第23話
部屋の中に入った瞬間、突如として眩暈が襲い掛かった。それは七畳半しかない部屋の中に詰め込まれた、エスカレーターに似たむっとした生暖かい空気と、緊迫とした重苦しい空気によって。
僕は眩暈に耐えながらも、アムの後ろを着いて行く。床は柿色の絨毯が、隅々まで徹底に敷かれていた。真ん中には綿がたんまりと詰められた赤いソファーが置いてある。それも左右二つ。内、左側にはミハイルが座っていた。前かがみになり、眉間に皴を寄せ、両手を握っている。何か考え事をしている様子。
そしてその奥。大きなヒノキ机が一つ、構えるよう設置されていた。滑らかな木肌がまるで美しく整えられら肌のように見える。その上には、今まで見た黒の同系列のノートパソコン。そしてコーヒーカップが置かれていた。
だがそれよりも目を引いたものが、その机の主。それは紛れもなくハイド。血色のある老いた顔。眼力光る力強い両目がそれを証明していた。僕はいつも彼の姿を見るたび、何か若返っているような気がしてならなかった。
するとソファーに座るミハイルが、硬く真面目な声で話した。「ようやく来ましたね、ミカ。後ろの小汚い三人を連れて。」
「小汚いですけれど。そこそこ優秀ですわよ。」と、アムは自信満々に、胸を張ってそう言いながら、右側のソファーに座った。その直後、顔を左へ向け、ハイドを見つめる。そして続けてこう話した。「お父様。少しやつれていますが、大丈夫ですか?」
ハイドは両腕を組み、その上に顎を乗せる。そのまま彼女を、まるで高台から覗くように見つめてた。髭に隠れた口がもそもそと動く。「言い回しがうまいなアム。カズヤにでも習ったか。」
その時、ハイドの眼力強い目線がアムから僕に向けられた。僕は身震いした。まるで肉食動物に襲われる草食動物のように。僕は帽子を深く被る。ハイドはその様子を鼻で笑う。見透かしているかのように。そしてこう話す。「カズヤ。演技もたいそう巧妙と化したな。しかし泥だらけの格好はいけ好かない。」
僕は額から冷や汗を流す。息を呑む。まるで食べ物を呑み込むかのように。するとミハイルがゆっくりと、ソファーから立ち上がる。そして右手を拳銃の形に。その人差し指の先を僕へ向けた。
僕の身体は硬直する。ウィズ、ミルも。セメントで固められたかのように。それは数秒間、続いた。そうして僕達はゆっくりと帽子を取り、その正体を露見させた。
「やはりフォドの総領は鋭い審美眼をお持ちだ。」と、ウィズは話す。「国際警察もはるばるこの地へ訪れてご苦労。フォドの崩壊、幹部の殺害。そして私の首を持ち帰ろうとする魂胆はさすがだが…。だがまだフォドは立ち上がれる。」
「強気か?」「強気でなければ、この状況に太刀打ちできない。所詮、この問題はいずれ風前の灯。理由を付ければ理解される。」
「ならばその灯を引火させて大火事にして見せよう。」「面白い。活躍を期待しているよ。それでカズヤ…。」と、ハイドはウィズとの会話を終わらせ、僕をじっと見つめる。僕は震えた。そして続けてこう話した。
「家出をしてから変貌していっているな、カズヤ。まるで戦士の趣から、下落した天使のような趣に変わっているぞ。しっかりとしたした、それでいてやつれたかのような…。」と、ハイドは呟きながら、力強く握っていた両手を解く。そしてその右手をパソコンのキーボードの上に置いた。カタカタと動かす。
だが目線は画面ではなく、以前僕の方だった。「変われて良かったさ。もはや崩壊寸前の組織の趣を持つよりは。」と、僕はハイドの目を見て話した。緊張した。やはり彼の目を見て話すのは慣れない。ハイドはそれを聞き、不満のこもった鼻息を漏らす。
一方、ミハイルはそれを聞き、足音を立てず静かに近づく。その後、心臓へ強く人差し指の先を押し付けた。それは弾丸を放つまでもなく、心臓が押し潰す位に。
「やはりカズヤは罠にかけた時点で殺しておくべきだったな…。戦友と言う、甘い毒に踊らされてしまった。そのせいでフォドに悪意ある情報を流し。そしてミカまでも奪い去られた。」と、ミハイルは後悔と恨みの情念を募らせた。その影響で、人差し指に掛る力が増大していく。
僕は苦しかった。心臓が圧迫される感覚。唇を上下合わせる。そして震える口をゆっくりと開けた。「だからと言って、僕はここで死にますとは言えない。例え仲間、組織を崩壊させたとしても。僕はとっくの前からその覚悟は出来ている。」
「ならばここでカズヤを殺す。私は組織に忠誠を誓った。例え崩壊しようとも処罰されようとも、裏切り者は必ず殺す。」「ならば僕もミハイル、そしてハイドを殺す。組織の地盤が崩れそうになる今、それが頼みの綱だ。」僕は怯える心を抑え、そう突拍子な覚悟を叫んだ。
