

おもうんですよ。

で、その事に関して、もう少し

話しておきたいことがあるので・・

徳冶さんをちょっとおかりできますかね?」

本人の徳冶が、うなづくのは

大西屋の

『お登勢さんのゆくえに思い当たるところがある』

と、いう言葉が大きい。

お多喜も徳エ門の言い分に安堵したのだろう、

今度は不安も見せず

徳エ門の側で

徳エ門と一緒にうなづいていた。

徳冶を連れ出すと 大西屋は立ち話もなんだからと

一膳飯屋に入った。

昼真から、酒もなんだろうかとおもったが、

いける口かなとたずねれば、

徳治の云もあり、

大西屋は徳利ふたつと、 奴を前に

徳冶がお登勢さんの承知をもらう難しさを

話す事になった。

「まず、なにから、はなしてゆけば、よいかとおもうんだが・・・」

大西屋の口の重たさの裏側にあるものが、

なんであるか、わからないまま

徳冶の不安をあおる。

「ま・・まさかと、おもいますが・・。

お登勢ちゃんの身代になにかあったのが、

本当のことなのではないのですか?

もし、そうなら・・・お登勢ちゃんは今・・・・

どんな思いで・・・・」

お登勢は剛三郎の恣意にのみこまれてしまったのではないか?

だとすれば、

どんなに辛い思いでいることだろう。

徳冶は 先日、井筒屋を訪ねてきたお登勢ちゃんから

番頭が「晋太と兄妹」と、聞いたと聞かされている。

おそらく、この時に

晋太の家移りも聞いているお登勢ちゃんだろう。

木蔦屋を抜け出したお登勢ちゃんは

晋太を頼ったに決まっている。

晋太をといつめたところで、 晋太は妹をかくまい、

所在をかくそうとするだろう。

今なら、晋太の家にいけば、お登勢ちゃんがいるかもしれない。

だが・・。

なんといって、お登勢ちゃんをたずねればいい?

なぜ、ここにいるとおもったか?

出て行ったときいたからと答えれば、

それは、お登勢におこっただろう事件をも

知っているという事につながる。

女にとって、陵辱の事実をしられる程悲しいことはあるまい。

もっと、はやく、自分の気持ちをうちあけて

お登勢ちゃんの心を掴んでいれば、そんな事など気にするな。

犬にかまれたみたいなもんだ。

たいしたことじゃないと

いくらでも、お登勢ちゃんをなぐさめえただろう。

いや、それより以前に こんな事になる前に

お登勢ちゃんが俺を頼って相談しにきてくれただろう。

なにもかも、 戸惑って、出遅れた自分のせいでしかない。

自分の不甲斐なさをはがみする徳治に

大西屋は杯を押しやり、左手で徳利をもちあげた。

「お登勢さんは、無事だと思うのです。

何故、そう思うかと言う訳と・・・。

徳エ門さんがおっしゃるように・・。

お登勢さんと嫁に貰うを承知させる難しさが

同じ理由におもえるので・・。

はなしておこうとおもったのですよ」

お登勢を思いつめる男は、哀れである。

大西屋の一言、一言に びくりとまなこが動く。

「お登勢ちゃんには・・・

誰か・・・他に頼る人がいるということですか?」

誰か・・。頼る人。

それは無論、晋太のことではない。

お登勢ちゃんが思いを寄せている誰か。

その人の所に行ったから、お登勢ちゃんは無事?大丈夫?

そんな人がいるから、嫁に貰うのがむつかしい?

そんな徳冶の不安をよそに

大西屋はますます、言いあぐねる。

「頼る相手というのは・・・

井筒屋の奉公人の晋太さんしかいないでしょう?

そうでなくて・・・」

大西屋が晋太の名前をだしてきたので

徳冶は考え直していた。

『なんで? 俺は晋太の事は、まだ、誰にも話してない。

なのに、なんで・・・知っていなさる?』

残るは木蔦屋の女将であるが・・・。

と、なると、大西屋の言う

思い当たる行き先とはやはり、晋太のところかと

徳治は胸を撫で下ろした。

「これを、聞いたときには、私も

随分、びっくりしたんだけどね。

お登勢さんにそんな辛い通り越しがあったなんて、

とても信じられないほどのお登勢さんの明るさと

気丈さに、もっと、吃驚させられてね」

話そうとする大西屋の目の端に

もう既にしずくがのっていた。

不可思議な大西屋の涙に気が付かぬわけも無く。

徳治は、

「お登勢ちゃんの昔に・・・

いったい、なにがあったというのですか?

それが、嫁になるのに難しいと?

なにがあったとしても、

そんな、すんだことなどに拘る気など・・・ありません」

自分の気持ちだけをしっかりつげるしかなかった。

「いやいや・・・そうじゃないんだ。

まあ、順序だててうまくはなせなくて、申し訳ないが、

ちょっと、最後まで話をきいておくれ」

いささか、癇走って、推量じみた物言いをしたとわびる

徳治を まあまあといなしておいて、

「お登勢さんが木蔦屋に奉公に入った十年前、

姉川でなにがあったか、

徳冶さんもおぼえていなさろう?」

「ええ・・。

私はもう十四になっていました。

姉川の合戦のむごさは

伝え聞いております。

琵琶の湖に注ぐ姉川の水は赤く染まり

その川の流れに運ばれ、何百とも

何千ともいう屍が湖にたどりついたと・・・。

湖でさえそうであったなら、

戦いの陣であった、姉川は・・・

想像に絶するものがあったと・・・」

「うん。

私もその年の米の相場には随分泣かされたし、

姉川から、わずかに運び込まれた米も

血吸米だと気味悪がられて

いやというほど、かいたたかれたよ・・・」

それで、姉川の在のものであったお登勢と晋太が 戦禍をこうむり

奉公にだされることになったということであろうが・・・。

「そのときに、 お登勢さんは

ご両親と声をなくしたんだよ」

この時、徳冶が、え?と小さく声を上げたが

大西屋は構わず話し続けた。

「それもね・・・。

逃げ込んだ武者をかくまったと

父親は追っ手に切り殺され

母親は怒り狂った追っ手が・・・・。

まったく・・・気違い沙汰・・と、しか、いいようがない。

怒りにまかせ、母親を犯しただけでおさまらず

腹に・・刀を・・さしつらぬいて、 殺しちまったそうだ。

腹には子供がいたそうでな・・。

自分の敵をかばう奴は 腹の子だってゆるさない、

そんなみせしめだったんだろうけどな・・・。

きいても、むごい話をなあ・・・・。

八つのお登勢さんが縁の下ににげこんだまま、

一部始終、みていたんだよ。

そして・・・。

お登勢さんが縁の下から見つけ出されたときには

もう・・・、 口が・・・きけなくなっていたんだ」

告げられた事実があまりにも悲惨すぎて

徳冶はしばらく 目頭を手でおさえつけていた。

「お登勢ちゃんに・・・そんなことがあったんですね。

確かに、 今のお登勢ちゃんをみていたら、

そんなことがあったとは・・・。

私も信じられないお登勢ちゃんの明るさです。

ところで・・・。

そんな話を聞いた後になんですが、

私はさっき、ご両親をなくされたと聞いたとき

おかしいなと、思ったんです。

と、言うのも、お登勢ちゃんがうちの晋太と兄妹だと

きいていたものですから・・・。

ですが、晋太の所に二、三度、親御さんから

手紙がきていたことがあったのですよ・・・」

その手紙は誰か村長か寺の住職か

見識のある人間に頼んで書かれていたものであり、

染物の文字といろはくらいしか読めない晋太にかわり、

徳冶が読んでやったことがある。

だから、徳治はその文面からも晋太の親からのものだと

判っていたのである。

「つ・・まり・・・。

晋太は・・・お登勢ちゃんとは、

兄妹じゃないということなんですよね・・」

どこで、どう話が変わってお登勢さんと晋太さんが

兄妹と誤解されたか、わからないが、

実際には、兄妹以上、 今、お登勢が気を狂わせもせず、

気丈にいきこしているのも晋太のお陰といってもいい。

いわば、命の恩人のような晋太であるのだが、

お登勢を恋慕する人間にすれば、

深い事情を聞かされなければ

晋太の所になぜににげこむか?と、 曲がった詮索で

嫉妬とやっかみをもちかねない。

いま、まさに徳冶がそれに近かった。

こんな事の釈明にてまどっているばあいではないのだが、

大西屋は清次郎から聞いた話を

徳冶に話し聞かせた。

縁の下に隠れたままのお登勢が

みじろぎもせず、正気を逸しかけていた。

そのお登勢に気がついたのが、 晋太であり、

子供ひとりがやっとはいれるかという狭い縁の下で

お登勢を菰に乗せ、引きずり出してきたのである。

晋太がお登勢に気が付くのが

もう少し遅かったら、

今頃は口のきけない気違いになりはて、

お登勢はどうなっていたであろうか。

「子供心にもねえ、

助けてやりたい。

助けてやりたい。って、

晋太さんはそれだけしかなかったんでしょうね。

お登勢さんはね、

晋太さんの『生きろ。生きろ』って、 思いをいっぱい受けて

正気を取り戻していけたんだと思いますよ。

だってねえ・・・。

考えても御覧なさい。

お登勢さんにすれば、そのまま、死ぬか、

狂うか、よほどそっちのほうが楽だったと思うんですよ。

それを、いきてゆこうときめさせたのは、

晋太さんがささえてくれたからじゃないんでしょうか?

そんな晋太さんと共にこの町に連れてこられ

なにかあったら、晋太さんを頼るのはあたりまえじゃないですか。

徳冶さんが今のお登勢さんとしりあえたのは、

いわば晋太さんのおかげでしょう?

それとも、気違いのような、お登勢さんのほうが

よかったとでも?

だけどねえ、

私はまだまだ、徳冶さんに言っておかなきゃ成んないことがあるんですよ。

その話さえまだだというのに・・・。

つまらない悋気をだしちゃあいけない。

こんなことくらいで、邪気にとらわれてるようじゃ、

お登勢さんの思いの深さなど到底、わかりゃしない。

判りもしないのは、子供。

子供に嫁は、いりますまい?」

「あ?」

徳治はやっと、この時になって

嫁に貰うを承知させるむつかしさが、

お登勢の側にあるのでなく、 自分にあると気が付かされていた。

しゅんと頭をたれた徳治に大西屋はわらいかけてみせた。

「いやあ、そうはいってもね。

これは、まあ、たてまえといっちゃあ、おかしいけど、

建前にちかいです。

徳冶さんの気持ちはわかりますよ。

惚れた相手に自分以外に頼る相手がいる。

こりゃあ、男なら誰だっておもしろくない。

それが本音で私だってそう思うでしょう。

ですがね、 お登勢さんという人は

まだまだ、そんなくらいのひとじゃないんですよ。

それをわかってもらいたくて、

わざわざ、こんな所に来てもらっているんですよ。

そして、 その話をきいてもらった上で

何処までも、まことをしめしていかなきゃ、

到底、お登勢さんの承知を得られないんじゃないだろうかと、私が懸念することを聞いて欲しいんですよ」

こくりとうなづいた徳治を目に留め終えると

再び大西屋は話し始めた。

「私が木蔦屋に行って、わかったことは

お登勢さんが木蔦屋夫婦をどんなにか大切に思っているかという事です。

いろいろ、話を聞いてみた限りの憶測ですがね。

お登勢さんは 夜這いの正体を一言も漏らしていないのです。

徳エ門さんも、そのことで すぐに察せられたと思うんですよ。

ですから、息子の嫁になってくれるか、

そのほうが不安だとおっしゃっていたのでしょう。

お登勢さんが黙って急に飛び出したのは、これはね、

お登勢さんは

剛三郎に改心してほしい。

女将さんをだいじにしてほしいって、 祈りを込めたんですよ。

わかりますか?

普通の娘さんだって

夜中に男に忍び込まれれば

恐ろしいって、そればかりでしょう。

だけど、お登勢さんはさっきも話したとおり、

目の前で母親が犯され殺されるのを見ているんですよ。

どんなにか、おそろしかったか・・・。

それとおなじような事が我が身の上に起きた。

剛三郎をどんなに憎み、どんなに恐れても

けして、おかしくない。

なのにね、 このことを知ったら女将が苦しむ、

自分がいちゃあ、剛三郎の思いをあおるだけ、

色々、色々、考えたに違いないんですよ。

でもね、その色々のいろいろが・・・。

皆・・・人のため・・・。

自分が怖いの、憎いの、腹が立つの そんなことは言わず・・」

大西屋の言葉が涙で途切れた。

男泣きを手の甲でぐいとぬぐうと、

「お登勢さんは心底強くて、優しい。

その強さは

自分のことより先に、人のことを考えるから

身についたんですよ。

そんなお登勢さんとね、

お登勢さんが大事か 徳冶さんの悋気が大事か

こんなものを一緒くたの天秤にのせちゃあ、

つりあいがとれなくなるでしょう?」

なにもかもが、大西屋の言うとおりである。

でてくる返事も「はい」の一言になる徳治である。

「それでね、

私が一番心配していることをきいてほしいんだよ」

大西屋の心配すること?

徳冶とお登勢の縁を結ぼうとする、

大西屋の目から見て 不安が見えるという。

徳冶の胸の中に小さな泡粒がぷくりとわきあがると、

「きかせてください」

と、音になってはじけた。

「うん。

今回のことでお登勢さんのつらい通り越しを話したのは、

もう一つ、訳があるんだ。

それは、簡単に言うと お登勢さんが

誰かの、特別な思いをうけとめられるだろうか?

と、いうことなんだよ」

徳冶の瞳は一点を凝視している。

その瞳の中に一瞬、怒りがうかんだが、

軽く振られた首と共に 怒りが沈んでいった。

「剛三郎のせいだけじゃないんだ。

お登勢さんのつらい過去は

男という生き物をうけいれたくない、

信じたくても信じられないものを

植えつけているんじゃないだろうかと思う。

それなのに・・・。

お登勢さんにすれば、まあ、いわば、

剛三郎は父親のようでもあったろう。

父親のように信じていたはずの剛三郎が

お登勢さんを我が物にしようとするなんてことを、

みせつけられたわけだ。

これをかんがえると、

お登勢さんが、いろいろと人のことを思うことが出来ても

今度はわが身にかえって、

自分のことを誰かに預けようと考えられるかどうか・・・。

男の中にある慾をうけとめてやってもいいと

おもえるほど、相手を好きになるまえに、

慾を身のうちにもつ男と言う存在自体に

おそれをもってしまうんじゃないだろうか。

嫌悪といってもいいかもしれない。

もちろん、徳冶さんがそんな不埒な思いで

お登勢さんを見ているわけじゃないのは判っている。

判っているが

父親のような存在だった剛三郎が

男として対峙してきた今となっては、

徳治さんのことも

「男」を匂わす存在として、恐れをいだくかもしれない」

なんということだろう。

剛三郎のしでかしたことは

お登勢をふるえさせただけでなく、

愛し愛される事に焦がれる、

娘らしい思いさえ、摘み取り

踏みにじり

人として 一個の女性としての希望さえ うばいさったあげく、

誰にも自分をあずけえない

孤独をうえこんだというのか?

「お登勢さんは強い人だ。

だから、いっそうそれが裏目に出たら、

独りでも生きてゆく女(ひと)になってしまう。

誰かに甘え、誰かを頼り、誰かに包まれる。

こんな女としてのしあわせも・・・」

求めることも知らず、

受け取ることも知らず、

凛と独り咲く華になりて、

はたして、しあわせだろうか?

女として、この世に命を受けながら、

女であるばかりに

女の幸せから、

身をそむける事になっては・・・。

「いや・・いや・・いやだ。

そんなんじゃ、

お登勢ちゃんが

あんまりにも不憫じゃないですか。

辛い目にあって

それでも一生懸命 生きてきたんだ。 それを・・・」

そうだと大西屋はうなづいた。

「これはあくまでも私の懸念です。

それでも、もしものことを考えてもいいと思うのです。

もしも、

お登勢さんの心がかたくなになってしまっていたなら・・・。

もう、お登勢さんのこころを変えてゆくしかないんですよ。

お登勢さんに誠心誠意を見せなさい。

お登勢さんの心が解け、開かれてゆくまで、

何年かかろうがですよ」

「ええ。もちろん、そうします」

強くうなづいた徳冶の胸に

晋太の存在が大きく翳り出していた。

『大西屋さんの言うとおりのお登勢ちゃんかもしれない。

だけど・・・。

そうならば、いっそう、晋太はお登勢ちゃんにとって

頼り、信じられる存在だってことになる・・・・』

それは徳冶の嫉妬というものとは、 質が違う。

もっと大きな度量の男に見えて仕方が無い晋太という男が、

この先の徳冶とお登勢の間をさえぎってしまう

壁になりえるのではないかという不安なのである。

そして、肝心のお登勢であるが・・・。

お登勢は昨日の明け方近くに

木蔦屋をぬけだしていた。

これもお登勢なりにかんがえたことである。

夜中に戸閉まりを解き放つ無用心を思ったお登勢は

木蔦屋のまかない方であるおさんどんが

一番に

おきだしてくる明け方近くまでを待った。

勝手口の戸が開いていても

おさんどんが最初にそこに来る。

蜆売りや豆腐売りが

くどに顔をだせるように、

戸の鍵をはずすのが、

おさんどんの日課でもあるわけだから

おさんどんがいれば、

戸があいている。

逆を言えば戸が開いていても、

おさんどんがいれば無用心でない。

そろそろ、おさんどんがおきだしてくるまでの

ほんのわずかの違いをひきぎわに

お登勢は木蔦屋をぬけだし、

晋太あんちゃんの元へとひた走った。

晋太のすまいの前にたちつくすと、

それでも、

お登勢の胸に迷いが生まれる。

「あんちゃんの屋移りのことは

女将さんに、はなしそこねていたけど・・・。

いずれ、いや、登勢が出て行ったとわかった時点で

直ぐに染物屋に知らせが行って、

あんちゃんがいろいろ、尋ねられるだろう。

あんちゃんに・・・めいわくをかけてしまう。

どう・・しよう・・」

迷った手が戸口にかけられたまま、

戸を叩こうか

あんちゃんを呼んでみようか

それとも、

このまま、どこか・・・住み込み奉公ができるところを

さがしにいこうか・・・。

お登勢の思案がさまよっていた。

その時

『らちあかんぞ』

お登勢の胸の中に晋太の声が響いた気がした。

らちがあかない。

そんなことじゃ、どうしょうもない。

良くなることまでも

わるくしてしまうのは、

何も話さず、自分の中にとじこめてしまうせいだ。

喋れるようになったら、

今度は喋らないのか?

それじゃあ、いっそ、喋れないのと同じじゃないか。

晋太の言葉が

お登勢を押し、やっと

小さな声でお登勢は晋太を呼んだ。

はたして、家の中から

晋太がおきだす気配がきこえ、

戸口の芯張り棒が外され

張り詰めた顔が泣き顔に変わるお登勢を

黙って見つめる晋太がいた。

お登勢の頭をくちゃりとなであげると、

「はよう、はいってこんか」

お登勢を呼び入れると

その目で、お登勢をさらえなおす。

泣いたのは、安心したからだ。

ひどい目にあって、泣いてるわけじゃない。

表情の違いでそれはわかる。

「寝てないんだろ?

俺はもうそろそろ、起きようと思ってた頃だから、

かわりに

お登勢は、一度、ゆっくり眠るといい」

布団がたった一つしかないのはあたりまえのことだが、

布団をそのままにしておくから

ゆっくり眠れという。

「あんちゃん・・・」

何があったか、きこうとしないで、

なにもかも、のみこんで、

お登勢の身体をいたわる晋太がありがたい。

「はりつめてるとな・・・

身体に毒だ。

帰って来たら、ゆっくり、きくから・・

今はねむるといい。

飯はあんちゃんがつくっといてやるから・・。

おきたら、しっかり、くうんだぞ」

ふすまを開けて三畳の寝間にお登勢をおしやると、

今のお登勢に一番必要なことだけをいいおいて、

晋太は土間におりたっていった。

「椀と箸だけは、そろえておいたから・・・」

流石に布団を一組、あつらえる余裕はなかったと

すまなさそうにつけたすと、

外の井戸に米を洗いにいくようだった。

布団の中にもぐりこみながら、お登勢が呟く。

「あんちゃん・・・ありがとう」

今更ながら・・・。

晋太の温情の深さを知る。

何か、有ったらあんちゃんとこにくるんだぞ。

言った言葉の直ぐ後ろで

登勢がいつ来てもいいように、

屋移りのために渡された給金から、

お登勢のための茶碗と箸を用意しておく。

どんなに遠く離れ、どんなに長く会わなくても

あんちゃんは、

言った言葉をたがえない。

お登勢のため。

いつでも、構えて、待っていてくれる。

お登勢の身代を

お登勢の幸いを

一番に考えてくれる。

そのあんちゃんを悲しまさせないためにも、

やはり、

木蔦屋を、早いうちに飛び出してよかったんだ。と

お登勢の苦しい胸のうちがほどけてゆく。

「あんちゃんは・・・

登勢の身代だけでなく、

登勢の思いも迷いも悲しみも

なんもかも・・・すくってくれる」

呟きがか細り・・

安堵が心に広がり

広がった安堵が

何も考えぬ眠りをいざなってくる。

「あんちゃん・・・ありがとう」

外に行った晋太を拝んだ声が

すぐに、静かな寝息に変わった。

お登勢のための食事を飯台の上におき、

晋太は戸口にたった。

戸の背の部分には臍が作られている。

芯張り棒をあてがい

外に出て、戸を閉めると臍にそって

芯張り棒が滑り落ちてゆく。

そして、戸を締め切ると

晋太が掘っておいた臍の下部分の溝に

晋張り棒がはまり込む。

これで、外から鍵を掛けられる。

通常、家の中の人間が

芯張り棒をかたむけるのであるが、

晋太はお登勢に棒を傾けさせないほうがいいと

考えていた。

お登勢が芯張り棒を傾けるために

戸口に立つ。

この姿を誰かに、いや、

木蔦屋のお登勢の不在を知るものに

見うけられたら・・・。

お登勢を付けねらう男の耳に

お登勢の所在が知れるかもしれない。

お登勢が此処に逃げてくることがあるのか、

ないのか、判らないが、

念のためにと、お登勢の話を聞いたその日、

店から帰って来た後

晋太は臍を切った。

その仕掛けが役に立つ。

お登勢一人きりに成る家の戸が

しっかりしまったのを確かめると

晋太は井筒屋に向かった。

店の中は相変わらずあわただしい。

大釜で染料を溶かし始めていた徳冶が

晋太を見つけると

「法楽屋の暖簾をやってみろ」

と、いう。

法楽屋の暖簾はこれから

蝋を落としてゆく段階である。

その最初の段階を任せるという。

それはすなわち

最後の仕上げまで

晋太がやれという事に通じる。

何処までの技量に仕上がっているか、

試されるのだと

判ると晋太に軽い武者震いが起きていた。

晋太に仕事を言いつけた徳冶の様子が

常でないと晋太が気が付くのは

もう少し時間を経てのことになる。

言いつけられた仕事への奮起が晋太を包み

徳冶は晋太の仕事振りを見つめる。

徳冶は徳冶で思うところがある。

木蔦屋に今日、大西屋が出向いて行く。

お登勢の返事がかんばしければ・・・。

『晋太は俺にとっても兄になる』

いささか、先走りすぎるとは思うが

女房の兄を奉公人の立場で置いておくわけには行かない。

と、考える。

どうすれば良いかと考える徳治の脳裏に

暖簾分けという言葉が浮ぶ。

お登勢の色よい返事があったとしても

晋太に暖簾を分けるなど

無論、まだ先のことであるわけだが、

暖簾を分けるにしても

晋太の腕が何処までのものか。

それも気になるのである。

それも・・・。

と、言う。

お登勢の返事がいかなることになるか・・。

大西屋がすぐさまに

くるのではないか?

