第30話 虹の入江
月着陸5分前のアナウンスに眼が覚めた。
窓から下の方を見ると、見慣れた景色が広がっていた。小さなクレーター、亀裂、起伏などがあるものの、ほとんど平坦な地形が地平線まで続く。地平線上には、かろうじて虹の入江からラプラス岬にかけての山並みが見えている。上の方に地球があるはずだがこの窓からは見ることができない。
遠くで6台ほど動いているのは「ロボティック・マイナー」と呼ばれる採掘作業ロボットだ。久しぶりに故郷へ戻ってきたような不思議な気分だった。着地の衝撃も少なく、完璧な誘導だった。
2020年代はエアバッグに包まれて多くの建設機材や建材が月面に降ろされていたが、現在エアバッグで降ろされているものは食料品が圧倒的に多い。といっても、一度使われた相当な数のエアバッグが月面上で再使用されているため、食料品を包むエアバッグは簡易なものになった。地球から月までの輸送費は1kg当たり2万ドルもかかるため、基地内にある地下菜園の拡充を行い食料の地球依存度を減らすことも求められていた。
それほど広い機内とは言えなかったが無重量状態のせいか、あるいは月に無事着いたという安心感からか、熟睡していないわりにはそれほど疲労を感じなかった。軽い重力の感覚を思い出しながら、瞬発的な動作をしないように注意してそっと座席から立ち上がった。
宇宙船発着場の構造上、2020年代のように着地した宇宙船から直接月面に降り立つような感激はもう味わえない。
他の5人とともに、ムーン・クリッパーの出入り口に接続された二重チューブ構造の狭い通路を手すりにつかまりながら降りていった。もちろんエレベーターはあるのだが、この通路を歩く過程で弱い重力に体を順応させるのである。通路の途中に2つエアロック状の空間があり、ムーン・クリッパー内の0.8気圧から基地内の1.0気圧へと調整を行った。
長い下り通路を抜けると男女別の隔離室に入った。出発時にも行われたが、これから80分ほどは検疫と健康診断となる。検疫検査を通常よりも念入りに行っている理由を知るものは、このメンバーで私以外にいなかった。それにしてもこの手続きだけで、8年前は2時間もかかっていたからずいぶん改良されたものだ。
月特有の「跳躍禁止」の表示がドアに貼ってあった。天井が低いせいもあるが、月の重力に体が慣れるまでは飛び上がったり走ったりといった急激な運動は避けるのが賢明だ。
壁面スクリーンには、基地の見取り図と各セクションの案内が繰り返し再生表示されていた。
検査手順を説明していた音声の主はたぶんドクター・アンだろう。8年前と同じならば、医療専任スタッフは彼女だけ。あとはアシスタントが3名のはず。アシスタントは別の業務を兼任している。医師の資格をもつ微生物学者などだ。
人工的な壁面は一方向だけで、他の3面は玄武岩質の暗い月面物質だった。溶岩が固まったものなので地表のような微塵に覆われたものではなく、天井と床は平らに加工されていた。壁面の間接照明が岩肌を際だたせていたが、温かみのある色彩の照明が選ばれていた。
やっと医学的な手続きが済むと、入ってきたときと反対側のドアが開き、とても心地よい香りがした。
ドアの向こうにはドクター・アンがひとり立っていた。あのときのままに見えた。彼女は私とほとんど入れ替わりにここに勤務するようになったから8年も働いていることになる。40代半ばのはずだか、どう見ても10歳以上若く見える。陶磁器のような肌は紫外線の少ない環境のせいだろうか、それとも弱い重力のせいだろうか。
サイエンティフィック・アメリカン誌で読んだ、ボストン大学トーマス・パールズによる「ニューイングランド長寿研究」という論文を思い出した。40歳以上で妊娠したことのある女性は、若い頃に妊娠した女性より100歳まで生きる可能性が4倍も高いという。40歳を過ぎて自然に妊娠した女性は老化が遅いのだろうとパールズは解釈していた。脳神経学的に見ても、母親になることにより認知力や記憶を守るホルモンの減少を補うよう、神経系の機能が改善されて寿命が伸びることはあり得る。 月面の重力下でも似たような効果が起きるのだろうか。
「みなさん、月へようこそ。医療主任の孔奧寧です。どうぞアンとよんでください。 所長の徐 雲龍は来週にならないと地球から戻りませんので、その間は私が代理を務めさせていただいております。 では、こちらへ」
ドアの外に出た新任隊員たちは、思わず驚きの声をあげた。
いままで映像では何度も見ているものの、思わず床や壁面に触れてみる隊員もいる。
何十億年という途方もない時間...
