第20話 全地球シミュレーター
ニューメキシコ州の北西部、ニューメキシコ、アリゾナ、ユタ、コロラドの4州が接している通称「フォーコーナーズ」の近くに位置するロスアラモス国立研究所は、標高2200mにあるエネルギー省の施設である。古くは原子爆弾の開発でも知られるが、現在も軍事や安全保障上の重要な研究が行われている。
運営はカリフォルニア大学に委託されているのだが、警備は極めて厳重であり、許可無く立ち入ることはできない。なかでも「フェンス」と呼ばれている領域の建物にはIDカードの所持が義務づけられている。特殊なIDカードで、それ自体が持ち主のDNA識別機能を持っており、本人以外が所持しても全く機能しないばかりか不正に使用すれば連邦法により処罰されることになる。
「フェンス」敷地内には地上1階地下10階の異様な金属光沢の壁面をもつ建物がある。数年前までは衛星写真に巨大ドームが写っていた場所であった。建物ごと電磁シールドが施され、巨大な耐震基部の上に建てられている。その地下8、9階の大部分を占めているのが「マシンQ」という呼ばれる世界最速、最高性能のスーパーコンピューターである。その資金を出しているのは公式にはエネルギー省と全米科学財団となっていたが、NSAがエネルギー省プロジェクトを支援するという形で巨額の出資をしていた。
9000テラFLOPS(9000兆回の浮動小数点演算/秒)の機能を持つスーパーコンピューターは、地球規模の気象予測精度を上げるため、2012年から3年計画で第1次システムが構築され、2016年から10年計画での第2次システムへの拡張、さらにその後の第3次システムへと進められた結果である。
計算機科学コミュニティーでは、ロスアラモス研究所に完成間近の量子コンピューターの試作機が存在するとの噂が流れたことがあった。従来のコンピューターとは全く異なった原理で計算する「量子コンピューター」では、量子力学的な「重ね合わせ状態」を利用した超並列計算を可能にするため、従来のコンピューターとは桁違いの高速処理が可能になるはずであるが、実際にはいまだ安定した量子計算機は実用段階に至っていなかった。計算機自体を完全な隔離状態に置かないかぎり、周辺環境とのわずかな相互作用から 「量子状態の崩れ」が起きてしまうからであった。
第1次システムは、カリフォルニア州のNASAエームズ研究センターが中心となって開発したハリケーン災害予測のための高精度気象シミュレーション・システムであった。その成果は2014年以降、ハリケーンの進路予測や被害規模の推算に威力を発揮し、それまでに発生していた年間4700億ドルもの経済的損失を4分の1まで軽減させただけでなく、毎年数百~数千人規模の人命が救われることとなった。
2009年1月に発足したバラク・オバマ政権のジョン・シェルンフーバー科学補佐官は、高度技術産業が集中するカリフォルニア州を地震被害から守るため、フランス国立宇宙研究センター(CNES)の「デーメーテール」(DEMETER:Detection of Electro-Magnetic Emissions Transmitted from Earthquake Regions)という電離層監視プロジェクトへの早急な支援を大統領に進言した。
「デーメーテール」では、高度750kmをまわる小型の人工衛星を使って電離層の乱れを監視していたが、2004年から3年間の観測で早くも大きな発見がなされた。地震が起こる前18時間以内に、震源上空の電離層(主に高度150km前後)に1万分の1程度のプラズマ密度変動(電離層シンチレーションと呼ばれる)が68%以上の確率で起こっていたのである。
太陽活動や流星の影響を排除するための解析に膨大な時間がかかっていたが、IPG(インフォメーション・パワーグリッド:全米各地に分散したスーパーコンピュータ、大規模データベース、計測機器を結ぶネットワーク)に接続されたことにより「デーメーテール」は、遅くとも半日前に地震予知情報が出せる段階に入った。
シェルンフーバー科学補佐官とそのスタッフ、とくにマイク・ターナーやリンダ・ミルズといった地球物理分野出身者らの血のにじむような努力(連邦議会の説得を含めて)は 2011年8月14日に報われることになる。
前日、8月13日土曜午後2時32分(太平洋夏時間)、トーマス・ボイド教授は自宅で軽量ゴーグル型「グラシウムII」を楽しんでいたが、今はソファーで青い顔をして横になっていた。
重力・方位センサーを内蔵しているため、頭の向きに応じて網膜に投影される映像が連続して変化し、ズームも可能だった。