いや、もう来ているのではないか?

それが一番、気になって

さっきから、徳治は

母屋と染め場を行ったり来たりしている。

法楽屋は薬屋である。

薬という法をもってして楽になる。

と、いう意匠の屋号であるが、

法楽屋は暖簾に

薬師如来を染め抜く。

有り難い如来の立ち姿をくくりて

求める薬は

霊験あらたかになるらしく、

良く効くと評判なのである。

が、

その薬師如来の図案には

繊細な線が多く

手に持たせた薬さじの部分になると

蝋の置き具合により

溶けた水あめを持っているかの如くの細工に見える。

先代が法楽屋の暖簾を手がけたのであるが、

薬さじの蝋置きに泣かされた話は

伝になっているほどである。

蝋置きの線の複雑さにいたるまでに

蝋の調合も染物職人の技量にかかる。

蝋の仕入先を二、三もっている、

井筒屋であるが

それも蝋の持つ粘性の違いにある。

さらりと流れる質の蝋と

どろりと粘る蝋を

炉に入れ混ぜ合わせて

染物に適した蝋に配合してゆく。

さらに蝋の温度も重要である。

蝋自体の粘性が適合しても、

温度により、粘りが変わる。

温度をきわめ、ちゃんちんに蝋をいれ

生地に線引きをしてゆく。

このちゃんちんから蝋をおとしてゆく速度により、

線の太さもかわる。

温度が熱すぎれば、粘性が薄くなり、生地に蝋が多く落ち

染みだれをつくることになる。

低すぎれば生地に蝋を染み付ける前に

蝋が生地の表面で固まる。

ちゃんちんから同じ調子の蝋を落としてゆくことは

非常に難しい作業である上に

迷いの無い線をひいてゆかねばならない。

よほどの慣れと勘と集中がないと

まともな蝋染めができないのである。

晋太の蝋合わせを見つめた徳冶が

かすかにうなづくと、

つい、と、その場をたった。

そんな徳冶を気に留めている晋太でもなければ、

お登勢の事も念頭に浮ばなかった。

ただ、ただ、

染めてゆくものにむかう

職人がいるだけだった。

染め場で染め方へ指図をあたえると、

晋太を覘きにいき、

蝋置きを卒なくやりこなす手元をみつめると、

母屋に入る。

直ぐに母屋から出てくると

染め場に戻り

洗い方にまわすため

釜から引き上げられた染物を

「もっていってやる」と受け取る。

長丁場になる仕事に就かず

先程から

指示だけを与えている若頭、徳冶である。

やけに落ち着かない徳冶だと、

気が付いてないのは晋太くらいで、

染め場に入っているこもごもは

染め場と母屋を右往左往の徳冶の背を

見つめては

「また、母屋にはいりなする」

「なにか、ありなするんだろ」

と、こそりとささやきあい

何かごとのなりゆきをみまもっていたが、

やがて

その徳冶のなにかごとが

うごきだしたか、

徳治が染め場に現れなくなった。

染め場を離れ、母屋に入った徳治は

大西屋から知らせ、

お登勢の出奔とその理由を聞かされたのち

大西屋と共にでかけた

一膳飯屋で

お登勢が奉公に出るにいたった

姉川でのいきさつを聞かされる事になった。

そして、

お登勢の兄だと思っていた晋太が

兄ではなく

お登勢の命の恩人であると知らされた。

後は自分で

お登勢さんの気持ちを捕まえていきなさい。

と、大西屋にいわれるまでもない。

徳治の腹はとうにくくられているのであるが、

いかんせん、肝心のお登勢にじかに逢えなければ

どうすることも出来ない。

どう考えても

お登勢は晋太の所に逃げ込んでいるに違いない。

姉川でお登勢を守り抜いた晋太であらばこそ、

お登勢は、間違いなく

晋太を頼っている。

だが、

晋太がお登勢の所在が晋太の元にあるとは

簡単には認めないだろう。

なにもかもを、晒して

是が非でも

お登勢を嫁にもらいうけたい故から

話して

お登勢ちゃんに逢わせてもらうしかない。

まずは晋太からだと

徳冶は大西屋と別れ

井筒屋に帰って来た。

蝋を溶かす炉の熱気が部屋にこもる中

晋太は汗一つ浮かべていない。

暑くないわけがないのである。

その証拠に晋太の着物の背一面は汗の染みがうかんでいる。

顔から汗が出れば、布に落ちる。

落ちた汗が布地に付点をつくらす染みになる。

たかが汗。

布を染める前に洗えば良いと考えるは素人である。

わずかな、塩気が残ったばかりに

染めの乗りにむらが生じ

何年か後には、そこから色がぼやけ始める。

夏の最中になれば、

心して、てぬぐいを巻きつけたり

丁稚をはたにおき

汗をぬぐわせながら

蝋引きをしてゆくこともある。

だが、晋太はその汗さえ己の意のままにしていた。

芝居小屋の役者が首から上

汗をかかない。

芸に秀でるものは、そこまで己を修練する。

とは、聞いたことがある。

が・・・。

目の前の晋太もそうである。

万感思いを込め

精魂尽くす、職人は

己の知らぬ所で

汗さえも制す。

汗さえ制す晋太の蝋引きは見るまでもないものであろうが、

それでも徳治はひょいと晋太の仕事を覗き込んだ。

目が奪われる。とは、

まさに徳冶の有様を言う。

迷いのない線は

晋太の生き様にも似ている。

助けると決めたら

とことん助ける。

己の精一杯を尽くして

八つのお登勢を助けた

真っ直ぐな晋太、そのままがそこにあった。

「見事だ」

いつのまに、ここまで腕をあげたかと思う。

なにごとにも、一生懸命に取り組んでゆく姿勢が

己の腕を磨いたとしか言えない。

そして、

染物への

いや・・・。

生きとし生けるものへの深い情愛というべきだろう。

暖簾をくぐる人々の

薬を求める切なる思いを汲み取る、晋太の情けが、

暖簾に込められる。

だから、こうも、かくも、

迷いがない。

晋太の仕事振りに勢いがある。

今、てをとめられたくないだろう。

同じ仕事をする徳治であれば、

晋太を中座させることは出来ない。

その場を離れ、

染め場に足を向けると染め方のひとりに

晋太の事をたずねた。

「昼も食わずにやっているのだろう?」

徳冶がたずねるのが晋太の事と察し良く

「あの勢いだったら、蝋引きは今日中にあがるでしょう。

夕方には、さぞかしひもじいでしょう」

と、ここにも晋太の仕事振りを認めるものがいた。

「そうか・・・」

お登勢ちゃんの件を話すのは

その時にするしかないなと、

徳冶は考えた。

日が翳り始めた夕刻、

晋太の蝋引きが終わった。

炉の火を落とし、

辺りを片付け

暖簾は明日、朝一番で、染めの工程に運ぶために

蝋引き台の上に、そのままにおいておく。

覘きにきた徳冶もやっと

自分ごとを話せる。

「晋太。ちょっと、話がしたいんだ。

のこってくれないか?」

徳冶が繰り出した言葉に

「急ぎのことでないなら、今日は勘弁してください」

晋太が予想たがわず、断りを入れてきた。

お登勢が待ってる。

話も聞いてやらねば成らない。

お登勢も話したいと思ってるはずだ。

晋太の思いを見透かすかのように

徳冶が言葉を継いだ。

「お登勢ちゃんがまってんだろ?

そのことで、俺も話したいことがあるんだ」

徳冶はかまをかけたにすぎない。

本当にお登勢が晋太の所にいるか、どうか、わかったことではない。

そして、

一方で大方、間違いなく晋太の所にいるとおもうからこそ、

晋太が隠し立てできないように、

正面切ってみた。

「若頭・・・?」

うかつな返事を避けた晋太であれば、なおさら

お登勢ちゃんはそこにいると思えた。

「なんで、お登勢ちゃんが

木蔦屋を出ているのを知ってるか?

って、思うだろう。

そこのところを含めて、

話がしたいんだ」

晋太なりに考え直している。

今、徳冶の話を聞く方を先にすべきか、

出来るだけ早く帰って

お登勢の話をきくべきか。

判断できる材料がないままの

晋太に徳冶が畳み込んだ。

「俺の・・・一生の問題なんだ。頼む・・・」

一生のお願い。

こういう類の言葉が

よもや、徳冶から出てくるとは晋太も思いはしない。

ゆえに、いっそう、

虚を突かれたといっていいかもしれない。

「わかりました」

了承の返事を思わず返した晋太に

徳冶はいっそう、あわただしく、

「そういってくれるだろうとおもってな。

大森屋の奥座敷をかりてあるんだ。

そこにいこう」

大盛りを洒落のめした

飯屋の大森屋の奥といったって、

二畳ほどで、

ちょいと、余人が入ってこない奥に部屋があるという利点だけのことであるが、

わざわざ、そこで話をしたいと奥の部屋を借りたという。

頭の隅を覗き込むように考えてみたとて、

やっぱり、聞いてみなきゃ判ることではない。

何で、徳冶がお登勢が出て行ったと、しっていることも、

なんで、お登勢が晋太の所に居ると、かんがえついたのか?

その辺りも、聞けばわかることだろう。

「おっしゃるとおり、

お登勢が家で待ってます。

勝手を言って申し訳有りませんが、

遅くまでは勘弁して下さい」

晋太とは歳の近い徳治である。

此処にきて、十年。

兄弟子としても

若頭としても、

同じ職人としても、

徳冶の性分は、晋太も良くわかっている。

負けず嫌いで

どちらかというと

意地っ張りで、中々本音、特に弱みをみせない。

だけど、嘘を言わない。

だから、曲がったことも大嫌い・・・。

こんな人間が頭をさげてくる。

よほどのことだと思ったから晋太も

本当のことで応えた。

大森屋の奥に入れば、

腹が減ってるだろうと

徳冶がたずねるより先に

晋太への飯とおかずが給仕されてくる。

「いけたよな?」

と、酒を注文した後に

晋太を振り返る徳治の気配りも深い。

「お登勢ちゃんの分もたのんである。

折りにつめるようにいってあるから、

帰りにもらっていってやってくれ」

それでゆっくり喋れるという按配で

徳冶が用件を切り出し始めた。

「お登勢ちゃんからも、聞いていることと思うが・・」

と、徳冶が言い出した言葉に

晋太がかぶりをふった。

「いや、おおかたの察しはついているが、

お登勢からはまだ何も聞いていない」

ぐうと、徳冶の顎がひける。

「な?なんにも、きいてないのか?」

「ええ。これから、聞こうとおもってるんです」

晋太の返事にいささかのじれったさが見える。

それが、多少の切り口上を生んでいる。

お登勢から聞いてるだろうとあてこんで、

話をしようというまわりくどさが、

徳冶の用件を薄っぺらなものに感じさせているに違いない。

お登勢に聞いてなければ

話にならない話に付き合ってられない。

それくらいなら、さっさと、お登勢の元に帰って、

お登勢の話を聞いたほうが良い。

よほどそっちのほうが大事だと晋太の返事がいかってる。

「そうか・・・。

だったら、初めから話さなきゃならないとこだろうけど、

晋太。

おまえ、何処までさっしてる?」

たずねられた言葉にまた、むっとした晋太がいる。

こっちがどう?お登勢がどう?

そんなことをたずねたいのが先か?

物事、話立ての順番が違う。

「若頭。俺は若頭が何を言いたいのか、

さっぱり、判らない。

その上だから、さっきからこっちにたずねる事に

なんで、答えなきゃ判らない。

わざわざ、呼び出して

お登勢が話したか?

俺が何処までしってるか?

何の必要がある?」

ぐうと詰まりきった徳冶であるが、

晋太の言い分はわかる。

「そうだな。

俺が妙に構えちまったんだ。

俺はお前がお登勢ちゃんの兄だと聞かされていたんだ。

ところが・・。

姉川でのことをきかされて、

お前がお登勢ちゃんと兄妹とじゃないとしったんだが・・・。」

「若頭・・・。

ちょっと、落ち着いてはなしてくれませんか?

まず、第一に

なんで、俺とお登勢が兄妹だとか・・。

そうじゃないとか、

ましてや、姉川のこと・・・。まで、

なんで、若頭が突付き回るような真似をなさる?

確かに俺は井筒屋の奉公人だし、兄弟子で頭である、

徳冶さんが、何をどうしようと

文句を言える筋合いじゃないけど、

そこまで、人の事に踏み入るにはふみいるわけがあるでしょう?

そこをはっきりさせないで、

上っ面の話をしようっていうなら、

申し訳ないけど、俺帰りますよ。

埒があかなさすぎる」

十年以上、側にいて、

寝食共にした晋太とは、

預かり知らぬ晋太を見た。

お登勢という存在が一つ、入っただけで、

今までなら、黙って見過ごした徳治のあるいは驕慢に

見える態度さえ曖昧に流さない晋太が居た。

いつもの徳冶なら

此処で晋太を怒鳴りつけている。

だが、徳治の底のお登勢への思いが徳治を堪えさせていた。

晋太はお登勢を守り抜く気でいる。

徳冶がお登勢の事情を知っているという事で

徳冶のお登勢への感情がいかなるものであるかは

晋太だって判っている。

だからこそ、

曖昧でいい加減な態度でお登勢に対してゆくなら、

許さないという晋太なのだ。

俺の気持ちがわかるだろうから、

一歩踏み込んだ話をしても通じるだろう。

と、いう徳冶の馴れ合いを許さない晋太なのだ。

徳冶の気持ちをはっきり晋太に見せもしない徳治の話を応々と聞く事は

お登勢に対しての気持ちを曖昧にしか表さない徳冶を許す事につながる。

それは、また、お登勢という人間を簡単に考えることでもある。

そんな風にお登勢に誠を尽くして行けない男の話は

もとより、聞く気がない。

それも、又、晋太の護り方であり、

お登勢に本物を渡してやりたいという情愛である。

だからこそ、

まず晋太の認めを得なければ、

肝心のお登勢も徳冶を認めないだろうと思えた。

ところが、その晋太が一筋縄でゆかない。

「すまなかった。

まず、俺の気持ちからはなすべきだった」

素直にわびる徳冶に晋太の固い表情が緩んだ。

およそ、人に

ましてや、奉公人に。

ましてや、年下に。

頭を下げることなどなかった井筒屋の総領が

頭を下げるほどに

お登勢を真剣に思いつめている。

「俺は今日、お登勢ちゃんを嫁に貰うために

木蔦屋に仲人を立てて、話にいってもらったんだ」

「なるほど」

晋太がうなづくと

「それで、お登勢がでていったとわかった。

そして、お登勢の姉川でのこともきいた。

そういうことですね。

若頭のお登勢への気持ちはわかりました。

で・・・。

私にどうしろというのですか?」

まさか、嫁をもらおうかという年齢の男が

晋太を頼って

お登勢を承諾させてくれということではあるまい?

「もちろん、お登勢ちゃんには俺から話を持ってゆきたいと思っている。

だが、木蔦屋を飛び出したお登勢ちゃんの心中を思うと

うかつにお登勢ちゃんに会いに行くことも出来まい」

「確かに・・・。

おっしゃる通りでしょう。

お登勢は木蔦屋夫婦のことを考えて

飛び出してきたんだと察しをつけていますが、

飛び出してきたお登勢が、木蔦屋と縁を切ったからと

そ知らぬ顔で若頭との縁を結ぼうとは考えないでしょう」

晋太にいわれてみれば、

なお、いっそう、この先のお登勢が見えてくる。

「だから・・・。

お前に縁をとりもってもらいたいと・・・」

軽くうつむいた顔を上げなおすと、

晋太は首を振った。

「若頭には、もうしわけありませんが、

若頭は自分の幸せしか考えておられません。

そんな若頭に

お登勢との縁をとりもつことは、

私にはできません」

絶句。

徳冶はそれだけである。

なんで?

自分の幸せしか考えてないといえる?

どこが、そういう事になる?

この先、お登勢が徳冶と縁を結ぶことが出来れば、

お登勢だって幸せになれる。

黙りこくった徳冶に晋太がいさめる。

「お登勢は、いつも、自分のことは後回し。

いつも、人様に

人様に・・・それが先になる、そういう娘ですから・・・

今とて、逃げ出してきたことで、

家の中から一歩も外に出れない状態でいます。

これさえ、解決できないお登勢では、

お登勢に幸せは来ません。

若頭はお登勢を嫁に貰えば、

それで、万事が解決すると考えてらっしゃるのでしょうが、

それは形だけのことで、

お登勢の中身は不幸なままです。

それにきがつかない、

若頭だから、自分の幸せしか考えてないといいます」

徳治が考えてみたとて

考えつきもしない別の見方が晋太にはある。

「ど、どういうことだろう?」

どこまでも、お登勢のさいわいを考える晋太にしか、

見えないお登勢がある。

己という人物の器量、度量のなさに

へこみそうになる気持ちを押さえ、徳治は

もう一度、

晋太に頭を下げるしかなかった。

「どういうことだろう・・・。

俺にわかるようにおしえてもらえまいか・・」

徳冶の真剣なまなざしを見つめた後、

晋太はおもむろに話し始めた。

「まず、お登勢が来たことで

出てゆくしかないお登勢の事情があると考えます。

明け方にこっそり、抜け出してくるしかない事情。

お登勢の部屋に忍び込んだ男が

誰であるか、誰にも言えない。

仮にそれが奉公人の誰かであれば、

お登勢はこっそり、女将に相談するでしょ?

そうすれば、主人に内密にするから、心入れ替えて

お商売に励んでくれ。

そういえるんじゃないですか?

ところが、それが言えない相手。

釘を刺しておくことも出来ない相手。

木蔦屋の身上を好き勝手に出来る人間だからこそ、

お登勢の身の上も追い詰められる。

男は木蔦屋の旦那に違いないと思えました。

その上、お登勢は黙って飛び出してきているんでしょう

じゃなきゃ、

俺のところから、通いにすればいいんだから・・。

そういう段取りをつけてくるだろうに、

それも出来ない。

こうなったら、

女将に事実を話せるかというと、

話せない。

女将が事実に気が付いているなら、

お登勢に亭主を寝取られまいと、

さっさと、お登勢を追い出すだろうから、

明け方なんかの刻限にお登勢がでて来るのもおかしい。

俺なりに色々、考えると

お登勢にわるさを仕掛けようとしていた男は

木蔦屋の旦那って事になる。

そして、

そのことがある限り、

たとえ、お登勢が若頭と所帯を持ったとしても

いつも、心の中で

木蔦屋夫婦のことを考え、

ため息をつくだけになる。

お登勢の事だから、

女将に本当のことを知らせまい。

自分さえいなければ

それで事が収まると思って出てきてもいるんだろうけど、

そりゃあ、そうはいかない。

なぜならば、木蔦屋夫婦の間には

既に何らかの溝があって、

その溝をお登勢で埋めようとしたのが元だと思う。

お登勢がいなくなっても

夫婦の間に溝がある以上、

それを解決させずにお登勢は逃げ出すしかなかった。

その痛みがお登勢について回る。

もっと、いってしまえば、

お登勢の事を諦めたとしても

木蔦屋の旦那は他の女に手を付けるだろう。

それが、発覚したとき

お登勢は何も言わずに木蔦屋を出て行った自分を悔やむ。

喋れるようになったって

心はおしのままだ・・。

夫婦が夫婦の按配良い場所に座っていない不安をだきかかえたまま、

お登勢は幸せだといえるだろうか・・・」

「晋太・・。

お前のいう事は良く判る。

だけど、お登勢ちゃんが、木蔦屋夫婦に

意見なぞ、出来る立場じゃないじゃないか?

たとえ、事実を女将に話したって、

亭主に裏切らせる切欠を作ったお登勢ちゃんとしか、

思いやしないだろう?

お登勢ちゃんに

自分の亭主の紐をしっかり握ってなさいと

いわれてるみたいなもんだから、

女将にすれば、盗人たけだけしいという思いになるだけじゃないか・・・」

「いっそ、そのほうがよかったんじゃないんですか?

綺麗に表面をつくろって、溝のある不幸な夫婦でいるより、

どんなに、お登勢が憎まれても

夫婦がしっくり、いくようになれば、

お登勢にはその方が本望と考えるべきでしょう。

お登勢は・・・。

姉川の事件から・・・。

自分を出してゆくことが出来なくなっている。

人に憎まれることが恐ろしくて、

自分を殺して、

人さまの気持ちを波立たさなければ、

万事、うまくいく。そして、今まではそれで巧くいってた。

だけど、本当の本当。

人様のために自分が憎まれても、いいくらいに、

お登勢は自分を出して、

本当の自分の底を幸せにする勇気がなくなっている。

そんな、お登勢だから、

若頭がお登勢を望んでゆけば、

若頭の気持ちにこたえようとするだろう。

でも、それは、お登勢が自分から、望むものじゃない。

お登勢の気持ちを本当にほしいなら、

木蔦屋夫婦のことから、

自分を出してゆくお登勢に変えてゆかなきゃ、

お登勢は自分の気持ちから自分の幸せを掴むってことが

身に付かない。

若頭は

そんな・・・からくり人形のようなお登勢でいいですか?

そして、

何よりも、このままじゃ、

お登勢が幸せになれない」

「じゃあ・・」

どうすればいいと、いうんだ?と、

晋太にたずねる口を徳治はとざした。

晋太には、何か、考えがある。

そう思ったからだ。

「このままじゃ、お登勢は外にも出られない。

おまけに、女将には、黙っていようとするお登勢だと

木蔦屋の旦那にとっても、

他の女を捜すより、

女将には話さないお登勢なら、

自分の立場も護れるし、

外に出て行ったお登勢だから、

女将の知らぬ所で、

旦那はいっそう、好き勝手が出来る。

こんな好都合な事はない。

って、事になる。

お登勢は喋らないことで

いっそう自分を窮地に追い込んでいるんだ。

俺のところに逃げ込んだって

何の解決にもならない外側の状況と

心のうちも不幸せ。

俺はそんなお登勢に

若頭を引き合わせるわけには行かない」

徳冶の元へ嫁ぐことになったとしても、

今のままのお登勢では、逃げであり、

ごまかしになると、

晋太は繰り返した。

「おまえ・・・?

まさか・・・」

「夫婦の喧嘩は犬も食わないというけど、

ましてや、

俺がしゃしゃり出る立場でもないけど、

話にいってこようと思う。

若頭が言うように、

お登勢にじかに話させるのは、

いかにも、むごいことだと思う。

だけど、影でこっそりじゃあ、

お登勢の考え方も変わらない。

お登勢が、

俺に話しに行ってくれという気持ちにならなきゃ、

埒があかないんだ。

俺は、まず、お登勢の気持ちを変えてゆく。

それから、後は、

話次第でお登勢が

他でもない自分から話したいというなら、そうするし、

女将に事実を告げるのも辛いし、

夫婦の間の溝ってものをうまく、話が付けられないなら、

俺が話しに行く。

木蔦屋夫婦にとっても悪いようにさせやしない」

徳冶はふと、『雨ふって、地固まる・・・なのだ』と、思った。

雨を降らすを恐れるのは、お登勢の境遇がさせることだ。

警告。示唆。

こういう雨のつもりが

もろい地盤に土砂崩れを起こさせかねない。

姉川の縁の下で、

脆くなかったはずの地盤が目の前で崩れ去ったのを

見届けたお登勢だ。

どんな些細なことでも

夫婦に叩きつける雨には、なりたくないのが本音だろう。

だが、それをすることが

お登勢を心のおしから開放することになると晋太は言う。

この雨は

木蔦屋だけでなく

お登勢にも

慈雨になるんだ。と、

徳治はもう一度、

『雨降って地固まる。そういう事なんだ』

と、自分に言い聞かせた。

「判った。

俺もそこまで聞けば、一緒になんとかしてやりたいのが、

本音だけど・・・」

木蔦屋の醜聞を外に漏らしたくないお登勢だろう。

「そのかわりといっちゃあ、なんだが、

お登勢ちゃんがどうするこうするは、別にして

木蔦屋の女将と話をつける時は

いつでもいってくれ。

お登勢ちゃんがじかにはなすことになっても、

木蔦屋の旦那はいないほうがいいだろうし、

お前もそのときにはついていってやるんだろ?

