第19話 ジョイス・ヨー



 ジョイス・ヨーは2010年、北京に生まれた。イギリスのレスディング大学の大学院を終了後、2034年からイギリス王立統合軍事研究所で国際テロの分析と対抗措置を研究した。 2037年からはイギリスのテロ対策特殊部隊「SAS」に移籍して実践的な研究を続けている。


 イギリス全体で1200万台にものぼる大規模な監視カメラをネットワーク化し、高速で画像照合を行う技術を開発したのがイギリス王立統合軍事研究所の彼女らの研究グループだった。 今年に入り、彼女が取り組んでいるのはテロ対策用のテレプレゼンス・ロボット技術である。



 2010年代後半、中国国家海洋局の海洋調査船が台湾の領海をたびたび侵犯するようになり、台湾の巡視船と空中偵察隊が態勢に入っていた。 アメリカ太平洋艦隊も偵察機による定期的な監視態勢をとっていたが、ついに2017年11月22日、アメリカ軍偵察機が海南島から92kmの国際領空域において中国偵察機と接触し、アメリカ人乗組員4名が中国側にとらわれるという事態が起こった。双方の非難合戦が続き、早期の打開は難しいとの観測が強まった。


 そうした米中関係悪化のなか、第13期中国全人民代表大会第1回会議が2018年3月6日から10日間の日程で行われた。 北京の人民代表大会堂周辺は厳戒態勢に置かれていた。国家公安部門に属する人民武装警察政治部が、民主クーデターの計画が進行中という情報をつかんでいたからだった。


 春節(旧正月)を迎える頃から、各地で民主化デモが始まっていた。通常通りの警戒態勢しかとっていなかった警察が2月26日につかんだ情報は警察首脳部を震撼されるものだった。


 28日、政権内の同調者が次々に逮捕された。


 3月に入り、逮捕者は一般学生はもちろん、国防大学、国防科学技術大学の学生にまでおよんだ。 代表大会後の3月19日には、全軍の最高軍事科学研究機関であり、全軍の軍事科学研究の中心である軍事科学院の教授(世界軍事研究部長)であった劉中山大佐ら8人のグループがそろって国防科学技術工業委員会に属する国家航天局に配属されたことも世界の注目を集めた。劉大佐の部下には、後に中国人として初めて月面に着陸することとなる李肇星少佐がいたのである。


 2月28日に自宅から連行された中央政治局委員のひとりは楊紫瓊。ジョイス・ヨーの叔母である。大会終了後の取り調べの結果、証拠不十分で釈放されるが中央政界からは遠ざかることとなった。ジョイスの家族もこの頃にイギリスに移住している。


 イングランド西部、ウェールズに近い小さな街ヘレフォードは美しい川と緑に恵まれた土地であり、そこから10kmほど離れた、いまは使用されていないクレデンヒル空軍基地がSASの本部となっていた。


2038年6月7日、訓練中の彼女のもとに母親が交通事故で入院との知らせが入った。 それほど深刻な状況ではなかったものの、ちょうどロンドン警視庁へ文書移送に出るところだったデイヴィッド・ハサウェイ少尉らの車に乗りロンドン市内に向かった。


 機密性の高い文書は漏洩・傍受の危険にさらされないよう、ネットワークを使わず、また電子文書ではなく通常文書の形で責任者同士で手渡しされるのが常であった。


 車内での話題はもっぱら「パリの地下世界」のことだった。 先週までパリにいた少尉の話では、パリに地下道が発達しているのはもともとパリが地下から石材を採掘して街を作ってきたからだという。 やがて地下道は下水道として使われるようになったそうだが、残った地下道の多くが管理されず放置され、ホームレスやアーティストたちのたまり場に利用されているという。 2029年から始まったパリ市再開発計画にともない、市当局による「地下世界」の本格的な管理が始まったが、主な地下道を把握するだけでもかなりの時間を要しているらしい。


 12世紀のフィリップ2世が外敵の侵入を防ぐために設けた砦も、ルーブルの地下に発見されていた。



 フランスのカトリック系新聞「ラ・クロワ」2038年3月26日号(電子版)に、「地下のテロリスト」という小さな記事が載った。具体的に踏み込んだ内容ではなかったため、あまり注目を集めなかったが、インターポールはこのときすでにテロリストの手による生物兵器貯蔵所がパリの地下にあるという情報をつかんでいた。