地球上の現在位置と目的地までの経路を示すナヴィゲーション機能のみならず太陽系空間内を自由に移動できる「グラシウムII」は、さまざまな映像フォーマットを読み込むこともできたため、世界的に最も普及した視聴覚機器となっていた。
説明書に「注意」とあったことはただひとつ「頭の向きを急に変えるとめまいや吐き気をもよおすことがあります」ということだったが、誘惑に抗しきれないユーザーは注意書きに挑戦することになる。ボイド教授もそのひとりであった。
ぐったりと垂らした腕に巻いたエニグマ(携帯端末)が聞き慣れない音で鳴った。教授が驚いて目をやると、小型画面には「緊急」の文字が明滅していた。
北カリフォルニア地震データセンターは、カリフォルニア大学地震研究所とアメリカ地質研究所による共同運営ながら、カリフォルニア大学地球物理学部の建物に同居していた。
データセンターのグレゴリー・ホールはボイド教授に要件を伝え、指示を待った。
前日土曜午後3時には、ロサンゼルス地区周辺でマグニチュード6~7クラスの地震が18時間以内に起こる可能性が高いとの地震警報が出された。市民は日曜の外出を控え、指定避難所にも多くの市民が待機することになった。工場や研究所の機器類も最低限のものだけが稼働し事実上機能を停止した。週末であったことが住民の協力を得る上で好都合だったのかもしれない。
少なからぬ緊張状態に置かれたロサンゼルス周辺住民は、それぞれの安全な場所にいながらも安眠はできず、かたずをのみながら時間の過ぎ去るのを待った。
翌日早朝4時30分55秒に起こった地震はまさに「それ」だった。幸い、マグニチュート7.1(震源の深さ5km)の地震の震源は都市部からは離れていたため、たまたま震源地近くを走っていたアムトラック鉄道が脱線し、151名が重軽症を負った程度で済んだ。ロサンゼルスでは揺れが14秒ほど続いたが、建築物への被害もほとんどなかった。
事実上の成功を収めた「デーメーテール」には、その後、日本、中国、インドなどアジア諸国も参加を表明し、電離層を監視する衛星数も増え、予測精度は一層向上していった。
シェルンフーバー科学補佐官が次に推進したのが、連邦予算を圧迫していた災害対策の問題であり、とりわけハリケーンの進路予測の問題だったのである。
2040年の国連推定世界人口は約87億人。その生活によって排出される二酸化炭素は、海洋が自然に吸収できる量の実に3倍に昇っていた。 地球温暖化の牙は21世紀に入り、徐々に人類の前に姿を現し始めていた。
宗教や民族的色彩の濃い地域紛争に加え、大量エネルギー消費国から自国や地球環境を守ろうとする新たなテロ活動が散発していた。「生活の豊かさを追求するのか、それとも地球環境をとるのか」という、バリ・レネコタ全アフリカ環境評議会議長の言葉が問題の本質をとらえていた。経済は地球規模で限界を迎えていたのだ。
「宇宙に眼を向ける余裕があるなら地球環境の監視に予算を回せ!」
2012年のユーロサイエンスフォーラムで、巨大望遠鏡建設競争に参加しようとしていたヨーロッパ連合に警鐘を鳴らしたイギリス気象異変センターのシェルンフーバー所長(大統領補佐官とは別人)の発言だが、地球環境監視に予算を確保しようという国際世論が巻き起こり、同時に宇宙探査の意義が改めて問い直されるきっかけとなった。
予定された計画を終了しながらも興味深い観測を継続していたアメリカのボイジャー計画や、2016年打ち上げ予定だった初の軌道上建造型海王星探査機など、3つの計画中止の動きに対し、多数の一般市民や企業(海外からも)から寄付が寄せられ計画が継続されるという新たな展開も生まれた。
たしかにヨーロッパ宇宙機関の地球環境監視活動はその後も弱体化することはなかった。
そして、複数の衛星が地球環境の危機的なデータをはじき出していた。
1992年以降の海水上昇は年平均3mmとなり、その主な原因は10年で0.1度という水温上昇に伴う海水膨張と温暖化による氷床融解であった。南極表面下6540mまでのコアサンプルが掘削され、氷柱に閉じこめられた太古の大気が調べられた。その結果、現在の二酸化炭素濃度は過去150万年で最も高くなっているという事実も明らかになった。
衛星からの観測データは、2000~2030年の間だけで二酸化炭素濃度が64%も上昇したことを示していた。 世界の平均気温は20世紀中だけで0.8度も上昇していたのである。
アメリカ海洋大気庁では、ロッキー山脈などを含む全世界144地点における二酸化炭素濃度の分析を急いでいたが、ピーター・トランズ主任研究官はグローバルヴィジョンのインタビューに応え、悲観的傾向が確認されたと語った。事態が改善されている兆候は全く見られず、二酸化炭素濃度の増加がむしろ加速されていると、不気味な事実を物語る図表が示された。
