第32話 救出
ライン河畔から200m離れ、3つの国際会議場と近代的設備を誇る「ホテル・マルティム」では、熱核融合平和利用委員会(COPUT)がオブザーバーとして出席するという異例な形で、気候変動枠組条約の第46回締約国会議(COP46)が、12月12日から10日間の日程で開かれていた。条約事務局のあるボンで開催されたのにも理由がある。
189カ国と欧州共同体が参加する今回の会議では、9月のG8サミットで発表された「地球温暖化対策の緊急性を共通認識とする」という声明を受け、気候変動を抑制する根本的な手段としての核融合実用化に向けて技術公開、技術移転、資金援助などについて、各分科会が具体的な討議を行っていたのだ。最近の月震ニュースは関係者を神経質にさせていた。人類の運命を握っている核融合の原料であるヘリウム3は、月から供給されるのである。
中国、インド、日本、ロシアは最初の技術報告書を提出し各国から歓迎されたものの、エネルギー転換と社会経済システムの改善をめぐっては途上国から問題点が出され、アメリカやEUはまだ態度を明確にしていなかった。
日程も後半に入ろうとしていたため、毎夜遅くまで討議が続けられていた。17日の技術移転分科会が問題点の洗い出しを終え、ようやく議長が本日の討議終了を告げようとしたとき、出席者のエニグマが次々に鳴り出し場内は騒然となった。さまざまな言語で「月での事故」が伝えられた。
インドネシア代表がカーテンを開けると、そこには空高くに昇った満月がライン河のさざ波に銀貨を撒いたかのような光を映しだしていた。
誰かが壁面テレビのスイッチをいれるや視線が集まり、口を開く者はほとんどいなくなった。少し緊張した面もちのアナウンサーが満月を背景に状況説明を始めていた。
12月17日21時25分、虹の入江基地からの救難指令を受けたジョイス・ヨー、ライアン・メルザック、マリー・リンデンの3名は、大型月面車「タラソー907」で北東に向かっていた。「ヘロドトス・オメガ」の探査を終えたばかりの彼らだったが疲労の色も見せず、基地と交信しながら今後の手順の確認を行っていた。
いっぽう、月震観測ステーションからはコアングが必死に無線での呼びかけを続けていた。減圧プロセスには時間がかかること、単独での救援活動には危険が伴うことが考慮され、現場には向かうなとの指示だった。
すぐに、シャクルトン基地経由でロシア宇宙局からの連絡が入り、撮像機能を持つロシアの月周回通信衛星パラーダ3号、4号衛星が遭難地域の撮像を行うという。80分以内にはまず3号からの画像が得られる。
ジョイス隊が現場に到着するのは2時間44分後の18日0時15分の予定であった。
地球上のあらゆるメディアがアリスタルコスで起こった遭難事故をトップで伝え、特別番組が次々と組まれていた。これほど多くの望遠鏡が月に向けられたのは2020年代以来だろう。
満月時には夜空が明るく、地上の大型望遠鏡の観測予定がいずれもオフになっていたこともあり、この非常事態に望遠鏡という望遠鏡が満月に向けられていた。
「コアング! どこにいるんだ... ぼくはここだ!」
良治はかすかに聞こえた声のおかげで急速に意識を覚醒させていた。
「コアング! 聞いているなら返事をしてくれ!」
だが、もう声は聞こえなかった。
頭と鼻の痛み...火薬のような匂いも感じる。それが鼻のせいで、宇宙服がやぶれたせいでなければいいが...
宇宙服の靴の底が地面に着いていない。
体がまるで空中に浮いているような...
首を下に傾けても何も見えない。
数分ほど経ってから、ようやく冷静さを取り戻した良治は、左腕にあるヘルメット・ランプのスイッチを入れた。正面の岩肌がいきなり照らし出され、目が眩んだ。下を向くと、光が照らし出せないほどの深みだった。
上を見上げた彼は目を疑った!
