第31話 アリスタルコス
時刻表示が「2040年12月17日20時35分12秒」になった瞬間、減圧表示ランプがオレンジから赤に変わった。5分前から始まった減圧過程完了のサインだった。
それに先立つ40分間は、酸素マスクを着用しながらエルゴメーターのペダルをこいでいたため、体内に溶け込んでいる窒素がすでに排出されていた。 これを怠れば、宇宙服内の減圧純酸素状態で窒素がたちまち気泡となって血管を詰まらせ、恐ろしい減圧症に陥ってしまう。
あと2分あまりでエアロックの扉が開く。月に来てから2ヶ月が過ぎようとしているが、この瞬間はいつも緊張を覚える。
80kg近い宇宙服も月面では13kgほどにしかならないが、これを着用しての月面作業はなかなかの重労働だ。しかも、宇宙服に守られてはいるが、薄い箇所ではたった5mmという服の向こうは「宇宙空間」だ。地球周回ステーションで船外活動訓練を行ってきてはいるが、呑み込まれるような大きさの地球のそばでは「宇宙空間」という実感は味わえなかった。
幅、奥行きとも5mほどのエアロックの対面両側にはそれぞれ2着の宇宙服が下がっており、2台のエルゴメーターが設置されている。ここは月面に出る専用のエアロックだ。外から入ってくるためのエアロックは隣接した別の部屋になっている。そこにはテイラーズクリーナーと呼ばれる宇宙服専用の清掃機が備えられていた。宇宙服に付着した月面土壌は実にやっかいな存在だが、このやっかいな存在でスキーを始めたのはシャクルトン基地の隊員だった。溶岩トンネルを持たない狭いシャクルトンでなければ「屋外スポーツ」をやろうなどとは考えないだろう。
月の砂塵は雪のようにはけっして滑らない。ダイヤモンド状炭素膜コーティングを施したスキー板が必要になる。そうした特殊な板なら、岩やガラスの鋭い微細破片からなる砂塵でもほとんど傷が付かない。
砂塵は宇宙服に付着すると、太陽光を吸収するため宇宙服の温度が過度に上昇する。鋭い砂塵によって古い宇宙服なら気密性が損なわれる危険もある。このため、最新のロシア製宇宙服の場合でも、月面での使用限度は180時間までと定められている。さらに始末が悪いことに、月の砂塵が何にでも付着し完全に取り除くことが困難なのである。細かい砂塵は機械の隙間にも容易に入り込み故障を引き起こす。
もし宇宙服の隙間から砂塵が入り込み、それを吸い込むようなことがあれば、肺が線維化する珪肺症になる危険もある。宇宙服内の空気に接触した塵は「火薬のような匂い」がすると言われ、もしそのような匂いを感じたら要注意である。軽い場合でも「花粉症」のような症状になる。
宇宙服に付いた砂塵を取り除くというのは、月探査上の大きな障害になっていた。空気シャワーや吸引機、あるいは電動ブラシなどでは大きな粒子しか落とせない。砂塵のおかげで月面基地建設はおろか、長期滞在の可能性も危ぶまれていたが、テネシー大学惑星物理研究所のローレンス・テイラーらのグループがその解決策を見いだした。月の土壌を磁石に近づけた際、磁場に強く反応したのである。
テイラー・フィルターと呼ばれる磁石を組み込んだ空気清浄フィルターの使用が月面基地で急速に広まった。特にテクノラボ社の製品は、フィルターが汚れても電磁石を切ると塵が回収容器に落ち、反復使用が可能だ。
砂塵粒子は、髪の毛の1/100程度の厚さのガラス層(隕石衝突の熱で鉱物が溶けてできたもの)にくるまれているが、テイラーらはその極薄のガラス層内に鉄の細粒が無数に浮かんでいることを発見した。これらの鉄が磁力に反応していたのである。
微小隕石が月に衝突すると、瞬間的に2000度を超す高温が発生し、蒸発した土壌は珪酸や酸化鉄といった分子が原子レベルまで分解する。気体が冷却すると原子は再結合し砂塵粒子の表面には無数の純鉄細粒を含む珪酸膜が凝縮するのである。
扉の赤ランプが点滅し始めた。
扉がゆっくりとすべるように動き出し、太陽の眩しい反射光が入ってきた。
「フィルターを降ろせ、リョージ」
5台のカメラで監視しているコアングの声が聞こえた。1台はこの宇宙服のマイク用カメラ。顔の表情まで見て取れる。さらに、宇宙服の両肩に1台ずつ。そしてもう2台はエアロック内のカメラだ。
我々2人が滞在しているアリスタルコス月震観測ステーションは「アリスタリコスF」というクレーターの裾野にある。月面にプラスチック製構造物をもぐりこませたようにして作られているが、シャクルトン基地ではほとんどがそうした方式で建設が行われてきた。土壌とプラスチックが放射線と温度変化のバリヤーとなっている。
エアロックから足を踏み出し、まず地球の位置を確認する。この「地球の位置確認」は月面で生活する者の習慣といっていい。この地点からの地球は、東から約24度南寄り、地平線から33度ほどの高さに見えている。1961年の国際天文学連合総会で、月面上の方位については地球上と同じ扱いにすることが決定された。月面上でも日の出方向が東となったのである。
