28.きらきら

 ちょうど、十歳の誕生日だった。あれはそう、星の輝く夜のことだ。僕は父上に連れられて黄金の蒸気機関車に乗り、初めてこの村の外に出た。外側には「ニンゲン」という種族がたくさん――いや、少し違うな。そこでは僕たちのような種族こそ珍しく、「ニンゲン」しかいないのだった。

 父上は言った。ユリシス、お前はわしの次に村長になるのだから、今日からニンゲンの街のことを学びなさい、と。十歳になったのだからお前も立派な大人になりなさい、と。機関車の中ではわくわくしていた僕も、降りてしまえば自信をなくした。自分の住む地域より少し大きいくらいだろうと高を括っていたからだ。こんなに大きな、知らない世界があるとは思ってもみなかった。

 そんな僕を知ってか知らずか、父上はひとりで仕事へ出かけてしまった。僕がその仕事を受け継いだ後だからわかったことだが、ニンゲンは僕たちが完成させた蒸気機関を使って楽に暮らしているらしい。それについての会議やら商談やら、あのときの父上は今の僕と同じくそんなことをやっていたのだろうと思う。

 しかしその頃の僕は十歳になったばかりだ、当然何もわかっていない。ぽつんとひとりニンゲンの海の中に放置されて、どうするべきなのか、何をするのが良いのか。僕はただ隠れるように細く暗い道に逃げることしかできなかった。それが運命の分かれ道だったのだろうと思う。僕があのときあのままその場に立ち尽くしていれば、もしくは様々な店を見に行っていれば、彼女と出会うことなどなかったのだから。

 背後でガシャンガシャンと金属がぶつかり合う音がした。振り向けば、大男が数人がかりで大きなおりをいくつも運んでいるのが見えた。大声で何かを叫んでいるのも聞こえた。早くしろ、オークションに間に合わないぞ、言うことを聞かないガキは殴って黙らせろ。飛び交うのはそんな物騒ぶっそうな言葉たちだったが、当時の僕にはほとんど意味はわからなかった。

 少しだけ近寄って、その様子を見ていた。そして気付いてしまった。檻の中にいたのは少年少女だったのだ。ニンゲンの、まだ育ちきっていない、僕より年下の子どもたち。僕はてっきり、檻の中にいるのは動物だとばかり思っていた。サーカス団や何かの移動なのかと。

 僕は無意識に、その集団の後をついて行った――。

 止まったのは大きなホールの前。続々と搬入されていく檻たち。

「もうスペースがないな。仕方ないから順番の遅いガキどもはここに置いて行こう」その言葉を最後に、そこには誰も来なくなった。代わりに騒がしくなったのはホールの中だった。何かのもよおし物が始まったらしい。――今だ、僕は思い切ってそれらに駆け寄った。

 檻の中で伸びてしまっている少年、隅っこに座り込んでぶつぶつ呟いている少女、ずっと泣いているまだまだ幼い赤ん坊。様々な絶望がそこに閉じ込められていた。僕はニンゲンの闇を見た。

 その中にひとり、あまりにも美しい少女を見つけた。汚れた白の布きれ一枚を身にまとって、髪の毛をかしている後ろ姿だった。それだけでもわかる、他の子たちとは何かが違う。僕はこの子がホールに入れられてしまう前に、どうしても、コンタクトを取らなくてはと思った。

「ねえ君」話しかけると彼女は、おびえたようにこちらを向いて後退あとずさった。僕の半分くらいの年齢だろう、僕よりだいぶ小さかった。「僕と一緒に逃げよう」

 檻の中に伸ばした手は、空気に触れるだけ。彼女は僕の手と頭を交互に見て、小さく震えていた。そうか、僕らはニンゲンと違うから怖いのかもしれない。しかしそれはどうしようもない。僕がニンゲンじゃないから、僕が蝶々だから、彼女はそれを受け入れられないのかもしれない。

