第25話
僕は力が抜けて、倒れこむように車から降りる。冷たい潮風が、車内の生温い暖かさに慣れた頬を直撃した。刺激が走る。痛さもあったが、気持ちよさもあった。まるで頬に溜まった暖かさを追い出しているようだった。
そんな感覚を覚えながら、両足を地面につける。右足に少し激痛が走った。怪我をしている事をすっかり忘れていた。余りの眠気、長旅のせいで。僕はふらっとしたが、何とか体勢を整える。
前面には第四地区の醜い街並みが見える。第一地区とは雲泥の差。まるで泥が覆いかぶさったかのようだった。そして次は右側。古びて今にも崩落しそうな橋が架かっている。
太陽が黄金色に煌めき、その橋をまざまざと照らしつけた。だがその奥にある海は、まるで麦畑の如く光り輝いていた。僕はその光景を両目に焼き付けながら、深く深呼吸した。潮風が体内を駆け巡る。体の中に留まる車内の空気を浄化していく。
その時、アムが右腕にもたれかかる。「まるで祝福しているようですね。」「あぁ…。だが余りに重すぎる。」僕はそう呟くと、彼女からさっと離れる。ハイドの元へ行く。
彼は今、車の前で立っていた。両手をズボンのポケットに入れて、清々しく。脇に執事も立っている。礼儀正しく。僕は耐震性のない建物よろしく、グラグラとする両足を交互に前へ出していった。そしてハイドの前へと躍り出る。
「朝日を見れて良かったよ。」「私も良かった。気持ちが晴れ晴れとした。これで気持ちよくフォドも元通りになる。」と、ハイドは呟きながら、つぶらな瞳を僕に向ける。それは眠気を感じさせず、まるで日の光を吸収して元気になったかのように。
そうして胸ポケットから黒く、一つの輝きも宿さない拳銃を取り出した。それは太陽の光をも寄せ付けない。僕は眉間に皴を寄せ、銃口を見つめる。その後、僕の左腕を伸ばし、自慢の銃口をハイドへと向けた。
カモメの陽気で甲高い鳴き声が聞こえる。朝を告げる目覚まし時計のように。嵐の前の静けさの如く。誰もいない埠頭の空間を響き渡らせた。だがやがて鳴き声は、空気と共に空間へと散っていった。僕は耳を澄まし、時を見て、また口を開いた。
「貴様が作ったこの両腕に殺される気分はどうだ?」「私としては残念だ。自ら生み出した子に殺されることは…。しかし刃向かうのであれば、破壊するしかないだろう。」と、ハイドは話す。
老いぼれて、しっかりとした唇がピタっと、上下合わさった。と、その時。ハイドは拳銃の引き金を引いた。乾いた発砲音が途端に埠頭を支配する。銃弾は僕の突き出した左手の甲へと着弾した。
反動で腕、そして左足が奥へと押しやられた。靴裏がコンクリートを擦れ、皮が傷つく音が鳴る。僕はぐいっと、倒れないように踏ん張る。するとまた銃声が聞こえた。
銃弾が関節部分に当たる。反動が追い打ちをかけていく。しびれるような痛みが腕全体を周りに回った。景色が一瞬、白く映る。僕は歯を食いしばった。何が何でも体勢を崩さないよう踏ん張る。
しかし限界だった。三度目の銃声が鳴る。また関節部に銃弾が当たった。力が出なかった。まるで痛みにすべて吸い取られたかのように。そのまま体勢を崩し、お尻から思いっきりコンクリートへ倒れこんだ。
太陽の眩しき姿から、雲が疎らに散らかる水色の空が現れる。澄んだ風が風音を立て、僕の頬、腕に直撃した。電線がちぎれたような音が、関節部から聞こえる。するとハイドの冷静沈着な声が聞こえた。
「これでカズヤ、フレキシブルアームは殺した。」「嫌だな。親友を殺されたのは。」と、僕は澄んだ空気にかき消されてしまう程の、小さな声で呟いた。勿論、ハイドには聞こえない。
