武蔵野アンダードレーン
美崎あらた
武蔵野アンダードレーン
「君には少しばかり昔の武蔵野が見えているらしい」
たいへんな美人のお姉さんはそう言った。
「むさしのって?」
ぼくは聞く。
「昔々、ここ東京から埼玉のあたりまで、ずっとつづく原野だったの」
大都会東京にも昔の風景がある。それはそうだ。ぼくはお姉さんに認めてほしくて、わかったような顔をする。
「みんなには見えないの?」
「みんなには見えない。ふつうは今を見るだけで精一杯だもの」
「ぼくはふつうじゃないということ?」
「どうだろう」
「ふつうじゃなくなったら、ここに連れてこられるの?」
「そう……かもね」
そこは大きな病院だった。敷地内に昔の患者さんたちが作ったという池がある。
「おーい、どこにいるの?」
その時、母がぼくを探す声が聞こえた。
「ぼく、行かなきゃ」
お姉さんはにっこり笑う。
「私は早苗。また会いましょうね」
小学一年生の頃、マンションの入り口で、ぼくはウシさんと出くわした。牛乳パックのイラストにあるような白と黒のホルスタインではなく、茶色っぽいジャージー牛という種類だった。
京王線桜上水駅から徒歩数分のところにある、緩やかな丘の上に立つマンション群。もちろん2022年の東京都世田谷区のマンションに乳牛がうろつくはずもないことはわかっていたが、見えてしまっているものは仕方がないと論理的に考えて、ぼくは母に相談した。ぼくは普段からたいへん利口な小学一年生であったから、母は大層心配して病院へ連れて行ってくれたのだった。
診断の結果、ぼくの目も脳もいたって正常だということがわかった。だからぼくは、その後なにが見えたとしても、いちいち報告することをやめた。母を余計に心配させることは望むところではなかった。
「そこには60年くらい前まで、たしかに牧場があったの」
早苗さんは、懐かしむようにそう言った。それでぼくの目が、過去の武蔵野を見ているという説が浮上したのだ。早苗さんは看護師さんではなく患者さんのようだったが、その診断がいちばん納得のいくものだった。
それから5年の歳月が過ぎ、ぼくは小学六年生になった。あれからずっと、ぼくは早苗さんに会っていない。
一学期の終業式が終わり、明日から夏休みだった。
本当は通学路ではないからいけないことなのだけれど、ぼくはなんだか遠回りがしたい気分になって、車止めのある小道を進んだ。近くにある区立中学校と私立高校の間にある、静かな小道。ほとんど人とすれ違うこともない。右手の私立高校から「イチニサンシ」「ゴロクシチハチ」という準備体操の掛け声が聞こえる。「ゴロクシチハチ」チームの方がやけに重低音だな……なんてことを考えていたら、足元の変化に気が付いた。
見れば、足元の地面が透けて、そこに魚が泳いでいるのだ。
「ウシさんの次はサカナさんか……」
落ち着き払ってランドセルから『水の生き物ポケット図鑑』を取り出す。夏休みの自由研究に備えて図書館で借りてきた図鑑シリーズの一つだ。
「ドジョウ、ナマズ……これはフナか?」
幸い周囲には誰もいないので、じっくりと観察する。
「よし」
ランドセルを背負いなおし、魚たちの後を追って歩き始める。泳いでいる様子を見るに、彼らは流れに逆らって遡上しているようだった。知的好奇心が刺激され、ぼくも水源を目指そうという気になった。
車に気を付けて大きな道を横切り、今度は大学の脇を通り抜ける。その後は都営アパートの南側に沿った緑道となる。おそらくぼくにだけ見えているこの小川は、現実の緑に沿って流れている。この目が過去ここにいた生き物を見られるというのであれば、この小道は昔小川だったということになる。
やがて何の変哲もない住宅街となって、魚の影がなければ川の痕跡を見失ってしまいそうになる。そこで顔を上げると、ふいに緑をたたえた公園が現れる。
「少年、また会ったね」
公園の中に入っていくと、柵の向こうになんだか懐かしい感じのする池があった。
「五年も前に一度だけ会った小学一年生を、覚えてくれていたんですか?」
小学一年生から六年生までの五年間だから、ずいぶんぼくの背も伸びたはずだが。
「呼んだのは私だからね」
夢にまで見た早苗さんが、柵の向こう側、池のほとりに立っていた。
「呼んだ?」
「君がたどってきたのは、暗渠だよ」
「あんきょって?」
「地下に埋設された水路。かつてこの池から北沢川という川が流れていたんだよ」
「呼んだということは、何かご用事が?」
「話が早いね……君に頼みがあるの」
「ぼくにできることなら」
「君が今たどってきた北沢川だけど、この池の他にも水源がある。それを突き止めてほしいの」
「……どうして?」
「君なら、みんなには見えない過去の痕跡が見えるだろうから」
「そうじゃなくて、どうして水源を突き止めたいの?」
「それは……どうしてだろう」