「……にげる?」

「そう、逃げる。ここは怖いだろう、もっと幸せな場所に行くんだ」

「しあわせ?」

 この子は何も知らないみたいだった。そりゃそうだ、たぶんここまでの人生のほとんどを暗い場所で生きてきたんだろう。さらわれたのか売られたのかそれはわからないけど、辛いことばかりだっただろうことは容易に想像がつく。僕はどうしても彼女を救わなくてはならないと、使命感すら抱いていた。

 檻の扉に当たる部分を引っ張る。びくともしない。檻全体が小さく揺れるだけで、彼女を怖がらせてしまうだけだった。僕はもう一度手を伸ばして、もう一度ささやく。

「逃げよう、この地獄から」

 ホールから聞こえるくぐもった声が鮮明になった。扉が開けられたのだろう。まずい、早くしないと。

「早く、おいで」

 彼女は震える手を、僕の手に載せてくれた。強く掴んで引き寄せる。何てことだろう、あまりにも痩せすぎていた彼女は、棒と棒との隙間から――多少強引すぎるようではあったが――抜け出すことができた。ぎゅうっと抱き留める。冷たくて、骨の感触がして、肉なんてついていない。まるでヒトじゃないみたいだった。

 足元を見る。彼女のこの細すぎる脚で、走ることなんてできるのだろうか? もしかしたら逃げ切れないかもしれない。僕は彼女を横抱きにして持ち上げ、それから静かに、早足で元来た道を辿たどる。どうしても軽い、中身のない箱みたいに軽い。それが僕の胸を重くした。

 途中から道がわからなくなったが、僕は必死に走った。とにかく遠くへ、誰にも見つからない場所へ。

 気付けば開けた場所に来ていた。目の前に流れる川が、安心しなさい、落ち着きなさいと言ってくれているようにせせらぐ。その場に少女をおろして、僕は隣に座った。少しくらい温かくなった彼女の手を握りしめて空を見上げる。

「あの空に浮かんでる光あるでしょ、あれは星っていうんだよ。綺麗だよね、空って美しいんだ、知ってた?」

 しばらく星空を眺めていると、彼女の頭が僕の肩に乗せられた。うっとりとしているその瞳は、これを幸せなことと映しているのか、それとも夢かうつつか区別がついていないのか。

「……わたし、ジルケ」彼女は呟くようにそう言った。

「それが君の名前なんだね。僕は、ユリシス。幸せを運ぶ青い蝶々なんだ」

「しあわせを? わたしも、なれるかな。しあわせ」

 きらっと空が光って、星がひとつ流れる。

「なれるよ、僕と一緒なら」

 ふたりで顔を見合って、初めて彼女の笑顔を知った。本当に愛らしい子だった。

 そんな空間を壊すように背後から喧騒けんそうが近付いてくる。ジルケを追ってきたのだろうことは、何を言わなくてもふたりともわかっていた。どうしよう、父上は僕の説明を聞いてくれるかな。納得してくれるかな。

 上着を脱いで、ジルケにかける。「……これは?」

「この帽子も被って、それからこのゴーグルもあげる。ね、これで君がジルケだって、誰が見てもわからないだろ? ほら、僕と一緒に逃げるんだ」

「でも」ジルケは上着をぎゅっと掴んで、泣きそうな顔をした。「おにいちゃんも、おねえちゃんも、みんなおいてきちゃった」

「僕は、君と一緒に僕の村に帰りたい。君を救いたいんだ……そうだな、あの子たちはきっと、僕が助ける。それが君の願いなら、僕はできるから」

 ジルケは僕を見て、それから段々視線を落としていった。

「嘘じゃない。ほら、僕は君に幸せを運ぶ蝶々だ」

 僕の手を、今度はしっかり握ってくれた。手をつないで、僕らは何も知らない顔をして歩き出す。僕らはニンゲンじゃない、奴隷どれいでもない。ジルケの手は段々とヒトらしい温度を取り戻していく。

 背中の方でもう一度、きらりと星が流れた。

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