第26話 オーヴァル・オフィス
浮かない表情でカーテン越しに新緑の林を見つめていた第48代合衆国大統領、マイク・オーウェンは時計をちらりと見るなり、振り返って言った。
「ニュースが始まる。テレビをつけてくれ」
2040年5月8日火曜日9時30分。今朝の定例報告では、国務長官や首席補佐官を含むいつものメンバー以外に、クリス・クロフォード科学補佐官と民主党選挙対策チーム3名が加わっていた。
壁面モニターには次期大統領候補である共和党のエレノア・ハンセン(アラバマ州知事)の顔がアップで映され、「この選挙はどのような未来をつくるかの選択となろう~エレノア・ハンセン」というテロップが重なり映像がズームダウンしていくと、激戦が予想されているニューハンプシャー州マンチェスターの演説会場がフェードインしてきた。
「中国が月に"五星紅旗"を立てた日、私は変わった。あの日を忘れはしない」と紅潮した顔で彼女が支持者に訴えると会場に「ウォー」と大歓声が響きわたった。
「ここは熱狂的なエレノア支持者約2万人でぎっしりと埋まったマンチェスター市役所前の広場です...」 レポーターに切り替わった。
「後手に回る災害対策や失業対策! もうたくさんだ!」支持者達の声がレポーターの背後から飛んだ。
「私はテロに立ち向かいアメリカとアメリカ国民を守ります! 大統領として!」
『大統領として』と言い終わらないうちに再び大歓声が会場を包み、国旗とプラカードが激しく揺れた。
「11月に一般投票を控えた今年の大統領選挙は民主党現職のマイク・オーウェン大統領と共和党のエレノア・ハンセンアラバマ州知事による歴史的な大接戦となりそうです。 エリン・シュレーダーがマンチャスターからお伝えしました」
ニュースが次の話題へ移り、画面のスイッチが切られた。
「悪夢を見ているようだ。国内経済もようやく再興しつつあるのに」ジム・ピッツ国務長官がつぶやいた。
「報道機関3社の調査では現政権有利となっているが、国民の不満と不安を利用したこうした戦略が成功したらたいへんなことになる。先週の暗殺騒ぎもエレノアに同情的に働いているし」選挙対策責任者のデューイ・ターナーは言った。
「まだ半年もあるのに、今からこれでは先が思いやられる。
こちらは実績を前面に出して有権者に訴えていこう。それしかない」
大統領は続けて言った。
「クリス、CAPの結果を報告してくれ」
「先週に続き、情報通信、福祉、教育の産業分野で予測どおりの雇用効果が出ています。シミュレーションによると、地方都市の産業構造の転換を進めていけば、あと5年で失業者数が1/3まで削減可能です」
「けっこうだ」
「問題は、気象災害の農作物への影響が予測を大きく越えていることです。 原因を調べていますので来月には報告できるでしょう。今年の食料自給率160%は維持できますが、今後のこともあるので早急に原因を突き止めます」
「クリス、見当くらいはついているんだろう?」首席補佐官が聞いた。
「... 国内だけでなく、46カ国についても農作物への影響が深刻化しているのですが、 気候変動に作物がついていけなくなっているというロシアでの報告を先月読んだばかりです。遺伝子操作で品種改良をするにしても生産段階まで進めるには時間がかかります」
「世界的に食糧自給率が下がるというのはとても危険な兆候だ」国務長官が口を開いた。
「クリス、武力行使を伴わない解決策を探ってみてほしい。そうした不安材料は一刻もはやく取り除きたい」
「エレノアに付け入られないためにも!」デューイが力を込めた。
報告会を終えたクリス・クロフォードは、オーヴァル・オフィス(大統領執務室)を出て、シークレットサービスが24時間警備にあたる核シェルター機能を持った地下作戦本部に降りていった。
その一角にクリス専用の端末が2台用意され、1台からは専用回線によってロスアラモスのコンピューター「マシンQ」を呼び出せるようになっていた。 バイオメトリック認証を済ませると、CAP(Computer Assisted Politics)のウェルカムメッセージが表示された。
社会事象が極めて複雑に絡み合う現代社会において、それら社会の事象を個々に分解して関連性をモデル化する試みが進められた。20世紀中には不可能と思われた社会事象の総体シミュレーションが2010年代後半から限定的ながらも実用レベルに入った。 こうして、社会事象情報システム学はその後も急速に発展していくが、人口知能の専門家であるクリス・クロフォードがライフワークとして取り組んでいたのが政策決定を支援する精密モデルであった。
2015年当時のクロフォードは、ジョンズホプキンズ大学脳神経学科で、脳の学習・自己組織化過程の数学モデルの研究を行っていた。そのモデルの理論解析を通して、脳の情報処理のメカニズムを明らかにする一方、当時急速に進展していた社会事象情報システム学に強い関心をもった。 自分の研究成果を応用することにより、複雑な社会事象を再現、予測する可能性がわずかに見えてきた。 しかしながら、シミュレーションの精度向上には膨大な計算を高速で処理するコンピューターだけでなく、人間には手に負えないほど複雑なモデルの構築が不可欠だった。
何年もの間、この段階で失敗が繰り返され、研究は暗礁に乗り上げていたのだが、ついにクロフォードの天才ぶりが発揮された。彼は、シミュレーションの結果と観測データの相違を照らし合わせ、シミュレーション結果が観測データに近づくよう計算モデルの改良を(人間でなく)「プログラム自身」が推測して行うようシステムを設計したのである。
変化を続けるリアルな世界の広範な問題に対応するには、人間の判断を仰がず次々に政策を実行していく人工知能が将来求められるようになるだろうとクロフォードは予想している。
まだ開発途上にあった彼の新たな研究にいち早く注目したのが、当時はまだ上院商務科学運輸委員会のメンバーにすぎなかったマイク・オーウェンであった。
クロフォードは、少しの間思案した後、メガネをかけなおすと、世界的な食糧問題の「武力行使以外の解決策探究」をCAPに入力した。
CAPは直ちに次のように応答を画面に返してきた。
「今後の人口調整策を含みますか?」
クロフォードは「YES」と入力した。
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