人類が足を踏み入れなかった空間にこうして立っている現実がとても不思議に思えた。
「溶岩の流れでここができたなんて信じられますか? 奧のほうにはもっと巨大なトンネルがあるんですよ」
「トレーニング・ジムで体を慣らすまではジャンプはしないほうがいいでしょうね」いまにも飛び上がりそうな隊員のようすを見てアンが慌てて言った。
そこは虹の入江基地の中央通路にあたる、通称「グランド・ギャラリー」という空間だった。
高さも幅も20mを超すような天然のトンネルがほぼまっすぐにつづいており、わずかな湾曲のせいで、向こうの端は見えていない。
10m間隔に取り付けられた壁面のナトリウムランプでオレンジ色に照らし出された天井は、上にいくに従い狭くなっていた。地球上の6倍の高さまで飛び上がれるにしても天井には到底届きそうになかった。目隠しをしてここに連れてこられたら、月にいるとはとても信じられないだろう。
虹の入江基地の地下生活空間はすでに1.9立方kmに及んでいた。主な空間は月面から80m以上も下にあり、安定した温度が保たれている。仮にエアコンが止まっても摂氏0度以下には下がらないといわれている。月の表面に出れば、昼は摂氏110度、夜はマイナス170度という過酷すぎる環境である。
この基地での生活で最も重要な装置はおそらく酸素発生機だろう。半世紀近くの信頼性を誇るアメリカのサンドストランド社製の装置で、氷層からの水を資源に1日80kgの酸素が作られている。必要に応じて4台までの酸素発生機が稼働できるようになっているが、液化酸素の3ヶ月分備蓄が飲料水・食料ともに基地規定に定められている。同じサンドストランド社の製品でもシャクルトンで使われているものは真空加熱方式によるもので、土壌の太陽熱処理で10%程度の酸素抽出が行われているという。
30名前後の隊員が生活している以上、廃棄物の量も無視できない。本格的に基地建設が始まって17年になるが、N-C9という区域に焼却、圧縮された廃棄物が詰められた部屋がある。高温焼却には酸素発生機の副産物である水素も活用されている。
そして忘れてはならない2つの月面事業がある。ひとつは月面物質に含まれるヘリウム3の濃縮。濃縮プラントは月の表面部分に設けられた数少ない設備のひとつである。太陽熱で大量の表土を加熱しヘリウムを分離する。さらにそこから、通常の同位体であるヘリウム4を遠心分離すれば、核融合燃料となるヘリウム3だけが残り濃縮される。ヘリウム3タンクが地球に向かうムーン・クリッパーの主な積み荷になっている。
中国科学院等離子体物理研究所の核融合実証炉はまもなく稼働することになっていた。
もうひとつが、DNAライブラリー。
グランド・ギャラリーから、さらに40m余り降りた別の溶岩トンネル(「500人広間」と呼ばれていた)の奧に続く「ヴァザーリ回廊」という領域に構築されつつあり、哺乳類1200種、鳥類4400種、両生類3700種など全体の14%の登録が完了していた。
実物のDNA標本が放射線から守られた地下深い乾燥した低温倉庫に保管され、数千年以上もの間、「種の再構築」を可能にする地球生物のバックアップとして機能するのである。地球環境を破壊するのが人類か否かを問わず。
一度だけ、保管室に入れてもらったことがある。標本カプセルが収納された多数の金属製容器の棚が並び、それは壮観な眺めだった。将来、地球を再び生命あふれる星として復活させる「切り札」になるかもしれないと思うと、いま眼にしているものの「重さ」に身がふるえる思いがした。
この計画は中国政府が主導しているものだが、地球の複数の資産家からも多大な寄付が寄せられているという記事を読んだことがある。彼らのクローンが登録されるのではないかという噂があるが、生殖クローニング問題に抵触する恐れがあるため、人のDNA標本の扱いについては結論が先送りされている。
世界主要図書館蔵書の全電子化を財政支援しているネルソン財団は、虹の入江に複製ファイルを置くことを検討中と伝えられるが、おそらくDNAライブラリーの設置運用を評価しての話と思われる。
運動中だろうか、私たちに手をあげて挨拶しながら中国人らしき女性隊員が走り過ぎていった。この弱い重力のもとでは、「走る」という動作はけっこう難しい。彼女は加重ベルトをしていたようだ。長期にわたり弱い重力に適応してしまうと地球に戻ったとき、平常生活へ復帰するのに何週間もかかってしまう。また、カルシウムが尿とともに排出されるため、骨折予防のため1日1800~2500 mgのカルシウム摂取と50分以上の運動が義務づけられていた。医療センターに隣接してトレーニング室も設けられている。
プレートの平面図を差しながらアンは説明を続けた。
「現在位置はあそこに示された星印です。皆さんの各担当部署の者がこちらに向かっていますので少しお待ち下さい。