どうせ、夜にどこかに呼び出してなんてわけにゃあいくまい?

女将がどこかに出るに都合の良い時間なんてのは

昼間。

お前も仕事中って時間になるだろうから、

その時は俺にいってくれれば

身体をあかせてやる」

徳冶の采配に小さく頭を下げた晋太に、

いや、なんでもないことだと、徳治は首を振って見せた。

「こんなことを、今言うのもなんだが、

話がどう転ぼうと、俺にその結果を教えてほしい。

そして、

巧く、折り合いがついたなら、その時は

お登勢ちゃんに引き合わせてほしい」

今度は徳冶が頭を下げ返した。

「判ってます。

そうじゃなけりゃ、

俺もこんな話を若頭にしません」

だが、

徳冶がお登勢に与えるかもしれない幸せを

要る。要らない。と、決めるのはお登勢自身である。

お登勢のものでしかない巡り合わせを

晋太が自分の勝手に出来るものではない。

「判ってらっしゃると思いますが、

お登勢の気持ちを掴んでゆくのは

若頭自身です。

後のことは、俺の知らぬ所ですよ」

それでも、その前に

まずはお登勢自身の問題を解決してゆかねばならない。

「帰って、お登勢と話してきます」

立ち上がった晋太に

徳治が慌てて声をかけなおした。

「勘定は俺が払うから、そのまま帰りゃいい。

それから、帳場で折をもらってかえってゆけ。

お登勢ちゃんも腹を減らして待ってるだろうに、

引き止めて、すまなかった」

徳冶の配慮を思うと

やはりお登勢に伝えてやらねばなるまい。

と、晋太は考える。

だけど何でお登勢が晋太の所に居ることを知っているんだと

たずねられるだろう。

俺が貰った事にしてしまったら、

お登勢は不思議に思わないだろうが

徳治のお登勢を気づかう思いを話してやれなくなる。

木蔦屋の女将との話が落着したら

お登勢に徳治を引き合わせると言ったけれど

どうやら、

徳冶の思いだけは先に引き合わせる事になるなと

晋太は思った。

馬鹿正直で人の気持ちをまむこうから受け止めるのは

お登勢も晋太もさして、かわりがない。

生きるに不器用な、隠し事が出来ない性分ゆえに

お登勢の

やむを得ない出奔や

女将に何も話せない苦しさも

晋太は重に承知していた。


外は薄暗く、晋太の足は一層、速くなる。

お登勢はきっと、外に明かりが漏れるのを怖れて、

行灯の火をつけたがらないだろう。

俺が帰らなきゃ

家の中に誰かいるのはおかしいことだから、

お登勢は暗くなった家の中で

灯りもつけずに痺れを切らして待ってるに違いない。

家の前に立つと思ったとおり、

家の中は暗い。

お登勢は戸もあけず

蒸れはじめた家の中にこもっていた。

「お登勢・・・俺だ・・・晋太だ」

一声呼ばわれば家の中から

お登勢が晋張り棒を外す気配がする。

必死で逃げ出してきたときは

気にも留めなかった瑣末が生じているお登勢である。

旦那様が此処をつきとめるんじゃないだろうか?

うっかり、戸を開けて、中に入り込まれたら

それで、もう、何もかもが水の泡。

誰もいない振りをよそおいながら、

お登勢は

このままじゃ、駄目だ、と、思っていた。

こんな思いを抱えながら

隠れすむなんて、おかしな事だと思っていた。

あんちゃんが、帰ってきたら、

この先をどうしてゆくか、相談してみよう。

登勢には縫い物が一番、性にあうから、

出来れば、そんなことをして、たっきの道にしてゆきたいけど・・・。

仕立物を請合うと成れば、

見知らぬ人が、此処に出入りするようになる。

それが、一番、あやうい。

どこか、人の出入りの多い

食べ物商売とか・・・。

そんなところへ働きにいったほうが、良いと思う。

旦那さまだって、まさか、人前で

登勢に言い寄ってきはすまい。

あんちゃんなら、

そんな店を知っているかもしれない。

帰ってきたら、聞いてみよう。

そう、決めて、あんちゃんの帰りを待った。

そのあんちゃんが

やっと、帰ってきた途端、

「お登勢。腹がへったろう?」

にゅっとお登勢の前に折詰めが差し出されていた。

「あんちゃん?

わざわざ・・こんなものを・・・」

申し訳ないと頭が一層下がるお登勢である。

登勢が外に出れなくなっているのも

あんちゃんは良く分かってる。

晋張り棒の仕掛けだって、あんちゃんは

お登勢のために作ってくれた。

なにもかも・・・登勢の性分も

登勢がどうしているかも、

登勢以上にあんちゃんが分かっている。

「ああ。そりゃぁ、違う。

若が・・あ、ああ。

徳冶さんだよ」

「徳冶さん?」

「ああ。俺もちょっと、考える所があってな。

それは後から、話をするけど。

仕事を休ませて貰おうと思ってた矢先に徳冶さんから、

お登勢ちゃんがそっちに居るだろうって、たずねられて・・」

それで、徳冶さんが折詰めを寄越してくれたんだと

いう前に

お登勢の顔色は褪め始め

口調もおそるおそるのものになっていた。

「染物屋に・・・女将さんがたずねてらしたってことなんだろうか?」

徳冶さんは何も事情もしらぬまま、

此処をつたえてしまったのだろうか?

でも、それなら・・・。

既に女将さんが此処を尋ねてきそうな気もする。

それとも、

女将さんは、また・・・。

旦那さまを頼っているんだろうか?

「お登勢の居所が分かった。

お前さん、連れ戻してきておくれよ」と。

お登勢の不安を感じ取ると

晋太は

「いや。

徳冶さんは、別のつてから、お登勢の出奔をしっていたようでな」

「ああ・・そうなんだ?」

誰が?

登勢の出奔を徳冶さんの耳に入れる人?

「まあ、そのことはお登勢が、

徳冶さんから、じかにきけばいいことだから、

ちょっと、あとまわしということにして、

俺はお登勢にはなしがあるんだ。

まずは、その折詰めをたべてしまってから・・・。

茶でものみながら、

ゆっくり、はなそう」

徳治さんのつてがどういうことであるか、良く分からないが

あんちゃんは「心配する必要はない」と判断したんだろう。

「あんちゃんは?」

「ああ、徳冶さんにおごってもらって、

先にたべてるんだよ」

「ふふふ」

と、お登勢が笑い出した。

「どうりで・・・。

あんちゃん、ちょっと、お酒くさい・・」

「あはは?

そうかあ?」

「うん」

うなづいたお登勢に

行灯の火を入れるように言いつけて

晋太は、

井戸水で身体を拭いてくると外にでていった。

お登勢・・・97

屋移りの祝いに貰った酒を

湯飲みに注ぎながら、

晋太は飯台の上に折り詰めをおいたままのお登勢に

遠慮することはない、とすすめなおした。

「あんちゃんは

お酒をのむようになったんだ?」

「うん。だけど、これは違う。

これは屋移りの祝い酒だから・・・」

今までは給金は井筒屋預かりであるが、

節季にまとまった金を渡されると

姉川の両親の元へ届けに行った。

金を渡しに行って、帰ってくるだけの

盆休み・正月休みになるのだが、

晋太の届ける銭のお陰で弟も妹も何処にも奉公に

出されず、田地田畑を耕し続けていられた。

だが、一本立ちになったこれからは

家賃も晋太が自分で払い、

食い物も着る物も自分で裁量してゆかねばならない。

生活は厳しくなるが、

些少の自由もできる。

その一つが、酒になるかもしれない。

「もう、前ほど、親に銭をわたしてやれなくなったけど・・・。

俺も二十をこえたから、

親父もお袋も

もう、自分の事につかえばいいといってくれたんだ」

むろん、その自分のことが

酒を指すのではない。

染物職人としての道を歩み始めた晋太が

姉川に帰ってくることはない。

普請は弟に譲ることにして、

晋太はいずれ、この街で所帯を持つ事になるだろう。

その時のために

残せる銭は残して、自分のために使えというのである。

「ああ・・」

ふと、お登勢は考えていた。

お登勢にだって、この十年、木蔦屋で働いた給金がある。

木蔦屋のお芳預かりになったまま・・・。

今の今まで、

その銭を自分が使えるものだと考えることもなかった。

「登勢は、晋吉おじちゃんに、な~~んも返しをしてもおらんし、

会いにも、いっておらん・・・」

手ぶらで帰るというわけにもいくまいが、

心の隅の奥で、

お登勢は、やっかいばらいをされたと考えていた。

だから、晋太のように、気軽に会いに行くだけでも

いってみようと思うことが出来なかった。

「気にすることはない。

俺ももう、これからは下手に行かないほうがいいと思ってるんだ。

普請は弟がつぐんだから、

俺をあてにさせちゃあいけない、って、思いもするんだ。

俺はもう、居ないもんだと思ってもらって

弟を頼りに、支えに助け合っていってもらいたいしな。

俺は、時折、金を届けて、

久し振りだから、一層優しい言葉もかける。

遠い人間だからいいことばかり見せる。

なのに、人間は、

どうしても、身近な存在と引き比べてしまうから・・」

「う・・・・ん」

「だからな、

お登勢、そこの所を

女将さんに良く分かってもらわなきゃなんないんだよ」

「え?」

どういうことだろう?

いぶかったお登勢に

晋太は話し続けた。

お登勢・・・98

「だいたい、お登勢が木蔦屋をとびだしたのは、

夜這い男が誰かわかったからだろう?」

晋太のいうのは、ほんのさわりのことでしかない。

だが、その口を進めてゆけば

何もかもを、見抜いた推量が並び立ってゆくに決まっている。

「うん・・・」

しんなりと煮含められた黒豆を箸の先につまみあげて、

お登勢から、

先に白状した。

「だんな様・・・だったんだ」

「やっぱりな・・」

晋太の「やっぱり」のほうが、

お登勢には、「やっぱり」である。

やっぱり、判っていた、あんちゃんなのだ。

「だんな様は・・・。

登勢に・・・」

悲しい言葉である。

今更どうにも、成らない夫婦の間のかすがいを

お登勢に求めるしかなくなった剛三郎こそが、

誰よりも

その言葉を、お芳になげたかったろう。

「跡継ぎを・・産んでほしいって・・」

「そんなことだろうと思ってたよ。

だけどな・・・。

お登勢、まちがえちゃあいけない」

晋太の言葉に、んっと首をかしげるお登勢になる。

「いいか。夫婦ってのはな、縁が有って夫婦になるように、

天の神様がしくんでいるんだよ。

子供が出来ない女。

子供が出来ない男。

わざわざ、こんな二人の縁を結んで

足りない所と足りた所を上手く、かみ合わせさせて、

夫婦になってゆくんだ。

そりゃああ、木蔦屋夫婦にゃ、子供はほしかったろう。

だけどな、子供が授からないからって、

他に逃げるために

天の神さまがわざわざ、二人の縁を結んだわけじゃないんだ。

子供が授からなくたって、

本当の夫婦の絆を築き上げる夫婦になってみせろと

それが本当のことだと思う」

「うん。あんちゃんの言うとおりだと思う」

酒だけ飲んじゃ、体にさわると

玉子焼きを晋太におしやって、お登勢が深くうなづく。

「だから。

お前が木蔦屋から出てきた事は

まちがっちゃあいないし、

俺もお登勢が無事でほっとしてる」

まだ、晋太が何かを含んでいる。

お登勢は、何度もうなづくことで

晋太のいいたい事をせかしてみせていた。

「だけど・・・。

その場はそれで、おさまったろうが、

木蔦屋夫婦の仲・・・。

それこそ、夫婦の中身だなあ。

それは、どうだ?

お登勢は、今、自分の身上が少しは安堵したろうから、

俺の言うことがわかるだろう?」

確かに。

確かに。

一番最初に、剛三郎から逃げ切れたその一番最初に

思ったことは

『だんなさまは・・・

女将さんをうらぎりなさる・・・』それだった。

夫婦の悲しい添景。

あまりにも、悲しい添景。

それが夫婦の仲・・・中・・・・仲・・・。

「だんなさまが、女将さんをふりかえろうとなさらない・・・」

「そうだろうな。

だけど、俺は木蔦屋のだんなだけが悪いんじゃないと思うんだ」


お登勢・・・99

酸味が勝った安物の酒は

口の中に小さな粟粒を残す。

口の中の渋さを湯飲みの酒でのみほして、

又も、小さな粟粒のような酸味を舌にころがして、

晋太は止まったお登勢の手先を見つめなおした。

「まあ・・・たべながら・・にしよう」

せっかくの折を食べさせなきゃ徳治にももうし分けない。

「うん・・」

漬物をぽりりとかみしめて、お登勢は晋太を待った。

「夫婦ってのは、割れ鍋に綴じ蓋っていうようにな・・・。

それなりの相手にそれなりの相手が添うもんだよ。

不埒で不誠実な考えを起す旦那って物を

裏返してゆくと

そんなことをしでかさせてしまう割れ鍋って言うものがあるんだ。

木蔦屋の旦那の醜態も

結局は、女将のせいでもあるって事だ」

晋太の言い分をお登勢は飲み込むに飲み込めない。

慌てて、漬物を噛み砕き、のみこむと、異論を唱えるお登勢になる。

「女将さんに、何の落ち度があるものか。

旦那様のことを爪の先ほどだって疑わず、

一生懸命尽くしていなさる。

旦那さまのことは、よく、たてていなさる」

「だから、本当のことを言うのがつらくて

お登勢はにげだしてきたか?

だけど、それじゃあ、

夫婦の仲は・・・おかしいままだ。

おまけに、お登勢は

夫婦の仲がおかしいって事に目をつぶろうとしている」

「そ・・・、そんなことはないよ。

あれだけの身上を自分の血筋に継がせたいと考えるのは

当たり前のことじゃないか?

それと、夫婦仲とは、別のことだよ。

関係ありゃしない」

「お前はそういうけどな・・・。

そう考えて、旦那を悪者にしたくないのは分かる。

だけど、それを考えるのは

お登勢。

お前じゃなくて女将さんなんだよ」

「そんなこと・・・。

そんなことは女将さんが考える?

って・・・事は

女将さんに何もかも話せってことになるじゃないか?

あんちゃん?

そんなむごい・・・」

「むごいのは、何も知らされないことじゃないか?

旦那が他の女に気を移すって事は、

女将さんが女房として、どっかで、至らないからだ。

それを直そうともせずにおけば、

お登勢が夫婦のために身を引いたつもりでも、

夫婦の仲はおかしいままだ。

いずれ、お登勢の代わりの女がでてきて、

その時に女房として至らなかったと気が付かされる方が

むごくないか?

それとも、

お登勢は旦那がお前に夢中で

お前にだけ、真剣だというか?

お前に諦めさえ付けば、元の夫婦に戻る?

そう、考えるか?

俺はそうは思わない。

長い間の夫婦暮らしで

甘えがでて、女将さんを泣かせてもいいくらいに

考えてるんだろうけどな。

男ってものは、勝手なもんだからな。

女房に八つ満足していても、

たった二つの足らない所があったら、

三つくらいしか満足出来ない女でも、その女が

女将さんに足りない二つを持っていたら、いっちまうんだよ。

そんな男の勝手を責めることなどしたら、

それで、何もかもが水の泡。

至らなかった。

すまなかった。

おまえさん、堪忍しておくれ。

悪いところはいつでも言ってくれ。

心して、なおしてゆきますってなあ。

女房ってのは損な役回りなんだよ。

平身低頭して、はいつくばって

それで当たり前なんだよ。

それが出来て初めて女房なんだよ。

女房にそれが出来て・・・。

男ってのは馬鹿だからな。

やっと、自分の我を折ることが出来るんだ。

そうやって考えて見たときにな、

女将さんは、そういう事をやってるか?

頭を下げて

一つも落ち度がなくても

全て私が悪う御座いましたって

それで、亭主をたててるっていうんだ。

どうだ?

やってるかい?」

ぐうの音も出てこないお登勢になる。

なにかというと、

頭が良くて口も達者な女将さんが

旦那様を上手に使いまわしている気がする。

お商売の実質上の権限も女将さんが握っていて、

語調こそ旦那様を立てたものだが、

ともすると、

旦那さまに意見だってする。

ある意味で傍若無人ともいえる態度は

女将さんの気風のいい性分ゆえであり、

それは、今の今まで

それこそが、女将さんらしさであり

お登勢には好ましいものとして、映っていた。

だが・・・。

男の勝手をひもとけば、

旦那様が女将さんをみるに、

お登勢のように

好ましいとみているかどうか。

「旦那さまは・・・?

女将さんに不満があおりなさる?」

それを解決せずに

お登勢で紛らわそうとした?

「ああ。十中八九そういう事だ。

子供がどうの、跡継ぎがどうの、

そんなもの、とっくに諦めた人間が

今更、もちだしてくるなんてのはな、

お前を言いくるめるため。

女将への言い訳つくりのため。

お前で不満を埋めようとしただけにすぎない。

逃げでしかない。

だけどな、

逃げたくなるほど

追い詰めた女将さんの性分や考え、色んなものがあると思う。

それをなおさなきゃ・・・。

夫婦がどうのこうの言う以前に

女将さんが人としてよりよく生きることを放棄することになるんじゃないか?

それをむごいと伝えるのを止めて、あげくのはて

いかに不満の女房だったと

我が子を抱きに妾宅に入り浸る旦那の姿できがつくか?

そうなったときには、

その時こそ旦那に頭を下げる気さえなくしちまうだろ?

本物の夫婦になるはずが

頭を下げてまで、自分を変えてまでして、

いて貰わなくて良い旦那になって・・・。

それは、むごいことじゃないのか?

一人の人間がどうでも良くなる不幸と

自分を殺してでも一人の人間を立てとおしたいと思える幸せと

お登勢。

どちらにするかは、

お前もにぎってることじゃないのか?」

無論、大方を握り締めているのは

女将である。

お登勢・・・100

「・・・・」

返す言葉がでてこなくなったお登勢である。

確かに・・・あんちゃんのいう事は筋が通っている。

でも・・・。

登勢が考えたように、

「魔がさした」で、収まってしまうことはないのだろうか?

もし、気の迷いだったと旦那様がかんがえなおすのであれば、

女将さんに事実を伝えずにすましたほうが、

なんぼか、良いに決まっている。

旦那さまの足元をくずす真似をする必要はないといえる。

それでも、

あんちゃんの言う通り、

旦那様が他の女・・・を、囲うというのなら・・・。

跡継ぎ、自分の血筋がほしいと願う旦那様を引き止め

止めさせることが、

旦那さまにとっては幸せだろうか?

夫婦が崩壊し

女将さんは苦しむだろう。

でも、男の・・・。

それも、きっともう、今が最後の機会だろう。

我侭でしかないだろう男の、子を得たいという願いを考えると

女将さんこそがかなえてやれなかった痛みもさながら、

女将さんが旦那様の別の岐路を握りつぶしてしまう痛みもあろう。

自分さえ辛抱すれば

我が亭主の喜ぶ顔が見れるとも考えられる。

これからは、年齢的にも下り坂に入る男が

最後の機会だと思うからこそ、謀反を企てる。

こう考えたとき

子を産んでやれなかった女将さんが

旦那さまの一世一代の願いを、諦めさせることを選べるだろうか?

「女将さんには、話さないほうが・・・いい・・」

お登勢は、どうしても、そう思う。

「女将さんに話しても、女将さんは・・・きっと、

旦那様が子供が・・・ほしいというのなら・・

って、目を瞑りなさる。

始めに話しておけば、女将さんも腹を括れるのかもしれないけど、

旦那さまが何処かに行くたびに、

妾宅にいくのか・・って

そうじゃなくても・・・もがきなさろう?」

そして・・・。

ふと、お登勢は思った。

「始めに話してしまったら・・・。

子供養子に入ってくれと願った登勢に、

その、登勢に旦那様が跡継ぎを生んでくれと言ったと判れば

何処のものとも、判らない女に

旦那さまをとられるよりはと

(お登勢が旦那さまの思いをかなえてやってくれないか)と、

女将さんまでが、登勢に詰め寄ってくることだって考えられる」

亭主可愛、それが、女将さんの本音だ。

お登勢は先に話せばそうなると、見えた気がした。

ぐいと湯飲みを傾けて

底の酒を飲み干すと

晋太は酒を注ぎなおした。

「そうだな・・。

お登勢の考えることも、十分にありえる。

だけどな、

男ってのは、自分が一番必要とされている場所が大事なんだよ。

女将さんの性分は

この界隈でも有名なくらい、気風が良くて,一本気すぎるんだ。

亭主、可愛いも判らなくはないけどな、

泣いて、引き止めるほどに

傍にいてくれって、な、

それを見せられて

それほど、俺が良いかって・・・。

それで、自分の願いを諦める気になれるんだよ。

女将さんが強がりにしろ、なんにしろ、

平気で、他の女の所に行かせたり、

それこそ、お前に亭主の願いをかなえてやってくれ、なんて、

そんな態度を見せたら、

男はな・・・。

「ああ、俺なんか、要らないんだな」

って、考えるんだよ。

要らないって、言う女房と

日陰の身でもいいと、

旦那の願いをかなえてやろうとする女と・・・。

なあ、どっちが可愛い?

男にとって、どっちが可愛い?」

またしても、ぐうの音も出ないお登勢に変わる。

旦那様が、どうこうじゃない。

長い間の夫婦のこじれ・・・。

これは、女将さんの性分が生み出したものだ。

いてもいなくても良い存在になりかけている

旦那様が

自分の居場所をさがそうとするのは、無理のないことかもしれない。

でも、

それもこれも、

女将さんの性分。

それをちょっと、変えるだけで、

『魔がさした』に、できる。

だからこそ、話して行けとあんちゃんは言っているんだ。

お登勢・・・101

「う・・・ん」

頷いてみたものの、やはり、

お登勢の不安は取り払えない。

事実を知った女将さんがどんなに苦しむだろう。

そればかりじゃない。

知ったばかりに、逆に

旦那様に愛想をつかしゃしないだろうか?

晋太は迷い顔のお登勢をじっと見ていた。

「それに、このままじゃ、お前は女将さんに顔むけができなくて

罪を侵した人間みたいに

外に出ることもできないんじゃないか?

よしんば、外に出ずにずっと、ここにいても

いつ旦那様が、此処におしこんできやしないか、って、

びくびくしながらって事になる。

壊れかけた夫婦のために

お前が損な思いでいきる必要はないだろ?

まず、自分がちゃんと生活できるようにするのが、先なんだ。

お前はびくびくしながら、夫婦が壊れてゆくのをみているほうがいいか?

それより、自分もまっとうに暮らして行けるようにする、

夫婦の仲も本物にしなおしてゆけるようにする、

その方がいいんじゃないか?」

「あ・・」

つい、さっき、登勢が考えていたことでもある。

「あんちゃん・・・。

そのことだけどね。

どこか・・・。食べ物商売とか・・。

そんなところに勤めたらどうだろう?

そうすりゃあ、旦那様が

登勢をみつけたって、他にもひとがいるし・・。

安心じゃないかって、かんがえたんだけど・・・」

晋太はお登勢の言葉を聞くと、小さくため息をついた。

「問題はそんなことじゃないだろう?

それに、旦那のことははそれで、安心かもしれないが・・・。

女将さんが来たら、お前は、どう言うんだ?

その場をやり過ごして、今度は別の場所に働きにいくか?

又、そこに女将さんがきたら・・どうする?

そうやって、一生とはいわないが、

逃げまわるのか?」

「・・・・・」

じゃあ、いっそう、登勢は旦那さまの妾になりゃよかったのか?

