5.

 結局、記憶を解凍する勇気の出ぬままオフィスへ帰還。間もなくしてパトロールの時間になった。A-15エリアに集まるいつもの顔ぶれ。他のサテライトチームと異なり、厳格な取り締まりを良しとしない私たちを邪険にする人は少ない。気まぐれにパトロールルートで待ち構え、話しかけてくる人もいれば、悩み相談をしてくる人も。私たちの間の階級など透明に等しかった。

 だが、三年前までの私は、遠い街の規律正しいチームに所属しており、現状と全く異質な在り方だったことを記憶している。



***



 学生だったあの頃。慣れたはずの校内で、危うく迷子になりかけていた。

「護英くん、こっちだよ」

 美術室から半身を覗かせ手を振る虹階。そちらに近づくにつれ濃度を増す絵の具の香り。絵心など無かったが、不思議と筆を取りたくなる香りだ。

「ごめん、遅れた」

「大丈夫。急いでないし、他に誰もいないしね」

 こちらを振り返る虹階はどこか楽しげ。あちこち絵の具の雫が跳ねたエプロンが、一つの芸術に見えた。

 開け放たれた窓辺に、イーゼルが一つ佇んでいる。わざと隠すようにキャンバスの前に立ち、虹階は背中越しに言った。

「今度の文化祭で、美術部の展示スペースを設けることになってね。そこに飾る予定なんだ。あまり自信はないんだけど……」

 視界が開け、そこに広がる満天の星。天の川を切り取ったような夜空には、流れ星も煌めいている。虹階の描く夜の色は温かみがあって、繊細で、そしてなにより。

「この色使い良いな。虹階みたいだ」

「えっと、僕みたい?」

「ああ。優しい。虹階らしくて良い絵だな」

「……それは……護英くんのおかげだよ」

「俺? 何かしたっけ?」

「うん」

「そうか」


 結局文化祭は台風の影響で中止になり、虹階の夜空は人目に触れることなく姿を潜めた。のちに聞いたところによると、自宅に持ち帰ったと言っていた。

「僕の部屋に飾ってる。ずっと一緒にいたいから」



***



 大学卒業後は会う理由を見つけられず、仕事の忙しさもあいまって疎遠になった。もともと四六時中共に過ごすような仲ではなく、所謂付かず離れずの関係性。いつしか思い出すこともしなくなっていた。


 仕事にも慣れて、いよいよ部下を迎えたとある初夏。自宅のポストにはがきが届いていた。ぱっと目を通すと七夕をテーマにしたアートの展覧会の案内で、ただのチラシかと思ったけれど、端に見覚えのある手書き文字があった。

『元気にしていますか?』

 添えられたイラストも、色味から差出人自らが描いたものとわかった。すぐさま手帳に予定を入れた。だが当時の私は多忙を極め、気づけば八月。会期をとうの昔に過ぎていた。

 ひとこと謝りたい。しかし電話もメールも繋がらず、試しに展覧会主催者に連絡したものの個人情報保護を理由に何も掴めなかった。学生時代の友達もあたったけれど、誰も何も知らないという。嫌な予感がした。苦肉の策で、親族と偽り職場を尋ねた。


 挨拶をするなり担当者は言った。

「なるほど。やはりそうでしたか」

「どういうことでしょう。まだ何もご説明していませんが」

「その独特のネームタグを見れば十分ですよ。サテライトでいらっしゃるのですね。結論から申し上げると、虹階は先月末付けで退職しております。自己都合退職となっておりますが、その実、そちらへ逃げたということでしょう」

「仰っている意味がよく分かりませんが」

「では単刀直入に言いましょう。虹階はここで自らの未熟さを目の当たりにし、それを忘れるためベースになったのではないですか。これを逃げるという他にありますか」

「お言葉ですが、その未熟とする判断は正しいものだったのでしょうか」

「正しいも何も、ここは一流の人材が集まる場所。努力を怠る者は必然的に淘汰されていきます。変化し続ける社会に貢献するには、自らも変化し一流を維持し続けることが責務です。一方で自らの才能の限界を把握することもまた、社会貢献ですよね。何事も、適材適所ですよ」

 そしてその場を後にした。担当者の、虹階にはあの事務所が分不相応でベースこそが在るべき居場所とでも言いたそうな顔が頭を離れない。

 同時に、自分を強く責め立てた。あの手紙は虹階からのSOSだったに違いない。それなのに単なるお誘いと受け止めた挙句、機会を逃して。

 完全に八方塞がりになった。その時はまだ事実を知らず、虹階がベースを選ぶようには思えなかったが、同様にベース化の履歴を追うことも不可能だった。ベースへ帰属する前の個人名とベースIDは紐づいていない。それが、サテライトの個人的感情で癒着せず監督者としての立場を堅く守るための規則だった。


「何のための俺なんだよ」


 君の手を振り切るような真似をしてごめん。これこそが、全てを捨て去りたくなる気持ちだとわかった。いっそのこと追いかけて、共にベースになろうとも考えた。だが、もし君が既にそこにいたら、互いを認識できなくなってしまう。何も、伝えられなくなってしまう。

 だからごめん。俺はこのまま、後悔の助けを借りて君を探す。


 三年前のその日から、俺は俺をやめて私になった。

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