弱い重力にはすぐに慣れると思いますが、角を曲がる時にはとくに注意してください。ここではよく「壁の妖怪」という表現をしますが、質量は変わっていないので方向を変えるときには、まるで遠心力が強くなったように外側の壁に吸い寄せられる感覚があると思います。
S-A4と書いてある区域にみなさんの個室があります。かなりの広さがありますし、プライバシーも十分保たれている空間です。部屋に備え付けの「生活規範手引」を必ず読んでおいて下さい。万一の場合に備え、各部屋にも宇宙服が備えられています。伸縮調整型ですが、心配なかたは一度着用してみてください。
もし生活上の問題や悩みごとが生じた場合には、遠慮なく私に相談してくださいね。なにごとも、問題は早めに対処しましょう。
それから...ごらんのように、通路の各所に監視カメラがあります。モニター画面付きのカメラは広報用にも使われているものです。地球に24時間画像が流れているカメラです。(観光で来ている)ゲストはテレプレゼンス・ロボットも含め、今はひとりも基地にはいませんが、1月中旬以降はロボットを含め3名ずつ2週間の滞在予定があります。本来の仕事の邪魔にならない程度に対応してあげてください。基地の重要な収入源ですので」
トンネル内の笑い声がおさまると、遠くから足音が聞こえてきた。
やがて、5人の隊員が「グランド・ギャラリー」の彼方から現れた。服に付けられたIDの国旗から、3人の中国人とインド人、そしてイラク人だった。 彼らと合流した私たちは簡単に自己紹介をし、それぞれ担当部署に散っていった。
きょう到着した私を除く5人と入れ替わりに、明日別の5人の隊員が地球に帰還する予定だ。
ようやくアンは私のほうへ近づき言った。
「お帰りなさいシーマ! 本当によく来てくれたわ。私の手に負えそうにないので」
そう言うと彼女は医療センターにシーマを連れて行った。
医療センターはグランド・ギャラリーと並行して走る同規模のトンネルを、何部屋かに仕切って作られていた。隊員の居住空間も同じトンネルの少し離れた場所にあった。
やはり3人のアシスタントがいるそうだが、そのときは2人が医療センターから出て別の仕事を行っていた。センターに残っていたアシスタントのユ・ソンウが出迎えてくれた。放射線医学が専門の彼は3月まで日本の研究機関に勤務していたという。
さきほどから気になっていたこのよい香りは、彼女が育てている「ミニバラ」だそうだ。
99%のミニバラにはほとんど香りがないのだが、月震研究者の青年が地球から持参したOvernight Dream という種類のそのミニバラには素晴らしい香りが宿っていた。これが 坑ストレスホルモン DHEA の増加や脳波のアルファ波成分を促す働きがあることがわかり、アンが栽培を始めたのだ。
そういえば、中東出身の隊員はこの香りをとても懐かしいと言っていた。
私の研究をよく知っている彼女は、地球から遠くはなれたこの地下空間での生活をいかに快適にするかに心をくだいていた。いまやシャワーも3日に一度は使えるし、トレーニング室や図書室はおろか、2年前には「ホクレア」というオーディオ・ヴィジュアル室も完成した。ポリネシア語で『歓喜の星』を意味するという夢のようなシアターシステムは 日本のメーカーの寄贈品だという。ここに来て、何人もの隊員から聞いて興味深かったのは、同じ音楽や映画を鑑賞しても、地球にいたときよりも感動が大きかったという話だった。近いうちに体験してみようと思う。アンが最近見たおすすめは、"SOMEWHERE IN TIME" という20世紀の古風な雰囲気の映画だそうだ。
この地下世界で暮らしていると、頬を撫でる微風や緑の香り、陽光、そして雷雨でさえも、本当に懐かしく思えるようになる。「ホクレア」で再現されるものは間違いなく隊員の精神の安定に役立っている、けっして贅沢な装置ではないとアンは断言していた。
夕食までにすこし時間があったので、まず同様の夢を見ていたという6人の医療ファイルを見て、調査の方向性を出すことにした。
脳が活動しているレム睡眠時に夢を見るとされてきたが、2012年にワシントン大学心理学科のミット・ケルナーの行った実験によると、レム睡眠時で夢を見た者の割合が54.2%であったのに対し、ノンレム睡眠の熟睡状態においても24.8%が夢を見ていたことが確認された。つまり、熟睡していても脳は何らかの活動を維持しているらしい。
同様の夢を複数の者が見るという特異なケースは、同じような環境で生活する者がメラトニンを服用した場合に報告されている。 ところが、虹の入江で同様の夢を見ている6人はなんら薬物を用いていない。血液検査でも異常が見られない。
松果体から分泌されるメラトニンが関与しているとすれば、松果体に問題があるのだろうか? 電磁波が松果体に直接的な影響を与えることも知られているのだが...
