2-2
「着きましたよ」
促されて顔を上げたサフィルがやっと自分の足で立つと、レインは貸していた肩をはずしてぐるりと回した。
「たしかに妙な気配がするな」
「そうなんですか?」
なにがそんなに嬉しいのか瞳を輝かせたレインを一瞥して、ため息をひとつ。サフィルは改めて、怪異が続くという邸のなかを見回した。どんな成金屋敷かと思えば、意外に落ち着いた調度でかんじは悪くない。全体に象牙色を基調とし、ところどころにあしらわれた浮き彫り細工は艶消しの金、明かりとりから差し込む陽射しに鈍く光る。それだけでもずいぶん手間がかかっていそうだが、かと思えば足元に敷かれた毛織物に壁掛けの花入れ、素朴な風合いのものを配置する遊び心もあって、見栄よりも居心地を大切にしているのが素人目にもよくわかる。
なのになんだろう、この違和感は。
サフィルが首を傾げる隣で、レインもいくらか緊張しながら周囲に目を配っていた。度重なる不幸は本当に呪いのなせるわざなのか、もしそうならどこに潜んでいるのか。あわよくば己の目で見つけてみたかった。なかば強引にサフィルを連れてきたのは実際に彼の仕事ぶりを見たいからだ。なにせ、あくまで居候のレインが〈現場〉に同行するのはこれが初めてのことなのである。
使用人の導きで二人が客間に通されると、しばらくして機嫌な鼻歌とともに老婦人が再登場した。ふかふかの長椅子に並んで腰掛け、香りの良いお茶を振る舞われて一服。猫舌らしくふうふうと息を吹きかけるレインを、屋敷の主人は向かいで嬉しそうに見守る。
はて、何をしに来たんだったか。そう思わないでもないが、サフィルとて好きで連れてこられたわけではない。この場はレインに任せて楽をしようと背もたれに身を沈めると、察しのいいレインが早々に口火を切った。
「ところで奥様、呪いとおっしゃる件についてなんですけども」
「奥様なんてやだわ、リアナとお呼びになって」
レインの笑顔が一瞬固まり、サフィルは噴き出しそうになってむせた。それでもレインの肝の据わりようは大したもので、流れをそのままに話を続ける。
「では、リアナ。事故が起きた場所をくわしく教えてもらえませんか」
ふくふくと嬉しそうな笑みを満面に浮かべ、しかしリアナは当時の状況を正確に把握していた。我が身かわいさはもちろんのことだが、使用人や客人にこれ以上なにかあってはいけないと事故後の点検修理は入念に行ったらしい。業者に依頼した際の書類もしっかり残っており、物理的には何の異状もないことがはっきりしている。
それでも、小さな不幸は続いた。
「だんだん、おそろしくなってしまって……」
さきほどまでの楽しそうな様子はどこへやら。表情を曇らせたリアナが年齢相応に小さく見えて、サフィルのなけなしの良心がちくりと痛んだ。
一方、リアナの許しを得て、書類をたよりに事故現場をたどっていたレインはあることに気づいた。
書類には、当時の現場の様子以外に被害者の証言も書き残されている。庭師、料理人、給仕係、小間使いに出入りの納品業者まで、直前の行動経路を再現してみると、次第に既視感を覚えるようになったのだ。
(ここ、さっきも通ったな)
玄関ホールから中庭に向かう細い廊下。厨房や水場が集められた一角なので使用人の行き来が激しいのは当たり前なのだが、それにしても。
事故の直前、全員がかならず同じ場所を通っている。
レインは数々の悪戯、もとい実験で試したから身を以て知っている。どんなに強力な術だとしても、なんらかの方法で対象に接触しなければ作用することはないのだ。
「先生、ちょっと」
「む、先生って僕のことか」
サフィルとレイン。家主と居候の関係で、お互いしかいないときは特別名前で呼び合うこともない。適当にリアナの話し相手をしていたサフィルがぎょっとして振り返ると、レインが神妙な顔で頷いた。どうやらなにか見つけたらしい。
お茶の分くらいは働かねばなるまい。すっかり根の生えてしまった腰を上げて、呼び寄せられるままあとに続く。
「なにか仕掛けられてるとすれば、このへんだと思うんですけど」
「なるほどな」
サフィルは示された場所を行き来して、己の違和感の正体を探った。明るい玄関ホールから暗い通路に入ると目が眩む。逆もまた然り。そのせいで手元が狂うことはなくもないだろうが、それではここ最近に事故が集中している理由の説明はつかない。
ならば。
やおらしゃがみこんで片膝をつき、低い姿勢から周囲を見上げ、床を見渡す。間近で観察すると、よく磨かれた床面も経年には逆らえず、人通りの多い箇所だけわずかに摩耗している。厚みのある毛織物なら、へこみがなおさら目立つもの。
「ひっ」
そばで様子を窺っていたリアナが口元を覆ってあとずさる。
サフィルが何気なくめくった敷布に縫い込まれた文字は怨嗟に満ちていた。使われているのは普通の糸だけではなく、どうやら人間の髪の毛も混じっているようだ。真っ黒な細い線が縫い目に絡み、また束になっていっそう禍々しい。