「これから月面車に向かう」
ワイヤー製タイヤの付いたデスクサイズの荷物運搬車に新しい月震計を載せ、12m先の月面車に向かった。
「了解。きょうも天気はよさそうだ」
冗談ではなく、コアングの言う天気は、太陽活動とそれに伴う地球・月環境への影響、いわゆる "Space Weather" のことだ。
何人もの隊員がつけた月面の足跡を見ていると思い出す友人がいる。
アパートがヒルズ・ロード沿いの通学経路にあったせいで、学生時代、時間があるとよく大学の植物庭園にでかけていた。16ヘクタールの庭園には1万株を超える植物が育てられ、駅から5分ということもあり年間10万人以上が訪れていた。ケンブリッジの学生はもちろん無料で入ることができた。
私は四季折々の色彩の豊かさを堪能していただけでなく、散歩をしながらの思索が好きだった。
アイザック・ニュートンの林檎の木が植わっている場所からさほど遠くないベイトゥマン・ストリート・カフェに立ち寄って、学生たちと語り合うひとときもあった。そのうちのひとり、デボラ・シーハンはギリシャ・ローマ時代の建築と文化を専攻している学生だったが、ある日こんなことを聞かれた「雪道を歩くとき、既にある足跡の上を歩くか、足跡のない場所を歩くか」
私は迷わず「足跡のない場所を歩く」と答えた。それは彼女の予想したとおりだったらしく、明らかに満足気な表情だった。彼女と会うと、いつもきまって高貴なバラの香りがした。バラのエキスを水に溶かしたバラ水というものをテヘランで知ったのだという。私がその香りをとても気に入ったことを知ると、彼女は Overnight Dream というミニバラを分けてくれたのだった。
最初の心臓手術をイギリスで受けることにするか迷っていた頃だ。
コアングが虹の入江に来たのは、彼が学位を取得した翌年だから、もう1年になる。去年の10月、月から電子メールが来たときには驚いた。本当に彼はあそこに行ったのだと、夜ごと月を見上げたものだ。
コアングは学位論文で「湿りの海」にある直径30kmのデ・ガスパリスというクレーター周囲の地形がどのようにして出来たのかをコンピューターで再現し、かつて月にもプレート運動があったことを結論づけていた。
短い人生を割り当てられている身として、コアングの人生哲学には学ぶべきものが多い。彼はだいぶ前にこんなことを言った。「夢が人を生かしてくれる。夢を持ち、夢を追うことは人生の本質だ」
主治医とも相談の上、国連月行政センターに申請を出す決心を固めた。家族は反対だったが、幸い叔父は賛成してくれた。
近いうちに、地震の専門家の募集があるという連絡をコアングから受けたのが今年の2月だった。もう一生にこんなチャンスはめぐってこないと思い、永年契約を申し出た。
ケンブリッジ大学地球物理学部のウッドコック博士のもとで、新型の海底地震計の開発に携わったことが評価されたのか、たったひとりの募集枠に受かることができた。電子メールの通知文には「正式な通知文書が近日中に郵送される」とあった。国連月行政センター発行の文書が4日後、ヒルズ・ロードに面したアパートに到着したときにはうれしさのあまり小躍りしたほどだ。
体力的にはけっして楽ではなかったが、中国での半年間の訓練にもなんとか耐えることができた。いまから思うと、月での生活への希望が支えになったのだろうと思う。2040年10月23日、西昌宇宙センターから発つときには、あれほど反対していた両親や妹も、もちろん叔父も来てくれたのは祝福されているようでとても嬉しかった。電子メールやテレビ会議で家族や友人と連絡は取れるものの、2年間は地球には戻らないことになっていたから肉親の心配はよく分かっていた。
「グリーンランプ点灯。全点検項目完了。カメラは大丈夫かな?」
「映像、音声ともすべて受かっているよ」
「リョージ、この通信は基地にもそのまま転送されてるからプライベートな会話は気をつけろ」
急にコアングが日本語でしゃべり始めた。
「ぜんぶディスクに記録されてるわよ。それから、月震計設置が終わったら、念のため、ステーションからの退去準備に入ってね」
基地の通信士であるサリ・デヴィーからの日本語だった。
「了解、了解。今、21時02分になった。これから2号機の設置場所に出発する」
モーターがうなりを上げた。
月震計2号機の設置場所まで西北西に5kmほどだ。20分ほどで到着できるだろう。
