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 鈍い音が伝わる。僅かに振動した大剣は、背後にいた敵兵の頭部を見事に甲冑かっちゅうごと弾き飛ばしていた。

 ウッドは両肩で荒く息をしながら剣を己の前に構え直し、自分を囲む八方の大男たちを睨みやる。

 彼の背にぶら下がるディアムド帝国の金の刺繍ししゅうが入ったマントは、既に半分が破れ、残りはアルタイ族の赤黒い血を吸って重くなっていた。

 ウッドは口に出さずにごちる。


 ――何人殺ればこの場を切り抜けられるというのか。


 彼を囲む戦士たちは誰も、しっかりと頭部前面を覆う深い鉄仮面を着込んでいる。その表情は見えず、無印の甲冑や剣はどこの所属の者かを知らせてくれない。

 もう仲間は一体として残っていない。十体の部下は全て殺されてしまった。

 背筋を汗が一度に伝う。

 助け合いの精神も無く、ただ強き者に従うのみのアルタイ族は多い。永く生き延びたければより強い者の配下にいることが最善の方法であり、自らが強さを誇ればいつ背後から首を取られてもおかしくはない。

 だからこそ裏切りには最大の注意を払っていた。

 ディアムド帝国の王からの勅命だ、と云う。よほどのことが無ければ帝王が勅命など出す筈が無い。

 自分の存在がそれほど邪魔だったというのか。

 ウッドは自嘲じちょう気味に口の端を歪め、唾液を吐き捨てる。


「ディアムドの帝王が俺ごときを恐れるなど、随分ずいぶんと帝王様も弱気になられたものだな」


 じりじりと距離を縮める八体の鉄仮面に言葉を放つが誰一体として答えることは無い。まるで言葉を交わす時間も惜しいかのようだ。それとも死にゆく者に掛ける言葉など持ち合わせていないのだろうか。

 ウッドは剣を水平に構え、近づく敵を威嚇いかくするようにそれを前に押し出す。

 右に、左に、前に。

 だが奴らはひるむこともしない。よく鍛え上げられた兵だ。

 帝王には誰も目にしたことのない影の暗殺部隊がいると耳にしたことがある。その兵なのだろうか。

 ウッドは全身の細胞をおののかせ、その瞬間に備える。

 息をつけば終わり。

 唾すら呑み込めず、状況を打開する為の「何か」が起こるのを待つ。


 ――もしこのまま何も起こらなければ?


 愚問だった。状況は常に変化している。

 完璧なものなど存在しないのがこの世のことわりなのだから、どんなにそれが追い詰まった状況であれ、どこかに何かしらの隙がある。勝負の分かれ目は「それ」を見逃さないことだ。いつ、どこで訪れるか分からない、そのチャンスの女神が気まぐれに落とす星の欠片を、絶対に手で掴むのだ。

 そう教えてくれた剣の師匠は酒に酔って崖の下に転がり落ちて帰らぬ者となった。

 胸元にじっとりと嫌な汗が滲み出す。音がしないくらい注意深く呼吸をし、緊張をぎりぎりまで高める。

 と、その時だ。

 薄く、空からゆったりと降ってきたような音だった。

 右足で大地を蹴り、真一文字に構えた大剣で奴らの足元をなぎ払う。その音に一瞬気を削がれた奴らは、頭部に来ると思い込んでいた一撃を見失い、誰もがバランスを崩した。綺麗に整っていた隊列は乱れ、空気は渦を巻く。

 出来る限り一対一、それもこちらが先手を取れる状況を作り出すこと。

 己の技術をおごらず、その瞬間の最善策を見つけ出すこと。

 何度も木刀で痣を作られながら覚えこまされた勝負事の鉄則だった。

 大地から返す剣で一撃、

 そのまま左肩で押し倒し、

 下敷きの誰かの頭部を蹴って跳躍ちょうやく

 背後に回ったところで一体の頭部を、

 向かってきたもう一体も首から落とし、

 左側から襲う剣は首の無い奴らの体を貫かせ、

 身動きの取れない一体をなぎ払った。

 あっという間に四人を失い、兵たちは明らかに狼狽していた。精神的にも優勢になればもう勝負の大半は決したようなものだった。


「どうした?」


 だが何か様子がおかしい。

 兵の一体は剣を手から落とし、頭を両手で抱えながら呻き声を上げる。それを合図に他の三体も武器を放り出し、ウッドから距離を取り始めた。


「い、嫌だ。お、俺は……」


 ――死にたくはない。


 叫び声を上げた一体は背を向け、そのまま駆け出す。続いて他の三体もそれぞれに何かわめきながら逃げ出した。

 それは有り得ない光景だった。

 ウッドは言葉を失い、その場に立ち尽くす。

 逃げる。それも敵前逃亡というのは戦いの種族であるアルタイ族にとって何よりの不名誉とされた。生物の本能として逃げることは許せない。逃げるくらいなら戦い散った方が遥かに良しとされている。

 勿論、戦いが苦手なアルタイ族も居るには居る。だが彼らとて最低限の抵抗は見せる。それは毎日太陽が昇るように誰にも動かしがたい事実なのだ。

 ウッドは剣を鞘に仕舞い、先ほどから耳に届いているその“音”に注意を向けた。何とも心地よい。強く、弱く、時に鋭く、または優しく、耳から脳に直接入り込んでくる。今まで極度の緊張にさらされていた筋肉はすっかり緩み、ウッドはその場に立っていられずに膝を折って座ってしまった。


 ――何だこれは。


 低くなった視界に突如真っ赤に彩られた地面が入り込んでくる。それは先ほどウッドが殺戮さつりくした兵たちの屍骸だった。頭部を失ったそれらは既に石化が始まっており、関節の部分が強張って微妙な角度に曲がっている。それらは自身の赤い体液で覆われ、さながら紅玉で出来た彫刻のようだった。

 急に体の中身が全て失われたような感覚を、ウッドは覚える。

 音は心地よいのに、それを耳にすればするほど、どんどん体の中身が削り取られ、がらんどうになってしまう。


 ――もう耳にしたくはない。


 ウッドの意志はそう訴えていたが体は求めていた。両腕に力は入らず、だらりと垂れ下がり、あぐらをかいて座する彼は、悪戯に幼子が粘土で作った人形のように、魂の欠片も見当たらない様でそこに居た。

 動けずに留まったまま、その瞳からはとめどなく雫を流れ落としていた。

 そんなウッドの耳が欲する音は注意して聴けば「言葉」の形を成していた。


  何故、戦うの?

  何故、殺し合うの?

  こんなにも、ほら、溢れてる。

  世界には、沢山の色があって、

  みんな邪魔しないで一緒にいるのに、

  あなただけに、ならなくていい。

  世界は、ほら、溢れている。

  安心して、いいんだよ。



 それがウッドが五十歳の時に出逢った、歌虫と呼ばれるペグ族の歌声だった。

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