女将さんも登勢なら、諦めが付こう。

旦那様も願いがかなう。

木蔦屋も跡取りが出きる。

登・・勢も、育ててもらった恩を返す事がで・・きる・・。

ぼろぼろ・・と、涙が滴り落ち出し、

お登勢は手の甲でしずくを拭い始めた。

「あのなあ・・・。

何で泣くのか、俺にゃあ、さっぱり、わからないけどな、

どうせ、泣くなら

あの夫婦のために手を尽くしてやって

その上で、ないてくれないか?

逃げ隠れして、夫婦を黙って見過ごす自分でしかないって、

情けない思いでないてくれるな。

お前のこの先の暮らしをまっとうにするためにも、

お前は話してゆかなきゃ成らない。

どうせ、泣くなら、話す辛さにないてみせろ・・」

「あんちゃん?」

どんなに辛くても、にげていちゃ、何も開かない。

姉川の縁の下からお登勢を引きずり出し

狂いに逃げ込もうとするお登勢を揺さぶり起した

晋太だからこそ、

弱いお登勢を許さない。

今、このお登勢を許す晋太なら

あの時、とっくに、お登勢は狂っていた。

「俺がついていってやる。

上手く話せないときは、俺が助けてやる。

なあ・・・。

夫婦を助ける瀬戸際なんだ。

身体の中に膿があるんだ。

切り出して、すいだしてやんなきゃ、治んないんだ。

切り出すんだ。

痛くて当たり前だろう?

辛くて当たり前だろう?

でもな、その膿をとりはらう・・

そりゃあ、できると断言は出来ないよ。

でもな、膿を取り払える今を

切っちゃあ、痛かろうって

後にしたら

確実に膿が広がってゆくんだ。

お登勢・・・。

切る方も切られる方も痛いんだ。

そんなことはな・・・。

女将さんのほうが一番判ってくれる。

そうやってな、切ったらな・・・。

いつか、いつか、

助かったって、女将さんが思うようになる。

こっちもな、痛い思いしなきゃならないほどの

膿をきるからこそ、心底、助かるんだよ」

「う・・ん。あんちゃん、わかったよ。

判った・・・判ったから・・・せめて・・

登勢一人で行くのだけは勘弁しておくれよ。

本当は登勢が一人でかたづけなきゃならないのは判ってるよ・・。

それでも、あんちゃん・・」

皆まで、言わせず晋太が笑いかえした。

「さっきもいったろ。

ついていってやる・・」

「ん・・・」

晋太の暖かさにお登勢の瞳から涙がまたあふれかえってくる。

その涙をひっこめてやろうと

晋太が言う。

「食い物商売ってのは、いいな。

お前がしっかり話してゆくと決めたから

あんちゃんが

大森屋に口をきいてみるよ」

「大森屋?」

「ああ。その折が大森屋だ。うまいだろ?」

「うん」

頷きながら、あんちゃんらしい、

お登勢はそう思う。

きっと、あんちゃんは登勢が働きたいって言ったときから

大森屋がいいって決めていたんだ。

でも、登勢がどんな思いではたらきたいっていうか・・。

それがちゃんと筋の通ったものになってないから、

大森屋のことは言わなかったんだ。

それが、登勢がちゃんと、逃げないと決めたら

直ぐに

「大森屋」って、教えてくれる。

あんちゃんの切り替えは

吃驚するくらい早い。

登勢も・・見習わなくちゃいけない。

ぱっと変わる。

登勢もそうならなきゃ・・。

にこりと笑いきると

お登勢はゆっくり食べていた折を

改めて見直した。

「どれどれ・・大森屋の味をしっかりみておこう」

お登勢の笑顔に

「今泣いた烏がもう笑うは、食い物のせいか」

ふっと晋太が噴出した。


お登勢・・・102

一組しかない布団を

掛け布団も敷布団も

敷布団にして、

二つの部屋に別々に敷いて

肌がけをお登勢にわたすと、

晋太は着物を一枚羽織って寝転がった。

「あんちゃん・・・」

ふすまの向こうからお登勢が声をかけてくる。

「やっぱり、まだ寒いだろ?

あんちゃんが気にすることはないんだから、

小さい時みたいに

一緒に寝ようよ」

「ばかやろう・・」

「あんちゃん?」

晋太の拒絶の意味が判らない。

「何で、馬鹿なんだよ?」

なにか、もそもそつぶやいていた晋太が

面倒になったのか、

ふすまを開いた。

「あのな・・・。

お前は俺にとって妹でしかないけどな、

徳冶さんには、妹じゃないんだよ」

晋太のいう事が、お登勢には突拍子もない。

「なにいってんだよ。

あたりまえじゃないか・・・」

いつから、徳冶さんの妹になんかなったもんだい?

なりゃしない。

あたりまえじゃないか。

お登勢が晋太のいう事を額面どおりに受け止めるから、

晋太もつい、むきになる。

「だから、おまえは馬鹿なんだ。

そんな風に馬鹿だから

木蔦屋の旦那に忍び込まれるまで

旦那の気持ちに気がつかねえし、

お前も自分が女だって事がわかってねえんだ」

「ええ?」

お登勢が余計に判らなくなる。

「そ、それがなんで、徳冶さんの妹じゃないって事に

つながるんだろ?」

「ばか・・・」

しかたがない大馬鹿者だと晋太はためいきをついた。

「つまり、

徳冶さんはお前を好いていなさるんだよ」

「ええ?ああ、余計にわからない。

それだったら、徳治さんの妹じゃないからこそ・・・」

お登勢をすいてくれるんだろ?

それをわざわざ・・いわなきゃなん・・な・・・い・・・

「え?

あんちゃん、今、なんていった?

徳冶さんが登勢を好いてる・・そういったきがする・・。

「だから・・な。

実の兄妹なら、徳冶さんも

一つの布団に寝ようがどうしようが、

気にしやしないだろうよ。

でもな、

俺にとっては妹でも

徳治さんから見たら、俺の妹じゃないんだ。

お前を一人前の女として見てる徳治さんにとって、

俺も男のひとりなわけだ・・・。

それが一緒の布団にでも寝るなんてなったら、

徳冶さんも気が気じゃないだろ?」

お登勢が妙な顔をした後、言い返してきた。

「それだからって、

なんで、登勢が、

ううん、あんちゃんだってそうだ。

なんで徳冶さんに遠慮しなきゃなんないんだろ?」

なんで、こいつはこんなに鈍いんだろう。

晋太が歯噛みしていると、

お登勢がぽんと手をうった。

「ああ・・そうか、それって・・・。

あんちゃんは

徳冶さんと登勢が一緒になればいいって

そうかんがえてるってことなんだ?」

鈍いくせに変なところで聡い。

聡いくせにやはり、鈍い。

「ええ?

それって、さっき聞いたことは

徳冶さんが・・

登勢を好いていてくれなさる?・・・

ええ・・?

それって、そういう事だっていうんだね?」

うわあ、と、感嘆の声をあげると、

お登勢の頬が染まり

ほてった頬を両手で挟みこんでいたが、

やがて、ほううと乙女らしいため息をついた。

「徳冶さんが・・・

登勢・・を・・すいていなさる・・・」

花嫁に憧れる娘らしい憧憬が

急に現のものとして、

かなうかもしれない。

お登勢の夢心地に浸りこむと

やはり・・・。

もう一度、ほううとため息をついていた。

お登勢・・・103

井筒屋に入った途端

晋太は徳冶にひっぱられる。

「で、どうだった?」

徳冶がたずねることは

お登勢の事に決まっている。

「木蔦屋には話に行きます。

それとは、別に、お登勢は働きにいきたいっていいだして・・・。

俺もその方がいいと思うし、

食べ物屋かなにかがいいっていうから、

大森屋に話にいってこようかとおもってるんですよ」

「う~ん」

徳冶にすれば、そんなところにお登勢を働きにいかせたくない。

嫁にもらえば、大森屋だって直ぐにやめることになるわけだし、

なによりも、

大森屋も客の出入りが激しく、

あらくれた人足だって、くるし、

おまけにそいつらは、酒だって飲む。

器量の良いお登勢に剛三郎のように

ちょっかいをかける奴もでてくるかもしれないし、

そうでなくても、

お酌くらいしてゆけと、お登勢に強請るだろう。

「いや・・。そんなことより、

先に木蔦屋のことをかたづけて、

俺の話をまとめてしまいたい。

そうすりゃあ、そんなところに働きに行くこともないだろ?」

「確かにそうですが・・・」

晋太が口ごもると

徳治はやはり、余計に気にかかる。

「なんだ?」

口ごもったその訳を知りたい。

「俺・・。お登勢に若頭のことをすこし、はなしたんですよ・・」

「え?・・・お前、なんていったんだ?

お登勢ちゃんは、俺のこと・・嫌だっていったのか?」

晋太の話がどうであったか、まともに聞きもしないうちから

お登勢に気にもかけられていないのか、どうかが、きになる。

「いや・・。

お登勢は嬉しそうでしたよ。

ただ・・・」

「ただ?

ただ、なんだ?

俺じゃ、だめなのか?

あ、いや、お前・・どういう風にいったんだ?」

それも判らないのに、駄目だといわれたとしても

どう、駄目なのかさえ、判らない。

やっと、落ち着きを取り戻して、

徳治は晋太がお登勢にどう、告げたかを聞くべきだと気がついた。

「あくまでも、俺から、見てですよ。

お登勢の本心がどうか、わからないし・・・。

お登勢の気持ちを掴むのは

若頭の領分で、俺がどうこういうことじゃないし・・・」

晋太の前置きに徳治がじれている。

「いいから・・・。なんだっていうんだ?」

ただ事じゃない、「ただ・・・」で、ないことを念じながら

徳治が押し黙った。


お登勢・・・104

「お登勢に若頭のことを話したとき、

確かにお登勢は嬉しそうでした。

だけど、

それは、お登勢が若頭に好意を持ってるという事じゃないように

見えるんですよ。

一つには、俺が

若頭を薦めたという事で、

お登勢は若頭は信頼できると考えたとおもうんです」

晋太のいうところはその通りである。

剛三郎の不埒な思いのせいで

木蔦屋を出るを余儀なくされたお登勢に

今、徳冶から直接、お登勢への好意を告げたとしたら、

徳治の人物を量り知ることも出来ないお登勢は

まず、徳冶の言葉が本物であるか、どうかを詮議するために、

用心深く、晋太に意見を求めてゆく事になるだろう。

そこで晋太が徳冶を推してくれて、

お登勢が徳冶の気持ちを考え直してくれるという事になろう。

だからこそ、

徳冶は晋太の存在が鍵になるとおもったのである。

徳冶がお登勢への恋心を告げてから晋太に行く話しが

逆に晋太からお登勢に行ったに過ぎないのであるが、

「お登勢ちゃんは、お前を一番に信頼しているから・・な」

わずかに寂し気にうなづいて、

徳治は自分こそがその一番になるんだと

改めて、腹をくくりなおす。

「だから・・・なお、気になるんですよ。

お登勢にとって、木蔦屋の主人の仕打ちは

限りなく、悲しかったでしょう。

うっかりすると、不埒な思いでしか

見てもらえないお登勢なのかと、

自分を卑下していたかもしれない。

そこに、若頭がお登勢を好いていなさると、

俺が言えば、

お登勢は随分喜ぶにきまっているでしょう?

だけど、それは、

お登勢が若頭を好いているって事じゃないでしょう?

男が本気で考えていると知ったら

どんな娘でも心を弾ませる。

思われていると知るだけで心が躍る。

丁度、お登勢がそんな風に見えるんですよ」

「そ・・それじゃ・いけないのか?

初めはそんなもんじゃないのか?

それが切欠でお登勢ちゃんが俺を見てくれるようになる。

それで、いいと思うんだが・・」

晋太の顔がわずかにほころんだ。

「若頭がそういう覚悟でいるならいいんですよ。

ただ、お登勢はまだ、ねんねでしかない。

木蔦屋の旦那が見せたような男の好いたらしさなんか、

何も判っちゃいないぐらいだから、

自分が女だって事もわかってない。

男に不埒な思いをかけられるのが「女」であり、

男にまことの思いをかけられるのも「女」だって事が、

今、お登勢の前にいっぺんにやってきてるんですよ。

俺はできるなら、

お登勢から、若頭を好きになってほしいと思ってます。

今のお登勢だと、自分が本当に若頭を好いているか

どうかもわからないまま、

心の弾みに、弾まされた勢いで

若頭が嫁に来いといえばうなづいてしまうと思うのです。

それは、それでもいいんだろうけど、

俺はお登勢に自分の意志でしっかり生きて欲しいと思うんです。

だから・・」

晋太の思いを聞いてみれば徳治も頭がさがる。

「おまえ、実の兄だって、そんなこと、考えやしないだろう」

晋太はお登勢の不幸を見ている。

親を失い、声を失ったお登勢が

得るものがあるとすれば

「自分」だろう。

誰よりも不幸で、何もかもをなくしたから、なおさら、

「自分」だけがお登勢のものだ。

その「自分」をあいまいにして、流されては、

お登勢は「自分」を得たとはいえまい。

だから、晋太はお登勢の唯一の宝である

「自分」を一本立ちさせてやりたいとことさらに願う。

やがて、

折った言葉を晋太が継ぎ足した。

「だから、俺はお登勢が大森屋に働きに行けばいいと思う。

そこならば、

若頭が自然にお登勢と近しくなってゆけるんじゃないかと、

思うのと・・」

言葉を途切らせ晋太は軽く咳払いをした。

「大森屋の夫婦は仲が良い。

お登勢は仲の良い夫婦って物をよく判ってないんですよ。

しらないんですよ。

男がどんな風に女房を庇うか、

女がどんな風に亭主を支えるか、

そんなものをお登勢が大森屋で感じ取ってくれたら

申し訳ないけど

木蔦屋の夫婦がどれほどもろいか、

お登勢に見えてくると思うのです。

それを知る事で

この先、お登勢が若頭と所帯を持つ事になったときに

お登勢の中で

自分達夫婦のめどうがたってくるようにもなるんじゃないかと・・」

どこまでも、お登勢の事を考えてゆくことから

始まっている一言一言に

徳冶はふうとため息をついた。

「おまえ・・・。そこまで・・

よく、かんがえられるもんだな・・」

「いえ、ああ、俺も自分でもそれは思います。

でも、それはお登勢のあの姉川での事件があったからだと思います。

お登勢が常の娘のように

両親が揃っていて、幸せに暮らしているなら、

俺もここまで、お登勢に肩入れしなかったと思います。

八つの年で両親を目の前で殺され

奉公に出され、甘えたいときに甘えることも、出来ず、許されず

必死に生きてきたお登勢だからこそ、

誰よりも幸せになってほしい・・・」

晋太が手の甲で涙を拭った。

「判った。

お前のいう事は、良く判った

お前の言う通りにする。

そして俺もお登勢ちゃんに好いてもらえるように

精一杯努力する。

そして、お登勢ちゃんの意志で

嫁に来てもらう。

そういうことだろ?」

「はい」

言葉少なく返事だけしか返せなくなった男泣きの晋太だった。

晋他が泣くとこなぞ初めてみた。

それがお登勢という女性を思うゆえという

不思議な共通点ゆえに

見る事になったのだから

又、奇遇だと徳治は思った。

お登勢・・・105

「ところで・・・

木蔦屋の女将さんには、いつ話しにいく?

出来れば、俺がついていって、

立ち会ってやりたいとは思うが・・・」

そうも行かないことは重々承知の徳治である。

「できるだけ、早いうち、

俺は今からでも良いと思ってるんですが、

こんな話しってのは

難しいですよ」

晋太がいうのは、病で言えば自覚という事である。

自分に病巣があると、

うすうす気が付いている人間に話すことはたやすい。

病人はすなおに病から救われる法に耳を傾ける。

ところが、木蔦屋の女将は自分に病巣があることすら、

知らない。

その人間に『病』を知らせてみても、

まず、しんじるか、どうか。

たとえ、信じても

『病』を『病』通りに受け止められるか、どうか。

剛三郎の不埒をお登勢のせいと考えるかもしれない。

確かに、お登勢にも隙があったと言える。

己が女であることを思えば

男が女にいつ何時、不埒を仕掛けるか判らない。

男がそういう生き物であると言う以前に

お登勢の持つ女性。

この場合特に見目麗しさという外見への自覚。

そして、女と呼ばれる『年齢』

男に不埒を沸き起させる『女の年齢』と、いうもの。

このふたつを考えれば、

いささか、大げさに聞こえるかもしれないが

お登勢は

『自分が男に不埒を沸き起させる、惹く女』であると

自覚しておくべきであった。

女はいつでも、うぬぼれすぎているくらいに、

自分の女を自覚し

男を用心しなければならない。

そうしていれば、

おそらく、

お登勢は剛三郎に付け入られる隙を与えずに済んだだろう。

そして、もっと、男の目つきに聡い女になっていただろう。

聡い女は

もっと早いうちに、男を牽制できる。

剛三郎も

木蔦屋の女将も悪いが

お登勢も悪い。

物事、悪いことが起きたとき

誰か一人だけが悪いわけじゃない。

いろいろな温床があって、苗がそだつように、

それぞれの悪さが

もともとの不埒に増長をかけさせる。

ひとつづつの、曲がりをなおしてゆくしかないのが

本来だろうが、

晋太は

女が変われば男が変わると考えていた。

父、晋吉を支えた母親・お多恵をみていてもそうだった。

晋吉の曲がった意見でも

母は一度は素直に従う。

したがった末、それが間違いだと目に物を見せてくることがある。

極端に言えば

畑に撒くものを変える。

土地にあわぬと多恵はおもっても

それに従う。

けっか、不作の果てひもじさに泣く目にあう。

晋吉はそれで、自分の間違いに気が付く。

多恵はよほど、腹を括っている。と思う。

そんな風な、多恵によって、晋吉がほどけてくる。

それを見て育った晋太だ。

女が変われば

物事が丸く収まる。

その持論は経験で得たものである。

ゆえに、これも何処まで木蔦屋の女将につうずるものか。

晋太の考えは理屈ではない分、

理論だてで、納得させれるものではない。

晋太はそれに

微かな不安を抱いていた。

お登勢・・・106

「まあ・・びっくりしたよ」

大森屋の奥にとおされたお芳の前に

小さくお登勢がうずくまり

ただただ、頭をたたみに擦り付けている。

その横に、染物屋の晋太さんが

お登勢の頭が上がってくるのをじっと見ている。

「お登勢・・まあ、無事でいるってわかったから、

なんだよ、あたしも・・なおさら、やっぱり、はいそうですか。って、いいきれないんだけどね・・。

なんだって、おまえ、何も言わずに飛び出しちまったんだい?

なんで、あたしに一言の相談もなく・・。

情けなくって・・あたしも・・」

口の端をくうとへの字にかみあげて、

お芳が泣き顔になる。

「女将さん・・・。

それをお登勢の口から言わせるのが酷で、俺がついてきたんですよ。

お登勢がやったことは

恩知らずも、恩知らず。

女将さんにすりゃあ、飼い犬に手を噛まれたなんて

そんなもんじゃあすまないだろうに、

お登勢が無事でいるか、

随分心労なすって、

お登勢は女将さんにあわせる顔も、無いってのが本当のところです。

でも、

それでも、このままじゃあ、いけない。

ちゃんと、訳を話して、お登勢のやむをえない気持ちって物も

わかってもらわなきゃ、

お登勢も、あんまりにもかわいそうで、

俺がお登勢を無理やり、此処に連れてきたんですよ」

「やむをえないって?

晋太さんは、やっぱり、事情をきかされてなすったんだね?」

「ええ・・。

そして、お登勢は誰よりも、その出奔のわけを女将さんに

しられたくなかったんですよ」

「あたしに?

あたしにかえ?

晋太さん、そりゃあ、どういうことだろう」

本当にどういうことだろう?

首をかしげた顔が何かに思い当たろうとするが、

かんがえつくことがないとみえて、

お芳はせく。

「晋太さんの口からでいいから・・きかせておくれでないかい?」

剛三郎を露一つも疑おうとしない

お芳に事実を告げるむごさに

畳に頭を擦り付けていたお登勢が顔を上げた。

「あたしが言います。

さいしょから、あたしがいえば、よかったことなんだ。

女将さんをかなしませたくないって、ずっと、黙ってたけど、

言わなきゃならないなら、

あたしがいいます」

言う辛さを晋太におしつけ、すみにかくれて、

これから、女将さんを悲しませる。

それぐらいなら、お登勢が自分で女将さんを悲しませる。

せめて、事実を告げる痛みから逃げず、

お登勢こそが女将さんを傷つける。

それも逃げちゃ行けない。

「待っておくれよ・・。

さっきから聞いてると、お登勢が木蔦屋を出て行ったのは

あたしのせい?

あたしがなにか、したのかい?

それだって、いってくれりゃあいいじゃないか?

なにも・・。

飛び出しちまうことじゃないだろ?

・・・。

でも、お前はとびだしちまったんだよね・・。

今更、あたしをゆるせないのかもしれないけど、

やっぱり、訳がわかんないのもいやなもんだよ」

大きく息を吸うと

お芳は背筋をしゃんと伸ばした。

「きかせておくれでないかい?

あたしのどこがいけないところか、

ようく、しっておかなきゃ、

また、誰かに嫌な思いをさせちまうんだ。

だから、あたしをたすけてやるってつもりで、

話をきかせておくれでないかい?」

唇をかんで

そうじゃない、女将さんになんの落ち度もありゃしない。

言い募りたい思いがお登勢の涙に呑まれ、

お登勢は何度も違う違うと首を振った。

お登勢の戸惑いが決心に変わるまで

晋太は、お登勢を黙って見つめていた。

が、お芳は、お登勢が少しでも喋りやすかろうと考えるか、

すまなさそうなお登勢の口を割らせるをさけて、やりたがるか、

当て推量をつづけていた。

お芳の思い当たる所をしゃべってみることで、

お登勢になんの咎もないといいつのってみようとしていた。

「ああ・・・。

あたしもおまえが腹をたててもしかたがないと、思っていたんだよ。

子供養子のことだろ?

口が利けるようになった途端に

手の平を返したように、養子に来ないかなんて、馬鹿にしてるも、程が在る。

それに・・・。

お前の事情もあったろうに・・・。

あたしがいいだせば、おまえは断るに断れない。

おまえの気持ちって物をまったく考えもせず

傍若無人すぎる・・よ・・ねえ?」

やはり、剛三郎を疑いもせず

お芳はお登勢への処し方を省みる。


お登勢の唇がきつく結ばれ、

それが開かれると

お登勢が出した言葉は

お芳の懸念の端をついていた。

「違うんです・・・。

そんな事じゃないんです。

あたしは、ありがたいことだとおもっているし、それで、女将さんへの恩返しになるなら、

喜んで養子にはいってもかまわないんです・・・。

でも、そうじゃなくて・・・」

戸惑いを払拭する言葉が見つからず

お登勢は事実をそのままに告げるしかないと、気持ちを切り替えると

やっと、小さく

「あの日の・・・あの日の・・・

あたしの部屋に忍び込んだ男の・・」

お登勢の言葉を聞くと

お芳はあっと声を上げた。

「ああ・・そうかい?

そっちの事だったんだね?

思ったとおりお前はその男が誰か

判っているんだね?

子飼いの時からの奉公人・・・。

それが、誰であるか

あたしに告げるのが・・・

つらかったんだね?

そして、おまえのことだ・・。

あたしが怒って、その男を店からおいだしてしまうって、思ったんだね?

