4-2
とはいえ無策で日がな墓所に入り浸るというのも芸がない。聴こえないものを聴こえるようにするのか、それとも他のものを黙らせるべきか。サフィルの見立ては後者だった。
サフィルにとって言葉を〈読む〉ことと〈聴く〉ことはほぼ同義、目に入る文章はすべて頭の中で鳴り響く。書物に向き合うとき、人の話が聴こえなくなるのはおそらくそういうことだ。だから本の虫とか無愛想とか人嫌いとか言われるが、それで特に不自由したこともない。
目を閉じれば締め出せるかといえばそういうものでもなく、少なからず力をもつ言葉には気配がある。これがまたちくちくと肌を刺して鬱陶しい。サフィルの家では適当な書き付け程度のものはそのあたりに積んでおくが、本を開いたまま置いておくことは決してない。ざわざわと主張を続けて気の休まる暇がないからである。
したがって、あやふやな存在を聞き取るにあたり、王墓はサフィルにとって最悪の環境なのだった。
(どうしたもんか)
ウルラト滞在中、サフィルとレインは警備隊宿舎の部屋をそれぞれ貸し与えられた。マリスの他に何人かと顔合わせを済ませ、出入りの際にはそのうち一人を必ず伴うように言い渡されている。この数日、レインは用事があるといって頻繁に出かけていき、アールも調べ物があるとかで一度自邸に戻っていた。一人残され、サフィルはどこか釈然としない思いで自室の天井を見上げている。
聴き取れないことには解読できず、原因の探りようがない。墓所に刻まれた文句をみんな上書きして相殺してやろうと言ったのはなかば本気だったが、物量からいっても現実的ではない。もっと端的に、核心を突く手があるはずだ。
どんな相手も言葉をもつ限りは言葉で応じるのが流儀というもの。ならば己を置いて他にないと、サフィルは自負している。
レインが生み出した緑文字の蛇、アールの魔法と青い小鳥。風にのって人を惑わす言葉があるならば、言葉というのはもっと自由に遊ばせてやってもいいのかもしれない。
狭い部屋の壁際に作り付けられた小さな机に、愛用のインク壺と気まぐれに手に入れた変わり種のインク瓶をいくつか、筆やつけペンも持ってきたものはすべて並べ、紐で綴じた束から紙を一葉抜き取る。表面を撫でて落ち着かせると、サフィル自身の心も収まるべきところに収まった。
(若い頃に戻ったみたいだな)
いつもの筆といつものインク、それから一番手に馴染む古ウルラ文字で、まずは思いついた言葉を書き連ねる。
〈聴く〉〈書く〉〈読む〉
すみれ色のインクは銀の星を散らしながら紙の奥に沈む。
〈知る〉〈わかる〉〈私〉〈あなた〉〈理由〉〈過去〉
沈んで遠のいたと思うと、ふたたび浮かび上がってむずむず身震いする。ふるったように広がる銀の光は、窓明かりだけの薄暗い部屋を柔らかく照らした。
レインに与えた緑のインクを太字のつけペンにとって、〈走る〉を絡めてやると途端にいくつもの言葉が部屋のなかを駆け回りはじめた。みんなそれぞれに性格が違う。意味がたしかに振る舞いを規定している。そういえばそうだったと思い出す。こうした実験は久しくやっていなかったのだ。
これではレインを笑えない。歳は取りたくないものだと自嘲しつつ、残りの全てのインク瓶の蓋を開ける。
一方、レインはひとり墓所に潜ってひたすら声を聴いていた。
衛士たちのなかでもマリスは特別だったようで、警備隊の他の者は王墓に長く留まることに難色を示し、マリスが非番のときは時間を区切って交代してもらうことで長居を可能にした。サフィル本人でもないのに希望を通してくれるのか半信半疑で頼んだのだが、そのあたりは通達がよく行き届いているらしい。あれこれと策を練っていたレインが拍子抜けするほどにすんなり通った。なかにはレインの顔に反応する者もあり、家に対する忖度もあるのだろうと推察したがあえて無視した。そんなことはどうでもいいくらい、気が逸っている。
たまたま手を伸ばした表音文字の本、その齧りかけの知識がここで活きることになろうとは。
聴こえないのならば、文字で示せばいい。
話し言葉を即時書き取るのは難しい。おぼろな知識では手が間に合わず、その場で本のページを繰って端から頭に叩き込む。音と文字がすんなり結びつくようになっても書きつけは試行錯誤が山をなし、見かねた衛士たちがよそから都合してきてくれる有様。
まるで同じではないにしろ、繰り返し、繰り返し。高く細く吠える風にかすれる〈顔のない女〉の声は、どうも一人ではないようだ。それぞれが競うようになにかを吹き込もうとしている。
(俺がやれることをやろう)
泥臭いが、確実に前へ進んでいる手応えがあった。サフィルに相談すればもっと早いのかもしれないが、咎められ止められるのが怖かった。
『あなたはそんなことしなくていいの』
幼い頃から聞かされてきた〈無用〉の烙印は、そう簡単に消えるものではない。
できる喜びはレインを突き動かす。ただ、初めて手にした輝きに目がくらんで、なにか異質なものが彼の中で形をとりはじめたことには、まだ気づいていない。
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