呪いの国の悪筆賢者

草群 鶏

Case.1 若葉色の闖入者

1-1

 右目のはしに動く影を見て、サフィルは思わず眉を寄せた。星明かりの冴える晩秋、山裾に構えた石造りのすまいは冷気の底にひっそりと沈んで、居間にひとつきり灯した明かりが長い影をちらつかせている。書棚から溢れ出し積み上がる書物に紙束、この部屋には闖入者が逃げ隠れする場所など山ほどあるが、すくなくとも相手が生き物であれば愛猫タタンの警戒が行き届いているはず。嫌な予感に頭をかき回すと、煤けてぼさぼさの髪はさらに跳ねて散らかった。

 ソファから用心深く身を起こし、読みかけの本は開いたまま伏せた。どこを見るともなくじっと様子を窺っていると、ふたたびひょろひょろと動くものがある。向こうもこちらを気にしているようで、書物の塔、食卓の脚、物陰に絡みつきながら近寄ってくる。時折明るみによぎる姿は清新たる若葉色に金粉の軌跡をまとっており、サフィルは予想がぴたりと的中したことを知った。嬉しくもなんともない。

 若葉色の長虫を視界に捉えたまま、雑然とした卓上を片手で探る。しっとりとした重み、指に吸い付くような緻密さ。いくらか端がよれてしまっているが問題ない。まっさらな石質紙を足元に差し出し、誘うようにふらふらと揺らす。

 かれらの性は上質な紙には抗えない。顔を出したところへ紙端を沿わせ、頃合いをみて掬い上げる。すると、乗り上げた影はしゅるしゅると渦巻いて平たい檻に封じ込められた。四辺にごつんごつんと体をぶつけるものの、そのたび小さな星が散るばかり。もう逃げることは叶わない。

 長虫の正体は、特別なインクで綴られた文字の並び。その流麗な筆致にサフィルの表情は苦々しく歪む。

「おのれ小僧……」

 苛立ちまじりに紙を弾くと金の煌めきがひときわ派手にあたりをまぶして、文字はびりりと縮こまる。それでいくらか溜飲を下げて、サフィルは心当たりの人物のもとへと向かった。


「おい」

 予告もなしに扉を開け放つと、飴色を帯びた金髪が大げさに跳ねた。なめらかな頬、形よく通った鼻梁、なみだぼくろと金の睫毛にふちどられた碧い瞳が順にのぞいて、やがてあらわれた表情はしかし気まずさでくちゃくちゃになっていた。せっかくの美貌が台無しだが、サフィルは他人の容貌など端から興味はない。己の日々の平穏のほうがはるかに重大事である。

「こりゃなんだ」

 手にした紙を顔の横に持ち上げてひらひらさせると、囚われの文字はますます縮んでぶるぶると震え、青年の持つ筆からは若葉色のインクがぱたりと落ちた。

「すいません、思ったより元気がよくて……」

 案の定だ。

(まさかここまでやるとは)

 驚き半分、呆れが半分。サフィルはため息をつきながら青年を睨みつけた。持ち前の三白眼がぎらりと光り、青年が細く息を吸い込むのが聞こえる。実はそれほど怒っていないのだが、こういうことは始めが肝心と決まっている。

 レインはサフィルがひょんなことから拾った、というより押しかけられて仕方なく置いてやっている居候だ。さすがに、往来で女に刺されそうになっているところを放っておくわけにもいくまい。他に頼るところがないというので、ほとぼりが冷めるまでという約束で連れ帰ったのだ。

 ところが匿ってもうすぐひと月、一向に出ていく気配がないどころかここでの暮らしにすっかり馴染んでしまった。サフィルの生業に興味を示して譲らず、渋々与えた道具と少々の手ほどきで初歩をするりと飲み込んでしまうと、以降はもうやりたい放題である。そして、書いた文字に命が宿った結果がいまサフィルの手元にある。

 レインはとにかく筋が良い。適当に選んでやったインクとも相性がよかったらしい。サフィルは内心で己の見立ての正確さを呪った。

 やってのけたのは走り回る文字ばかりではない。筆跡を光で投影して遠くのものに作用させてみたり(おかげで庭の一角がしばらくのあいだ虹色に光り輝いた)、椅子の各部に役割を与えて自分は馬だと思い込ませたり(気がついたときにはサフィルは隣町にいた)、良く言えば好奇心旺盛で柔軟、悪く言えば視野狭窄のはた迷惑。レインが悪戯のかぎりを尽くすため、普段めったに大声を出さないサフィルの喉はそろそろ限界を迎えようとしている。

 きっと本人は悪戯だとは思っていないのだろう。新しくできるようになったことが楽しくて仕方ないのだ。身なりからも、慣れた筆さばきや美しい筆跡からも育ちの良さが見て取れるものの、家事は妙に手慣れているし、熱中するさまはまるでこどものよう。見るからにただの女たらしだと思っていたが、知れば知るほどどうにも印象がちぐはぐで、サフィルは図らずも興味を惹かれ始めていた。


 ありとあらゆる言語を紐解き操る、言の葉の魔術師。


 人はサフィルをそう呼ぶ。世の中の興味深い事柄はあらかた浚い尽くしたように思っていたが、レインはなかなかに観察の余地があり、みどころがある。これは面白い拾い物をしたかもしれない。

 固まったままの手から筆を取り上げて脳天に拳骨をひとつお見舞いすると、「やるなら部屋のなかにおさめるんだな。次はないぞ」とだけ告げて手打ちとする。ぽかんと口を開けた間抜け面に奥歯で笑いを噛み殺しながら、サフィルはレインに貸し与えた部屋をあとにした。

 こんなに愉快なのは久しぶりだ。まるで見知らぬ文字に出会ったときのように足取りが弾む。年甲斐のなさにさらに笑いが込み上げて、あえて足を踏み鳴らしながら階段を降りると、驚いたタタンの茶色い尻尾がぴゅうと横切った。

 きっとレインは遠ざかる足音に耳を澄ませ、結局またこっそりと〈悪戯〉に戻るのだろう。想像した姿に己の若い頃が重なって、サフィルはまたしてもぼさぼさ頭に手を突っ込むのだった。

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