すでに1度通ったコースだが、 月での地平線はたった2kmあまり先だ。方位の目印になるような地形が視界に入らないことが多い。また、月面での移動にともない見えている地形が大きく変わる。地形で方位の目安を付けるのはたいへん危険である。将来、月面活動の拡大に伴い月をまわる衛星を使った月面測位システムができるに違いない。現段階では、2つの月面基地と4つの観測ステーションに設けられた発信マストから出る電波パルスを受信し、月面上の位置を200m精度で求めることができる。月の裏側では、通信中継を行っている「ファーサイド衛星」2機が同様な電波パルスを発している。
月面車もよく見ると、塵が薄く積もり始めていた。
真新しいこのステーションに来る途中、ヘラクライデス岬の南方75kmの地点でロシア(当時のソ連)の月面車ルノホート1号を発見した。
月までの距離を正確に測定するため、20世紀の月探査機であるアポロ11号、14号、15号、そしてルノホート1号、2号にはレーザー反射器が積まれていた。地上からのレーザー光が月まで往復する時間が測定され、月までの距離が割り出されていった。その結果、月は地球から毎年3.8cmづつ離れていることが判明した。2008年10月、アメリカ海軍天文台のエリザベス・ルクルとジェット推進研究所のジェイムズ・ウィラードは、ニューメキシコ州アパッチポイント天文台でのレーザー測距データから、これら5つの探査機の着陸位置を正確に算出しEarth, Moon and Planets誌に発表していた。今回、そのデータを使ってルノホート1号とその母船であるルナ17号を発見したのだ。母船からルノホート1号までくっきりと車輪の跡が残る画像とともにこのニュースは直ちに地球のメディアにも伝えられた。
ルノホート1号は、1970年11月に着陸してからの66年間に細かい塵に覆われ薄汚れていたのである。
月面では1年間に、4kg以上の物体が約250回も衝突している。1kgのものまで含めれば1日に数個以上が月面に落下していることになる。 衝突で飛ばされた月面の塵は、月面の弱い重力下で大気によるブレーキもなく遠方まで飛んでいく。しかし、衝突砂塵だけでルナやルノホートに積もったあの量の塵を説明することは難しい。衝突で舞い上がった塵はやがて表面に落下するからだ。四六時中降ってくるような塵が存在するのである。
2020年代に入るまでは一部の研究者(1955年、天文学者のトーマス・ゴールドは月の塵が電気を帯びていると考えていた)にしか知られていなかったが、月の上空には電気を帯びた千分の1ミリ程度、あるいはさらに微細な塵が浮遊しているのだ。太陽光に含まれる強烈な紫外線が月面上の塵から電子を叩き出すため、プラスに帯電した塵が相互に反発し、月面から塵が浮かび上がり、あるいは飛び出すようになる。
上空に上がった塵はやがて重力で落下するため、昼間の月面で作業する宇宙飛行士には下からも上からも塵が付くことになる。こうして、まるで希薄な「塵の大気」が月面を包んでいるかのようになる。
夜側には太陽紫外線は届かないが、太陽風に含まれる電子流が流れこむため、夜側の塵はマイナスに帯電し、やはり「塵の大気」が作られる。月周回軌道から注意深く観察すると、太陽が出る直前(あるいは沈んだ直後)10秒間ほど、地平線から大きな淡い舌状の光や光芒が見えることがわかる。「月面薄明光」と呼ばれる塵による太陽光の散乱である。また、微細な塵のため、地平線が期待されるほどには鮮明に見えないことにも気づくだろう。
それにしても昨日の月震は(月にしては)大きかった。22時55分頃に起こったマグニチュード5.1という大きな月震がアリスタルコスの地下20kmという浅い場所で発生したからだ。 基地側の月震計でももちろん感知し、氷層による減衰が大きいにもかかわらず5分以上も揺れが続いていたという。その直後から、月震計2号機からの通信が全く入らなくなった。先週、平らなコンクリート板の上に設置したばかりで転倒したとは考えられない。電気的な故障だろうか。いずれにしろ交換が必要だろう。
今年に入って、深部月震の上昇現象が続いており、今回の月震もその関連で起こったもののようだった。
2040年1月8日、休暇明けのシャクルトン基地では、ミシェル・ロールマンが、虹の入江基地のコアングを含む複数の関係者宛てに送信したメールで、深部月震の集中化と上昇現象についての報告を初めて行った。このメールに直ちに反応したのは、日本の国立天文台の水上泰夫だった。
2033年に日本が月の北極近くに設置した月面天測望遠鏡が、2039年3月以降、月の自転に奇妙な変動を検出していたのである。水上は、月内部の物質分布に何らかの変化が生じていると予想していた。
月で起こる地震、すなわち「月震」のほとんどがおよそ1000kmもの深さで発生する深部月震であり、興味深い特徴が見つかっている。 まず、その発生時を調べると月と地球の位置関係と密接な関係があることがわかる。潮汐力が引き金であることは間違いないが、エネルギー源は不明。