全長5.4mの月面車が覆い被さるように3mほど真上で宙づりになっていたのだ。車体は斜めになった状態でこの大きな穴の途中に引っかかっていた。車の両側をよく見ると、星空が広がっている。
これは穴ではなく、月面に開いた深い亀裂だった。
月面車のフロントガラスが大きく破損し、座席から放り出され、ハーネスのベルトが伸びきった状態でこの体を支えていることもわかった。
丘陵地の尾根をこえようとしたあと、何が起こったのかよく覚えていなかった。覚えているのは、急に車体が前のめりになり、視界が真っ暗になったことだけだ。
周囲の状況がわかるにつれ、耐え難い恐怖感に襲われた。もし、ベルトがちぎれるか、月面車が落下してきたら間違いなく命はなかった。足もとがおぼつかないことが一層不安を増長させ、生きている心地がしなかった。
目をつぶって深くゆっくりと呼吸をして心を落ち着かせた。救援が来るはずだ。それまではここでじっとしている以外にない。
そこでようやく重大な見落としに気づいた! 酸素の残量だ。
22時38分、良治の声が短時間だがかすかに聞き取れたというコアングからの報告があり、世界中がひとまず胸をなでおろした。遭難場所の上空を通過した衛星を中継した音声だった。
しかし、その4分後に衛星画像が公表されると救助は容易でないことが誰にも想像できた。直径18kmのクレーター「アリスタルコスF」が大きく写し出された写真。クレーターの内側にのびる、東側壁面の黒い影が、見る者に不吉な印象を与えていた。
クレーターの西側外縁にアリスタルコス月震観測ステーションの影がわずかに見えていた。そこから西北西5kmに月震計2号機が設置されていたのだが、そこに写っていたのは並行して走る全長6kmほどの2本の亀裂だった。幅は最大でも8m以下だった。
通信が途絶えてから80分ほどが経過していた。
虹の入江基地の通信室には、就寝時間過ぎにもかかわらず、基地内のほとんどの隊員が集まっていた。
「ジョイス、ロボットを救援に使える?」サリ・デヴィーの肩越しにアンが送話ボタンを押しながらたずねた。
「おそらく。でも...問題はどの程度の作業が必要かどうか。ロボットで無理なら私自身がクレーンを使って亀裂に入るわ。判断はこちらに任せてもらえる?」
アンは一瞬ためらった。
「... 了解」
アンは送話ボタンから手を離した。
シーマは医療ファイルを見て、アンに小声で言った。
「ジョイスという人、ただの技術者どころか、テロ対策の専門家じゃない。
基地でなにか問題でも発生してるの?」
「そうじゃないのよ。彼女の親族がようやく政権に返り咲いて。
...たぶん、国家環境保護総局長に抜擢された陳法慶のことだと思うわ。
この機会に年老いた親のためにも中国に戻ったほうがいいと考えたそうよ」
「それでこの月勤務に志願したわけ?」
「親族としても大手を振って迎えられるわね。もしかすると、今回の
救援活動でそれ以上の効果があるかもしれない」
サリが振り返った。
「広報部が音声を送れないかと聞いてきています」
「しばらくはタラソーのカメラ映像しか送れないと伝えて」
「了解」
「そう、いらいらしないで。タラソーが着くまで1時間以上あるから少し休憩したほうがいいわ」
ハーブ・ティーを差し出しながらシーマが言った。
「酸素が持てばいいんだけど... 」
アンの落ち着きのない眼は「タラソー907」の前方カメラから送られてくる映像と時計の間を行き来していた。
「タラソー907」を操縦していたマリー・リンデンは時速を35kmに保ったまま、 巧みに小さなクレーターをかわしながら北東に向かっていた。座席の後ろにあるミドルデッキではジョイス・ヨーとライアン・メルザックがテレプレゼンス用ロボットのJM05(彼らはジョニーと呼んでいた)の点検を行っていた。
「ジョイス、これでどうだ」
何度もジョニーの右手は野球のボールを握るのだが、そのたびにボールは落下した。
「親指のセンサーが効いていないみたいね。親指に包帯をしているみたいな感覚で。あとは完璧なんだけど ...時間がなくなるので、船外活動の準備に入るわね」
50分ほどが経過した頃だった。