だから・・・。

おまえ、やむを得ず、とびだしちまったんだ?」

暫く考え込んだお芳だったが

「いいよ。いっておくれ。

おまえのその気持ちに免じて

その男を店からおいだしたりしない・・・」


そんなことよりも、お登勢には

縁談が在る。

それを纏めてやりたい。

お登勢がすんだ事に心を残している以上

縁談だってまとまりゃしないだろう。

できるなら、あたしが

嫁にだしてやりたいと思うお芳にとって、

お登勢の気がかりを取っ払うことが大事だった。


だが・・・。

「女将さん・・。

追い出したり出来る人なら、あたしも逆に

堪忍してやってくださいとお願いもしたと思います。

その人は・・・」

一番言いたくない事実に

お登勢の肩が震え、

お芳はお登勢の様子をみつめていた。

その頭の隅で

なにおか、納得するにしっくり来ない

食い違いが在るとおぼろげに理解し始めていた。

「お登勢・・・?」


「約束するよ。

それが、誰であろうと

けっして、悪いようにはしない」

お登勢の口が開かれるを待つより

お芳の口は流暢である。

「だいいち・・、

追い出すに追い出せない

なんて・・。

そんな・・・そ・・ん・・・あ?」

お芳が思い浮かべた、

追い出すに追い出せない人間とは・・・

「え?・・

まさか・・?」

奉公人であれば、追い出す事は

簡単に出来る。

簡単が通らない相手は・・・

わが亭主である剛三郎しか・・いない?

「え?あ?・・・まさか?」

お芳が思い当たった事が

本当に当てはまるのか?

確かめる言葉を出すより先に

お登勢がいっそう・・・

うな垂れ、お芳と目を合わせようとしない。


「あ?あ?・・・あ、あはは・・

ああ、ああ、そうなんだ?

そうなんだ・・・

そうだよね・・・。

そうならば、あたしに一番しらせたくない・・

つじつまが・・あう・・よ」

わずかの余裕を必死につくろい

お芳は木蔦屋の女将然として

ふるまおうとするが、

思い当たったことへの驚愕で

顔色が土のようにさめていた。


「ああ・・そうなんだ・・

ふ~~ん・・なるほどね・・

そう・・」

「女将さん・」

常軌を逸するほど

余裕綽綽のふりをするのは、

お芳の常である。


すっぱりと手を切った時でも

平気な顔して

「お登勢・・ちょいと、手ぬぐいをもってきておくれ」

なんでもなさ気にお登勢を呼んだ。

お芳の側に行ってみて、驚いたのは

お登勢のほうだった。


そんな強がりなお芳を知っているお登勢であるからこそ、

お芳の内心の波立ちにお登勢の心がひりついてくる。


「あの人・・。

やっぱり・・・子供が・・

子供がいれば・・おまえに

そんなことを仕掛けたりしなかったと思うんだよ。

跡の無い寂しさ・・も、あったんだと思うよ。

お登勢・・・

堪忍してやっておくれよ・・・。

悪いのはあたし・・・。

うまず女のあたしを・・、あの人は

一言も責めることもなく、

心のそこでじっと寂しさを堪えてたんだ。

それが・・・

はじけちまったんだろうねえ・・」

「女将さん・・・。

おっしゃるとおりだと思っています。

それでも・・、やはり・・

だんな様は女将さんが居られてこそ・・

私は・・夫婦のかすがいになるなら、

子供養子のことも、よろこんで、うけたいと考えてました。

でも・・・、だんな様は・・」

お登勢とねんごろになりたい。

俺の子を産んでくれといった。

そこまで、口に出すむごさに

お登勢は口をつぐんだ。


「いいんだよ。

お前なら・・そりゃあ、それでも、いいんだよ。

あたしのことはかまわないんだけどね、

それでも、

おまえだって、すきぶすきもあろう?

なにも四十を超えた男の好き勝手にそう必要も無いんだよ」

そんなことより、井筒屋の若頭との縁談がある。

「おまえのことだから・・。

随分なやんだんだろう?

うちの人にだって、恩義をかんじているだろうし、あたしのことだって、随分思ってくれる。

あちらをたてれば、こちらがたたず、

あげく、自分の気持ちのままに生きてゆくことがまちがっているかのように

自分を責めて・・いたんだろう?」


お芳にとって、晴天の霹靂とも思える

剛三郎の裏切りであるが、

お登勢に対して

他の奉公人が見せた媚態をおもえば、

むしろ、剛三郎もその範疇に入る「男」であると、気が付くのに疎すぎた自分であると思える。


「お前に対してうちの人がいったい何をいったのか、あたしは想像が付くよ。

だからね、

もう、おまえは・・

飛び出してゆくしかなかったってね・・。

でも、この問題は夫婦のことだからね。

おまえは、そんなことは、もういっさいわすれておくれでないかい?

そして、自分の幸せを掴んで欲しいんだよ。

じっさい、今、お前が飛び出したとも知らず

嫁取りの話が舞い込んできてるんだ」

お芳のことはお芳のこと。

それと同じように

お登勢もお登勢のこと。

自分の気の済むように生きるのが

一番良いとお芳が言う。


「だからね・・・極端なはなしだけどね。

おまえが、もし、あんな老いぼれたうちの亭主が良いというなら、お前の思うようにすればいい」

言い放たれた言葉の後ろにある

お登勢への信頼。

お登勢なら誠の気持ちで生きてゆくだろうと

お芳は見ている。

「女将さん・・・私は・・旦那様に父親を

みていたと思います。八つの年で両親と死に別れましたから、父親というものは、こんなかんじだろうか。盆栽ひとつでもおとっつあんも

生きていたら、こんな風に盆栽をしたのだろうか?と、いう風にいつも旦那さまから

父親の匂いをかいでいたと思うのです。

ですから、私はそれ以上にもそれ以下にも

旦那さまを意識したことがありませんし

これから先もそれは変わらないものです」


「お登勢・・

すまない・・・ねえ。

おまえがそうやって、剛三郎を

父親のように慕ってくれていたと思うと

あたしは・・本当に申し訳ないと思うよ。

あたしが、もっとしっかり

うちの人をつかまえていたら、

おまえにいやな思いをあじあわせずにすんだんだ・・」

堪えていた涙がお芳の瞳にうるみあがると、

お芳はそっと手の甲で涙を拭い去り

にこりと微笑んでみせた。

「それでもね・・。

おかげで、お登勢の声ももどって、

良縁が舞い込んできてるんだよ。

お登勢は気持ちを切り替えて

その話をかんがえてみてくれないかねえ?」

「はあ・・・」

どんなにか愁嘆場になるかと思った今日の話が

あっさりとお芳に伝わり

晋太やお登勢が心配した以上に

お芳の腹が括られていた。


自分のほうに落ち度があるというお芳を

煎じ詰めれば

剛三郎への情愛、その一言に尽きるだろう。


お芳の言うように

夫婦の問題でしかない事は

夫婦に任せ

お登勢はお登勢の生き様に従えばいい。


ましてや、それを何よりも望んでいるのが

とうのお芳である。


黙ってふたりのやりとりを

聞いていた晋太がやっと口を開いた。


「女将さんがおっしゃってくだすったことで、

お登勢の胸がどんなにか、晴れたかと思います」

お登勢の心中の虫をひねりつぶされたことを

喜ぶと

「お登勢にとって良い方向にするべく、

私も助力は惜しみませんので、

どうぞ・・・、

このまま、私の手元にてお登勢を預からさせてください」

「そうだねえ・・。

帰ってきてもらいたいのはやまやまだけど・・

わるさをしかけた男がうちの人だっていうんじゃ・・・」

あぶなかしくてどうにもならない。

それよりも、嫁取りの話を

お登勢につたえなければならないのであるが・・・。

お芳は困った。

どこの誰か、皆目見当が付いていないのである。

「とにかく・・、先方様は仲人をたてて、

是非ともという事だからね・・・。

お登勢はどうだろうかね?」

嫁に行くに遅い年ではない。

「おちつくということは、

良いことだとおもっておりますし、

いつまでも、ひとりで居るわけにもいきません。こんな、私を嫁にくれといってくださるのですから、喜んでお受けしたいとは、思いますが・・・」

お登勢の胸にふと湧き上がる鼓動が在る。

それは、晋太に聞かされた徳治に想いをはせたからだ。

「その方は・・・女将さんもよくご存知の方でしょうか?」

それならば、徳冶である可能性が強い。

「おや?心あたりがあるのかい?

でもねえ、残念な事にまだ、はっきり解ってないんだよ・・・・。ふう~~ん?」

思わせぶりなお芳のため息をお登勢がとがめる。

「あの?」

「いや、なんだよ。おまえ・・・

誰か約束をした人がいるか、

想ってる人が居るのかとおもってさ・・」

「いえっ・・・そういうわけでは・・」

あわてて否定したお登勢の頬が軽く染まるのを見ると

お芳の年の功である。

「わかったよ。

その人が誰か分かって、

お前の想う人と同じひとであれば・・・

お登勢は嫁にいってもいいってことだね?」

「あ・・」

そういう事になるのだろうかと自分にたずねる

お登勢に胸の鼓動がとくりとうなづいて見せていた。


お登勢にあった。

無事で居ると分かって

安心したし、

あとは、お登勢の想う人と

木蔦屋に仲人をよこした先方様が

合致すれば、

話はとんとんとまとまるだろう。


あの品の良いご隠居がどこの誰かを

調べなきゃ成らないなと考えながら

家路を急ぐお芳の胸に

ふいに

暗く深い痛みがはしってきた。


お登勢から聞かされた事実。

いや、正確にはやっと気が着いた事実。


剛三郎の不埒を嘘だと否定してみるものの、

どう考えても、つじつまが合う。


お登勢には虚勢を張ってもみた。

お登勢のさいわいのほうが

お登勢を目の前にすれば気がかりだった。

だから、いま、目の前にお登勢が居なくなれば

お芳の胸の中で

悲しい事実が煩悶される。


うちの人には、何も、いわないほうがいいのだろうか・・・。

お登勢から知らされた事実は無論

お登勢の所在も・・・。

何も聞かなかった事にして

こっそり、お登勢の嫁入り仕度をととのえてやろう。


そして、残された夫婦の間に

大きな亀裂があることを

どうやって・・・

癒してゆこうか・・・。


お登勢の事に諦めが着いたとしても

剛三郎の胸の中には

大きな寂しさがある。


跡の無い寂しさは

大きく芽を吹いている。


お登勢を諦めたとて、お登勢じゃない誰かを求める剛三郎がお芳の目の中に浮ぶ。


子供・・・。


今更・・・どうしようもないことだけど・・・。


・・・・。


もっと、早く・・・お登勢ガ小さなうちに

養子にしてしまえばそれで、解決した問題じゃない。

と、お芳は想う。


剛三郎の寂しさは

子供が居ない寂しさではない。

己の血をはぐくみ育ててくれる

「女」がいない寂しさである。


全身全霊をかけて、

男の胤を守り育て、

女は人生を

剛三郎に預ける

跡を得る見返りに

剛三郎は女を守り抜く。


そんな弾みの在る

重い充足感と責任感。


それが・・・・、ない・・・寂しさ。


糸の切れた凧のように

風が吹くたびに

心の中にひょううひゅうと隙間風が吹き込む・・・・。


いっそ・・・、

どこかにてかけを・・


そう覚悟しようかと思うだけで、

お芳の瞳から

悲しいしずくがおちてきていた。


大森屋の奥座敷から

お芳を送り出すと、

お登勢はほうううと

ため息をついていた。


お芳の胸中を思うと

暗澹としたものが

お登勢をつつむこんでゆくのであるが、

その暗い気持ちの横に

得手勝手なうきたちが

並び立ってくる。


「あんちゃん?

女将さんがいっていた

縁談っていうのは・・・

ひょっとして?」


徳冶さんのことだろうか?

と、たずねたくなる言葉を

お登勢はつぐんだ。


いくら、女将さんが

お登勢が自身の幸せをつかめばいいと

いってくれたとしても、

剛三郎の事実を告げられた女将の心証を

考えれば

己のときめきに走るは、

あまりにも身勝手すぎる。


「そうだなあ・・」

お登勢の口から出てきた言葉が

徳冶への甘やかな期待だったから

晋太はかすかに微笑んだ。


お登勢という妹が

一人前の女性になりかけている。


たゆとい思いでお登勢をながめる晋太の胸の中では

徳冶がお登勢の真の思いを引きずり出し掴んでくれることを願いながら

まだまだ、恋情に焦がれるだけの

子供のお登勢でしかないと苦笑も出てくる。


「徳冶さんかもしれないな・・。

でもな、その前に

お登勢。

せっかく此処にきたんだから・・・

働かせてもらえるかどうか、

たのんでみないか?」

徳冶の話しをあっさり打ち明けて話をまとめてやっても良いのだろうが、

やはり

晋太は徳冶にはなしたように

徳冶自身がお登勢との道を作っていって欲しいと想う。


だから、

慌てて婚儀の話しなどせず

徳冶と自然になれそめてゆくためにも

まずお登勢の生活を成り立たせてやりたいと想った。


自然に

ゆっくりと

徳治と知り合い

二人を深め合って

この人と・と、双方思いあってゆく道程を

歩んでゆく。


その道ほどが二人の絆を確かなものにしてゆく。

今のお登勢じゃ、

花嫁に憧れる小娘の気まぐれでしかない。


それほど、

お登勢は「さいわい」に

飢えていたといえるかもしれない。


晋太のお登勢への読みは、

当のお登勢でさえきがついていない部分まで

さらえていたのは、確かなことであった。


勝手口から、そっと屋敷の中に入り込むと


お芳はなにくわぬ顔をよそおって、


剛三郎がいるだろう庭に足を運んだ。


良き枝ぶりになるように


剪定鋏をどこにいれようかと、


じっと吾亦紅を見定めていた


剛三郎が


ふと、お芳の気配に気が着いた。


「おやあ?どこにいってたんだい?


急にいなくなっちまったから、


随分心配したじゃないか・・」


鋏を落とす場所から眼を離さず


剛三郎が尋ねる。


剛三郎の顔に一抹の不安をみつけさせないためか?


単に、いつもの剛三郎でしかないのか・・・。


図りかねたお芳はだまりこくったまま、


剛三郎を見つめ続けていた。


「なんだい?


亭主にゃ話せないってわけかい?」


ちょんと剪定鋏がなると


小さな枝がおち、


分厚く茂った葉の中に


小さな空洞が出来ていた。


その中から吾亦紅の主枝がみえる。


露見されたくないものを


見せ付けた吾亦紅がひどくみすぼらしく見え


それが、剛三郎そのものに思えた。


剛三郎にはいうまいと何度も


胸に言い聞かせ


決心したはずのお芳だったのに


今、


はっきりと


自分に事実をつきつけたいと考え始めていた。


「お登勢にあってきたんだよ」


剛三郎はどんな顔をするだろうか?


「おやあ?みつかったのかい?


そりゃあ、よかった」


剛三郎は剛三郎の思い込みが在る。


お芳を慕うお登勢が


まかり間違っても


剛三郎の不埒や


めかけになれなぞと言い募ったことを


お芳にはなすわけがないという事である。


「おまえさん・・」


責めるつもりはない。


責める気もない。


だが、


この気持ち。


無性に寂しく


無性に悲しい。


そんな気持ちひとつ


察することも無く


剛三郎は普段をよそおうとするだけ・・・。


「お登勢から・・」


「ん?・・」


よもや、あるまいとおもっていた暴露が


あったのかと剛三郎がかまえ


そうでないのに、うっかり自分からぼろをだすまいと


いっそう、口数が少なくなる。


「何を聞いたと思う?」


悪戯小僧のように広げたなぞかけ問答に


剛三郎はほっとした顔をみせていた。


もしも、お登勢が夜這いのことから、何もかも


話したなら、


お芳はこんな口調にはなるまい。


「なんだろう?


なにか、良いしらせかね?」


「・・・・・」


「お登勢の縁談相手がわかったのかい?


だったら・・・、


うちで、仕度をしてやらなきゃなるまい?


木蔦屋から、嫁にだしてやろう・・。


そうだな・・。


そうなら、お登勢に帰ってくるように


おまえ、ちゃんといったんだろうな?


はああ~~ん。


帰ってくるんだな?


そういったんだろう?」


饒舌になる剛三郎の


言葉の中に


魂胆がある。


筋書き通り・・・。


お登勢を呼び戻して


嫁に出す前に・・・。


棚から転がってくるように話が進んでゆく。


剛三郎は満面の笑みをうかべていた。


「帰ってきやしないよ」


「え?」


「此処には、帰ってこないよ・・・」


「なに、いってるんだ。


子飼いの時からの奉公人が


店を飛び出して


あげく、そしらぬ顔で嫁にゆく?


お登勢はそれでいいかもしれないが、


木蔦屋のめんもくがたたないじゃないか?


だけじゃない、世間様にいらぬ憶測をされてしまうだろう?」


「憶測ってのは?


木蔦屋の主人がお登勢に夜這いをしかけたってことかい?」


「え?」


とうとう、事実を口に出したお芳の胸の中の鼓動が大きくなる。


事実をいぬかれたとうろたえるかと思った


剛三郎はお芳の言葉をそのままにうけながしていた。


「そうだよ・・。


そんな風な眼でみられちまうだろう?」


「かまやしないよ・・・」


大きく息を吸い込むと


お芳は悲しい覚悟を下に敷きながら


静かに自分を告げていた。


「あたしが、すでに、認めてるんだ。


世間様がおまえさんをどう思おうとかまやしない。


むしろ、


あたしが心配するのは


お登勢がお前さんにわるさをされてしまったと


思われてしまうことだ」


「な?なにいってるんだ?


何を・・・認めてる?


あん?おまえ・・


まさか、俺を・・・うたぐってる?」


「おまえさん・・


往生際が肝心だよ。


お登勢は惚れ惚れするほど


見目も気性も


本当にいいこだよ。


おまえさんが不埒な気を起すのはわからないでもない。


あたしは、そう思ってる。


だけどね、


お登勢の幸せを考えたら


もう、ね、おまえさん・・・。


あきらめてくれなきゃなんないよ。


言ってる事・・わかるよねえ?」


「な?


なに、いってるんだよ?


お前?


はあ~~ん。


お登勢にそう聞かされたって事か?


お登勢にそう聞かされて


お前は


俺より、お登勢を信じるってことだな?


はっ!


長年連れ添った亭主より


お登勢をしんじるってかあ?


俺もよっぽど、みくびられたもんだ・・」


お芳にとって、一番痛いところを突くと


剛三郎は


お芳に畳み込んだ。


「許せねえな。


夫婦の仲をひっかきまわすようなことを・・、


なんで、わざわざ、いいやがる?


何で、お前がそれをまにうける?


お登勢は・・何処にいるんだ?


はっきり白黒つけようじゃないか?


此処に連れてこい・・」


怒気を含んだ声に


お芳の暗澹はいっそう深くなっていった。


こうまでして・・・、


あたしに事実を隠そうとするということは・・・、


剛三郎の本音は別に在る。


お登勢・・への思いを昇華するまで、


この人は


事実をみとめはしない。


お登勢にこの人を近づけちゃいけない。


お登勢・・が危ない。


だが、お芳は自分から


お登勢が近くにいると


さらけてしまったのだ。


昼間の夫婦の食い違いをうめようとするかのように、


剛三郎の手がお芳にのびてきて、


断る理由をみつけられないまま、


お芳は剛三郎の恣意にのまれていった。


感きわまろうかという


そのきわみの最中に


お芳はあえぎの中から、


剛三郎にうったえはじめていた。


「おまえさん・・・


誰か・・てかけ・・を・・」


睦言に程遠く悲しい現が


お芳を包んでいた。


何度肌をかさねあわせてみても、


生むものがない営みが


夫婦の鎹にはなりえないと知った今・・


剛三郎のむなしさがお芳の肌にまで、染み渡る。


「ねえ・・おまえさん・・


おまえさんは・・・


自分の子供がほしいんだよねえ?」


剛三郎の動きが止まり


行灯に灯を灯しなおすために


お芳の側をはなれた。


「馬鹿をいってるんじゃないよ。


俺はどこかの女をお前の代わりにして、


子供をうんでもらおうなんて、


そんな了見はいっさいないぞ」


な・・、ならば・・・。


お登勢への思いはどういう事になるのか?