深部月震は月の表側に多く、しかも複数の同じ震源から繰り返し月震が起こっていた。ロールマンは2039年の間に、深部月震の震源が北緯24度、西経50度の直下に集中していく傾向に気づいた。
そして2040年2月に入ると、集中だけでなく震源が上昇していることも明確になった。もちろん、震源の移動は地球上でも珍しいことではないのだが、これほど大規模で継続的な垂直方向の移動は両天体の観測史上例がなかった。しかも、その動きがめざしているのはアリスタルコス台地だった。
(実現はしなかったが)アポロ18号でも着陸地点に予定されていたアリスタルコス台地は、軌道上からのリモートセンシングによって土壌にイルメナイトのような酸素に富む鉱物が多いことが分かっていた。このため、2010年頃までは酸素源鉱物が確保できる地域として、将来の月面基地の有力候補になっていたほどだった。
当初から優先的な探査対象になっていたアリスタルコスだが、ロールマンの報告が確認されると月震観測ステーションの建設計画が前倒しされ、先月ようやく完成した。
地下マグマの上昇の可能性がネット上で活発に議論された。結論は出なかったが「ある可能性」は否定できなかった。観測データが蓄積し、上昇速度がある程度の正確で求められるようになっていた。2040年12月か2041年1月には地表近くに達するはずだった。このことがわかってからは、マスメディアもこの現象を取り上げるようになっていた。本当に「月の噴火」が起こるのだろうか。
1883年8月27日、インドネシアのジャワ島とスマトラの間で起きた史上最大級の爆発、クラカタウ火山の大噴火がたびたび引き合いに出されていたが、そのおかげで我々の基地(シャクルトン基地も同様だった)では、隊員たちがかなり神経質になった。もしも18億立方kmもの岩石が放出されるような爆発が起これば、虹の入江基地はひとたまりもない。地理的には遠方にあるシャクルトン基地でもほとんどの設備が地上付近にあるため、甚大な被害を被るだろう。
ロールマンはテレビインタビューに対し、次々に疑問点を指摘した。上昇中の月震の原因が1400度もの高温で岩石を溶かしているマグマだと仮定すると、地球上で知られる火山性地震のいずれのパターンとも合致しないことをどう説明するのか。「マグマを含む上昇流」が突然発生した原因はなにか。マグマを発生させるような圧力低下がなぜ数100kmもの深部で起こっているのか。
その放送で隊員たちはいくぶん安堵した。だが、ここは月であり、熱流量計の検温深度をはるかにこえた深い場所で起こっている現象だ。「マグマを含む上昇流」でないとすれば、いったい何が起こっているのか。不安を一掃するには程遠い状況だった。その正体に迫るには、故障中の2号機の月震計を早く交換する必要があったのだ。
元宇宙飛行士がメインキャスターをつとめていた「まともな」月の特集番組があった。彼が冒頭で述べていたように、月は月面有人基地ができてからも謎に満ちた天体であることは変わっていない。
月の起源については、月の内部構造や組成、地球-月系の角運動量の特異性などから、太陽系生成後に火星サイズの天体(オクスフォード大学のアレクサンダー・ハリデーが2000年の論文でこの天体を「テイア」(Theia.ギリシア神話で月の女神の母)と名付けている)が地球に衝突し、その破片の集積が月となったと考えられている。
では、その月を生み出した「衝突した天体」がいったいどこからやってきたか。
その手がかりとなる研究結果が月面物質の分析から得られた。酸素同位体の比が地球と月ではほとんど一致していたのである。このことは、衝突天体と地球が同じような環境、つまり太陽から同じ距離の場所で出来た可能性を強く示唆していた。
プリンストン大学の リチャード・ゴットと エドワード・ベルブルーノらは、太陽-地球系のラグランジュ点のうち、L4とL5 の2点のいずれかがその天体の誕生場所であると推定した。
地球の重力に乱されることなく、火星サイズまで成長した段階で他の惑星からの重力の影響の蓄積でついにラグランジュ点から離れ、地球と衝突するにいたった、というシナリオを彼らはコンピューターシミュレーションで確認している。
つまり、地球と同じ軌道をまわっていた「火星サイズの地球の兄弟星」が地球に衝突して月を生み出したのだ。
実際、月がなければ地球上に高等生物が進化していたかも疑わしい。大きな月のない火星や金星では、自転軸の大きな変動があったことが分かっている。地球の自転軸の安定化には月のような天体の重力が不可欠なのである。
月の「海」とよばれる溶岩平原がなぜ地球に向いた半球に多いのだろうか。月の質量中心は月の中心からなぜずれているのか? 虹の入江の地下に広大な氷層が存在する理由は?