「そんなに気になるなら――」
――いっしょに行きましょう、と言いかけてやめた。おそらくお姉さんは、ここから出られないのだ。
「ん?」
「いいえ、なんでもないです。ちょっと家に帰って計画を練ってみます。どうせ夏休み他にやることもないし、自由研究にちょうどいいかもしれません」
「たのんだよ、少年」
ぼくはそれから、毎朝散歩に行くと言って暗渠をたどり、例の池へ赴いた。まずはそこで早苗さんにあいさつをし、その日の探索活動を進める。60年前の生物が見えるというぼくの目をもってしても、かつての川の痕跡をたどるのは難しかった。いくら魚の影が見えていても、暗渠が病院や学校の敷地に入ってしまうと、物理的に追跡が不可能となってしまう。大きくその敷地を迂回している間に見失ってしまうのだ。
「こんな時間から活動をはじめて大丈夫なの?」
ぼくは失敗から学ぶ小学生であるから、次の作戦に出た。その日はあえて夕方に、お姉さんのもとを訪れたのだ。
「友達と夏祭りに行くと母には言ってきました」
「悪い子だ」
にやりと笑うお姉さんの口元に見とれている場合ではなかった。ぼくは目当てのものを探す。
「川に住むのは、魚だけではないのです」
小さな、しかし無数の光が立ち上る。
「なるほど、ホタルか」
お姉さんの目には見えていないはずだが、その推理は当たっている。ちょっと昔はここにもホタルが住んでいたのだ。
「それでは、行ってきます!」
現代の街灯に目がくらまないように注意をして、ぼくはかつてのホタルたちの光を追った。それは暗渠の上を這う白い蛇のように蛇行する。
甲州街道を越えて住宅街を北西に進む。環八通りを超えたあたりで道がなくなってしまったので、光の筋を見失わないようにしながら遠回りする。薄暗い墓地のそばを通るときには緊張感があったが、すぐに車通りの多い大きな道に出る。頭上には高速道路が走っている。こんなに人工物ばかりのところに、本当に川が流れていたのだろうかと不安になりつつ歩を進める。
大きな道に挟まれた水の流れが現れる。緑道の入り口には「玉川上水緑道」と案内がある。本当はぼくの目が過去を見ているなんてのはお姉さんの嘘っぱちで、北沢川というのも妄想の産物だったとしたらどうしようかと思いかけていたので、ぼくはなんだか現実の水の流れを見て少し安心した。
北沢川は玉川上水から水をひいていたようだ。という結論を持ってお姉さんのもとへ帰ってもよかったが、ぼくの冒険心はもっと先へ進めと言っていた。
「行けるところまで行ってみよう」
牟礼橋というところを越えると、いよいよ木々に囲まれた薄暗い小道となる。ぼくは懐中電灯と防犯ブザーを握りしめて歩いていく。宮下橋というところで街灯に照らされた水面を見下ろすと、現実に魚が泳いでいるのが見えた。
まるで森の中を進んでいるようだが、すぐそこに住宅街や学校がある。井の頭橋というところにさしかかったところで、この先に何があるのか見当がついた。小学校低学年の時に、家族で行ったことがあった。
道が徐々に開けていって、いつの間にか大きな公園の敷地に入っている。井の頭公園だ。派手な赤色をした弁天堂が見える場所で、ぼくはさすがにくたびれてベンチに座った。出発して二時間弱くらい歩きっぱなしだった。
なんだか少し眠く……
気が付くと、となりに真っ白な美男子が座っていた。男のぼくから見てもドギマギしてしまうような整った顔立ちであった。
「君はふしぎな目をしているね」
青年は言う。
「どうやら昔のものが見えているようです」
ぼくは正直に白状する。なぜだかわからないけれども、彼には言ってしまって構わないような気がしたのだ。むしろ、言わなければならないような……
「私の愛した、彼女の目に似ているんだ」
彼の言う「彼女」というのが早苗さんのことを指していることは、初めから知っていたかのようにわかった。
「たいへん言いづらいのですが、その人はもう、ここには来られません」
青年は黙ってぼくの目を見つめる。
「そうか、やはりそうであったか。わかってはいたのだ」
立ち上がって池に向かって進む。ヒトの形が崩れて白い光となり、池の水に溶けていく。井の頭池全体が、口を開いた龍のようにパッと白く光ったかと思うと、すぐ元に戻った。
次の日、例の病院に行ってみたがやはり早苗さんには会えなかった。それもそのはずで、ぼくはもう過去を見る能力を失っていた。
だから、早苗さんと会うことはもうできない。
ぼくは北沢川の歴史をレポートにまとめ、流路と思しきラインを地図に書きとめ、夏休みの自由研究とした。こうして、ぼくの初恋と小学校最後の夏休みは終わりを迎えた。
武蔵野アンダードレーン 美崎あらた @misaki_arata
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