 多くの国で規制の対象となっている「人間の胚性幹細胞」の研究であるが、遺伝性疾患を持つ患者にとって幹細胞治療は大きな希望であった。たとえば、セロイドリポフスチン症という老廃物を除去する酵素を脳細胞が作れなくなっているという深刻な病気がある。 1990年代に入り神経幹細胞が成人にも存在することがわかり、もしこれを治療に活用することができれば、ダメージを受けた脳細胞を修復、再生することができるはずだった。


 幹細胞研究に関する規制が緩かったアジア諸国は、欧米からの「脱出組」に加え、投資家たちの強い関心を集めた。豊富な人材と投資によって臨床応用をめざした研究が急ピッチで進められた。



 2007年11月、京都大学の山中伸弥教授らのグループが、人間の皮膚細胞から胚性幹細胞と遜色のない能力をもった人工多能性幹細胞(iPS細胞)の開発に成功した。移植後の安全性をめざし、遺伝子導入ではなく化合物だけによるiPS細胞の開発競争が始まった。 数種の化学物質の組み合わせと濃度調整によって体細胞をiPS細胞に変える方法に大きな可能性が見えてきたのもつかの間、2010年代には、iPS細胞のテロメア研究が新たな問題が浮上し、iPS細胞の安全性確保というゴールは遠ざかった。


 シンガポールのアジア・セル社、レム・バートン氏は「どんな細胞でも幹細胞化できる技術を数年以内に完成させる」と発表したのが2025年のことだったが、残念ながらその課題は予想以上に困難だったようだ。



 激烈な企業間の能力競争によって、規制や倫理に抵触するような実験も密かに行われていた。 国連生命倫理専門調査委員会の2028年度報告で明らかになったものだけで33件の無許可実験が含まれており、治療クローニングと偽った生殖クローニング(いわゆるクローン人間づくり)の未遂や類人猿の脳に人間の幹細胞を移植するようなキメラ実験が含まれていた。


 人間と動物のキメラ実験から、これまでは動物にしかかからなかった感染症が人間にも影響を与える可能性が生まれた。これに眼をつけたテロリストたちがアジア地域で生物兵器を開発し、世界各地に貯蔵しているらしいという情報が突き止められていた。


 主だったテロ活動は少なくなったものの、2010年代以降いまだに、大規模なエネルギー消費施設や輸送設備、あるいはそれらを運営する会社に被害を与える事件が世界各地で散発していた。 被害現場周辺で見つかった記録や証拠から、ようやく容疑者が突き止められた。 彼らは監視カメラや電子的な盗聴をかいくぐるため、通信手段には主に「手紙」を活用していた。伝書鳩を使っていたという話もあるほどだ。


 やがて、2030年代に入ると、環境問題とは無関係と見られる交通・航空機事故が世界各地で起こるようになった。アメリカ国家安全保障局(NSA)のコンピューターがつけた暗号名で「アナンタ」とよばれるテロ組織のしわざと推定されているが、明白な根拠はなかった。


というよりも、「アナンタ」の実体がまるでつかめていなかったのだ。




 先月18日昼過ぎ、インターポール本部に盗聴を恐れたためであろう匿名の手紙が届いた。


 どこにでもあるようなプリンター用紙に打ち出された内容は3種の数字からなり、誰から見ても3次元位置データであることは明白だった。それはパリ市内アンペール通りの地下55mを示していた。そこになにがあるかは不明だったが、生物兵器の貯蔵所である可能性が考えられたため、パリ警察の応援を得て5月22日朝から地下の捜索が開始された。万一の場合に備え、付近一帯の住民が即時避難できる態勢も整えられた。


 今回の情報は「アナンタ」解明のかぎになるかもしれない、そんな期待もあり、ハサウェイ少尉はパリに向かうことになったのだ。


 生物化学兵器用防護服に身を包んだ武装警官25名を含む総勢32名は、アンペール通りにある古びた煉瓦で覆われたビルに入って行った。奥まった小さな部屋の鍵をビルの管理人が開けると、石でできた長い螺旋階段が続いていた。


 「ライトを!」 先頭を行くジャン=ジャック・ヴァルツ警部の声で、各自が手にもつライト・ハンマーが点灯された。


 螺旋階段の床には靴の跡がいくつも付いているが、最近の靴によるものであることは二日前に行われた鑑識調査で間違いないという。何者かが合い鍵を使ってここに出入りしていた、 あるいはいまも出入りしているらしいのだ。


 壁面には文字か数字らしきものがときおり目に入る。このあたりの地下道は古いものでは15世紀に作られたものがあるという。


 50mほど降りたところでようやく階段がなくなった。そこからは幅1mほどの狭い地下道がまっすくに続いていた。脇道がないかどうかを注意しながら奧へと進んでいく。 これほどの地下になると、通常の無線だけでは地上と通話できないため、警官のひとりが無線の小型中継器を要所要所に置いていた。