さらにトランズ氏は、世界各地で干ばつの被害が増える一方、アメリカ国内では豪雨による被害が深刻になっていると説明した。国内の穀倉地帯において、トウモロコシなどの収量に与える影響を調べた結果、穀物生産に重大な影響を与えるような豪雨の回数が過去40年間に39%も増加し、穀物の減収量は2040年には40年前の2.6倍以上になるとの見通しを明らかにした。
イギリス、イーストアングリア大学のティモシー・オズボーンとケイス・ブリファらは、スカンジナヴィア、シベリア、ロッキーなどの常緑樹の年輪、グリーンランドの氷床から採られたコアサンプル、そしてオランダやベルギーに居住していた人々の残した記録など14種のデータを徹底的に調べあげ、北半球では紀元890年~1170年に「中世温暖期」があったこと、また1580年~1850年には「小氷期」があったことを確認した。それらのデータからさらに明らかになった事実は、20世紀以降の北半球の気温は過去1200年で最高のレベルになっていることであった。
カナダでは、牧畜と穀物生産が盛んな西部平原地帯の1/3が毎年のように干ばつに見舞われ、五大湖の水位低下により船舶が積荷を減らすことを余儀なくされていた。 カナダの環境調査船セドナ2世号の2010~2011年の観測から、すでにカナダ北極圏が危機的な状況に置かれていることが判明していた。
北極圏の北西航路(カナダ側)の氷の減少により、2010年から夏期の数ヶ月、通常の船舶がそこを通過できるようになっていたのである。現在ではほぼ半年近く、北西航路の利用による大幅な航路短縮が可能となったが、とてもカナダの経済的損失を補えるものではなかった。
ネパールやブータンでは、各地の湖の水位上昇によって昨年1年間で127名が犠牲になり、橋や水力発電所も水害に遭っている。
ネパール水資源気象局は、自国内のヒマラヤ氷河3250箇所の内、氷河湖をもつ2315箇所のデータを分析した結果、そのすべてにおいて水位が急速に上昇しているという。日本の研究グループも、ヒマラヤ氷河が年間20m以上の後退を続けていることを地球観測衛星によって突き止めた。
グレイス衛星(GRACE: Gravity Recovery And Climate Experiment)7,8,9号による重力測定は、南極氷床河が毎年415立方km無くなっていることを示し全世界に衝撃を与えた。21世紀初期の2.7倍の融解速度である。
北極海では、氷山が占める面積の減少率が10年で8%にも達し、2060年夏期の残存氷山は事実上皆無になる見込みである。 氷による太陽光の反射がなくなるため、海水温はさらに上昇するという悪循環が始まろうとしていた。
約2万年前にピークを迎えた最後の氷河期。その生き残りであるグリーンランド中央部の氷床は3000m以上の厚さを誇っていたが、グリーンランド、ヤコブスハウン氷床も急速に縮小している。グリーンランド南東部の気温は20年間に3度も上昇していた。
氷床は、研究者が予測していた以上に気温変動に敏感に反応していた。1996年当時のグリーンランドでは年間、およそ96立方kmの氷床が消失していたが、2005年には220立方km、2020年には460立方kmもの氷床が大西洋に流れ出していた。もしグリーンランドの氷床がすべて融解してしまったら、地球の海面は7mも上昇し、バングラディッシュ、オランダ、フロリダ南部などを含め、世界の沿岸都市の多くが水没してしまうのだ。すでに2013年には、ヴェニスのサンマルコ広場が完全に水没し「キリバスの悲劇」が2022年に起こった。2030年代に入り、ツバル、ナウルなどの島々も年間を通じほとんど水没状態に陥っている。
また、グリーンランド氷床融解が北大西洋海流に与える影響も懸念されていた。 温暖な大気をヨーロッパ北部に運んでいるのがこの海流だったからである。 さらに、地球規模の海洋大循環への影響も必至と見られ、いったん大循環が阻害されるとその回復には数千年を要すると予測されている。 日米欧4つの地球観測衛星に積まれた高度計やマイクロ波レーダーが海面の起伏を高精度に測っており、深海海流の不気味な変化を検出し始めていた。
南極のラエルセンB棚氷も大きく崩壊し、ジェームスロス島に設置されたコロラド大学雪氷データセンター南極ステーションからの映像は、衛星画像とともに世界中の関心を集めていた。棚氷の広大な亀裂は1日に15mも拡大していたのである。 コロラド大学のディヴィッド・エイガンによると、南極半島の平均気温は過去50年間で2.6度上昇し、21カ所の測定地点のうち8割以上で氷床の後退が観測された。南極大陸西部地域では年間3~4mの割合で氷が薄くなっているという。もし、西部地域の氷床すべてが融解すれば、海面は5mも上昇することになる。