「やっと見えたわ!」とマリーが言った。
正面の地平線に丘陵地が現れてきた。その映像は月の両基地だけでなく、地球の静止衛星にも1秒あまり送れて届いていた。「人類が」といっていいほどの規模で世界中の人々がこの同じ映像を見つめていた。
時刻は12月18日0時09分。あと5分ほどで到着のはずだが、問題はそれからだった。
良治は息苦しさを感じ、せき込んだおかげで目が覚めた。
左腕の先にある時刻表示パネルをのぞき込むと、もう日付が変わっていた。時刻表示の手前には酸素残量、内外の気温、内部圧力・湿度などの表示が並んでいる。同じものが右腕にもあるのだが、痛くて右腕の向きを変えることはできなかった。
酸素残量は240ミリリットル、つまりあと50分しか呼吸はできない計算だった。本当に救助は来るのだろうか。
さきほどから首のまわりが気になっている。
首の左右には、オレンジ色をしたプラスチック製の小さな袋が計5つ配置されている。そのうち4つは栄養ドリンクであり、3つはすでに付属のストローで飲み終わっていた。最も端に置かれた5つめの袋は間違っても食欲を招かない黒い色をしており、その中は永眠薬と呼ばれる強力な睡眠剤を含む液体で満たされていた。 これを飲めば、窒息によってもがき苦しむことなく、文字通り眠るようにして死を迎えることができるのだ。
何度も絶望の淵に突き落とされながらも、この場所に向かってきている救援者たちを思い浮かべた。足下に広がる漆黒の闇は、わずかな希望すら引き裂いてしまうほどの力を持っていた。その力に負けじと敢えて視線を下に落とすと、信じられないものが目に入った。幻覚が始まったのだろうか。
それは光だった。
遙か下の方に、まるで発光体のような黄色みを帯びた光が見えたのだ。
ヘルメットのプラスチックは血がにじみ、傷だらけになっていたため光の大きさを見積もることは難しかった。
そのとき、耳もとで声がした。明瞭な声が。
「リョージ、リョージ聞こえるか。聞こえたら返事をしてくれ」
声を出そうとするのだが、声にならなかった。
リョージは、残るオレンジ袋のストローをくわえた。
せき込む音が「タラソー907」のスピーカーから聞こえた。そして40万km彼方にある地球上のスピーカーからも。
「良治!」
テレビを見つめる幸衣子の顔から消えていた笑顔がようやく戻った瞬間だった。
虹の入江とシャクルトンにも転送されていた音声はもちろんコアングにも届いた。誰もが固唾をのんで成り行きを見守っていたが、ようやく地球は安堵に包まれた。
「リョージ! ジョージ!大丈夫か。ライアンだ。いま君の真上に来ている」ライアンのスコットランド訛の英語がリョージにとってはまるで天使の声のように聞こえた。
「ああ...たす、助かった。助かった...」リョージのかすれた声が聞こえた。
「よかった! 心臓の方も大丈夫だろうな。ほかにジョイスとマリーが来ている。
『ヘロドトス・オメガ』からタラソーでいま到着したところだ」
「遅かったな、なんて言わないでね。これでも飛ばしてきたんだから」マリーが言った。
「リョージ、酸素残量はわかるか? 宇宙服は損傷していないか?」心配そうにライアンが聞いた。
しばらくスピーカーが沈黙した。
「146ミリットル。宇宙服は...たぶん、問題なさそうだ」
「間違いないか? 146?」
「間違いない146だ」
「宇宙服の気密性は保たれているようだが、いずれにせよ30分もつかどうかだな」そう言うと、ライアンは虹の入江との通信チャンネルを開けた。
「アン、ロボットのセンサーの一部が故障している。それから、聞こえたと思うけど リョージの酸素はあと30分くらいしかもたない」
「つまりジョイスがやるしかないわね。準備はできてるの?」アンが言うと、ジョイスがうなずいた。
「ええ」
「亀裂に挟まっている車体には十分注意して。ロールマンが先ほど連絡してきたわ。 月震が起きやすい時期だから注意するようにと」
「リョージ、ジョイスがクレーンのワイヤロープでそこに降りていくからもすこしの辛抱だ」
「わかった。実は... 車から投げ出されている。フロントガラスを...突き破って...ハーネスベルトで ぶらさがっている」