その疑問の答えを考え出したのは


お芳でなく、


むしろ、剛三郎本人であったと言える。


『俺は・・・


お登勢がいい・・


お登勢に俺の子をうませたいんだ・・・・


俺は・・・


お登勢に・・


本気で惚れてるんだ・・』


剛三郎の自覚を導き出したとも知らず


お芳もまた、


悲しみをいっそう、深くしていた。


他の女じゃ駄目・・・。


お登勢がいいといってるんだ・・・。


お登勢だから


剛三郎の胤をはぐくませたいと


思い始めたんだ。


夫の心を奪い去った「女」である


お登勢が、


ねたましく


そして、


憎いとお芳は思った。


そして、


そんな思いを持ってしまった自分を


許すこともできず、


醜い女になってしまった。


それがお芳を憔悴させていた。


「おまえさん・・・


どうしても、お登勢じゃないと


駄目かえ?」


また、妙なかんぐりが始まったと剛三郎が


お芳をいなすかと思った。


だが・・・。


「てかけをとれというなら、


おまえがそういってくれるなら、


俺はお登勢がいい・・・」


「おまえさん・・・」


やっと事実を認め始めた


剛三郎であったが、


恋情を吐露せずに置けなくなった


剛三郎の本意が


お芳の胸にあまりにも痛すぎた。


悲しい女心である。


『お前がそういってくれるなら・・』


あくまでも、


お芳を壱の場所に据え置き


お芳の許可があればこそ、


自分の自由を謳歌したいという


剛三郎の思いをかなえてやりたいと


思うのは、あまりにも


亭主可愛いをいきすぎている。


行き過ぎているが


40を越している。


この先、いつなんどき


なんで、おっちんじまうか、分からない


人間の一生を思うと


縁あって連れ添った男の積年の無念を


晴らしてやらねばならないと


思ってしまうに無理の無いとしかさである。


このまま・・・。


この人の人生が終ってしまう・・。


あたしさえ、目を瞑れば


この人は


「男」としての人生に


一花咲かせることができる。


お登勢を護ってやらねば成らないという思いも


女として嘱望される羨ましさにうちけされてゆく。


「おまえさん・・・


お登勢は晋太さんのところに


身をよせているよ」


あろうことか、


お芳が


このお芳が


お登勢を売ったということになる。


「・・・」


お登勢の心を掴むも掴めぬも


剛三郎次第であろう。


そして、なによりも、


一度、猛り狂った男の心は


終焉をむかえるまで、


けして、静まりはしないことを


知っているお芳である。


どこかの女をてかけにするがいいと


腹を括ったお芳であるから、


お芳の手のひらの中に


剛三郎がいるのなら、


てかけがお登勢であっても


いや、むしろ、


お登勢でさえ、


剛三郎に差し出すお芳であればこそ、


剛三郎の存在を牛耳切っているといえる。


お前の好きなようにしろと


太い腹をみせることで、


お芳は剛三郎を掌握している自分に


成りたがった。


お登勢が・・


どうなろうと・・・。


女が子を育んでゆける。


これが一番のさいわいであろう。


だいいち、


お登勢も


自分を望んでくれる人が


いるのなら


喜んでお受けしたい。


と、いったじゃあないか・・。


それが、剛三郎だっていい筈だ・・。


望まれる・・


こんなさいわいはないよ。


あたしは・・・


もう・・・


のぞまれることさえない。


お芳がまさかの


うらぎりを呈しているとも知らず


お登勢は明日から


大森屋につとめだすことになっていた。

お登勢の朝は早い。

大森屋は朝飯から、顧客を得ている。

陽が登りきらないうちから

床を抜け出し

晋太の朝食を作りあげると

お登勢は暗闇の中を走り出してゆく。


大森屋の賄い場にはいれば、大きな釜に

味噌汁がつくられ、

その横のかまどでは、

大根の煮付けが湯気を立てていた。

「おお・・待ってたよ・・・」

お登勢を見つけた大森屋の主人は

早速、米をたいてくれとお登勢をせかす。

「とにかく、合戦みてえなもんなんだ・・」


一汁一菜の朝飯が、

さまにたべられる重宝さで、

朝から大森屋はごった返す。


なにがどこにどうあるか、

まだ、要領がわからないなどといっている余裕さえなくして

次から次から指図される事をこなしおえて、

やっと、客がひけると、

今度は昼食に向けての準備が始まる。


「お登勢ちゃんといったかねえ。

こんな調子だから、手のすいた時に

そこらへんのものを自由にたべておくれよ」

女将が握り飯をこさえ、

お登勢に差し出すと亭主の握り飯をこさえながら、

「客商売は死に病っていうとおり・・・。

本当・・・お客さまあってのものとはいえ、

こっちの都合なんか、二の次だから・・

食べるものはきちんとたべなきゃ、体がもたないからね」

女将から受け取った握り飯をほうばったお登勢にやっと人心地が戻ってきていた。


「思ってた以上に忙しくて

びっくりしました・・・」

「客が引けたら・・・うそのように

暇になるんだけどね・・・。

皆、おまんまをたべようって、時は

にたりよったりだから、その一時はこまねずみのようにうごきまわるしかないんだ・・」

握り飯をぐうと飲み込んだお登勢に

わずかに残った味噌汁を椀に入れて

手渡すと女将は不安そうにお登勢を覗き込んだ。

「やってゆけそうかい?」

晋太からお登勢がお針子だったと聞かされている女将である。

ゆっくり座って

神経こそつかおうが、箸よりも軽いものを

持っての仕事である。

それが、この店にやってきた途端

五升釜を抱え

給仕に追い回される。


重たい。

せわしない。


若い娘には気の毒のような

めまぐるしい忙しさ・・・。


だが、

不安そうに覗き込んだ女将に

お登勢はむしろ、安心したと言っていい。


「私でも、なんとか、・・・役にたつということなんですよね?」

お登勢の問いに女将が仰天した。

「なに、いってるんだよ。

助かるも何も・・・

大助かりだよ・・。

あんた、勘もいいし、

気働きももうしぶんないよ・・

何があったかしらないけど、

前の店の人はあんたが、いなくなって

随分こまってるんじゃないかねえ?」

あっと、口を押さえて女将は黙りこくったが

やがて、

「ごめんよう・・・。

詮索がましい・・・ことをいっちまった。

ようはね、

あんたがそれくらいよく働く娘だって

そういいたかったんだよ」


お登勢の居場所がさだまったといっていい。

「どうぞ・・よろしく、お願いします」

と、お登勢も女将も双方同時に頭を下げていた。


昼前には一端手が空くはずの大森屋のあきないであるのに、

今日は客の入りが絶えない。

「はああ~~ん」

大森屋の主人はちらりとお登勢を見やると

客層をもう一度眺め回す。

朝に入った客の口伝であろう、

大森屋にてつないに入ったおなごしの

美貌を一目みてみようの触手が動きましたというが如くに

一同、お登勢を垣間見るその目・・その目。

「なるほどなあ・・・」

同じめしを食うなら

麗しい女子を眺めながらの方がもっと良い。

その気持ちは分からないでもないが・・・、

大森屋の口から、ため息がでてくる。

『客が増えるは有り難いが・・・

それは・・それで、心配事が増えちまったって事になる』

大森屋の主人が憂うのは、

お登勢の帰路である。

若い娘を遅くまで店に置いておくつもりは無い。


ましてや、朝の早くからてつないに参じたお登勢であれば、早いうちに返してやっ               た方が良いとは思ってはいた。

とは、言うものの、夕飯の客をこなして・・

と、胸算用はしていた。

だが・・・。

だが・・である。

お登勢を先にあがらせても、

大森屋はお登勢を家まで送ってやることができない。

客のうちには荒くれた女日照りの人足だっている。

お登勢を早くかえしたところで、

あとをつけ、夜道の暗さをよいことに

わるさを仕掛ける事とてありえる。


『よわった・・。たった今日、朝のてつないひとつで、こんな調子に客が来るようじゃ、

あぶなかしくて・・仕方が無い・・』

染物屋の晋太からも、頭を下げられ

くれぐれもといわれた。

そのひょうしに、

お登勢ちゃんが前の店をやめたわけも

ちょいと聞かされた。

『店の主人がちょっかいをだしたくなるのは、わからないでもない・・えらく、きれいな娘さんだ・・・』

大森屋はその時はたんに、そう思っただけだった。

だが、今、めしをかきこむ客達の目が

いちように

お登勢の姿を追うのをみていると、

大森屋は益々、不安になってくる。

これでは・・・いずれこずれ、

お登勢ちゃんが、また、行き場所をなくす羽目になる。


どうするか・・・。


腕を組んで考えるのさえ、後回しにするしかなくなるほど、客が混みだす昼をむかえたあと、

何人目かの暖簾をくぐった客人の顔に

大森屋の声色はほっと、安堵の色をなした。


「晋太さん・・いいとこにきてくれなすった」


お登勢と木蔦屋の女将の話が

どうなったか・・・。

染物の型を敷く晋太の

まなざしがきつく、

ききだしかねていた徳冶の心中を察していた

晋太だったが、

染物の型とりをすました昼前に

やっと、徳冶に昨日の落着を告げた。

「ああ・・。案ずるより、うむがやすしというところだったんだな」

あんきに木蔦屋の女将が得心したと

考える徳治に

晋太の一抹の不安を話し

徳冶の気持ちを煩わせることを控え

肝心のお登勢との進展を考えあわせた晋太だった。

「お登勢は今日から大森屋で働いています」

「ああ?

だったら・・・」

早速にでも、大森屋にいってみようと

己の恋情を口に乗せ掛けるをてらい、

徳冶が黙った。

「お登勢の様子見がてら・・・昼飯をたべにいきませんか?」

徳冶にとって願ったり叶ったりの引き合わせである。


そして、暖簾をくぐった晋太が大森屋に声をかけられることにあいなったのである。


「ああ・・井筒屋の若・・もいっしょでしたか・・」

はやった声が少し言いづらそうにくぐもる。

「あ、かまわないよ・・。

若頭には・・・いろいろ事情を話してあるから」

大森屋の伝えたいことが

お登勢の何がしかに関わる事に相違ないと

晋太が踏んだとおり、

大森屋は早速に喋り始めた。


「いや・・。難しいことじゃないんですよ。

お登勢ちゃんがきてくれたとたんにうちも

大繁盛でありがたいことではあるんだけど・・・。

お登勢ちゃんの帰りが心配になってしまってね・・。

晋太さんがちょいと、むかえにきてくれりゃ、

いいなあ・・・っておもったんですよ・・。

だってねえ・・・ほら・・」

忙しく膳を運ぶお登勢が再び賄い口から

顔をだすのを待ちかねるかのように

客の何人かが暖簾で仕分けた賄い口を凝視している。

客の目宛が空腹を満たすためだけでなく

男のすいたらしさを露呈させている。

むっとした徳冶の顔つきの変化に

おや?と目ざとく気が着きながら大森屋は

何気なさげに、

「若にも、お願いしますよ。

晋太さんが忙しい時でも、ちょいと、時間をさいてやってくれませんかねえ?」

「あ?うん・・むろん・・なんだったら・・

俺が晋太のかわりをしてやってもいいさ」

願っても無い絶好の機会がむこうから振り込まれてくる。

お登勢と自然に逢い、

送り道にいろいろと、話せるし、

お登勢の一日の無事を確認できる。

逃してはならない機会をしっかりつかまえないあほうはいない。

徳冶もまた、お登勢を護る味方であると、

はっきり、言っておかねばならない。

「ああ・・そりゃあ・・・心強い・・」

とは、言ってはみたものの大森屋の不安は

拭いきれるものではない。

当の本人を前に言えることではないが

幾ら、いろんな事情を話せる腹蔵なき若かしらであっても、それは、晋太にとってであろう?

お登勢ちゃんから考えてみれば

・・・これも男でしかない・・・

危ないって部分は何一つかわりゃしないんじゃないか?

大森屋の一存で

若も宜しく骨折りお願いしますと、いってしまっていいことだろうか?

考えあぐねて、言葉につまり

大森屋はふと、お登勢を探した。

肝心のお登勢がどう思うだろうか?

そこが一番大事なことかもしれないと思いなおしたからであるが、

暖簾から顔を出したお登勢が晋太をみつけ

そして、

徳治を見つけた。

徳治を見つけたお登勢の頬がほううと桃色に

上気した・・。

『おや?』

お登勢の変化もさながら・・

徳冶の変化もまた絶妙である・・。

一組の男女の頬がやわらかく染まるを見れば、

馬鹿でも分かる。

なるほど・・・。

晋太さんが若に事情を話すには話すなりの

男女の機微が生じ始めているという事である。

人の恋路を邪魔する奴は・・のうたの例えもある。

大森屋の人を見る才覚は

時に人の感情にまで敏感である。

「ああ・・、それじゃあ・・

若もよろしく・・面倒を見てやってください」

そういいおくと、あわてて、賄い方に戻り、

わが女房にちょいと、悲しい予想を告げた。

「お登勢ちゃんは・・・そう、長くは此処にいてもらえそうもないな・・」

亭主の言おうとすることを戸惑いなく察するのも夫婦仲のよさの現われかもしれない。

「どうやら・・そのようですね・・」

お登勢の横顔に乗った桃色が

晋太さんの前に座った井筒屋の徳冶さんの

せいだと直ぐに分かるのは

徳治も又うっすらと頬を染めているせいだと

大森屋の女房はふたりをながめすかし

「ほほえましいもんだね」

と、こっそり、亭主に耳打ちした。


惹かれ合う者同士は易いものである。

三日もしないうちに

お登勢の迎えの輪の中から

晋太が退き

お登勢を送る仕事は

徳冶だけのものになっていた。


日中には、昼を食べに来て、

夕刻には、お登勢が退けるのを待ちながら

銚子を一本空ける。

大森屋も徳冶が現れると

心得たもので

お登勢にちょいと、声をかけ

「お登勢ちゃん・・お迎えだよ」

徳利に酒を注ぎいれ

采のものを盆にのせ、

お登勢に運ばせる。


お登勢にうろんな目を向けていた

客衆も徳冶の出現であっさり下種な心根を引き下げてもいた。

「そりゃあ・・端からみていても、

良く似合っていて、てがらう気にもなりゃしないよ」

は、大森屋の女房の言い口であるが、

当の二人は、まだまだ、お互いの思いが

お互いに注がれていることにきがついていなかった。


その二人が夜道をゆっくりと、

この上もなく

ゆっくりと歩いてゆく。


半町先の晋太の住まいまで、

提灯一つ、ぶら下げているものの、

途中で蝋燭が消えてしまうのではないかと

思うほどゆっくりとふたりは歩いてゆく。

その足取り同様

二人の思いがつうじあうことも

また、ゆっくりで、

とりとめない話だけが、

二人の静寂を壊し

お登勢も徳治も

晋太の家がもっと、遠くにあればよいのにと

同じ事を思っていた。


夜来の雨が止み、抜けるような青空を

くっきり移しこむ水溜りをよけた拍子に

お芳の下駄の鼻緒が切れた。

たまり水のぬかるみをよけて、

鼻緒をくくりなおしたお芳の顔が薄暗い影を貯めて水溜りに映っていた。

『こんな・・顔じゃあ・・・』

このまま、あいまいに話がながれてゆくかもしれない。

流れてゆけばいい・・と、思っていた。

なのに、まちくたびれ、業を煮やした剛三郎が

口火を切った。

「俺が呼び出しても、お登勢がうんというまい。お前が丁子屋に・・・お登勢を・・」

あとは俺がうまくやる。

と、剛三郎が言った。

『うまく・・や・・る・・』

男と女に成る。

剛三郎から、

あからさまにお登勢への執心をかなえてくれとねだられると、

お芳は悲しい顔を繕うことに勤めるしかなかった。


そして、夜半の雨音に紛らわせながら震える心を振り絞り

声を殺し、喉の奥で泣いた。

朝になれば、剛三郎は自ら丁子屋の座敷をかりにゆき、

お芳の憂いに頓着無く、

丁子屋で借りた部屋の場所を喜々として、お芳に伝え聞かせる。

『なんという・・・みじめな・・ことだろう』

だが、剛三郎に望まれない惨めさよりも、

剛三郎の男に花をさかせてやれなかった自分こそがもっと惨めである。

とうの昔に

他にてかけをつくっても、仕方が無かった。

それを今の今までこらえ、

老い先、みえてきた今になって

剛三郎は己の人生の悔いに気がついた。

この悔いをのこさせては、

剛三郎の人生はどういう事になるだろうか?

木蔦屋の婿に納まり、店の手足になっただけ。

お芳のあやつり人形のような人生。

なにひとつ、自分の勝手になるものもなく、

子供さえ・・・ままならず・・・。

馬鹿なあたしは・・大事な亭主の子を生むことも出来ず

自分の人生の添え物だけの、剛三郎でおわらせてしまうところだった。

『だから・・・お登勢・・おまえを拝む・・よ・・

頼むから・・うちの人に・・男と女の平凡なしあわせをさずけてやっておくれ・・・

あたしは・・その平凡なしあわせさえ・・・亭主に・・わたせ・・な・・い』

心のうちでお登勢に語りかけながら、此処まであるいてきて、ぷつりとはなおがきれた。

足元をすくわれるようなぬかるみの前で、鼻緒をなおしながら・・お芳は水溜りに

うつったあおい空をみていた。

『泥だらけの水溜りだって・・こんなに綺麗に空をうつしこむんだ・・

お登勢・・・後生だよ・・・お前だからこそ出来るんだ

うちの人に・・綺麗な夢をみさせてやっておくれよ・・』


お登勢をだますやり口の痛みよりも、

お登勢に嘘をけどらせないためにも

「こんな顔じゃあ・・いけない」

お芳は覗き込んだ水溜りの暗い顔に

うっすらとほほえんでみせると、

迷いと悲しみを吹っ切るかのようにすくりとたちあがると

しゃんと背筋を伸ばして歩き始めた。


あれから、もう十日がすぎ、

お登勢を送る道すがら、

徳冶の思いはいっそう深まる。

嫁にきてくれまいか、と、いいだすには、

まだはやすぎるとも思う。

それより以前にお登勢の心を確かめなくてはなるまい。

どうやって、確かめればいいのだろうかと

迷う思いより先に

お登勢と並んで歩いてゆけば

甘やかな乙女の香りが徳冶の胸をくすぐる。

そっと、手を伸ばし

お登勢の手をつつんでみようか・・・。

この胸にお登勢を引き寄せ

柔らかな唇を徳冶の唇でふさいでみようか・・・。


だけど・・・。


お登勢ちゃんは、不埒な男の手を逃れて

晋太の所にやってきた。

そこを考えたら、徳治の思いのままにふるまうことなぞ、出来ることではない。


もうすこし・・。

あせっちゃああいけない。

晋太の言うとおりだ。

ゆっくりと知り合って

お互いをかけがえの無い存在に高めあうこと。

あせっちゃあいけない。


自分に念じながら、大森屋の暖簾をくぐると、

ここしばらくの、いつものように・・・、

お登勢が徳利と采を運んできてくれた。

ところが、お登勢が徳冶に謝りだすと、

「すみません・・・せっかくきてくださったのに、今日は・・・用事が出来たので・・」

残念そうに徳冶の「送り」に断りを入れてきた。

「用事?」

店が引けてからの用事とは、なんだろう?

晋太の事でなら、晋太が井筒屋で、徳治にじかにいうはずだろうから、晋太の事ではない。

お登勢が夜にこなす用事が推し量れず

徳治はそのままにお登勢に問い合わせてみた。

「夜・・遅くに・・用事って?」

「いえね・・・。今日、朝方に木蔦屋の女将さんが来なすって・・。なにか、話があるっておっしゃるもんだから・・・」

「ああ・・」

この間、此処で話をするように、采配した

徳治であるが、

「でも、この間・・木蔦屋の女将さんと

此処でゆっくり、話しあったんだろう?」

「そうなんですけど・・・」

お登勢にはお芳を疑うすべなどない。

お芳が恐ろしい諮りをもっているなぞと

微塵も思いもしない。

今日の朝方に大森屋を訪ねてきたお芳に

あとで、ゆっくり話がしたいと言われた時、

それは、この前、

「お登勢に縁談がある」と、教えられた事に関係が有るのだと考えたのである。

おそらく、お登勢の居所が判ったお芳が

縁談話をすすめるなり、断るなり、

ちゅうぶらりんにしてはいけないと、

先方様にも催促されたのだろう。

それならば・・・、

お登勢もはっきりと、断りを入れなければなるまい。

だが、この事情をはっきりと徳治につげることができないお登勢だった。

縁談話がある。

そんな事を告げるわけには行かない。

徳治には、なにも告げず

女将さんにお願いして

なにもかもを白紙にもどしてもらおう。


お登勢は今・・徳冶を

瞳のまんなかにおいている自分だと

はっきり、気がついていた。


それは、女将さんが気がつかせてくれたといってもいい。

そのことも含め、お礼を言わねばなるまい。


だから、

「もう少ししたら、女将さんが迎えに来てくれるんですよ。だから・・、今日は・・」

ごめんなさいと皆まで言わせることも無い。

「うん。判った・・。

なに、又・・明日来るさ・・」

お登勢が残念そうだったのが、

お登勢も二人の道行きを楽しみにしているということに思え、

今日の断りの事実とは裏腹に

酷く、胸が弾んで徳治は慌てて、

徳利の酒を湯飲みに注ぐと

くうううと一気に飲み干した。


しかたがない。

徳治は采を摘み

酒を飲み終えてしまった。

銚子一本が徳治のきめである。

おかわりを頼んで

お登勢に酒飲みだと思われたくも無いという

心根もあったかもしれない。

だが、湯飲みに注いで一気に酒をあおったせいで、徳治の徳利には、もう酒が無かった。

と、なると、いつまでも

大森屋の席に居座っている理由が無くなる。

仕方が無い。

帰るしかないかと席を立ちかけたとき

徳治は待てよと思いなおした。

お登勢ちゃんは木蔦屋の女将とどこかで話をする。

そうなると・・・。

そのどこからか、お登勢ちゃんはひとりで帰ってくるんじゃなかろうな?

木蔦屋の女将はちゃんと、お登勢ちゃんを

送ってかえってきてくれるんだろうな?

『・・・・・』

そのどこかのその場所にも寄ろうが

お登勢ちゃんの性分だから、

独りで帰れますって、断りをいれるんじゃなかろうか?

もし・・・その独りの帰り道になにかあったら・・?


不安が頭をもたげ出すと

どんどん大きくなってくる。

「お登勢ちゃん・・」

やはり、晋太の所まで無事に送り届けなきゃ

心配でしかたがなくなるだけの自分だと悟ると

徳治はお登勢を呼びつけた。

「はい?なんでしょ?」

徳治の傍らにやってきたお登勢はやはり、愛くるしい。

こんな愛くるしいお登勢をつけねらうものが

いないって考える方がおかしい。

そこをわかっていて、

事故を未然に防ぐ手回しできぬ男がうつけだ。

「やっぱり・・・。心配だから・・。

木蔦屋の女将さんと話が終るだろうころに迎えに行くよ。女将さんはどこに行くんだろうな?」

「あ・・えっと・・」

丁子屋に座敷を借りてあるから

そこで、美味しいものを食べながら・・と、

女将さんはいっていたように思う。

「丁子屋・・・?」

徳治が思案顔になるのも無理が無い。

確かに丁子屋は割烹旅館ではある。

が、それは、表向きのことであり

裏では、

私娼・・の巣窟。

お大人が芸妓を呼びつけて

ちとんつてしゃん・・

三筋の糸に情欲の糸をからめる場所でもあると・・聞いたことがあるような無いような・・。

自分の記憶も曖昧で、

曖昧な記憶で妙にかんぐっちゃあいけない。

木蔦屋の女将だって

丁子屋の実態を知らず

表向きの割烹料理の客でしかないのだろう。


「ああ・・いらっしゃいませ」

と、お登勢の声が弾むと

暖簾を分けた向こうに

くだんのお芳が立っていた。


「あ、じゃあ、俺は後から迎えに行くよ」

お芳と入れ替わり大森屋を出ると

徳治は晋太のもとにひた走った。


なんだか、言い知れぬ不安は

丁子屋の裏商いを知ってる己の無垢のなさのせい。

そう思おうにも、なにか、

なぜか、不安が募り

その不安を晋太に

「考えすぎです」と、笑い飛ばしてもらいたい。

そう考えた徳治だった。


どんどんと戸を叩く音に続き

徳治の声が晋太を呼ばわる。

染物の図案を書き込んでいた手を止めて

晋太はかまちにおりたち、

戸口の芯張り棒を外しながら

徳治に尋ねた。

「今日は・・はやかったんですね」

徳治がお登勢を送り届けに来たと思ったのである。

戸をあけた晋太がお登勢の姿を見つけられないのは言うまでも無い。

ずいっと身体を家の中に入り込ませると

徳治はお登勢が居ないわけを話し出した。

「木蔦屋の女将さんとなにか、はなしがあるっていうんで、あとで、俺がもう一度お登勢ちゃんをむかえにいくことにしたんだ」

と、徳治のいう事で晋太は合点したのであるが

晋太は徳治の言い分を

『お登勢は大森屋の奥でもかりて、木蔦屋の女将と話をしているんだな』と、取ったのである。

ところが・・・。

「だけどなあ・・・。木蔦屋の女将さんも

なにも、丁子屋なんかに・・お登勢ちゃんを連れて・・」

と、全部を言い切らないうちに

晋太の顔つきがぴしりときりつまった。

「なんですって?」

「あ?いや・・・。木蔦屋の女将さんは

丁子屋でお登勢ちゃんと話をするっていうんだ。

だいいたい、丁子屋なんてのはろくでもない風聞しかきかないし、そんなところにお登勢ちゃんを連れてゆくのも、どうかと思うんだが

女将さんも丁子屋の風聞は知らずのことかもしれないんだろう・・。だけど・・なんだか、嫌な感じがして・・」

「若頭・・丁子屋であろうが、無かろうが、そんなこと以前より、なんで、わざわざ、

お登勢を他の場所に連れ出す必要があるんです?大森屋の奥座敷で話せば済む事じゃないんですか?

大店の女将が夜遅くに、伴も連れず

若い娘に夜道を歩かそうなんて・・・

そんなことを考えるほうが・・おかしい・・」

『あっ』

いわれてみれば、その通りである。

お登勢が心配で晋太の所まで、送り届けている

自分の心を考えたって、

女二人で夜道を歩くなんていう事も

心配である。

お登勢は無論、お芳だって、自分の身の上が心配であろうに、その心配を押して

ましてや、お登勢を預からせてくれと言った

晋太に何の断りも無く、お登勢を連れ歩かなければならない?

何もかもが釈然としない上に

おまけに丁子屋?


『考えすぎかもしれない。

だけど・・・、俺は嫌な予感がする』

お登勢の不遇のたびに胸に兆すものがあった晋太ならではの直感であり、

その直感のままに素直にしたがって

お登勢を不幸の淵からひっぱりあげてきた晋太である。

「若頭・・。ちょっと、たしかめにいってきましょう」

いうが早いが、晋太は外に飛び出し

徳治も負けず劣らずの韋駄天走りで

二人は丁子屋を目指していった。


丁子屋の廊下の奥。

座敷机の上に置かれた茶を

お登勢に薦めると

お芳は取ってつけた笑顔を崩さぬように

気をつけながらお登勢に切り出した。

「話ってのはほかでもないんだけどね・・」

話しなんて無いのが本当だ。

お登勢を座敷に連れ込んだら

寸刻後に剛三郎が入ってくる手はずでしかない。

お登勢が逃げ出しにくいように

奥の席を薦めると後は時間稼ぎでしかない。

「その話しをようく、わかって居る人が

もう直ぐ此処にくるから・・」

お芳の言葉が合図になったか、

ふすまが開き

座敷に入ってきた男の姿に

お登勢が小さく驚きの声を上げると

お登勢は身をちじこませて

頭を下げるしかなかった。

「旦那様・・お登勢の勝手で店を飛び出し・・」

すみませんでした。と、後に続く通り一遍の挨拶が出てこない。

『なんで?