僕は気を入れなおし、重たい体を持ち上げるように起こす。すると、タンと軽い足音が、背中の方から聞こえてきた。それは軽やかで、慌てたような声と同時に。「カズヤ、大丈夫ですか?」
僕は振り向く。アムが僕の背中に抱き着いていた。生暖かい。まるでコートを羽織っているかように。「今は羽衣を着ている暇はない。」僕は彼女の柔らかい手を撫でる。
アムの優しい鼻息が首筋を刺激する。僕は彼女の腕をどけ、立ちあがった。左腕を動かそうとする。だが絶え間ない痛みが襲い掛かってくる。僕は力を抜いた。たちまち左腕は屍に変貌した。右腕と同じように。
ハイドはその光景を、ただ黙って、紫路の瞳と無機質な銃口と共に見つめていた。「そうでなくては、フォドの神なる両腕を授けられた意味もない。」「あまりそう言われると、緊張して何もできなくなる。」と、僕は口を動かす。
同時に動く右手を使い、左腕を強引に九十度上げた。人差し指を、お返しと言う風に、ハイドへと向ける。銃弾は後一発。当てなければならない。しかしハイドも承知。恐らく反応速度は彼の方が上。
しかしその不利な状況でも、何とかして早く、一秒でも当てなければならない。二人は固まる。木立の地面を駆け抜ける音が響き渡る。
するとアムが突然、僕の横を通り過ぎる。向かう先はハイドの元。僕達はそれを見て、まるで銅像のように固まった体が、瞬く間にスライムの如く柔らかくなった。
「お父様。その銃を下ろしていただけますか?」アムは語り掛ける。いつもの甘美な声で。「いくら娘でも、今回の頼み事は聞くことが出来ないな。」「あら、いつも聞いていたのね?」「娘の為ならばな。」「だったら少し位、聞いてもいいでしょう。」
アムはそう話した後、ハイドの前へと立った。それは彼の伸ばした右腕の合間で。僕はそんな親子団欒を、ただ遠目で見つめていた。介入する気など、さらさらなかった。
「それで、私に死んでほしいと…。」ハイドはピタリと動かず、眼球をアムの方へ向けた。それは機械的に。「最終的にはそうして欲しいですけれど…。やはりお父様。余りその結末は後味が悪すぎますわ。」
「しかしそれを本心で臨んでいるのは誰の事か…。」「さぁ、私には何とも…。」「とぼけるのも少しは上手くなったか。」ハイドは彼女の戸惑う様子に、深く頷き、関心した様子を見せる。
と、次の瞬間、アムを見つめていた機械的な眼球を、僕の方へ向けた。僕はゾクッと、背筋が震えた。そして話す。「どうした、殺さないのか?私と共にいた時には、こんな痴話話最中でも殺していたぞ?」
その言葉を耳にし、僕の精神が過剰に反応する。両腕が怯えるかの如く震える。だが抑える。余りの動揺を見せたくない。「殺せるさ…。ミハイルを遂に殺せたからな。」
「それならばアムの願いを叶えられそうだな。」と、ハイドは口元に笑みを浮かべる。僕はあまり見ない、その表情に一種、嫌忌な気持ちを覚えた。彼は追い打ちをかけるかの如く、白い歯を見せつけるほどの笑みを浮かべた。
と、同じタイミング。ハイドがアムを勢いよく押しのけた。彼女は両目をはち切れるばかりに開く。それは現実に追いつていない表情、その者だった。更に銃声が鳴り響き、弾丸が彼女の右肩を貫通した。金切り声のような悲鳴が、埠頭全体に響き渡った。
それを聞き、僕のどんよりとした両足が、身勝手に動いた。まるで主の声に反応する機械のように。それは執事も同様だった。いくらハイドの執事であっても、大のお嬢様が倒れているのであれば動くしかない。
しかしハイドは、僕がアムの元へ向かう事に意を示さなかった。それは空気を引き裂く銃声の音色で十分理解できる。僕はピタッと、危機を察した動物の如く、その場で止まった。
僕は首を左へ向ける。ハイドはお馴染みの銃口を向けていた。「今は私だろう。」「遂に自らの娘を打ったか…。」「説教の一つだ。貴様にだって打っただろう。」
