第10話


 ドアのスライドは驚くほど軽い。5歳の頃とは桁違いにすんなりと開いた。中はカーテンが掛かっていて、親父がいるかどうかがわからなかった。

 僕はどう挨拶をすればいいか悩んだ。実際には、成長した息子の姿を見ることなく、この世を去ってしまう父親に接する顔が僕には想像できない。

 カーテンを開けるかを躊躇ためらっていた僕に、後ろから肩をたたかれる。振り返ると壮年の顔の男性が、不思議そうに僕を見ていた。紛れもなく隆房、親父だった。歳をとった鏡を見た時の自分がもうひとり、目の前にいる気分だった

「あの……僕は、龍美くんの小学校教諭のトハラといいます。龍美くんのお父さんが入院していると聞き、お見舞いに……」

 突発的にでたぶっきらぼうのでたらめな職業を並べて、親父が信じるわけはないが、なんとかごまかせないかと思った。

「わっ、はっ、はっ、はっ!」

 親父は、僕のぎこちない台詞に大笑いしている。まるっきりの作り話だと言うことを見抜いているようだった。

「先生が、わざわざ俺の見舞いになんてこないだろう。あんた、俺に何か用事できたのだろう?」

 一瞬、僕は親父の勘の良さに黙ってしまう。

「実は……お、おれ、隆房さんの奥さんに頼まれて、お見舞いがてら、様子を見てくるように言われまして……」

 ベッドへ横たわると、親父はじっと僕を注視した。まだ、疑わしい眼差しを僕に向けていた。だが、穏やかな顔になった。

 僕は、思い切って本当のことを打ち明けようか迷った。

 親父は突然にかがみこみ激しいせきこむ。それと同時に、ものすごい音とともにたんを吐き出した。

「大丈夫……ですか? まさか病状が悪化したんじゃ?!」

 心配するな、と言わんばかりの顔を向けた。落ち着いて息を整える。親父の顔は、苦しそうだった。

「あんたが、一瞬、成長したにみえた」

「たつぼう?」

 うろ覚えだが、『龍坊』という言葉に聞き覚えがあった。子供の頃、おやじにそう呼ばれていたと母は言っていた。

「まだしっかり喋れないが、俺の息子だ!」

 本当に死期が近いとは思えない力強い声をしている。だが、さっき親父が吐いたたんの中には、赤い血が混じっていたような気がする。

「まだ、俺は死ぬわけにはいかん!」

 頑固さにも力強さを感じる。本当に明日、死ぬのだろうか、さえ僕は疑いをもった。

「あの、おこがましいことを訊くようですけど……」

 心臓の鼓動が速くなり、僕はこの上なく緊張していた。

「もし……」

「……」

「もしも、未来から息子さんがあなたに会いにきたら、父親としてどんな言葉をいうんですか?」

 しばらくのがあいた。親父は真顔でこう言った。

「そうだなぁ……。『何事にも精一杯とりくめっ!』とでも言ってやるかもな! はっ、はっ、はっ、まぁ、そんなことが起こるわけはないがな」

 またも、親父は激しく咳きこんだ。

 小さな声がして、僕はカーテンの方を振り向いた。

「た……みくん!」

 見ると九籐さんだった。手招きをしている。

「隆房さん、用事ができてしまったので、これで失礼します!」

 僕はカーテンの方に踵を返そうとした。

「もし、成長した息子に会えたら……」

 僕は立ち止まった。

「伝えておいてもらえるか……」

 さっきまでの元気はなく弱々しい声だった。

 と」

 ふり返り僕は言った。

「かならず伝えます!」

 僕は深々と一礼をして部屋を後にした。

 『俺よりも強く生きろ!』と親父が僕に向けて言い放った言葉は、重みのあるに聞こえた。いまのいままで、見栄を張っていた様に思えた。強がってはいたが、親父自身で死期が近いことを感じ取っている様に僕は思った。

 待っていた九籐さんと合流して、病室をあとにした。


 素早くエレベーターに乗った僕に、隣にいた九籐さんは、カプセルの飲み薬を渡してきた。

「風邪薬をベースに開発したものだから、効果は薄いかもしれないけど、念のためよ。飲んでおいて!」

 廊下を小走りする中で、

「これから、高橋ツグミさんの病室に行くわよ!」

「知奈美のお姉さんの病室ですか?」

「ええ、マスクを渡しておくわ!」

 白い不織布のどこにでもあるマスクだ。

 しばらく歩くと、ガラス戸で隔離されたドアの前までたどり着く。中は、曇り窓にしているためか、見通せなくなっていた。

「この中に、ツグミさんがいるんですね」

「そうよ。普段は滅多に使われることがなかったそうなの」

 ドアはオートロックされているようで、誰でも入れるようにはなっていなかった。


『いま、隔離病棟のドアの前まで来ました』


 九籐さんは、天上角を見ながら、首元のマイクらしきものに呼びかけている。セキュリティカメラが僕の目線にみえた。


『はい、了解しました』


 センサーに反応して、ドアが開く。

「龍美くん。行くわよ! マスクをして」

 僕らは、隔離病棟の奥へと歩き出した。


つづく

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