B-44と呼ばれる世界最大級の氷山(厚さは約240m.面積はシンガポールの15倍もある)は、これまでおよそ500年間南極に存在したと見られているが、ついに2036年2月12日、ロス棚氷から分離した。南極半島で過去70年間に起こった最大の現象であった。現在もこの「世界最大の漂流物」は南極海沿岸を移動している。
南米パタゴニア氷河は21世紀に入り2倍以上の速さで消失し、キリマンジャロの万年雪も、モンタナ・グレーシャー国立公園にある氷河も、エクアドルのアンティサーナ氷河も、現在は写真のなかだけに存在する。
2億5千万年前のペルム期におきた大量絶滅(海洋生物の約95%、陸棲生物の4分の3が死滅)の原因については未解決であるが、数十万年にわたる火山活動によって大気中に放出された二酸化炭素や二酸化硫黄が地球温暖化を招いたという可能性が注目されていた。その研究に使われたのが、2036年に完成したばかりの「マシンQ」上の高精度地球シミュレーション・システムであり、採用された計算モデルは「GISS2035」と呼ばれるものであった。
「GISS2035」の本来の目的は、過去50年間の地球上の気象データを可能な限り正確に再現できる、ということであり、開発には4年の歳月が費やされた。プロジェクトリーダーであるアーサー・マケインは十分な成果を得、その詳細を「地球物理研究ジャーナル電子版」に報告した。
次なる課題は、「GISS2035」を使って今後50年間の気候変動予測を行うことだった。それには温室効果を生み出すガスの種類や排出量などの変数に制限を定めなければならなかったが、さまざまな可能性を考慮した6560通りもの計算例のいずれもが、21世紀中の悲劇的な結末を暗示していた。
熱帯低気圧の急速な発達、ヨーロッパにおける降雨量の増加、地中海沿岸地方をはじめ北半球での顕著な気温上昇と降雨量減少、土壌からの二酸化炭素放出増加など、現在発生している顕著な傾向も全て再現されていた。
ヨーロッパに温暖な気候をもたらしてきた北大西洋深層循環は、グリーンランド氷床の融解によって循環速度が大きく弱まり、21世紀以降の地球平均気温が2度上昇する結果、世界が深刻な状況に陥ることが予測された。 ヨーロッパ、ロシアにおける農産物への打撃。アフリカ北部全体の砂漠化による大規模な難民発生。28億人分の飲料水不足。アフリカと北米におけるマラリアの流行など。
「地球物理研究ジャーナル電子版」2037年6月号に公表された "The Next 50 Years of Climate Changes" は、学術コミュニティだけでなく行政、経済界はじめ、一般にも広く読まれるようになった希有の学術論文となった。
2005年2月16日に発効した「京都議定書」(気候変動に関する国際連合枠組条約の京都議定書)以来、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)による世界最新の研究成果は、政策決定者の判断材料としてその機能を果たしてきたが、世界最大の二酸化炭素排出国である中国やアメリカ、多数の発展途上国は、失業者が増えるような国内経済への打撃は容認できないとして、大幅な二酸化炭素排出量規制には消極的だった。 それでも気候変動による経済的損失が誰の目にも明らかになってくると、ようやくこの問題に真剣に向き合うようになってきたのである。
残念ながら、気候変動枠組条約事務局(UNFCC)の政府間協議でも長期的に有効な政策を見いだすことができず、将来に対する言い得ぬ不安感、無力感が人々の心にのしかかっていた。
暗闇の中にわずかに残された希望の光は「核融合」だったが、実用化までににはなお時間を要する状況だった。全地球的な課題解決に向け、国際協調体制で核融合実用化を急ぐべきだと主張する声は世界中で広まっていた。
UNFCCのジュリー・グーデン事務局長は、2038年1月12日、ドイツN24-TVの番組インタビューで次のように語った。
「中世の文学者ドン・ホアン・マニュエルは『熱い戦争は、死か平和かのいずれかで終わるが、冷戦は、それを闘う者に平和をもたらすこともなければ、栄光を与えることもない』と書いています。地球環境をめぐる国際対立は、熱い戦争を経ず全人類が敗者となる第三の戦争になるかもしれません」
地球環境の重大局面を迎えたなか、アメリカ国内では大統領選に向けての一般投票が半年後に迫っていた。
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