3-3

 はじめ、サフィルは依頼を受けるのに大変な難色を示した。

「それは退魔士の仕事だろう、僕に持ってくるな」

「退魔士じゃ解決にならないからきみのところに来たんだけどね」

 この件についてはアールも手を焼いているようで、ごねるサフィルに対しいくらか疲れた様子を見せた。とっとと他人に投げてしまいたいというのが本音なのだ。

 ――顔のない女。

 宮都の人々を騒がす怪現象は、いつしかそう呼ばれるようになった。

 夜回りの衛士に執拗にまとわりつく女の声。言葉の体を為していることは韻律から間違いないようだが、異国のものらしくまったく意味が通じない。なにかを訴えるような哀切な響きが耳から離れずに心身を病む者はあとを絶たず、足りない人員をよその部隊から借りる事態となった。一人だといっそう耐え難いとのことから巡回は二人制が徹底され、さらなる人手不足をまねく。内々に処理するはずが噂は野火のように燃え広がり、警備隊のみならず王家に連なる人物の不貞を疑う声まで聞こえてくるようになった。

 人の口に戸は立てられず、正体不明なものを説明することもまた難しい。

 ひと月の混乱を経てようやく、サフィルに白羽の矢が立ったのだ。

「まったく、ずいぶん時間がかかったもんだな」

 王都へ向かう列車のなか、箱型に向かい合わせた座席にだらりと身を預けたサフィルが皮肉をこぼした。隣で行儀よく膝を揃えたレインは毛織の外套を纏って目深にフードを被り、共通表音文字の参考書に目を落としている。向かいのアールは旅装も変わらず白ずくめで異様な存在感を放っているが、車内の他の客もじきに慣れたようだった。

「きみはもうすこし過去の行いを省みるべきだと思うよ」

「一体いつの話だ。連中の器が小さすぎる」

 道中の護衛という名目で同行するアールになかば連行される形になり、サフィルのへそは曲がったきりだ。心の拠りどころであるタタンはエンマのもとに預けるほかなく、代わりに連れてきたレインは列車が進むほどに落ち着きをなくしている。内容が基礎的なこともあり、手にした本は見たところすでに三周目だ。車内の空気は間違っても穏やかとはいい難かった。

「過去の行いって、何やったんですか」

「知りたいかい?」

「僕は寝るからな」

 すっかりむくれて膝に頭を埋めてしまったサフィルを横目に、アールはわずかに声を落とした。レインも身を乗り出して耳を傾ける。

「彼はむかし、宮殿で盗みを働いてね」

「えっ」

 期待通りのレインの反応に、アールの薄い唇が弧を描く。

「王立書庫の奥深くに眠る、特級有害図書。いわゆる禁書だね。封じられた呪術とその歴史について記されたもので、古いうえ特殊な言葉で書かれているから持ち出したところでほとんど意味を成さないんだけど」

 そこで言葉を切った理由を、レインはすぐに察した。南洋の瞳が明るく輝く。

「なるほど」

「そう、彼なら容易に解読してしまう」

 頷くアールもなぜか楽しそうだ。もともと白い肌にうっすらと赤みがさした。

「正式な手続きを踏んで入室したならまだよかったんだけど、ほら彼、字があれだろう。何度か書類を突き返されて業を煮やして、結局無断で侵入した。で、出てきたところを捕まえたのが私だったというわけ」

「ええー」

 のけぞるレインにアールは今度こそ喉を鳴らして笑った。煤色の塊と化したサフィルの足先がぴくりと動く。

 サフィルほど言語の蒐集に執着し、自在に操る能力をもつ者は少なくとも国の中枢にはいない。支配下にあれば有能な人材、制御不能ならば危険人物。さんざん尋問した結果、王室警備隊は彼を「制御不能だが害意なし」と判定し、要観察として首輪付きで解放することにしたのだ。出入り禁止はそのとき課された数多の代償のうちのひとつである。

「あの頃は私もまだ下っ端だったからね。面倒事を押し付けられるのは下っ端の宿命だ」

 そこまで言うとレインの目の前に手を出して強く握った。漏れ出す光に血の色が赤く透けて、アイスブルーに映り込んだと思うと、ふわりと膨らますように開いてみせる。

「ツピ!」

 てのひらの上、ひとしきり羽ばたいたのはいつかの青い小鳥だ。つぶらな瞳にきらめく生意気さは忘れようもなく、レインは思わず苦笑いを漏らす。アールが二言三言耳打ちすると、小鳥は再び「ツピピ!」と囀って窓の外へ飛び立っていった。

「このとおり、使う魔法が見張りや間諜に向いていることもあって、私が首輪の役目を仰せつかることになった。以来、私と彼のあいだには法律上切っても切れない因縁があるのさ」

「まったく、いい迷惑だ」

 隅のかたまりが身じろぎして、三日月の如きサフィルの目がぎらりとのぞいた。

「やっぱり起きてた」

「こんな状況で寝れるか」

「寝てなよ、話しにくいじゃないか」

「お前な」

 話しにくいと言いながらアールに黙るつもりはないようで、憤慨するサフィルを差し置いて「でもまあ」と続ける。

「あのとききみを解放した上の判断は正しかったね。我々魔法士もいまや職能は細分化されて、古今東西、魔術言語から一般言語までひろく俯瞰できる人間も失われて久しい。今回のことは、きみみたいな存在の有用性をひろく知らしめるいい機会になるだろう」

 だから、とアールはレインのフードをそっとめくった。

「きみもよく見ておくといい。力にはいろいろあって、その使い方もいろいろだ。蓄えた力が道を切り拓いていくさまは、きっときみの励みになるよ」

 かち合った視線はレインの心を震わせる。そっぽを向いたままのサフィルがふっと笑う気配がした。

「妙なところで世話焼きだよな」

「妙じゃなくて私はいつだって慈愛に満ちているよ。あのとききみを任されたのが私だったことをもっと感謝するんだね」

「やだよ」

 おじさん二人が言い合う間に、車窓から流れ込む風のにおいが変わった。遠くに白亜の塔の群れ、王都はもう間もなくだ。

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