「これだな!」
それまでの淀んだ表情から一転、サフィルの声が弾む。毛織の敷布を勢いよく裏返すと、その角にびっしりと埋め込まれた呪いの全容が明らかになった。目を輝かせて解読しはじめたサフィルに代わり、レインは青ざめたリアナに問いかける。
「この敷物はどちらで?」
「知人から譲り受けたものですが……」
正直、来歴はどうでもよかった。見る間にサフィルの筆が走り出す。すみれ色の軌跡は夜空の色に沈み、ひねった穂先からばちばちと星が散る。
どんな呪いも言葉である限りは対語が存在する。あらゆる言語に通じていれば、全て相殺できるのだ。筆だって市販の品で十分。しかし。
レインは嬉々として文字の上に這いつくばるサフィルに小声で耳打ちする。
「いま、文字を書いてるんすよね」
「決まってるだろう」
「なんというか、他の追随を許さない独特さで」
「やかましい」
魔法使いサフィル。彼の術は破ること能わず、ゆえに無敵を誇る。
街で耳にした、サフィルを持ち上げる謳い文句である。今まさに目の前で綴られる軌跡を追いながら、レインは「なるほど」と呟いた。
縫い込まれたほうの文字は、その並びこそレインには理解できないがところどころに見覚えがあり、文字だとはっきり判別できる。ところが、サフィルの筆跡は意図して描かれたなにものかであること以外、なにもわからない。
はっきり言おう。
とんでもない悪筆である。
ひととおり上書きを終えたサフィルが体をよける。たっぷりと染み込んだはずのすみれ色のインクは淡く薄まり、縫い込まれていた糸や髪の毛は切れてほつれて散り散りになっていた。
「まあ、これでしばらくは問題ないでしょう」
この言葉に、リアナはほっとした様子で胸をなでおろした。するといくらか元気を取り戻して、ううんと身体を伸ばすサフィルに疑問を投げかける。
「結局あれはなんだったの」
「ああ、あれは古ラナ語に我々が使う現代語を混ぜたもので、古ラナ語っていうのは」
「先生、リアナが言ってるのはそういうことじゃないと思いますけど」
レインの指摘に「む」と眉を顰め、行き場を失ったサフィルの勢いはため息に変わる。
「人の平衡感覚を狂わせるのと、意識を一瞬途切れさせるのと、まあそういう、嫌がらせの詰合せみたいな文句がずらりと」
「まあ」
「髪の毛ってなんか意味あるんですか」
便乗してレインも質問すると、サフィルはあからさまに嫌そうな顔をした。なにか言いにくい悪質なものなのではと身構えたが、彼は「意味はない。あれもただの嫌がらせだろう」とあっさり一蹴する。
「ただひたすらに不衛生なだけ、そういう意味では嫌がらせ大成功だ。ちゃんと取り除くか、いずれ敷物ごと燃してしまったほうがいいでしょうな。ああ、処分する場合はひと月以上経ってからで。ひとまず、このまま」
後半はリアナに向けた助言だ。彼女は胸の前に手を組んで、大真面目に受け止めた。
「それにしても、一体誰がこんなこと」
「それは専門外なんで知りませんがね。まあ、徹底してやり返したのでもう大丈夫です」
「はあよかった。ありがとうございます」
「いえいえ、それなりに楽しませてもらいました」
ひひ、と声を漏らすサフィルは生来の人相の悪さもあって、とても善行をなしたようには見えなかった。
心ばかり、という言葉に反して分厚い謝礼を受け取った帰り道、レインはもうひとつ気になっていたことを訊いてみた。
「なんでひと月以上置いとくように言ったんですか?」
「ん?」
「普通は早く処分したがるもんだと思うんですが。気持ち悪いし」
「気持ち悪かったなあ」
ははは、とサフィルが上げた笑い声はどこか悪役じみている。
「気持ち悪かったから、仕掛けたやつにちょっと痛い目みてもらおうと思ってな。二言三言、書き加えてきた。犯人が身内なら、ひと月もあれば絶対に引っかかるだろう」
「ええ……陰険……」
「やかましい」
機嫌を損ねたふうでもなく、サフィルがレインに見せる表情はこれまでよりもいくらか気安く見えた。謎の多い家主のいつもと違う面を知ることができたから、無理にでも引っ張り出したのは正解だったのだ。
「でもまあ、見直したぞ」
「何がです」
「ただの女たらしかと思ったら、度胸があって聞き上手。僕のところでふらふらしているより、商人にでもなるといい」
ぎくりとした。いい加減なようでいて、サフィルは人のことをよく見ている。
「……血は争えないってことですかね」
「なにか言ったか」
「いえ」
その後、買い物をすませたのち予定通りエンマの見舞いに訪れた。彼女は二人の手を握りしめて泣いて喜んだが、「今日はよくよく老人に好かれる日だな」とサフィルがこぼすと光の速さで怒りだし、おかげで治りかけの腰痛がまたぶりかえしてしまったのだった。
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