なんで?女将さんは旦那様を呼びつけなさった?

夜這いが旦那様だったと明かしたのに?

なんで?』

お登勢の混乱の糸は解けない。

茫然自失で言葉をなくしたお登勢を尻目に

お芳は

「詳しいことはうちのひとから、

ようくきいておくれ」

ひとことお登勢に言い置くとその場から

立ち去ってゆこうとする。

「え?」

待ってください。

女将さんが居なくなったら・・

旦那様は・・大丈夫?なんだろうか?

お登勢の不安と戸惑いと恐れが混濁した顔を見ないようにお芳はそそくさと立ち上がった足を

廊下に向けて、その場から逃げ去っていった。


まさに・・。

お芳の心中は逃げ去ったと言うが正解である。

お登勢を裏切るつらさと

剛三郎がお登勢を求める姿をこれ以上正視できない。


『あ・・・』

お登勢が止める暇も無く襖が締め切られると

座敷の中にはもう、お芳の姿はなかった。

「女将さん・・」

呼び戻そうと立ち上がりかけたお登勢の

わき腹辺りに剛三郎の手が伸び

座敷の真ん中に力づくで押し倒され

お登勢の着物の裾がたくし上げられ

剛三郎のもくろみに女将さんが加担した事実をやっと、お登勢は理解した。


お登勢を押さえつけせわしなく

お登勢の裾をはだけあげる剛三郎に

懇親の思いで、

お登勢は救済を乞う。

「旦那様・・堪忍してください」

旦那様・・

旦那様・・・

堪忍してください。

何度乞うてみたところで、

どんなに抗ってみた所で

いずれ剛三郎の恣意のまま・・・。

ただ、結末がいくばくかおそくなるだけでしかなく、

お登勢のてがいが剛三郎をいっそう

猛り狂わせる助けになるだけである。

『お・・そろ・・しい』

お登勢の胸中に去来するおぞましい過去の出来事がお登勢を一層震えさせる。

おっかさんは、こうやって、武者に犯され

そして、殺された。

子供と言うのは親の思いをいつか、どこかで、

思い知らなきゃならないのかもしれない。

だから・・・。

お登勢には、避けることが出来ない定めだったのかもしれない。

諦めるしかないのかもしれないと、

自分を宥め始めるお登勢の喉を突いたのは

背を向けて去ったお芳を呼ぶ声だった。

「女将さん・・女将さん・・・

お芳おっかさん・・おっかさん・・

おっかさん・・」

だが、お芳が戻って来ることは無かった。

『ばちがあったったんだ・・。

おっかさんが酷い目にあってるときでも

あたしは一声だっておっかさんをよばわりもしなかった・・・。

自分が大事で、恐ろしくて、おっかさんを呼ぼうともしなかった』

そんな自分が・・

こん度はおっかさんと助けを呼ぶ・・。

なんて、身勝手なことだろう。

自分がしでかした罪はいつか、何らかの形で

帳合を取られる。

それが、今・・なのかもしれない。

お登勢の諦めが観念にかわり、

剛三郎に抗っていた手の力さえ抜け

お登勢の太腿あたりに

剛三郎の抜き身が微かに触れた気がした。


「徳治・・さん・・」

小さく呟いた声が徳治への惜別になりかわると、お登勢は瞳を閉じた。

耳を塞いでお芳は逃げた。

逃げる足がもつれ、

お芳を呼ぶお登勢の声が

お芳をひっつかむ。

『堪忍しておくれ・・

あたしだって・・どんなに苦しいか・・』

立ち止まった足は歩を進めることを許さず

お芳はその場にしゃがみこんだ。

「おっかさん・・お芳おっかさん・・」

お芳を母と呼び、救いを求める声から、

せめて、耳を塞がぬことだけが

お芳の侘びのつもりなのか、

うずくまったお芳は耳を押さえた手を

解き、ただただ・・・

その場にうずくまり続けた。


『お登勢・・あたしは・・

間違いなく地獄に落ちるよ。

それでも・・・、それでも、

剛三郎の生き路に、悔いを残させたくない・・

それが為に夜叉にさえなる・・

その気持ちを・・・いつか・・』

分かってくれ。

分かってくれる時がきてほしい、は、

得手勝手だと思う。

思うけど・・

思うけど・・・。

手を合わせ、お登勢を拝むしかない。

そのかわりといっちゃあなんだけど、

この先、けして、お前に不遇を味あわせることは無い。

あたしに出来る限りの精一杯の贅沢な暮らし

綺麗な着物においしい食べ物。

贅をつくして、おまえに尽くしてゆくから・・・。

どうか・・・。

剛三郎の思いを汲んで・・・

いつか、玉のような赤子を腕に・・

抱き上げる時は・・おまえも・・

剛三郎を憎くはおもわなくなっている筈だから・・・。

今、今すこし・・の辛抱だよ・・。

あたしも・・ね・・。


こぼれてくる涙はうまず女への哀れか、

夜叉に落ちた己への哀しみか・・・。

膝まで落ちてくる涙を拭おうともせず

ただただ、うずくまるお芳の傍らを

男が二人走り抜けた。


「若頭・・奥の部屋だ・・」

お登勢の声から、異変を悟ると

晋太はお登勢の居場所を直ぐにかぎ分けた。

徳治にお登勢を任せ

座敷に踏み込んだ徳治がお登勢を

救い出せたと確信すると

玄関近くの廊下の隅に

うずくまっていた女の元に

ゆっくりと歩んでいった。


この・・楔を打ち込めば

それで、お登勢は我が物になる。

じっと、声を殺し目を瞑ったお登勢に

剛三郎の思いの丈が今、まさに打ち込まれんとするその刹那

剛三郎の体が座敷の壁際までふっとんでいた。

瞬時・・剛三郎自身、何がどうなったか、

理解できないまま、

やにわに詰め寄った男の顔だけが、

はっきり見えた。

『井筒屋の徳治?』

男の正体が脳裏に浮んだ途端

剛三郎は男に拳を何発か打ち込まれていた。

なにが、なんだか、わからないまま

無様にさらけ出された一物をまえあわせに隠すまに、もう何発か殴られた。

「は~ん・・なるほど

お登勢、こいつが・・お前の男ってわけかい」

男がいるだろうとは、思ってはいた。

思ってはいたが、なぜ、こうもあっさり

剛三郎の目論見がつぶされてしまうのか・・・。

お芳が無意識のうちに丁子屋の名前を口に出したのは、あるいは、お登勢が救い出される偶然を呼び込もうとしたせいかもしれない。

だが、剛三郎にすれば周到な策略のつもりだった。

お登勢を尻軽女の如くに侮蔑する口がまたも、徳治の鉄拳を煽り

剛三郎はまた、したたか、殴られる・・

筈だったが、それを止めたのがお登勢だった。

「徳治さん・・あたしは無事です

なんとも無かったんです。だから、もう、

堪忍してください」

徳治は吃驚のままお登勢を見つめると

「お登勢ちゃん・・・何いってんだ。

もう二度と馬鹿な了見を起さないように・・」

腐った性根など叩きなおせはしない。

痛い目に懲りるしかないだろうと、

徳治の手が振り上げられた。

「旦那様なんですよ。

それでも、旦那様なんですよ。

女将さんが・・大事になさってる旦那様なんですよ」

お芳の裏切りより

お登勢を踏みつけにしてまでも

男の勝手をかなえてやりたいと、

自分の涙をこらえたお芳だと

お芳を許し庇いたてる心根に

徳治は呆れたため息を付いた。

「お登勢ちゃん・・・あんた・・

憎むって気持ち・・・もたねえんだなあ・・」

それが、お登勢の強さであり、優しさであり、

汚く苦しい思いを持たずにすむ事は

嬉しくもあるが、

怒ったっていいことじゃないか、

お登勢の人よしにも程がある。

だが、

「木蔦屋さん・・・

ここはお登勢ちゃんに免じて

俺も堪えておくが、二度とこんなことがあったら・・・あんた・・・

無事にすまないよ」

ふんとそっぽむく剛三郎に

お登勢が

深々と頭をさげると、

「旦那様のご恩を顧みず、うえに、生意気なことですが、お登勢はこの期に及んで、旦那様にお願いしたいことがあります」

お登勢の口から出てくるは愛想尽かし

あるいは、縁をきってしまいたいという事であろうと剛三郎はそっぽをむいたままだったが、

お登勢はかまわずに話し始めた。


廊下にうずくまる女が

木蔦屋の女将だと気がつくと

お登勢を剛三郎の供物の如くに

差し出した張本人であることにも

気がついた晋太は

ふううと、悲しい瞳をお芳に向けた。


女の業も男の業も

おそらく、たった一つの願いを

かなえておきたい所から

始まる。


思う人にわずかでも良い

思われていたい。

うとまれたくない。

側にいたい。

たった、それだけのため

我を忘れる。


晋太の奥底がお芳の悲しい気持ちを解する。

だけど・・・

やっぱり、人の道に外れて

相手の思いをつなぎとめたって

どうにもならない。


そんなことよりも、

まことの人の生き様というものがある。

それを忘れて

身勝手な欲に己をなげうったら

あとは・・・溺れる死ぬ・・・。


相手の幸せを祈るより先に

人としてよりよく生きることを

掴もうとしなければ

生きているとは言えない。


死人のごときお芳を人らしきに

よみがえらせてやりたくて

晋太はお芳の側にうずくまると

一言・・・

息吹を与えてみたかった。


「女将さん・・

子供がいなくても・・・

母親になることはできるんですよ」


ぼんやりと晋太を見つめたお芳が

耳に届いた言葉を噛み締めなおすと

盲目が開く

大きな光に気がついた。

たった、一言から何もかもを悟りえるは

お芳の聡さに他ならない。

お登勢がお芳をおっかさんと

呼んだことも晋太は聞いていたに違いないが

夫婦の間に子がない事が

お登勢をこんなむごい事に引きずり込みかけた

直接の原因だと判ってもいるようだった。

晋太をみつめながら、

晋太が此処で自分を相手に話しかけているという事が既に

剛三郎の諮りは不首尾に終ったのだと、

お芳にさらけていた。


どこかで、ほっとしている自分を

意識しながら・・・

お芳は晋太の先の言葉に深くうなづいた。


「晋太さんのいうとおりだよ・・」


「あたしはねえ・・

子供ができなくて・・

剛三郎だけがよりどころだったんだよ。

だから・・・、

あたしは今になってわかったんだけどねえ・・。

「女」でしかなかったんだよねえ。

子供が出来ないから

「女」として生きるしかないって

思っていたよ。

だけど、いま、おまえさんがいってくれた事をきいて、そうじゃないって、よぉく、分かったよ。天の神様もよく分かっておいでだったんだ。

あたしはあんなにお登勢におっかさんって

おもわれてるってのに、

それでも、「女」としての自分に執着していた。子供が出来なかったんだから、「女」として、いきていたいって・・・。

どこかで自分をごまかしてきていたけど・・・。

そうじゃない。

土壇場になってさえあたしは

おまえさんのいうとおり、

母親にさえなろうとしなかった。

母親の気持ちひとつ、ままにできないあたしに

天の神様が子供をさずけてよこすことなんかできゃしないよね。

子供が出来ないから母親になれなかったんじゃなくて、

母親になる事の出来ない「女」でしかないから、子供が授からなかったんだ。

その順序に気がつくことが出来ず

あたしは、「女」である自分に執着して

鬼のような・・

人間じゃないものになりさがっていたんだ・・・」

心の中のこだわりを話すことは

腐臭を放つものとの決別につながる。

お芳は一気に心のうちを話しきると

すがすがしい顔つきを取り戻していた。

「たとえ、どんなにお登勢があたしを憎んでも

あたしは、お登勢の母親といえる

自分になりかえてゆくよ」

人としてまっとうな生き方がどうあるべきか

めどうを得たお芳にうなづくと

晋太はそっと付け加えた。

「お登勢は・・・女将さんのことを

本当の母親だとおもってますよ」

その母親にたくされた「剛三郎」を

うけいれたくなかったのは、

剛三郎が母親の敬愛する相手だからだろう。

お登勢はお芳がどこからか、婿をつれてきたら、おっかさんがすすめてくれるひとだもの、まちがいないと喜んで嫁に行っただろうと晋太は思う。

「ありがと・・う」

袂で涙をおさえたお芳だったが・・・。

ふと・・・。

「お登勢を助けに行った人が・・

お登勢の想い人だね?お登勢を助けにくるくらいだから・・」

よほど、思い通じる所があるんだねと

いいかけたお芳はふと押し黙った。

お登勢を助けに来たのは晋太も同じであるからだ。

「晋太さん?あんた・・・?」

あんたこそ、本当はお登勢を一番おもってるんじゃないのかい?

その思いをお登勢につたえもせず、

ただ、そっと、お登勢の幸せを願い尽力しつくすだけ?

「晋太さん?あんた?お登勢を・・」

妹として以上に想ってるんじゃないのかい?

だからこそ、お登勢をめぐる人間全てが

幸せになるように、そっと心を配り

芯から幸せになれるように

お登勢の気がかりを晴らしている?

お芳の疑問に

晋太はくすりと笑い、肩をすくめた。

「女将さん。俺はお登勢をお天道様だとおもってんですよ。腫れた惚れたの酔狂沙汰で

人の心をねじまげちゃあいけないってね。

お天道様に顔向けできないような生き方

思い方をしちゃいけないってね。

お登勢との色恋沙汰を叶えようなんて、了見は

男として

人として

まっとうに生きてるか

って天秤にかけちまったら、どこかにふっとんでしまうんですよ」

晋太がお登勢への思いを素直に認めたのは

ただただ、お芳に

「お天道様に顔向けできない生き方をしちゃいけない」と、話したかったせいだろう。

そして、

お登勢を助けに走った男とお登勢の仲は

間違いないものになっているからこそ

お芳に、思いをかなえるより、もっと大事な

まことの生き様であるか、どうかを問うのが先と笑っていえるのだろう。


晋太の言う通りだ。

自分の欲に執着して

心の闇にのまれるより、

いっそう、思いを頬リ投げて

人としてのまことの生き様を見つけなおそう。


ぐっと決心を固める握りこぶしの締りを見ながら、晋太は

そろそろ・・・むかえに行きましょう。

と、お芳を促した。


悪ふざけの過ぎた子供を引き取りにいく

母親のように、迎えにいきなさいと

簡単にいう晋太である。


あまりにも、拘り無くお芳の仕打ちを水に流す

晋太を見ていると、

やはり、お登勢への思いの深さを知らされる。


思い叶わぬ辛さを知っておればこそ、

お芳の悲しい心を思い計って

許せのだ。


お芳には・・そう見えた。


すううと息を吐き整えると

お登勢は剛三郎に話し始めた。

「旦那さまは甘えすぎです」

お登勢の最初の一言に

剛三郎はわずかに首を捻じ曲げた。

お登勢が剛三郎をなじりたおすだろうと

思っている剛三郎は、

やけに落ち着いたお登勢の声が不思議に

思えた。

傍らの徳治はお登勢の思いを我もしっておこうと言わんばかりに、

じっとお登勢に耳を澄ましている。

「女将さんが愛想尽かしをしないだろうと

思い込んで、女将さんの辛抱にあまえていなさる」

お登勢の言い分に剛三郎は不安をいだいた自分に気がついていた。

「お芳が?まさか、どこかにいっちまうって?」

考えられることかもしれない。

お登勢が木蔦屋の跡を取る子を生むのなら

何もかもを

剛三郎を

跡を

木蔦屋を・・・

なにもかもがお登勢にたくされてしまうのだから、

お芳は自分の居場所をなくしてしまう。

いや・・・、

そうでなくても、我が女房を踏みつけにして

目の前で他の女子と情をかわす亭主を見て居れるわけが無い。


ほたえくるった熱がさめてくると、

現実がやけにはっきりと見えてくる。

お登勢のいうとおり、

確かに愛想尽かしをされないと思い込んでいた自分だと思う。

思うと同時にお芳をなくしてまで、

お登勢を欲しいわけじゃないと自分を静めさす

に十分な今の惨めさである。


「女将さんはいつでも、どんな時でも

旦那様を敬い、旦那様のことを大事にしていなさる。

だのに、だんな様は

心底、自分を大事に思ってくれる人の気持ちに気がつかず、

甘えるだけ甘えている自分であることにも気がつかず、

有り難いことであるのに、たとえ、わずかでも、応えられない。

わずかでも、気がついてやれない。

そんなものは、人の道にはずれている・・。

登勢はそれでも、だんな様を慕う女将さんを思うと

悔しくて、悲しくて・・」

剛三郎のうつけを責めもせず、

お登勢を手篭めにしようと

片棒をかつがせて、それさえ、ひとでなし・・。

ひとでなしに堕ちてさえ、

剛三郎に尽くそうとするお芳の胸の痛みはいかなるものであろう。

女として張り裂け、

人として血を吹き

お芳は自分の人生をなげうった。


「登勢なら・・・

愛想つかしもできず・・

自分の人生を汚辱にまみれさせてしまったら・・

登勢なら・・」

ふと、お芳の胸中を自分に当てはめてみた時

お登勢は恐ろしい不安に包まれていた。

「だ・・だんな様?

女将さんは?女将さんは、どうなさってるんです?」

自分なら、

愛する人に裏切られる辛さと

愛する人を裏切る辛さとに、挟まれたら・・・・。

「女将さん!!

死んじゃあいけない!!」

女将さんは今どこにいる?

女将さんは何処にいった?

女将さんの無事を確かめなきゃならない。


お登勢の形相は真っ青に醒め

剛三郎も又、お登勢の不安を理解すると、

「お芳!!」

まだ、近くに居るかもしれないと

お芳を探しに行こうと立ち上がった。


剛三郎の本心がみえると、

開けっ放しになっていた襖の影から

晋太がにゅっと顔を出した。

「お登勢・・・大丈夫だよ。

女将さんは此処にいなさるよ」

「あんちゃん・・・が?」

女将さんを探してくれたんだ?

お登勢はほっと、胸を撫で下ろし、

剛三郎は慌てて、襖の陰に居る

お芳の側にかけよった。

お芳は・・と、いえば、

先ほどのお登勢の剛三郎への直訴を

一部始終きいており、

ただただ、頭を垂れ、両の手で

涙を掬い、嗚咽を堪えていた。

「お芳・・・」

剛三郎は、憔悴しきったお芳の姿に

初めてお芳の本心を見た気がした。

いくら、お登勢に

「女将さんはだんな様を大事に思ってなさる」

と、いわれても、

剛三郎にはどこか、絵空事のように

思えていたのである。

それは、今までの暮らしぶりと、

お芳の勝気に気おされ

剛三郎には、見えていなかったものである。

また、それは、剛三郎だけでなく

婿養子にはいったものが、陥りやすい養子根性というもののせいかもしれない。

通常において、代継ぎのためという

観念にゆすぶられ、

無事に男の子がうまれたら、

「俺の役目は終った」

とか、

「どうせ、俺は種馬でしかないんだ」

とか、

己の存在価値を希薄に考え

妙に僻んでしまうことがある。

ところが、

剛三郎にすれば、まだ、それでも、

種馬でも、なれたのなら、恩の字である。

子供にも恵まれず・・・。


剛三郎が己の存在価値をみいだせる唯一の

場所は


実は・・・・、

お芳でしかなかったのである。


だが、

そのお芳の本心・・を

剛三郎は見損ねていたのである。


「俺なんか・・」

心のそこでいつも、僻んでいた。

養子としてさえ役に断ち切れない自分への責めに

お芳の男勝りがいっそう、拍車をかけ

剛三郎の目に

「俺がいてもいなくても、どうでもいいお芳」

に写った。


その挙句、

知らぬ顔で

「てかけをもたないか?」

と、お芳にいわれた。


なんでもなさそうに、

男としての剛三郎さえ、

お芳にとっては価値一つ見出せず

悋気の色ひとつなく・・。


剛三郎の僻みが

惨めに染まり、お登勢だけをよりどころにするしかなくなった。


だが・・・。

事実は違う。

と、お登勢に諭され

お芳がでていったんじゃないか?

