4-4

 同伴の衛士が篝火にそっと油をさしては立ち去っていく。

 レインは絡み合った声を丹念に解し、書き留めた文字を読み返しながら聴こえる音とすり合わせていった。何度も繰り返していくうちに、読み上げる己の声が聴こえる音と揃うようになり、高揚は疲れや空腹をも忘れさせた。声の主は三人いる。まとめて聴くと女のようだが、ごく低く、聞き取りにくい声が奥底に潜んでいた。

 一人ずつ聞き分けられるようになった頃、実はすでに外の声は止んでいた。このときそばに控えていた衛士はルオといって、歳の近いレインが懸命になにかに取り組んでいるところを邪魔しないように、誠心誠意職務に努めていた。しかし、飲まず食わずの様子は心配ではである。〈顔のない女〉の声が止んだことで一度区切りをつけてもいいのではないかと、声をかける機会をうかがっていた。

 ところが、レインは一向に気づく様子がない。気付けるわけもなかった。

 他の誰にも聞こえなくても、声は鳴り続けていたのだ。

 ただひとり、レインの中で。

 三人の声はますます明瞭になり、レイン自身のものと同調を深めていく。境目があやふやになり、レインの声は四人目として混じり合った。働かせ続けて熱くなった頭がすっと冷え、不思議と体が軽くなる。

 その目が映す景色は、もうこの世のものではない。


 サフィルたちが到着すると、墓所のなかは異様に静かになっていた。例の声どころか、あれほどざわついていた飾り文字たちもすっかりなりをひそめて、かえって不気味なほどである。

 途中で拾ったマリスも引き連れ、警備隊詰所側から駆け下りていくと、うずくまったレインのそばで若い衛士がうろたえていた。

「おい、どうなってる」

 ぼさぼさ頭に三白眼、さらにはあちこちにインクのしみだらけのサフィルに軽く恫喝されて、ルオは慌てて姿勢を正し、直後にそれどころではないと思い直した。

「僕の言うことも、何も聞こえていないようなのです。〈顔のない女〉はもう、すこし前から黙ったきりです。なので一度お休みになってはとお伝えしたところ、まるで心ここにあらずといった様子で」

 アールがすかさずレインの首に二本指を当て、同時に口元に掌を当てる。息があることを確認すると、サフィルは足元に重ねられた山のような書き付けを手にとった。山は三つに分かれており、それぞれに別の文字が並んでいる。

「ルーアルサブラディーイーヤル……なるほど」

 独学で学び始めたばかりの表音文字を、ここまでものにしていたとは。口に出して読み上げれば、サフィルにはそれが何の言語かすぐにわかった。

「でかした」

 思わず撫で回した金の髪は、しかし何の抵抗もなくぐにゃりと項垂れた。見れば口元からつうっと涎が糸を引き、あたたかな海のようだった碧の瞳も光を失っている。

 同じような状態を過去にも見たことがあったが、それは遠い昔。まだサフィルが見習いだった頃の話だ。時間の猶予はあまりないだろう、下手するともう手遅れかもしれない。それでも、サフィルは彼を引き戻したかった。

 この大きな子どもに「よくできました」の一言を言ってやりたい。

 いちかばちかで懐を探り、すみれ色のインクと使い古しのペンを取り出す。筆ではいけない。撫でるのではなく、しっかり刻まねばならない。

「なにしてるの!」

「やかましい」

 驚くアールを振り払ってレインの衣服を剥ぎ、くたりともたれかかる上半身をルオに支えさせる。インクをつけたペンを胸の中心に当てると、銀の星と同時にジュッと煙が上がる。

(渡さん!)