「なるほど、銃弾をぶち込まないと、自らの気が収まらないか。」「収まるも何も、組織をすべてかき乱したのが事の発端だ。」「しかし乱してくれた事はありがたい。」
「だがカズヤだって、乱されただろう。」「デメリットもつきものだ。」と、僕は震える上下の唇を必死に動かした。同時に左腕を構える。ハイドは何物にも屈しないと言う頑固な目つきで、僕を見つめる。
そんな彼を僕は恐ろしさを感じる。しかし同時に一種の憧れを覚えた。それは一生かけても手に入らない、他人の長所を欲しがるように。
だがそれでも、何人もの仲間を殺した人差し指の先を、ハイドの心臓へ投げかけた。両者、互いの慣れ親しんだ空虚な目を向け合わせる。
潮風が何度も耳に吹き付け、ヒュウヒュウと風音を鳴らし続けた。僕は狙いを定め、ミカの残した最後の弾丸を、力を込めて思いっきり放った。左腕にまるで電気信号のような激痛が走る。銃弾が飛び出す際の圧のようなものが、指の中を駆け巡る。
弾丸が宙を舞う。直線にハイドの心臓目掛け、駆けていく。彼の放つ弾丸もまた、同じく迫る。そして僕の弾丸が、ハイドの心臓付近へ直撃した。同時に彼の弾丸も、左腕の関節部へと直撃した。
ハイドはコンクリートの床へと倒れこむ。激しい音が鳴る。しかし彼の表情に苦悶とした様相は呈していなかった。痛みを感じていないように。
一方僕は何度も感じる痛みに、更に痛みを加えられ、もはや抑える余力等、到底なかった。だが僕は両足を踏ん張り、倒れこまず耐えた。
青い空が見える。だがさっき浮かんでいた雲は何処かへ消えていた。今度は薄く、透けて見える絹のような雲が辺りに浮かんでいた。
僕は潮風の新鮮な息を吸い、肺にある不純な空気を口から吐き出した。いつもより早いリズムで。その後、倒れたハイドを見る。
彼は立ち上がろうとしていた。ただ一人で。グレーのスーツの胸当たり、真っ赤に染まっている。血が流れだしていた。まるで破裂した水道管から出る水の如く。
僕はそれでも立ち上がる彼を、ただ茫然と眉間に皴を寄せ、じっと見つめていた。隣で痛みに倒れたアムも、やはり茫然としていた。小さな口を左手で抑えながら。目からポツリと、葉から落ちる雫のように、頬を伝い流れた。それは悲しそうに、嬉しそうに。
そんな混沌とした場面へ、僕は動く屍のような趣で歩む。ハイドの前まで行くのは、普通の人が歩く数倍の時間掛った。そして着いた頃には、左足を曲げ、その肘に左腕を乗せ、右足をまっすぐ伸ばし、座り込んでいた。
「どうだ。私を倒した爽快感は?」と、ハイドは生命力が消えていく両目を、上の空向けて眺めていた。「…。気持ちが良かったと思いたい。これで終わりが良かったらどれだけいい事か…。」と、僕はまるで悪魔に生気を吸い取られたような、擦れた声を出した。それは彼の両目を覗き込みながら。
「カズヤは所詮、破壊できなかった…。これからは地獄だ。貴様は面倒を見なければならないからな…。この町。そしてフォドを。」「重荷を背負わされていたが、更に背負わされた。」
「そうでなければ私が死ぬ意味がない。」ハイドの唇が青白くなり、それに伴い息つかいが乱れていく。もはや顔全体がよれよれの高齢者の顔と化していた。
そんな生き血を吸われていく彼の様子を、僕ただ見下ろしながら見つめる。もはやかける声さえ出やしない。死に際の人間に何を掛けろと言うのだ。
ハイドは僕のその様子、思いに満足なのか、皺くちゃに変貌した瞼を、下へ下げていく。まるで錘が乗っているかのように。息も擦れて行き、もはや木立よりも軽い音となった。
