Case.2 ありふれた呪詛
2-1
「お願いします、魔法使いさま!」
「いや僕はそんな大層なもんじゃ……」
珍しく街に出てみればこれだ。見知らぬご婦人に縋られて、サフィルは弱りきっていた。いつも家のことを手伝ってくれるエンマが腰痛で動けないと孫娘が知らせに来たのが今朝方のこと、ならばと様子見ついでに買い物にきたのがまずかった。
いや、べつにまずいってことはないだろう。買い物くらい普通にさせてくれ。
昼前の市場は大勢の人でにぎわっていて、大雑把に積まれた野菜の彩り眩しく、魚の目はまだ透き通って美しい。飲み食いを提供する見世はどこも書き入れ時に向けてがしゃがしゃと支度の真っ最中、ゆったり過ごしているのは盤を囲んで煙をくゆらす老人たちくらいで、どこもかしこも忙しない。こんなところで足を止めては迷惑だろう、一刻も早くその場を立ち去りたかったが、いくつも指輪のはまった太い指は頑としてサフィルの腕を離さなかった。目当ての燻製肉はもう目前だというのに、彼女が香辛料の見世の前で裾をはためかせるものだからさきほどからくしゃみが出そうで仕方がない。
そもそも、サフィルは己が魔法使いだなどとは微塵も思っていない。人より多くの言語とその作用に明るいだけで、サフィル自身になにか不思議な力が宿るわけではないからだ。不思議があるとすれば言葉そのものであって、己はその奥深さに魅せられた一介の学者にすぎない。
というのはあくまで本人の弁である。あらゆる言語をしらみつぶしに習得し、あまつさえ自在に操るというのはそれだけで非凡な能力であり、市井の人々からすれば魔法以外のなにものでもない。聞いたこともない言語というのは呪文のようなものだ。野放図に伸び散らかした煤色の髪に人好きのしない性格、身なりにかまわず纏うものはいつも襤褸同然ということもあいまって、サフィルは本人が思う以上に魔法使いとしての地位を確立しつつあった。
「家の者が火傷を負ったり、階段から落ちたりして」
「それはまあお気の毒で」
「誰かが呪いを差し向けたに違いないと」
「いやあ偶然が重なっただけでは」
「明日は我が身かと思うともうおそろしくて」
「ははあ」
結局は自分の心配かい、と思ったが発するのは乾いた笑いのみにとどめた。呪いまじない祈祷の類はこの国の日常に深く根を下ろしており、その道を生業とする者も山と存在するが、サフィルは祓い屋でもなければ便利屋でもない。のらりくらりと返事をしながら、なんとかこの場を切り抜けられないかと掴まれた腕の処遇を考えていると、「あれ」とよく見知った顔がこちらを向いた。
「なにしてるんですかこんなところで」
「……なにしてるんだろうな」
目立つ金髪をうまいこと覆い隠しているが、毎日見ているこいつの顔を見間違えようはずもない。かたわらで「ほわあ」とため息が漏れて、サフィルはげんなりと肩を落とした。レインが魅了する相手は老いも若きも問わないらしい。まったく罪作りな男だ。
一方、他人から向けられる熱視線にすっかり慣れきっているレインは、裕福そうな女性と腕を組んだ格好の家主を見て、形のよい眉をひょいと上げた。
「あっ、俺お邪魔ですねそれじゃあ」
「まてまてまてお前と一緒にするな」
サフィルは必死の思いでレインの腕を捕まえて事情を説明した。逢引の最中などと勘違いされてはたまらないし、うまく逃げ出すよい口実になると思ったのだ。
ところが。
「見に行くだけ行って差し上げたらいいじゃないですか」
「は」
レインは極上の笑みを浮かべ、「ねえ」と請け合った。向けられた笑顔の破壊力に、ご婦人はいまにも昇天しそうな様子。さすがにまだ早いだろう、サフィルは掴まれた腕をひと振りして彼女を此岸に引き戻す。
「なんと親切なかたなんでしょう。もしかして天使でいらっしゃる?」
「はは、まさか。だったらこうしてお会いすることもなかったでしょう」
「まあ」
歯の浮きそうな褒め言葉にもまるで動じないところがまた憎らしい。
逃げ出すどころかさらに絡め取られてしまい、サフィルは両脇を固められ連行される形で婦人宅に向かうこととなった。顔を顰めすぎてもはや目も開かない。次に目を開けたとき、心安らぐ我が家にいたならばどんなにいいかと詮無いことを思い巡らしながら、ざりざりと地面を引きずる己の足先の音を聞く。
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