そして、アリスタルコスの次に探査目標に挙がっている「嵐の大洋」のライナー・ガンマとよばれる「輝ける平原」の正体は? ライナー・ガンマの物質は磁力を帯びており太陽風を寄せつけない。磁力の原因は不明だ。
稼働中の月震計の数は9つ(日本が裏側に落下させた槍型月震計2つを含め)しかなく、上昇しつつある震源をアリスタリコスから高精度に観測すれば、その実体が明らかになると期待された。ロールマンだけでなく、コアングも私も興奮を隠しきれなかった。これは月の内部構造を理解する上で革命的な、いや歴史的な観測になるかもしれなかった。
今回の大きな浅発月震は、上昇中の震源と本当に関係があるのだろうか。コアングも私も確定的なことは言えなかった。
いずれにせよ、2号機の交換作業を済ませ、ステーションからの退去命令が下るまでは、早く残る2つの月震計を設置しなければならない。単調そうに見えるが、それぞれ個性的な月面の起伏の間を幾つもぬうようにして通り抜けていった。
ようやく、8mくらいの高さのなだらかな丘陵が見えてきた。2号機はその向こう側の平地に設置されている。
「丘陵が見えてきた。これを越せば...あと9分くらいで到着すると思う」
「了解。リョージ、着いたら少し休憩を入れよう」
「心臓なら大丈夫だよ。それともバイタルサインになにか問題でも?」
「いや、正常値の範囲だけど、急ぐ理由もないから休憩を入れた方があとの作業が能率的だと」
「OK。そうするよ。いま、傾斜を昇っている。小石がはじけてぶつかる衝撃を感じるよ」
全長5.4m、410kg質量の月面車には直径83cmの車輪が6つ使われていた。亜鉛コーティングが施されたスチールワイヤーで編み上げられた車輪の幅は24cm。接地面にはチタン合金が使われている。822アンペア時の容量をもつ強力なバッテリーを持ち、6つの車輪それぞれが独自のモーターで駆動されるため、34cmの高さの岩を乗り越えられ、25度の傾斜でも昇ることができた。
通信システムには予備系統があり、月面の起伏に電波が遮られないよう主に800MHz帯で交信が行われていた。前後にそれぞれ4つの強力なライトが付けられているが、今は周囲に遮るもののない太陽光のもとでの作業であるため消灯されていた。
「コアング...」
「どうかしたか?」
「いま、妙なことを思い出した」
「妙なこと?」
「ああ、先日...2号機を設置していたとき、はっきりした感じではないんだが、視線のようなものを感じたんだ」
「視線?」
「そうなんだ。まわりに誰もいないはずなのに、誰かに見られているような」
「そりゃそうさ」
「なぜだ?」
「月面車の外部カメラがリョージをとらえていたし、空には地球がある」
「なるほど、そうか... 確かに言われてみればそのとおりだ」
「リョージ、進行方向に集中してる?」
サリの声が割り込んだ。
「もちろん。少し傾斜が緩くなった。この辺で尾根の部分に差しかかる。 向こう側が...」
音声が消えた。
通信室のサリの顔色が変わった。
「コアング、確認して! バイタルも音声も...映像も来てない!」
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