第27話 コアング
コアング... そうだ ...あれはコアングの声だ...
エチオピア人の...
コアング・トゥトゥラム・リガバと初めて出会ったのは...
イギリス留学中のたしか2036年の夏のことだ。
思い出してきた。
その年は心臓の具合がまだずっと良かった。
例年、高気圧に覆われ猛暑に見舞われていたヨーロッパではその夏、フランス南西部や北イタリアで国家災害クラスの山火事が発生し12万ヘクタール以上の森林が焼失。すでに39名以上が火災の犠牲になっていた。各地でも干ばつの被害が広がっており、農産物に深刻な影響が出ていた。ケニヤ西部などアフリカ高地では、気温上昇に伴うマラリア媒介蚊の増加も報じられていた。
パリでは最高気温45度を超える日々が続いていたが、スペイン、ギリシャなどではまだしのぎやすい地域が残っており、長期休暇をとる人々が殺到していた。
日本にいたとき古い友人から、スペインにいったら「アルコス・デ・ラ・フロンテーラ」に行くよう勧められていた。
1958年に開港したガトウィック国際空港は、ロンドン中心部から南へ43kmのところにある。
空港ロビーの大画面テレビには人だかりが出来ていた。
市内エドワーズ病院に納入された人工臓器に、遠隔操作型の小型起爆装置が見つかったというニュースが伝えられていた。同病院では人工臓器を使った政府要人の手術が予定されており、製造元や運搬経路の捜査がすでに開始されていた。このニュースは機内やスペインの空港でも繰り返し流されており、捜査の行方が注目されていた。
フラメンコや闘牛、イスラム建築、白い町並みなど、スペインを代表する風物が集約されているアンダルシアを訪れたものの、この暑い中、観光客の多さに少々うんざりしていた。
バスを乗り継いでシェリー酒で名が知られるへレスという町まで移動した。
土地の人に片言のスペイン語で「アルコス」に行きたいことを尋ねた。どうも近くらしいが、標準的なカスティージャ語がうまく通じなかった。エニグマの翻訳機能を探っていると、すぐ後ろから日本語が聞こえた。
「日本のかたですか?」
振り返ると、チェックの半袖シャツとジーンズ姿の黒人青年が立っていた。背は高いほうではないが、がっちりした体格で額は広く、やや丸顔で目尻がさがった温厚そうで気品のある顔立ちだった。
「アルコスに行くバスをさがしてるんですが」と日本語でゆっくりと答えると、
「アルコスということばが聞こえたので。わたくもそこに行きます。
わたしのレンタカー、乗りませんか? たぶん30分くらいで着きます。
いま日本語勉強しています。
あなたのエニグマ(携帯端末)の画面、日本語でしょ」
彼のすぐ背後に、埃だらけの車が止めてあった。窓が閉め切られているところを見ると、エアコンは機能しているようだ。どうしようか迷っていると彼は自己紹介を始めた。
「エチオピアのマカレ大学の学生でコアングといいます。来年、日本に留学するので日本語を勉強してます」
彼はIDカードも見せてくれた。大学の所属は... 地球物理学科だった!
こんな旅先で同じ分野を専攻するアフリカの学生に出くわすなんて!
ぼくは、彼のレンタカーに便乗させてもらうことにした。
コアングの父親はスペインのエチオピア大使館に勤務しているそうだ。独立している4人の兄をのぞく家族もそこでいっしょに暮らしているという。 この3年ほど、夏休みになると、コアングは2週間ほどスペインに滞在していた。
彼の故郷はエチオピア中部のオロミア州というところで、もともとは農家の出身だという。東アフリカを南北に貫く大地溝帯(グレート・リフト・バレー)のため、国内には温泉や火山活動が見られる。2028年のエルタアレ火山の大噴火では住民に甚大な被害が出た。 当時高校生だったコアングは学内新聞の記者として取材をするうち、いつしか火山研究の道を志すようになったそうだ。
国からの奨学金を得て、翌年、日本の大学に留学が決まっているという。ただ、奨学金は中国政府の援助によるものなので、卒業後は一定期間中国国内で研究か教育に従事しなければならない。
ぼくのこともいろいろと話した。なかでも叔父が、日本のミノセック社の創始者だと知ると彼は大いに驚いたようすだった。ぼくが地震に強い関心を抱くきっかけはこの叔父の存在だった。
地震発生によりP波が到達して小さな揺れをもたらし、その後S波が到達して大きな揺れをもたらすことに注目した叔父は、当時勤めていたセキュリティ会社の研究員を辞し、大学時代の仲間を募って自らの会社を興した。
全国の地震計を運用する研究機関、大学、鉄道会社、ガス会社などと契約を結び、リアルタイムで地震波を監視し、地震発生を近隣地域の携帯端末に即時通知するサービスを70台の携帯端末で試験的に開始。半年とたたないうちに、P波や大きな揺れをもたらすS波が到達する前に地震発生を知ることができることが実証され、ニュースメディアでも大きく取り上げられた。