 途中で壁が崩れ通路が一層狭くなっていたが、人間ひとりくらいは通ることはできた。


 180mほど歩いたところで隊列が止まった。何かを見つけたらしい。

イヤホンからの音声が、古い時代のおびただしい人骨が見つかったと伝えていた。


 墓地として使われていた場所らしい。隊列が進むと、広い空間に出た。驚くべき光景だった。三方の壁面が人骨で埋まっており、頭骨が最上部に集められていた。闇を奪ったライトを恨めしそうに見る物言わぬ頭蓋骨の怨念が空気中に漂ってくるようだった。


 残る壁面には、文字が刻まれた大きな岩板が埋め込まれていた。文字はかろうじて読みとることができた。


JE MEURS ET SUR MA TOMBE OU LENTEMENT NUL NE VIENDRA VERSER DES PLEURS



 そのとき、「部屋が見つかった。武装チーム前へ!」という警部の声がイヤホンから聞こえた。突然奧から2発の銃声がし、数秒後には鈍い爆発音が。やがて煙が通路に立ちこめ始めた。


 さらに十数秒後には、二度目の爆発音が聞こえた。


 防護服の上から赤外線ゴーグルをつけた武装警官らが鍵をやぶって部屋に入った。煙と埃の中、赤外線スコープの視界には、机と簡素なイス数脚だけが映った。


「男が倒れています!」というイヤホンの声。


 二人の男が部屋の奧に重なるように倒れていた。


「ひとりはまだ息があるようです」


「急いで地上に上げろ! 」


 部屋の反対側の通路を進んでいくと爆破によって行き止まりになっていた。


 室内にめぼしいものは残っていなかったが、皮膚の一部や髪の毛一本も見逃さない鑑識調査が早急に行われた。


 たった一人の生存者は身元も判明しておらず、意識も戻っていない。 そこで、パリ大学医学部のアリューヌ・トゥーレの応援が要請された。アメリカのハーバード大学医学部で逆ドウベル過程、つまり脳から映像情報を取り出す技術を学んだトゥーレは、重度の統合失調症に対する心理療法にこの技術を用いていた。


 鑑識結果とトゥーレの報告書を携えてハサウェイ少尉は先週帰国した。その写しを含むロンドン警視庁宛保安関係文書を目下移送中なのであった。


 ロンドン市内に入り、ロイヤルパーク病院に近い交差点に向かっていたとき、ジョイスは異変に気づいた。


「止めて!」


デイヴが車を寄せた。


「どうしたんだ」


「向いの銀行!」


「シャッターが降りてるな」


「この時間、シャッターが降りてるなんて」


「ああ、確かに。アーネスト銀行だな。本部に連絡を...おい、ジョイスどこいくんだ!」



 すばやく最新式のシグザウエルP256と無線機を着用すると、車外に飛び出し、うしろの交差点に向かっていた。


「ジョイス聞こえるか?」


 同乗していたマイク・コールマンの声だった。


「この周辺の通報はなにも入っていないそうだ。車をそちらに移動させる」



 1カ所シャッターが締まっていない角にあるドアの窓から、警備員がひとり、外のようすをうかがっていた。


「あの、預金をおろしたいのですが...」

 ジョイスはその警備員に聞いた。


「すみません。システムが問題がありまして、お客さまのご利用がしばらくできなくなっているんです」

 警備員が答えた。


 おかしい、そんなことで店中のシャッターを下ろすはずはない。


「でも、いま預金をおろさないと困るんです。誰かを呼んでください」


「わかりました。お待ち下さい」

 というと、警備員は奧へと消えた。


 端末ブースはおろか、店内にも人影が見えない。


 警備員がもどってきた。


「恐れ入りますが、あと10分ほどで復旧する見込みですので、もうしばらくお待ちさい」


 その直後、奧のほうで銃声がした。なにもいわず、警備員が再び奧に走り去っていった。


「ジョイス、いまのは銃声か?」コールマンが聞いた。


「そうらしいわ。警察の到着を待つ?」


 さらに銃声と悲鳴が聞こえた。


「猶予はないようね」


「ジョイス、こちらは保安文書の移送中なので車をおいて出られない。無茶はしないでくれ」


「了解」


 そう言うのが早いか、ジョイスはP256の一撃でドアの鍵をやぶると銀行内に入っていった。かすかに火薬の匂いがした。


 背を低くし壁面に沿って進むと、端末ブースがあり、扉の前まで進むとその奧には来客用の待合いスペースが広がっていた。物音ひとつしないため、思い切って扉の反対側にすばやく移動し内部のようすをうかがおうとしたが、低いうめき声が聞こえたため、体を止めた。


