2
通りを歩いている者は
大通りを真っ直ぐに歩いていくと中央の広場が見えた。そこから放射状に路が伸びているが、右手に曲がりその一本に入る。ウッドの家は里の中でもほぼ端、崩れた壁の傍にあった。
かつては里の中心部の便利な場所に土地を借りることが出来たが、戦えない、しかも墓守ごときのウッドが貸りられる土地なんて湿気が多く掃除をしなければ直ぐ苔に覆われてしまうような場所くらいしかない。
ウッドはそのあばら家までやってくると造りつけの木の戸を開け、中に入る。
狭苦しい場所だ。体を横たえて眠る場所と食事の為の小さな卓、奥に何とか
「もういいぞ」
袋の口を開ける。すると中からひょこっと昆虫の触覚のように髪の毛の束が顔を出した。歌虫の彼女だ。
彼女はゆっくりと顔を出すと器用に手足を袋から抜き、外に出て、小さな口を丸めて「ふうう」っと大きな息を吐き出した。
「すまなかった」
無邪気に瞳をぱちくりとさせる彼女を見て、ウッドは頭を下げる。
「違う」
けれど彼女はそんなウッドの顔を精一杯腕を伸ばして持ち上げた。
「ありがと、だよ」
彼女の瞳は真っ直ぐにウッドに向かい、それからふっと花が開く瞬間のように綺麗に微笑んだ。
何も考えられなかった。
ウッドはどう返していいか分からず、口をもごもごとさせたまま、視線を逸らす。そんなウッドの顔を小さな手で元に戻し、しっかりと見つめてから彼女はもう一度言った。
「ありがと」
通常、アルタイ族にとって歌虫、つまりペグ族とは触れてはならない種族で、多くの場合は両者は生活圏が大きく異なることから、そうそう巡り合うことは無い。時折出遭っても、互いに距離を取り、交わらないのが良しとされていた。時にはアルタイ族がペグ族を殺してしまうこともあったが、それもペグ族がそれこそ虫のように自らの翼で逃げてしまうことが多い為、十年、二十年に一度、といった頻度でしか起こらない珍事だった。
「ネモ」
目の前のペグ族はにっこりとして名乗った。その発音ですら音階になっていて
「ねーも」
彼女が何度も繰り返して発音したそれが名前なのだと分かるまで、
ウッドは頭を振り、自らの意識を叩きやった。
「俺はウッドだ」
「助けてくれて、ありがと」
彼女は微笑し、その大きな瞳を真っ直ぐにウッドへ向ける。
「そんなんじゃ、ない」
だがウッドはその視線を追い払うように、目線を逸らす。
「ううん。貴方はわたしを助けてくれた」
「違う」
「だからわたしは」
「違うんだ。俺は」
――ただ目の前で彼女が殺されるのが恐かった。
それだけだった。それ以外の何でもない。本当にただそれだけだった。
けれど彼女の瞳は彼が助けてくれたという信頼に満ちている。
ウッドは頭を抱え、その場に
あの日から時々、自分でも訳の分からない行動をしてしまう。その時は体の奥底から湧き上がるよく分からないものに突き動かされるようにして行動し、後になってから思い返してみれば顔が青ざめるような経験も一度や二度では無かった。
今日のあれだって本当に百五十年ぶりだ。殺しをしてしまった。彼女を助ける為とはいえ、自分の身を守る為とはいえ、相手を殺した。
腰のベルトから取り外した剣を鞘から抜き、その刀身を眺める。薄っすらと血が凝固して模様になっていた。
確かに殺ってきたのだ。この剣で。
それを考えると、ウッドは胸の中に誰かが手を突っ込んでぐちゃぐちゃに掻き回しているような気持ち悪さを感じた。
「それは、悲しい」
「かな、しい?」
「そう。悲しいの」
ネモは目を細めて、口をすぼめる。その内に瞳が潤んできて、そこから
「それが、悲しい、か」
「ううん。これはね、涙」
「なみだ」
ウッドはその大きく無骨な指を注意深く伸ばし、雫を
「これが、涙」
彼女の目から流れるそれは、まるで宝石のようにきらきらと光を放ち、指に取ると弾けて消える。ウッドはもう一粒をその指に取り、舌先で軽く舐めてみた。ただの水とは異なる。思い出すことは出来ないが、遥か昔の記憶はこれを知っているようだった。
――広く巨大な、水溜り。
一瞬脳裏に浮かんだ映像は、けれど今のウッドには心当たりの無いものだった。
「そうだ。足は」
応急処置で止血の為に布きれを巻きつけておいた彼女の右足を見る。小さく細い足首に器用に巻きつけたそれには
「すまないな」
彼は視線を逸らし、そう
「わたしは、嬉しい」
そんなウッドの指を彼女は小さな両手で握り、何度も「嬉しい」と言った。けれどその「嬉しい」というものがウッドにはよく分からない。
首を傾げ口の中でぼやく。
“嬉しい“――それは何だ、と。
何度も「嬉しい」と言ってウッドの指に頬ずりしているネモに、敵意とは異なる奇妙な反発の感覚がせり上がってきて、彼は思わず彼女が掴んでいる人差し指を左右に大きく振った。彼女は呆気なく振り飛ばされる。
「あ、すまない」
軽く壁にぶつかった彼女は顔を一瞬顰めたが、それでも微笑んで首を振った。
「大丈夫。嬉しい」
けれどその笑ったまま、彼女は意識を失ってしまった。
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