大きな揺れが始まるまでの数秒の間に、消火や身の安全をはかることができただけでなく、重要なコンピューターシステムを安全に一時停止させるテストにも成功していた。
民間会社がそのようなサービスを行うことを禁止する法律もなかったため、2008年3月からは首都圏で本格的なサービスが始まった。2008年末までの加入件数は95000をこえ、2009年7月22日に起きた東京湾北西部を震源とするマグニチュード5.2の地震ではミノセック・システムの威力が如実に示されることになった。それ以降 加入件数が加速度的に増えることになったことはいうまでもない。
ミノセック・システムは直下型地震に対しては無力であったものの、はからずも同時期に欧米で進められていた「デーメーテール計画」がその打開策を示唆していた。
飽きるほど続いた緑の平原を抜けると、放牧された牛や馬が見えてきた。
レンタカー車内の音声ガイドに従い、コアングは曲がりくねった山道に車を滑り込ませた。しばらくすると、突如として白壁の家屋に満ちた風景が視界に広がり圧倒された。
友人の言っていた「グアダレテ川を見下ろす小高い丘に広がるアンダルシアの白い村」がまさにそこにあった。
風雨で浸食された切り立った絶壁の上にあるこの村の家々の扉はいずれも開け放たれており、外部からの訪問者を歓迎しているようだった。中世の雰囲気を色濃く残す街並みを通り抜けていくと、高台にはカルビドという名の広場とサンタマリア教会が建てられていた。
コアングは、国営の宿泊施設である「パラドール」前に車を止めた。もとは15世紀の王室代官屋敷だったもので、後にナポレオン軍の侵攻で破壊されたものの、基礎部分を残して改装増築されたものだった。
しばらく待たされたが、なんとか2人部屋に変更できたのは幸いだった。受付を済ませると、美しいアーチ型の天井をもつ長い廊下が中庭へと導いていった。落ち着いた調度品を備えた客室に案内されると、すぐに窓に近づいた。
真下に見えるのは中庭の一部。前方には中世そのままの旧市街が広がっていた。
「イスラム教徒とキリスト教徒が争ったこの国の歴史を考えると、この場所の奇妙さが納得できますね」コアングが言った。
そういえばと、彼が話してくれたのは、1937年にムッソリーニがエチオピアから略奪した高さ24メートルのアクスムの塔の話だ。
ローマのポルタ・カベーナ広場に置かれていたそのオベリスクの返還は、1947年の平和条約以来、エチオピア政府と国民の悲願だった。1997 年、イタリア政府はオベリスクの解体と返還に同意し、2005年にはようやく返還がかなうことになる。
まだコアングが生まれる前のことだったが、アディス・アババ空港に到着し、故郷アクスムまでのパレードではエチオピア大統領、首相など政府高官や各国の代表外交官、国連の要人たちが参列したという。
エチオピアに来ることがあったら、ぜひともアクスムの塔を案内したいとコアングは熱心に語ってくれた。
テラスで夕食後の休憩をとっていると、雲間から半月過ぎの月が顔をのぞかせ始めた。
月光にうっすらと照らされたサン・ペドロ教会が幻想的に見えた。
昼間の猛暑が嘘のように、心地よい風が涼しさをもたらしていた。
教会のそばには人だかりが。
着飾った人々は...誰かの結婚式かもしれない。
「しばらくあそこで働いてみようと思っているんです」
彼は空を指さした。
「まさか、月で?」
「はい。旅費も中国持ちですし」
初めは冗談かと思ったが、話を聞いてみると彼は本気だった。
むしろ、月に行けるという生涯に一度のチャンスを逃したくないようにも思えた。
「月の火山活動にもとても興味があるのです」
と彼は言った。
『月の火山活動』 そのことばには新鮮な響きが感じられた。
将来のことを聞かれ、拘束型心筋症という病気であることや薬での治療を続けていることを彼にうち明けた。
「それなら、リョージ。あなたも月にいったらどうか。重力が1/6しかないのだから、地球で仕事をするより楽なはずだよ」
そんなことはいままで考えつきもしなかった。
その夜、月が地平線に近づくまで、このエチオピアの友人とビール片手に語り合うことになった。
...
...
...
急に...意識が揺らぐような感覚が襲ってきた。
頭と鼻に激痛を感ずる。どうしたのだろう。
火薬のような匂いがかすかにする。
体がまるで空中に浮いているような...
眼が開いているはずだがなにも見えない!
いったいどこにいるんだ!
そのとき、耳もとで微かな音が聞こえた。
コアング... そうだ ... あれはコアングの声だ...
「コアング! どこにいるんだ... ぼくはここだ!」
精一杯の声を出したが、もうコアングの声は聞こえなくなっていた。
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