6人の医学検査データを比較していったが、アンの言うとおり気になるような共通項は見あたらなかった。ただひとつだけ、6人に共通すること...
目が眩むような光に呑み込まれるという夢を連日見ていた彼らは、全員同じ場所で月震観測ステーションの建設を行っていた。
それは、ここから南西へ850kmにある「アリスタルコス」だった。
壁の月面総図を見ていた私は、月に来たもうひとつの目的を思い出していた。
昨夜は久しぶりに熟睡することができた。
防音の効いたドアによって、外の機械音が室内に入ってこないようになっているせいもあるが、ベッドも快適だった。以前はベッドが硬く感じたが、今回のベッドはかなり柔らかかった。以前は地球仕様のベッドをそのまま使っていたのだろう。体重が1/6になっているのでベッドが硬く感じられたのだ。
壁面テレビの電源をいれると、3日前からブリュッセルで始まった欧州委員会核エネルギー政策部会のようすが伝えられていた。中国政府はすでに意向を伝え、その成り行きを注目しているが、核融合技術の全面公開をめぐってはアメリカの立場を支持するか否かにも関係するため、欧州各国間の意見対立が続いていた。
ただ、アメリカ連邦議会でもいわゆる「ムーン・ヴィジターズ」(月滞在経験にある議員)の発言が注目されており、地球環境保全を最優先に掲げる議員も徐々に増え始めていた。
食堂にいくと、すでに8人ほどが食事をしていたが、初めて会う隊員もいた。29歳のサリ・デヴィーは、インドネシアの出身で国際法と電子工学の専門家だった。通信室で働いている彼女からちょっと気になる話を聞いた。
アリスタリコス付近から最近、放電ノイズが観測されることがあるという。明暗境界線の両側で塵の帯電が正負逆になっていることから放電が観測されることがあるが、それとは全く違う現象だと彼女は言っていた。
直径40kmのクレーター「アリスタリコス」の南方65kmには直径18kmのクレーター「アリスタルコスF」があり、そのクレーターの外縁に半地下方式のアリスタルコス月震観測ステーションが設けられている。この観測ステーションは来年建設予定だったが、この地域に地震活動が活発化したことに伴い建設時期を早めたのだった。その建設にあたった6名が、例の「同様な夢」を見ている隊員たちだ。今日の主な仕事は彼らの再検査・診断だった。
先日アンが行ったCTスキャン、MRI、脳波、脳血流検査などの結果に異常はなかった。午後遅くまでかかった今日の検査でも、やはり予想通り結果は同じだった。内因的なものでなく外因的なものだろうと判断した私は、アンに対し検疫態勢を通常に戻すことと、「外因」を探るため、先週からアリスタルコス月震観測ステーションに滞在を始めた2名の健康状況を常時モニターすることを求めた。アリスタルコスでは半径25km以内に4台の月震計を設置するという。昨日もマグニチュード5クラスの月震がアリスタリコス地域で起こっていた。アンは直ちに検疫レベルを下げることと、アリスタルコスの2人のモニターに同意してくれた。
月震観測ステーションのある「アリスタルコスF」から、さらに南西に98km離れた「ヘロドトス・オメガ」(ドーム地形)を探査中の3名(さらに人間型のテレプレゼンス・ロボットが1体)は、今日中に帰還の途につくはずだがこれまで全く異常はなかったという。
アンによれば、アリスタルコスの2人についても、いまのところなんら異常が見られない。明日からは定期的に彼らと通信をとることにしよう。そのひとりが、あのミニバラを趣味とするリョージという青年だということをあとで知った。そして、埋葬地に真空加工したミニバラを置き始めたのも彼だった。紫外線を遮断する透明プラスチック容器に入れられたバラは、数世紀以上にわたりその美しさを維持することだろう。
夕食時間が終わると、「ホクレア」では地下菜園の管理者でもある植物学者でタヒチ出身のカリム・コーワンが素晴らしいバイオリンの腕を披露していた。 入り口の掲示板には "MOON REQUIEM" と書いてあった。彼自身の作曲だという。部屋に足を踏み入れたとたん、バイオリンのあまりに澄み切った音に現実感を失いそうになった。
まるで戦場か荒野に立っているかのような辛く哀しい曲想が次の楽章へ移り、安らぎや永遠の至福に変わっていこうとするそのとき、部屋にいた20人を超す隊員の意識が一斉に現実に引き戻された。バイオリンの音がけたたましい警報にかきけされ、サリ・デヴィーの声が響いた。
「アリスタルコスで事故発生! 繰り返します。アリスタルコスで事故発生!」
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