つづいて、

出ていくどころではすまない。

しんじまうかもしれないと

思ったとき

剛三郎はやっと、

お登勢に諭された意味が分かった。


お芳にかまわれない自分といじけ、

寂しさも虚しさもあった。

だが、

実際、剛三郎の本心がどこにあるか、

気がついたとき、

「俺はお芳に甘えていた」

と、素直に認めることが出来た。


「お芳・・・」

なにをどういっていいか、わからないまま、

剛三郎はお芳をひきよせ、

その胸にだかえこんだ。

途端、

堪えていたものが堰をきり

お芳は声をあげ

泣き出していた。


「すまなかった・・」

剛三郎の喉から

やっと伝える言葉がでてくると、

お芳は首を振って

剛三郎にわびだした。

「すまないのは・・あたしのほうだ・・。

本意でもない思いで

おまえさんを物のように

あっちによこし、こっちによこし・・。

あげく、お登勢を・・供物のように・・

生贄三昧にして・・。

こんな鬼のような女が女房でございって・・」

お芳の讒訴を剛三郎はとどめた。

「馬鹿をいうな。

俺がたわけたことをいいだすから・・

お前が・・それをかなえてやろうとしただけじゃないか・・

俺の思いをなんとかしてやろうって、

おまえにゃあ、それしかなかったろうに・・・

俺はお前に見捨てられたって思っちまったんだ。

了見の狭い男に文句ひとつ言わず

お前はついてきてくれてたんだ・・。

お芳・・・

お前は俺にゃあ・・過ぎた女房だよ。

俺はな・・・

今・・やっとそれに気がついたんだ」

「おまえさん・・」

後から後からわいてくる涙は

嬉涙だ。

涙に喉を詰まらせながら、

お芳はそれでも、これだけはいっておかなきゃと、お登勢を振りかぶった。


だが・・・。


その場所には、お登勢も晋太も

もちろん井筒屋の徳治も居なかった。


夫婦の和解が成ったと見て取った

お登勢達はいつの間にか

その場所を退いて

夫婦みずいらずの時を渡していたのである。


お登勢が此処にいないといっても、

お芳ははっきりと剛三郎に告げておきたかった。


「あのこは本当にあたしの娘だよ。

あたしの娘が、夫婦の仲をより戻してくれたんだよ。あのこは、本当に真っ白で綺麗で、

天女のようだ・・。

あの子のおかげで・・」

「わかってる。

お登勢のおかげだよ。

なにもかも、お登勢のおかげだよ」

「あたしが、あんなひどいことをしたというのに、あの子は女将さんが、女将さんがって、

そればっかり・・で」

「ああ・・わかってるよ。

俺もな・・。井筒屋の徳治にぶんなぐられそうになってるとこをな・・

お登勢が・・

お登勢・・が・・な」

剛三郎を恨みもせず、むしろ、庇い立てて

「だんな様・・なんだよ・・って・・」

剛三郎の瞳に沸いてくるものをぐいと拳で

ぬぐいたてると

「俺はなあ・・その時に

勝てねえなって思ったよ

とんでもない男をかばうお登勢をみてたらな・・・お登勢の心は本当に無邪気でまっすぐで、俺の子供みたいにおもえてきたんだよ。

俺はな、だんな様・・なんだよって

その言葉がな

「おとっつあんなんだよ」って、そういわれてる気がしたんだ。

赤の他人をなあ・・思いにおもってくれるなんてなあ、ありがたいことだよなあ・・

その気持ちはな・・

親を思うのとおなじだよなあ・・」

純真無垢な子供は親を信じ、親をたてつくす。

剛三郎をたてつくすお登勢の気持ちは

親に寄せる子の思いそのままといえる。

「俺はな・・もうちょっとで、

もっと大事なものをいっぺんになくしちまうところだったよ・・

それを防いでくれたのが・・お登勢だよ・・」

うんと涙でうなづいたお芳に

剛三郎は

「お前がいてくれるなら・・それでいいんだ」

てれをかくすためにぽつりと小さくつぶやくと、あわてて、

「お登勢の嫁入り仕度は俺らでさせてもらおうな」

と、大きく告げた。


晋太に促されて、お登勢も徳治も

丁子屋の座敷からそっとぬけでて、

今は夜道をゆっくりと歩き出していた。

「つきものが・・おちたってとこだな」

晋太は足取りがおぼつかないお登勢を

気使い、ゆっくりと歩をすすめていたのだが、

晋太の一言はお登勢に一件が無事に

いや、無事どころではない

円満に解決した事をはっきりと知らせた事になった。

何もかもが落着したんだとほっとしたお登勢が

自分の感情にゆすぶられ始めていた。

「あ・・あんちゃん・・」

お登勢の足が止まり、その場所に立ち尽くしてしまった。

「あ・・あんちゃん・・動けないよ・・」

今頃になって、恐怖がお登勢をがんじがらめにしていた。

あっという間に剛三郎につかまれ

あっという間に助けられ、

変転のめまぐるしさで置き去りにされていた恐怖の感情がお登勢に追いついてきていた。

「あん・・ちゃん・・」

今頃になって足がすくみあがっている。

晋太は徳治に小さく頭を下げると

それが、徳治でなく晋太がお登勢をおぶう事を

許せと合図したのだと徳治に分かった。

お登勢の前に背を向けしゃがみこむと

「ほら・・」

と、お登勢に負ぶされと晋太がいう。

「うん・・」

小さくうなづいて遠慮無く晋太の背をかりるお登勢である。

兄妹ならではの

ごく自然なふるまいであるが

晋太は笑い出していた。

「ああ・・重くなってやがる」

あたりまえのことであろう。

八つのお登勢を負ぶって以来である。

「あんちゃんこそ・・力がないんだ・・

男のくせに・・」

晋太の背にとまったまま、

男のくせにといった自分の言葉に

お登勢はしょんぼりとため息を付いた。

「あたしは・・女のくせに・・・

だんなさまにたてついて、

えらそうに意見して・・だんな様はさぞかしおこってらっしゃるだろうねえ」

お登勢の重みに加え小さなしずくが

晋太の肩口にしめりをにじませる。

晋太の歩幅に合わせて傍らを歩んでいた、

徳治は、お登勢の言い分に口を挟まずに置けなかった。

「なに、いってんだよ。

お登勢ちゃんにとんでもないことをしでかそうとした男に、そんなこときにしてやる必要なんか、無い!!」

徳治の口調に怒気がにじむと

お登勢は改めて徳治に礼を述べた。

「徳治さん・・ありがとう。

登勢がこんな事をいってられるのも

無事だったからこそだのに、

徳治さんに・・お礼も言わずに

安気すぎました・・」

お登勢に謝られると、徳治もいう事が出てこない。

ようは、己の嫉妬だと思うから・・・・。

あんな男をたてつくすお登勢に嫉妬しているから・・・・。

いっそう、言い返す言葉を見つけられなかった。


「あんちゃん・・」

晋太の背にゆすられながら、

お登勢は喋り続けていた。

「登勢は皆幸せになって欲しいとおもってるんだよ。だけど、本当の幸せって、皆、本当は持っているんだなって・・思う。

本当の幸せを持っているのに、それに気がつかずにいるんだよねえ」

お登勢の興奮がお登勢を流暢にしている。

お登勢は剛三郎を憎みそうな自分を

必死に説き伏せているのだ。

不埒な思いを持った剛三郎を許せる思い方に自分を寄せ付けようとしていると気がつくと、

「うん・・そうだな」

と、お登勢の思いに賛同して見せた。

「だんな様も、本当の幸せを見つけ損ねてたんだよね・・。本当に在るべき姿ってのはみえにくいもんだよね。

登勢が自分の分もわきまえず、だんな様に意見したのも、そこだよねえ」

「そうだなあ・・・自分でわかっていても、

なかなか、自分を律しきれないもんだよ。

まあ、魔がさすってことはな、

誰でもあるんだ。

そこのところをな・・上手に気がついて、いかなきゃなんないんだ」

「あんちゃん?も・・・

魔がさすってことがあるんだ?」

あんちゃんでも?

そんなことがある?

しんじられないとお登勢は思った。

「ただな・・・

俺は、周りで起きてくるいろんな事をみながら、他人事に考えないことにしているんだ。

これは、俺のもうひとつの姿かな?

って、考えるんだ」

そうしたら、在るべき自分の姿に気がつく。

「それとな、お登勢は長いこと喋れなかったから、ぴんとこないかもしれないがな、

自分の喋ったことを自分の耳でよおく聞いておくことだよ」

「自分の喋ったこと?」

晋太はくすりとわらうと、

「そのうち、きがつくんだよ」

と、付け足した。


長いこと喋れなかったお登勢にはよくわからないこととあんちゃんの言うとおりなんだろう。

「うん・・・よく・・わから・・ない」

極度の精神の疲労が安心の背にゆられ

お登勢は晋太の背で眠り始めていた。


お登勢の身体の力が抜け始め、お登勢を支える晋太の腕にずしりと重みが伝わってきていた。

「おい?ねちまったのか?」

お登勢の返事は無く

あいもかわらずこどものようだと

晋太は思った。

幼い子供はくたびれると所かまわず

泥のように寝入る。

安心して無防備になれる晋太の背にお登勢の

寝息が暖かく篭っていた。


お登勢の眠りを妨げまいと

黙りこくったままの徳治と並んで歩みながら

晋太はお登勢の言葉を反芻していた。


お登勢が喋ったこと・・・。


「本当の幸せを持っているのに、それに気がつかずにいるんだよねえ」

お登勢は今、既に徳治という

幸せを持っている。

そのうち、木蔦屋のだんなにむけていった言葉が、なんのことはない、自分のことだと気がつく日がくるのだろう。


その日が早くくればいいなと

お登勢のしあわせを胸の中で祈りながら

晋太はなんだか、

すこし、寂しいような気持ちになっていた。

雨はふった。

木蔦屋夫婦の土壌も固まることであろう。

なんのきがかりも無くなったお登勢は

と、いえば、

今日も朝早くから脱兎のごとく

家を飛び出し大森屋のてつないにはせ参じている。

あいもかわらず、徳治がお登勢を送る

毎日がつづいていた。

そんな、ある日・・・。

徳治がお登勢を誘った。

「明日は大川で花火がうちあがるんだ。

一緒にみにいかないか?」

花火の上がる刻限といえば

当然、まだ、大森屋の商売の真っ最中である。

徳治の誘いをお登勢の一存では、

決めかね、お登勢は考え込んでいた。

さして、広くない店であれば、いやがおうでも、徳治の誘いが耳に入ってきた大森屋である。

「お登勢ちゃん、いってくりゃいいよ。

みんな、花火をみにいって、

客なんて、ちらほら、数えるほどしかこないよ」

大森屋の主人のあとおしに助けられて徳

治のねがいは上手くかなう事になった。


そして、次の日。

久方ぶりに、店を早く引けたお登勢が

外出に備え、暮のうちに湯浴みをすませたところに、晋太が帰って来た。

「ああ、あんちゃん。あんちゃんもいこうよ。

浴衣をだしてあるから、汗をながして、きがえていこうよ」

昨日から、一緒に行こうとお登勢に何度もねだられたのを、渋い返事を返してはぐらかし遠まわしに断ったつもりの晋太だった。

「お登勢・・俺はやめとくよ。

大体、俺は人込みの中は好きじゃないし

花火なら、そこの戸をあけりゃ

真正面に見える。俺は此処でのんびり酒でも飲みながら花火見物をするよ」

そのほうが、性にあってると晋太がわらうと、

「あんちゃんはそれで、本当にいいのかい?」

年に一度の花火を縁側へりで、見るという

あんちゃんは、徳治にきがねしているように

見えた。

「ああ・・」

「そう・・」

あんちゃんが一緒じゃないのは

なんだか、ちょっと、物足らないけど、

無理強いをしたくはないし

それに、おっつけ、徳治がむかえにくる。

「じゃあ、行ってくるよ・・」

お登勢が晋太のために酒を縁側へりにおくと、

蚊帳を吊るした。

蚊帳の中で気楽に寝そべって花火を見るのもいいかもしれない。

だいいちに蚊にくわれないのが、一番いい。

蚊帳をつりおわると、

戸口から徳治の声がした。

「こんばんわあ・・・徳治ですう」

語尾を引っ張って徳治が訪問を告げると

家の中から、お登勢がまろびでてきた。

「晋太は?」

「いかないって・・」

「そうか・・」

昼間、店で晋太に釘をさしておいた徳治である。

木蔦屋の一件から、もう一月以上、

毎日の如く、お登勢を晋太の住まいに送り届けた徳治であれば、お登勢とて、もう徳治の気持ちに気がついているだろう。

そろそろ、頃合だろう。

はっきり、自分の気持ちをお登勢に告げたい。

だから、晋太は・・すまないが明日は遠慮してくれと。

「じゃあ、あんちゃん、いってくるよ」

出掛けにお登勢は縁側へりの晋太に声をかけに行った。

「ああ。ゆっくり・・たのしんでおいで」

早くも湯飲みに酒をついで

晋太は南の空を見上げていた。

「さっき、こてだめしが一発あがったみたいだよ」

滑空がひくくて、空が微かに明るく映えて

小さな破裂音が届いただけだった。

「うん」

返事をしてお登勢は踵を返して

戸口の徳治の元に戻ってゆこうとした。

戻ってゆこうとしたお登勢は

なんの気もなしだった。

なんの気もなしにふりむいたお登勢の目に

晋太の後姿が見えた。

見えた後姿が

ひどく・・寂しそう・・だった。


『あんちゃん?』

いくばくかのきがかりを残しながら、

徳治の声にせっつかれ、お登勢は宵闇の中へと

徳治とともに歩み出していた。


大川の西の岸と東の岸で

向かい合って花火師が

絢爛の華を夜空に打ち上げる。

一発の大玉が上がると、

咲き誇った華の残像がきえゆくまで、

群集の息がとまるかのような、

静寂が流れる。

次の大玉を筒につめこむまで、

いくらかの時を要する。

次の華が咲くを待つ人々が闇の中で

息をこらしている。

お登勢と徳治もまたその人の群れのなかに

たちつくし、

固唾をのんで、大輪の華をまちうけていた。

静寂が闇の中にしきわたり、

岸辺に赤い火がみえると、

やがて、長い火尾が夜空に軌跡をつくり

火尾がいずこかにきえいった途端、

目にも鮮やかな大輪の華が咲く。

「きれいだああ」

花火の光の映えに映し出された

お登勢の横顔もまた、この上も無く美しい。

「お登勢ちゃん・・」

徳治はこの時を待っていた。

ずっと、まえから、待っていた。

「お登勢ちゃん・・急にびっくりするかもしれないけど・・・」

徳治を見つめたお登勢にいっそう

徳治が胸をつまらせ、

声をひそめる。

徳治の声がよくきこえないと

お登勢は徳治との間を詰めた。

「徳治さん?なんだろ?」

お登勢が吃驚する急なこととは、なんだろう?

「あんなあ・・」

大きく息を吸い込んでそれを吐き出す勢いに載せるしか、

お登勢に告げる法はなかった。

「お登勢ちゃん・・・俺の嫁にきてくれないか」

一気に言い募った徳治のうしろで、

いま、また、大きな華がひらき、

お登勢の口がなにかいったようだが、

華の咲いた後に遅れて

どーんと鳴った開花の音がお登勢の声をかき消していた。


静寂がもどり、花火の落ち火がお登勢の

顔を赤くてりかえしていた。

お登勢の顔を見つめきった徳治は

「やっぱりな・・・」

と、呟くしかなかった。


徳治には、なんとなく、

そう、なんとなく、判って居たことだった。

おもいおこせば、あの時、

木蔦屋夫婦の和解のあと、

晋太と自分の大きな違いを

見せつけられた。

お登勢は剛三郎をどうにか、

許容しようともがいていただろう。

剛三郎は大事な事に気がつかなかっただけ。

お登勢への執着は大事な物が手にはいらない故の、うさばらしという気の迷いにしか過ぎなかった。

お登勢はさらに剛三郎を憎みもせず

意見した自分が生意気だったと

自分をせめた。

そのお登勢に徳治は嫉妬しただけだった。

剛三郎をおもいやるお登勢に嫉妬しただけだった。

だが、

晋太は違っていた。

お登勢が本当に幸せに思えるように、

お登勢を包み込んでゆこうとしていた。


さらに、お登勢は言っていた。

「皆、幸せになってほしい」

皆が幸せであるために、

自分のつらい思いや恨みがましい思いを

ほおりなげようとするお登勢である。

そのお登勢が、幸せであるように、

晋太は影になりひなたになり、

手を尽くしている。


そうかんがえてみれば、だいたい・・・。

丁子屋へ行かねば、お登勢が危ないと

察した晋太がお登勢をいっさきにたすけだそうとするであろう?

それが、わざと・・わざとだろう?

晋太は徳治がお登勢を救い出しに行くように

指図してきた。

お登勢をすくいだす図式により、

徳治とお登勢の間柄がいっそう深まる。

徳治も大事な人を救い出すに晋太に遅れを取れば、情けない思いをかかえこんだだろう。

どこまでも、深く晋太は

お登勢の幸せと、徳治の幸せを思いはかっていた。


それに、ひきかえ、

お登勢の幸せを祈り、

徳治の幸せに助力する晋太をして、

今でさえ、今でさえ・・・

晋太をのけ者にして、お登勢に求婚した自分でしかない。

本当にお登勢を幸せにしたいと

思っているのなら

お登勢の幸せのため、

徳治の幸せのためだけを思う

晋太の目の前でお登勢ちゃんに求婚して

晋太の祈りをかなえてみせるべきだったろう。


本当に幸せであってほしい。

と、人の事に親身になるお登勢を

もらいうけようという人間にふさわしくない

狭儀な自分でしかない。


お登勢が徳治にひかれながら、

いざとなったら、二の足をふむにしかたがない

徳治の名前にたがう人徳の無さである。


徳治の唐突な申し出を聞いた時

大きな花火が徳治の後ろで

華開いた。

嬉しいとおもう筈の徳治の求婚であるのに、

お登勢の目の中には大きな火の華が映り

『あんちゃんは・・この花火をひとりでみている。登勢が徳治さんとこに嫁にいっても

あんちゃんは・・・きっと、ひとりで

ずっと、ひとりで花火を見てる・・・』

お登勢の胸中に

晋太の思いが打ちあがってきていた。

お登勢がいなくなっても、

晋太はひとりだと、ずううっと独りでいると、

お登勢はまちがいなく、そうだと思う。

晋太が独りで居続けるという事は

とりもなおさず、

それは、

晋太がお登勢を独りの女性として

思っているという事になる。


徳治の求婚に頷こうとするお登勢に

「あんちゃんを・・独りにしちゃいけない」

と、いう思いが湧き上がってきて仕方が無い。


晋太の背中が寂しくみえた理由に

やっと、お登勢は気がついた。


そして、目の前の徳治に

自分の気持ちにきがつかなかったとはいえ、

なんという曖昧な態度をとってきていたんだろう。

徳治になんといおう。

それより、以前になんといういい加減な

自分だったのだろう。

徳治にいいわけのひとつとてできはしない。

あんちゃんがいった、

「魔がさした」という事がこういう事なんだと

思うお登勢であるが、

まさか、それさえ、徳治に「魔がさしたせい」

とも、言えない。


その一方で、

あんちゃんはやっぱり、賢いとあらためて、思う。

他人事を見て、自分事に考える。

と、あんちゃんはいってた。

そうすれば、間違いは起こらないと。

女将さん夫婦を見て、お登勢は

やっぱり、他人事だと思っていた。

でも、違う。

だんな様は心の窪みをお登勢という

他の人で埋めようとしていた。

これは・・、登勢そのものじゃないか?

八つの年に両親をなくし、声をなくし、いろんな事が有った。

物寂しい窪みをもっていた登勢は

幸せになりたい。

誰かに愛されたいと思っていた。

その窪みを徳治さんで埋めようとしていたんだ。


そして、また、あんちゃんは・・・

「自分でいった事を自分の耳でちゃんと聞く」

と、いった。


登勢はそれも他人事だった。

だんな様にえらそうにいったっけ。


―女将さんが愛想尽かしをしないだろうと

思い込んで、女将さんの辛抱にあまえていなさる―

―女将さんはいつでも、どんな時でも

旦那様を敬い、旦那様のことを大事にしていなさる。

だのに、だんな様は

心底、自分を大事に思ってくれる人の気持ちに気がつかず、

甘えるだけ甘えている自分であることにも気がつかず、

有り難いことであるのに、たとえ、わずかでも、応えられない。

わずかでも、気がついてやれない。

そんなものは、人の道にはずれている―


それは、何もかもお登勢自身の事に

他ならない。

剛三郎の姿を自分だと気がつかず

自分があるべき姿を人に示唆してみせて、

その言葉を自分の耳で聞こうともしなかった。


あんちゃん・・・

登勢ももうちょっとで、

大事な人を失う所だった。


大きな値にきがつくと、

お登勢は徳治にそれを告げるしかないと思った。

どんなに徳治をかなしませようと、

苦しめようと

登勢が自分をいつわったら、

一番、悲しむのはあんちゃんだ。


あんちゃんの背中を

もう二度とさびしい色にさせはしない。


護るべき自分の心に気が着いたその時

徳治が

「やっぱりな」と、お登勢の気持ちを

悟るかのようだった。


徳治への断りを

どうつげればいいか、

迷ったお登勢の顔を見つめた

徳治は

もう、それ以上、お登勢を困らせたくはなかった。

「お登勢ちゃん・・。言ってたよね。

皆、幸せを持ってるのに、気がつかないって・・。

俺も、ずっと、お登勢ちゃんをみていて、

気がついたことがあるんだ」

軽く咳払いをすると

徳治は続けた。

「情けは人のためならず・・っていうだろ?

人に情けをかけておけば、

いずれ、それが、自分に返ってくるってな。

人を思う気持ちが深ければ、深いほど、

深い情けが返ってくる・・。

自分の幸せはその情けが帰って来た姿だ。

自分の幸せの大きさは、自分の思いの深さだと思うんだ。

深く暖かい思いを持てば持つほど

幸せも大きく暖かいものになる。

俺は・・・先に幸せってものを手に入れたいって思ってたけど、

自分さえ情け深い人間になれれば

幸せってのはあとから、勝手についてくるもんだ。

俺自身が人としてよりいっそう徳をつむことのほうが先なんだよ」

俺のことは、きにしなくていいんだ。

と、お登勢につげると、徳治は一番辛い言葉をだす。

「俺はお登勢ちゃんに、ひとこといいたいことがあるんあだ。それはね・・・

ー本当に自分を思ってくれる人に応えられない

お登勢ちゃんはうつけだーってことだよ」

徳治の求婚のあの時。

花火がお登勢の言葉をさえぎったけど、

徳治はお登勢の口をじっと見ていた。

お登勢の口の動きは

「あんちゃん」と、動いたように見えていた。


蚊帳の中にねころんで、

晋太は開け放った窓の外の花火をみつめていた。

今頃・・・

お登勢は・・・

徳治の申し出に頬を桜色に染め

花火が終える頃には、息をはずませ

晋太の元にかえってきて・・

頬の桜色のわけを晋太に聞かせてくれることだろう。

それで・・いい。

お登勢が幸せになることが一番いい。


ごろりと寝返りをうって、

あおむけになると、腕を枕に

暗い天井を蚊帳ごしにながめていた。

まだ、あがりつづける花火の映えが部屋の

中を一瞬あかるくしてゆく。

酒の酔いが心地よいまどろみをつれてきて、

晋太はわずか、眠った気がする。


晋太の眠りを覚ましたのは

縁側へりの外からのお登勢の帰還だった。

「あっ」

影をさす気配に晋太が目を覚ますと

そこにお登勢がいた。

「ああ・・ねいっちまったんだな」

戸口があいてないから、お登勢は裏に回ってきたんだろう。

「すまなかったな・・」

若頭にあいさつもしなかったが、

お登勢を保護するが如くの、口調を

若頭にのべるも、

あるいは、それも、無粋なことかもしれない。

明日・・・いや、ついさっきから

お登勢を護るは若頭にゆだねられたんだから・・・。


「あんちゃん」

いよいよ、お登勢が晋太と長の別れを口にするのだ。

晋太は起き上がると

何気なさそうに

「なんだ?」

と、お登勢の報せを待ち受けた。


「あのねえ・・。

登勢は口が利けなかったから

自分の喋ったことを自分の耳で聞くことは無かったけど

あんちゃんは、そうじゃないよねえ?」

お登勢が何を含めて物をいおうとするのか、

あてがつくわけもなく、晋太はお登勢の言い分にそうだとうなづいておく事にして、

お登勢が何をいいだすか、じっと、耳を傾けた。


「あんちゃんは、人に言った言葉を自分ごとに当てはめるんだといったよね?」

確かに言った。言ったから、晋太はやはり応と頷くしかない。

「あんちゃんは・・・嘘つきだよ・・」

「え?」

何がどうなって、なんで、俺が嘘つきになるんだ?

「あんちゃんは、登勢に

お登勢は自分の思いのままに生きてゆくのが一番いいっていったよね?」

それも、言ったおぼえがあると、やはり、頷くしかない。

お登勢がなにをいいたいのか?

お登勢の思いのとおりに生きるとそういうだけではない気がしたが、

それでも、

いぶかし気ではあったが、頷くしかなかった。

「あんちゃんはその言葉を自分事にあてはめてない・・・」

それは、つまり?

晋太こそが自分の思い通りにいきてないって事になる。

だが、晋太の思いのままということが

なにを指すのか、お登勢はわかっているということになるのだろうか?

心の底にお登勢への思いを埋み火にしていることなど、

いっさい、お登勢に悟らせることは無かったはずである。

「そんなことより、若頭は・・」

晋太の鱗にふれる話題から、

徳治がお登勢に求婚しただろう事に逃げようとした。

だが、

お登勢の決心はすでにかたまっていて、

晋太の問いは、逆に晋太をとらまえる言葉をはきだす絶好の機会を与えただけに過ぎなくなった。

「徳治さんは登勢に嫁に来てくれといいなすったんだけどね・・」

何をまようことがあるのだろうか?

お登勢の口ぶりは応諾しなかったといっている。

「登勢は断ったんだよ。

そしたらね・・。徳治さんがやっぱりなって、言いなすってね。

あいつは、心の中にお登勢の一文字をそめぬいているよってね。

登勢も、その人に心まで染め抜かれてるって

やっと、気がついたんだよ。

あんちゃん・・

その人が誰だか解らないなんて、もう、とぼけたりせずに

登勢をまっすぐみておくれよ・・・。

登勢をずっとあんちゃんの傍においておくれよ・・・」

喋りたいだけ喋るとお登勢は晋太を覗き込んだ。

晋太の二の腕が両の目を擦り上げ

あんちゃんが泣いているとお登勢に教えていた。

「あんちゃん・・ねえ?いいだろ?」

「お登勢・・。俺・・の・・」

「うん・・」

「俺の思う通りが、お前の思う通り・・なんだな?」

「うん・・そうだよ・・」

はっきりと、思いを込めて、お登勢は深く頷いた。

「登勢はずううっと、あんちゃんと一緒にいたいんだ。

あんちゃんも登勢とずううっと一緒にいてくれるよね?」

「あたりまえだろ・・」

埋め尽くした火が大きくいこることをゆるされ、

晋太が男泣きにくずれてゆくのを見つめながら

お登勢は思った。

『あんちゃんが、今、登勢の命になった』と・・・。


                   ー終ー

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お登勢 @HAKUJYA

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