4-3
「サフィル。開けますよ」
「あっ、ちょっと待て」
止めたときにはもう遅かった。アールが引いた戸の隙間から赤や青色の何かがひゅうと飛び出し、呆然として見送るアールをサフィルが慌てて引き込んで戸締まりをする。
「お前な」
「悪かった。悪かったけど、これは一体」
サフィルの部屋は、足の踏み場もないほど散らかっていた。何色ものインクで書き散らかされた紙は枚数を重ね、机から雪崩れ落ちて床に広がり、旅行鞄がぺちゃんこになった代わりにちょっとした書物の塔が建ち上がっている。なにより異様なのは壁や天井までを埋め尽くす文字列の群れだ。古城を覆う蔦の如く張り巡らされ、その多くは生きているかのように息づき動き回っている。サフィルでなくても言葉の発するざわめきが聴こえてきそうだ。膨大な言葉の宇宙に時折きらりと銀の星屑が光り、すべてはサフィルの仕業であることを告げていた。
そう、サフィルが書いたせいで大半が読めないのだが、なまじ一部が判読可能なため、意図せず見るものを酔わせる効果を発揮している。アールは呆然と見回しているうちに気分が悪くなってきて、とっさに口元を押さえた。
「私、実はこういう寄り集まったものが苦手で……うっ」
「わっ、今度こそちょっと待ってろよ」
言い置いて机に戻ると、サフィルはすみれ色のインクと使い古した筆をとり、あろうことか机のある壁面に直接何事かを書き付けはじめた。
「借りた部屋で何を……、うう」
「いいから見ないようにして黙ってろ」
曲がりなりにもお目付け役が、対象の奇行を見逃すわけにはいかない。アールは決して目を背けず、おかげでさらに目を疑うことになった。
辛抱して見守る筆跡はサフィルの悪筆を差し引いても見たことがない複雑な形をしていた。派手な落書きかと思いきや書き上がったその瞬間から外へ外へと這い広がって、手近な言葉から飲み込んでいく。言葉にも生存本能があるのか逃げる動きを見せるものもあったが、サフィルが書いた大食の呪文は触手をのばしさらに枝分かれして、まずは壁一面をくまなく平らげた。さらに天井と床、残りの壁三面まで舐めるように侵食しきったところで、ぱちんと音を立ててもとの大きさに跳ね戻った。ぴょんとひとつ飛び跳ねたのはげっぷの代わりか。見るからに上質な紙をサフィルが差し出すと、壁からぬるりと乗り移ってすっかりおとなしくなった。
紙上のものをのぞき、もうひとつの文字列も残されていない。部屋は何事もなかったかのように、ただ普通に散らかっているばかり。
「なんだい今のは」
まだ気持ち悪さが抜けず、かすれた声で尋ねるアールにサフィルは珍しく胸を張った。
「墓所の碑文があまりにうるさいんでな。黙らせる方法を編み出した」
お前とレインのおかげで発想の転換ができた、となぜか感謝されたが、アールにはまるで心当たりがない。
「明日にも行って試してみようと思うが」
「そう、それはよかった。私も報告があってね」
「レインのことだ」
「家の話なら聞かないぞ」
サフィルの返答は素早かった。アールは心の中で(この頑固者め)と毒づいて、しかし顔には出さずに別の提案をする。
「なら、私は気分が悪いからこのままここで休ませてもらうことにしよう。しばらくひとりごとをつぶやくかもしれないが、なかには大事な話もまじっているかもしれないが、どうぞお構いなく」
そう言って奥の寝台にどっかと腰を下ろす。サフィルも何かを察したようで、無理に追い出すことはしない。床に落ちた紙を拾い上げると、アールに背を向ける形で机に向かった。
「ある男の子の話だ」
アールはブーツを履いたままの足先をはみ出させて寝台に転がった。天井の木目を眺めながら、ぽつりぽつりと語りだす。
「界隈でも大きな商家に、赤ん坊でもひと目でそれとわかるような美しい子供が生まれた。金の髪と青い瞳をしていて、それはそれは愛らしかったという。しかし、家の者たちはこの誕生を手放しで喜ぶことができなかった。なぜか」
アールはそこで一度言葉を切ってひと呼吸置く。
「なぜなら、父親の髪は黒く、母親の髪は赤く、両親ともに青い瞳ではなかったからだ。とても珍しいことだが、まったくありえないわけではない。特に、古い家や商売に携わる家などは〈精霊の落し子〉と呼んで、吉兆のしるしとして大事に育てるならわしがある。ただ、この家の場合はすこし事情が違った。商いの規模がそこらの商人とは桁違いで人の出入りも多く、夫妻の婚姻も政略的な意味合いが強かった。とはいえ既に子を三人もうけていて、それなりに仲良くはやっていたんだ。四番目の子、三番目の男児が生まれるまでは。
仕事上の協力関係はうまくいっていたが、夫婦としての信頼関係は決して深くなかった。〈精霊の落し子〉などとおおらかに受け入れることはできず、互いが互いに対して疑心暗鬼に陥った。それでもまだ、その子が小さいうちはよかった。その愛らしさをただ愛でていられるあいだはよかったんだ。ただ、子どもはどんどん大きくなるからね。ほかの兄弟は小さいうちから見習いとして仕事に連れて行ったり、いわゆる跡継ぎ教育をしていくんだけれど、その子だけはずっとお飾りのまま。何ひとつ不自由なく育てられ、特に女性たちには大変可愛がられたが、家の仕事に関わることや、自ら進んでなにかに取り組もうとすると厳しく制限された」
少し間をあけて、ようやくふたたび口を開く。
「顔ばかりが麗しい、無用の三男。意志や意欲をみんな取り上げられた彼は、やがて陰でそう呼ばれるようになったという。無能、と言わないところが残酷だ。能力があるかどうかにかかわらず、用が無いと言われる。どんな気持ちがしただろうね」
アールの声色はいくらか湿って、サフィルも手元の紙を知らず握りしめていた。
「その彼が、いま墓所のなかでひとり奮闘している。〈精霊の落し子〉というのはおとぎ話ではなくてね、どうやら人でないものとの親和性がずいぶん高いようなんだ。と、ここまでが私の報告」
衣擦れの音がして振り返ると、寝台に身を起こした語り手の、アイスブルーの瞳がじっとこちらを見据えている。その膝の上で、小さなねずみが忙しなく毛づくろいをしていた。
「見たところ、力を合わせるには最高のタイミングだと思うけど。どうする」
「明日を待ってる場合じゃないな」
「そうこなくちゃ」
机に広げたままのインクをすべてかき集め、筆やペンの先は軽く拭って懐に収めた。さまざまなことが腑に落ちて、やがてめらめらと燃え上がる音を聞きながら、サフィルは部屋の扉を押し開けた。
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