「三...三人いる...」 苦しそうな声が微かに聞こえた。


 負傷した者がいるらしい。銀行を襲撃した犯人が三人いる、ということだろうか。


 遠くから警察車両のサイレンが近づいてきた。奥の方で人が動く気配があった。すかさず、扉の反対側に移った。待合室の奧のほうで職員と預金客らしき多数が床に伏せており、 立っている犯人らしき二人の姿が見えた。ひとりはさきほどの警備員。偽物か内通者か。


 手前に長椅子があったが、三人目はどこなのだろう。この扉のそばにいる可能性もあり、うかつに動けなかった。


 犯人たちがなにか言い合いをしているようだか、聞き取れない。英語ではないようだった。


「いま警察が到着した。彼らには少尉から事情を説明する」

 コールマンからの声だった。


「未確認だけど、犯人は三人の可能性。すでに重傷者がでているもよう」


「その情報をこちらから警察に伝える」


 犯人のどなり声とともに、再び銃声と悲鳴があがった。一刻の猶予もない。近くにあった卓上計算機を引きちぎり、扉の向こうに投げると、計算機が落下する音がした瞬間、ジョイスはそっと扉から内部に入り、長椅子の陰に身をかくし、扉のほうに銃を向けた。三人目は幸いその付近にはいなかった。


 犯人たちは計算機が落下したあたりめがけ銃を乱射した。そのおかげで犯人の位置がほぼつかめた。


「三人いる...」という弱々しい声がまた聞こえた。


 声の主は、長椅子の向こうにいるらしいがここからは姿が見えない。犯人のひとりが、計算機の落下場所であるカウンターの中に入っていった。ジョイスのP256がそのひとりを確実にとらえ火を噴いた。


「ラッセ!」もうひとりの声がした瞬間、長椅子の上からねらったジョイスの2発目の高電圧弾が彼の全身を一瞬にして麻痺させた。


 残る三人目は? いったいどこに?


「突入は待って! いまはまだ。まだ一人いる!」

 コールマンに伝えた。


「もうひとりが2階にいる!」という声がとんだ。立ち上がったジョイスは奧のほうに歩いていった。


「みなさんはいまのうちに屋外に出て下さい」

誰からも返事はなかった。


40人ほどが床に伏せていたが、動こうともせず、その顔には恐怖の色が充ちていた。


 ジョイスが2階に通じるらせん階段を昇っていこうと振り返ったその時、「あぶない!」という声がし、銃弾がジョイスめがけて発射された。 銃弾を受けた彼女の体は床に跳ねとばされるように転がった。


 ジョイスは脇腹にあてた手に温かい血の感触を感じていた。激痛をこらえ、深く呼吸しながら、自分をねらった相手を見据えていたものの正確に銃をかまえることができなかった。


「銃をよこせ!」


 客に混じっていた「三人目」が近づいてきた。メガネをした中年の紳士。 できれば意識がはっきりしているうちに決着をつけたかった。 気づかれないよう、P256の所持者識別機能のスイッチをR(リヴァース)側に切り換えた。


 犯人は奪い取ったP256でジョイスの両目の間をしっかりと狙い躊躇亡く引き金を引いた。


 銃声が響き渡ると、紳士が力無く床に崩れ落ちた。と同時に警官隊が突入してきた。ハサウェイ少尉とコールマンの姿が近づいてきた。


「ジョイス! しっかりしろ!」


「いま、救急隊員がくる」


「たぶん、この痛みは...わ、わきばらを貫通しているだけだと思います...ああ、スーツが...台無し...こっちも...病院行き、って知ったら....母さん驚くだろうなぁ。  二人とも...車から離れて...いいんですか」


「ジョイス、もうしゃべるな! 文書はスレード警部に渡したところだ」


「警備員が腰と腹を撃たれています!」


 警官の声がした。 犯人の人数を教えてくれたのはおそらくその警備員だろう。


 この程度の傷ですんだのは『あぶない』と叫んでくれた誰かのおかげだ。

担架に乗せられ、周囲を見渡すジョイスの眼が、さきほどまで倒れていた車椅子をとらえた。


 車椅子には東洋人らしき青年が座っていた。


 あの人だろうか...ああ、心配そうにじっとこちらを見ている。澄んだ眼が印象的だった。


 留学先で銀行襲撃事件に出くわした美濃良治が、再びジョイス・ヨーの顔を見るのは、2年後、月面での事故現場であった。






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