そして撃たれてから数十分。ハイドは目を閉じ、息を引き取った。口が半開きになっている。血だまりがその周りをまるで花束の如く出来ていた。僕は数十秒、じっくりとハイドの死体を上から下まで眺めた。まるで検死間のように。
その次に僕はアムを見た。傷口と思われる場所に、包帯代わりの布が巻かれていた。しかしそれでもアムは布部分を抑え、美しい顔を崩壊させるくらい苦しんでいた。口をへの字に曲げている。
僕は彼女の近くへ行き、しゃがみ込んだ。目の前にいる執事が僕に語り掛ける。「カズヤ様も成長しましたね。顔つきが依然と変わり果てている。」「町の老廃物が溜まっただけだ。」僕は彼にそう返した。
するとアムは、僕の薄汚れた紺のジャンパーを右手で握りしめる。それは硬いリンゴを潰す位に。そしてこう呟く。「カズヤ…。覚えていますか?キスの日の事。赤い糸のような約束をしたことを…。」
「あぁ、印象的だから覚えている。」「私はあなたと運命を共にする。そしてあなたは私と運命を共にすると言いました。」と、言いながらアムは目を細め、スカートのポケットからナイフを一つ取り出した。
それはあの時、会った際に見せたシンプルなフルーツナイフ。陽光に当たり、まるで銀箔の如く輝いている。「懐かしい物が出てきた。」僕はその刃先を用心深く見つめる。
「久々に会った時、見せました。やっぱりこれが無いと私達の思い出は死ありませんわ?」アムは笑顔を見せ、にっこりと笑った。口紅が薄く塗られた唇が、その笑顔の可憐さを強調している。
余りに悪魔的なその笑顔。殺人を犯した後の焦燥感が、心の内から消えていった。抱擁するかのように。すると痛みが右肩、肉体部分に痛みが走る。硬い何かが、引き締まった肉達の合間に入り込むような感覚。
僕の飛んでいた意識は、それを味わってしまったせいで、体にすとんと戻ってきた。すぐさま確認する。フルーツナイフが右脇に上あたり、制服を貫いて刺さっていた。まるでそれが果物だと言う風に。
「これで私達はお互い共有し合いましたわ。」アムの声が聞こえる。「まさか僕の肉をリンゴと間違えるなんて。」僕は名一杯の苦笑いを彼女に見せる。
「間違えてはいませんわ。だってカズヤしか、いないんですから。」アムは更に刃先を肉の中へ入れていく。力が存分に刃先から伝わってくる。まるで熱伝導のように。
「…。まさかあの契約の内容がこうなるとはな。一心同体。」僕は怒りや困惑を通り越して、呆れてしまった。もはや一仕事が終わった喪失感で、痛みも感じなくなってしまった。
僕は彼女の柄を持つ手を甲を掴む。優しく、痛みを感じない位に。そしてぐいと、ナイフを引き抜こうとした。痛む。まるで体の一部だからと、身体が引き抜くなと訴えているかのように。だが僕はそれを無視して引き抜いた。
ナイフは自分の目的を失ってしまったかのように、そのまま地面へ落ちていく。アムの手を道ずれにして。血がべっとりと、ペンキで塗られたかのように付いていた。
「あら、もう終わりかしら?」アムの極限まで開いた瞳孔が、僕の顔を見つめる。「終わりだ。」と僕は断言する。脇で見ていた執事はもはや付いていけなかった。傍観者の如く、ただじっと固まっている。
「本当は胸の内に行きたかったんですけれど…。怪我をしたのは私の右腕でしたから。」「やはり昔からおっかない娘だ。縄で縛りつけたい位に。」僕は少しおかしくなってしまったのか、失笑した。もはや正気と狂気の狭間を行ったり来たりしていた。
するとその時、捨て置きされた車の方から、足音が一つ聞こえてくる。それはアップの激しい早いテンポで。僕は捻り曲がった微笑を、その音がする方向へさらした。
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