9.秘め事

「あぁ、どこにやってしまったんだろうか……」

 久しぶりに帰ってきた自室の中、僕の声だけがここにある。大切なそれをなくしてしまった僕の中には、もう何もないというのに。持って帰ったかばんをひっくり返し、机の上の全てを払い落とし、身につけたコートもシャツも帽子もゴーグルも、全て調べた。それなのに見つからない。

「……なくしてしまった。あんなに大切な、たったひとつの宝物を?」

 自分に失望した。

 今までは何があったって、感情から切り離して全てを見ることができていた。村の外側の人間たちのことも、そこで行われている奴隷商どれいしょうも、何ならこの村で起きるできごとだってそうだった。僕は次期村長だ、そのために必要だというのなら感情を捨てることなんて簡単なことだった。全てに無感情で接することなんて、容易たやすいことだったのだ。

 しかし、それがどうだ。今の僕はおかしくなっている。

 ――そうだ、ローザのことがあってからだ。上手く殺せていたはずの感情が、あの知らせを聞いた瞬間から顔を出してきた。

 僕のかわいいローザ、愛する妹。いつだって僕の後ろを歩いて、兄様、と見上げてくれた。父上と僕の会話を聞いては、次の村長は兄様で決まりですわね、と嬉しそうにしてくれた。僕が外側から帰ってくるたびに割れてしまわないようにと抱きしめてくれた。だからこそ僕は僕でいられた。それなのに……。

 僕たちのような村人の死体を見るのは久しぶりだったから、あのことも思い出してしまった。あぁ、ローザ、君は知らないだろうけど、僕は罪を犯してしまったんだ。部屋のテーブルに置かれた花瓶の中で、真っ赤な薔薇ばらが小さく笑う。まるでローザが僕に、兄様のことなんて全部知っていますわ、なんて言っているようで。

 頭が痛い。割れるように痛い。

 なくしたはずの感情と、消したはずの記憶が、はらはらと目の前を飛び交う。そんなことできるはずないのに、どこかへ飛ばしたくて腕を大きく振る。けど何にもあたらない。それはそうだ、何もないのだから。僕の中にだって、何かがあってはいけないのだ。

「うぅ、うぅぅ……うるさい、うるさいっ! どこかへ行け、消えてしまえ!」

 大声で叫ぶ。下の階で父上が寝ていることなんて承知の上だけど、それでも、わかっていても止められなかった。

「黙れよ! もう過ぎたことだ。あいつは死ぬべき男だった、そうだろうが! 僕がやらなくたって、誰かがやっていたに決まってる――でも、本当に?」

 苦しくなって首を押さえる。いや、違うかもしれない。自分で首を絞めているから苦しいのかもしれない。もう何もわからなかったし、わかりたくもなかった。

 あぁ、まただ、またあのフラッシュバックが来る。あのとき、あの男を手にかけたあの瞬間のあの感覚が、明確にこの手の中によみがえってくる。

「やめろ、やめてくれ……僕は悪くない、僕たちは悪くないんだよ……僕は僕たちのためにそうしただけだ、守るためにやっただけだ」

 身体に力が入らない。すうっと抜けていって、その場に崩れ落ちる。

「あぁぁ、どこかへ消えろ、少なくとも目の前から! 本当に、本当にいなくなってくれ。頼むから……」

 それでも両手は首を捕まえたまま離してくれない。僕は、死にたいのだろうか。殺して欲しいのだろうか。どうせ何をしたってローザに会いに行くことなんてできないのに、彼女の生きているここに留まる方が辛いっていうのか。

「僕はまだ……君のために何ができる、ジルケ?」

 ジルケは気付いていないかもしれない、僕が君を陰から手伝っていたということに。ジルケは知らないかもしれない、僕が世界で一番君を愛しているということを。あの地獄からジルケを助けたのは僕だ、あのクズを処理してジルケを救ったのも僕だ。僕こそが、僕だけが、君にとっての救世主に相応しい。そうでないとおかしい。

 それなのに――いや、だからこそ、あいつが邪魔だ。あいつさえいなければ僕も救われたはずなのに、あいつがいるから僕は。あいつは僕のじゃない、あのクズのものだ。あいつが僕のものだったら多少は――いや、恨むことすらなかったのかもしれないのに。それがどうしても許せなかった。どうしてジルケと結ばれたのは僕じゃないんだ、どうしてジルケはあのクズを選んだんだ。

 いつの間にか首も両手も自由になっていた。

 そうだ、そうだよな。あいつを、あの少年を、いつ殺してしまおうか。だってほら、殺すための理由は充分に用意できているんだから。

 もう一度、次は僕の救世主になるため、僕はゆっくりと立ち上がった。

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