その声にタラソーの操縦席でライアンとマリーが顔を見合わせた。
「ジョイス、聞こえた?」マリーが尋ねた。
「ええ、予想外だけど。だいじょうぶ、かならず救い出すから心配しないで」
その声に安心したリョージは再び「光」を確認しようと闇の中に視線を降ろした。
だが、もうそれはなかった。意識が薄れていたのか、見間違いだったのか。
もしかすると、落下した月震計だったのかもしれない。
良治が下に気を取られている間に、強烈なライトの明かりが周囲を照らし始めた。
「この光景を見ると、リョージが助かったのは奇跡のようだわ」
ジョイスは、亀裂に挟まれた車体に注意しながら、腕に巻き付けた遠隔操作パネルを巧みに操作し、クレーンの伸縮ジブとワイヤロープの長さを調整しながら、良治に接近していった。やがて、ワイヤロープにつるされたジョイスの足が良治のそばまで降りてきた。
「このフックをかけるからじっとしていてね」」
ゆっくりと彼の宇宙服のベルトと生命維持装置の2カ所にフックをかけた。良治につながったワイヤロープは、ライアンが操作する別の巻き上げ機から下りていた。
「ライアン、微速であげて」
「了解」
わずかに良治の体が上がった。
「そのまま、そのまま」
「そこで停止」
ジョイスは自分をつり上げている巻き上げ機を操作し、良治の命綱になっていたハーネスベルトをカッターで慎重に切りはらった。月面車に不用意に触れてその車体が落下するかもしれなかった。
「もう一度、微速であげて」
やがて、良治の体は車体の脇を通り過ぎていき、数分後には亀裂の上に出た。そのとき放送で流されていたのはタラソーの後方カメラの映像だったが、亀裂から出てきた良治の姿が映りアップになると世界各地で歓声が上がった。ヘルメット内で彼がなにかを話しているようすまでがかすかに映っていた。
「ジョイス、こちらはOKだ。君もそこに長居は無用だ」
そのとき、
「頼みがあるんですが」良治が言った。
「何?」
「新品の月震計はたぶん、衝撃でもう使えないでしょうが、前方カメラのメモリーシリンダーだけでも回収してくれませんか。事故の記録が役立つかもしれない」
「分かったわ」
「ちょっと待った!」ライアンが口を挟んだ。
「リョージの酸素残量は?」
「まだ、12分あります」
「ジョイス、月面車が落下しそうなときはすぐに車体から離れろよ!」
「了解」
メモリーシリンダーを取り出すには、どうしても車体にしがみつく必要があった。おそるおそる側面ライトの保護フレームを右手でつかんだ。車体は固定されたまま動かないようだ。
続いて、その下の足乗せステップをつかんだ。まだ車体に変化はない。
車体の裏側をのぞき込むとヘルメット・ランプがメモリーシリンダーの刻印を照らした。分厚い手袋で、留め金レバーを緩めると難なくシリンダーがはずれたため、危うく落としそうになった。
「シリンダー回収!」とジョイスが言った瞬間、ワイヤロープが揺れ、彼女を車体から引き離した。
「揺れてる!月震よ! ジョイスを引き上げて、早く!」マリーの声が響いた。
マリーがまだ言い終わらないうちに、ジョイスの体は月面車の側面をかすめるようにゆっくりと上昇していった。
だが、それは錯覚だった。ジョイスはまだ何の牽引も感じていなかった。
大きな車体がスローモーションビデオのようにジョイスの目の前から下降していき、どこまでもどこまでも落ちていった。クレーンに取り付けられたカメラがそのようすをとらえていたが、放送で流されていたのはタラソーの後方カメラに写っているクレーンの姿だけだった。
ライアンがタラソーからの操作でジョイスを上げていった。
「ジョイス! 怪我はないか?」
「ええ、どこも。いまの見た?」
「ああ、画面で見ていてもきわどい瞬間だった」
巻き上げ機を上昇させていくと、リョージと並んだ。
そのときジョイスは、ヘルメットの中の見覚えのある顔に気づいた。
良治は数十m先にある「なにか」を指さしていた。
そこには、大きな岩の下敷きになった月震計が無惨な姿をさらしていた。
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