 なにかが抵抗しているが構わない。サフィルはレインの身体の中心に、己が最も書き慣れて力を込められる言葉を刻み込んだ。花火のように星が跳ね回り、禍々しい紫煙が上がる。そうして書き上げられた一言は、血の色と混ざり合ってレインの魂の芯に届く。

 ひょうと風が鳴り、啜り泣くような声があたりに響きはじめる。不安げに宙を見つめるルオの手元で肩が大きく震え、深く息を吸い込んだレインがぼんやりと顔を上げた。

「あれ……」

「はーっ、心配させやがって」

 サフィルは地面に拳を打ち付け、アールは箍が外れたように力なく笑う。疲れからか怪異に触れたからか、レインの顔は真っ青でずいぶんやつれて見えた。用意のいいマリスがすかさず水筒を口に押し当てる。

 レインが人心地つくまでの間、サフィルはレインが書いた表音文字の聞き書き文を音読しながら、まったく逆の言葉を壁面に書き出していた。もちろん、愛用のすみれ色のインクに、今度はもっとも手に馴染む筆をつかって、である。サフィルの怒りは深く、それが過度の集中状態を招いた。おいそれと話しかけられない雰囲気に、他の者は固唾を呑んで見守るしかない。

 ひとつめの紙束、ふたつめの紙束、みっつめを手に取り読み始めて、サフィルはぱたりと筆を止めた。

「あれ、終わりかい?」

 アールの問いにどっと息を吐いて、手にした紙束をそっと放る。

「これは必要ない。ひとつめが恨み言、ふたつめが呪詛、みっつめは僕達のための警告だった」

 簡単に説明すると、サフィルは糸が切れたように腰を下ろした。

「誰か、この墓がどうやって作られたか知っている者はいるか」

 突然の問いかけに、他の誰もが答えられずに顔を見合わせた。その様子を一瞥して、サフィルが自ら答える。

「この言葉は神聖イエリャでのみ使われていたもので、イエリャはウルラ建国最初期に征服された国だ。その頃はまだこんなご立派な墓も、もちろん宮殿や都だって今のようではなかった。一体誰が作り上げたか? 奴隷だ。僕たちウルラの人間が、イエリャの人々に過酷な条件で働かせ、多くのイエリャの民が命を落とした」

 サフィルは「僕たち」という言葉をことさらに強調して言った。

「崇めていた神も、親しんできた言葉も誇りも、何もかも奪われ、汗水たらして築いた壁や柱には敵を称える文句を刻めという。このクソみたいな美辞麗句を延々とだ。呪いたくもなる。レインが聞き取ったひとつめがこの事実に対する告発文、ふたつめがこの墓じゅうに散りばめられた呪いの全文。おそらく、墓所全体にかけられた祈りの効力が弱まったところを、尽きぬ恨みが上回ってこうして出てきたんだろう。いずれは墓所をはじめにウルラトの礎を崩壊させるつもりだったらしい」

 そして静かに目を伏せる。

「で、みっつめだ。イエリャとウルラだけでなく、長い時間をかけて多くの血がまじりあい、ウルラの子らもイエリャの子らも同じことだと。子に辛い思いをさせたくないと、恨みに徹しきれずに僕たちをかばい、助けようとする声。まったく、お優しいことだ」

 誰も何も言えない。何を言っても、欺瞞にすぎないことくらいはわかっていた。

「僕ははじめからこんな墓所滅びてしまえばいいと思っているし、イエリャの民の深い恨みと呪いは、僕らウルラの犯してきた罪を考えればもっともなことだと考えている。が、みっつめの声と、それを伝えようとしたレインの働きも無駄にしたくはない」

 サフィルの声に次第に力が漲っていく。よっこらせ、と声に出して、彼はふたたび立ち上がった。

「レイン、力を貸せ」

 サフィルに呼ばれて、横になっていたレインもむくりと起き上がった。まるで何かに引っ張られているようだった。

「動いて大丈夫なのかい」

「はい、なんだか、急に」

 心なしか顔色も戻ったようだ。訝しんだアールはサフィルに目を向けた。

「一体なにをしたんだ」

「いや、とっさのことで、他に思い浮かばなくてな」

「いいから言いなさい」

「僕の名前を書いた」

「は?」

 アールはぽかんと口を開け、事情がよくわからない衛士ふたりもさすがに目を丸くしている。

「それはまたずいぶんな」

 言いながらレインのほうを振り返る。アールの視線は無意識に胸元に注がれ、レインはそっと自分の襟元を開いた。さきほどからどうもひりひりすると思っていたのだ。

「ほんとだ」

 見下ろしたそこには、レインの浮いた肋をひっかくようにして、のたうつような紫色の痣が刻まれていた。

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