ミハイルは細い目を更に細めた。そして弾丸を放とうと指先に更に力を加えた。僕はその硬い指先を跳ね除けようと、右膝を思いっきり上げた。痛みが膝全体に走る。ミハイルの右腕は跳ね除けられる。
だがそれを読んでいたのか、大砲の玉と化した左拳が勢いよく飛んできた。しかし僕は左腕を思いっきり動かし、彼の拳をまた跳ね除けた。そして僕は左足を上げ、ミハイルの左足を蹴った。
彼は怯む。しかし殴り掛る。それは僕の右肩へストレートに当たった。バンと、鉄板が凹む音が響く。激痛がまるで巣から解き放たれたように走る。僕は目を瞑り、顔をしかめた。
そのまま後ろへ下がる。その時、僕はアムの様子を横目で見た。何か楽しそうな様子だった。まるでアクション映画を見ているかのように。ミハイルは迫る。僕をじっと睨みつけていた。まるで僕だけしか見えていないかのように。
するとウィズとミルが、その隙を狙ったのか、途端走り出した。ハイドの元へ。ミハイルがそれに気づいたのは、彼の背中を通った数秒後の事だった。呆気にとられる。僕は今だと、左人差し指を伸ばす。そして彼の左足へ弾丸を一発放った。命中した。
ミハイルは下唇を噛み締め、目を見開きながら、その場で倒れた。傷口を抑え、苦しそうに悶えている。僕は両肩を上げ、激しい呼吸を繰り返す。そして目線をミハイルから、ウィズ達へと向けた。
彼等らはハイドが居座る机まで後もう少しの所だった。だがハイドは両手を組み、一ミリたりとも動かない。動揺が全くない。館の時と同じだった。絶対の自信があるかのように。そしてウィズ達はハイドを捕えようとした。
その時だった。木製のドアがばたんと音を立てて開く。フォドの隊員が慌てて入ってきた。僕は彼の方へ目線を変える。ウィズ、ミルもその音に気を取られ、立ち不どまり、振り向いた。
何か言おうと、その隊員は口を開く。しかしこの部屋の惨状を見た途端、言葉が詰まっているようだった。
アムはその様子を見て笑う。だが状況を理解できたのかヒステリックな大声を上げた。「ハイド様!ミハイル様!大丈夫ですか。おい、お前ら侵入者だ!お前ら!」だが隊員達はなかなか来ない。奥の通路から言い争いのような物が聞こえる。殴り合いのような物も聞こえる。
隊員は焦り始めた。激しく右足をゆする。僕はこれがアムの言っていた小話だと分かった。そして待ち焦がれる隊員に近づき、気絶させた。隊員は訳が分からぬままばったりと倒れた。
するとアムはゆっくりと、ソファーから立ち上がった。それからのんびりと、それでいて大股な歩き方でハイドの所へ向かう。ウィズと、ミルを払いのけるようにして、道を開かせる。
そして机の前に着いた途端、こう口にした。「どうですか、お父様?彼らの不信感や焦燥感を利用すれば、このようなことだって行けるのですよ。」
ハイドは得意満面な彼女の話に、ただ黙って耳を傾ける。すると話が終わった途端、ゆっくりと、素早く椅子から立ち上がった。
そして体を左へ向け、そのまま歩き出す。L字に曲がり、向かう先は左奥の壁。コンと硬い靴音が響く。するとハイドの口が開く。「ミハイル。ここは任せた。ここにいる者を一掃し、フォドを立て直せ。」
僕とアムは黙って、まじまじとその様子を見つめる。一方、ウィズとミルは隙だらけだと、ハイドを捕えようとした。
だが突然、発砲音が途端に鳴り響いた。ミハイルがウィズ達向けて発砲した。まるでハイドの歩行を邪魔させないとばかりに。幸い彼等は当たらなかった。しかし呆気に取られて唖然としていた。
僕はミハイルを気絶させようと、彼の元まで走った。しかしそれは届かなかった。走ると同時に僕の右脛に激痛が走った。肉が硬い何かに裂かれる感覚。
僕は呻き声を上げ、その場で跪く。「カズヤ!」アムの感嘆極まる叫び声が聞こえる。ウィズ達も同様する。しかしハイドはそんな些細なことに気を取られず、歩き続けた。
僕は激痛が走る個所を見る。血が噴き出し、靴下に血だまりが広がっていた。それを確認した後、ミハイルの倒れこむ方向へ視線を変える。彼は倒れこみながらも、人差し指の銃口を僕に向けていた。煙がゆったりと指先から昇っている。「これでお相子だ。」と、ミハイルは細い目を限界まで広げ、嬉しそうに話した。
そして彼は近くにあるソファーを支えに立ちあがる。そしてソファーを踏み台にそ、ウィズ目掛けて襲い掛かった。左腕が刃に変わる。ウィズはショットガンでその血に飢える刃を防いだ。ミルはショットガンを放とうとするが、器用に動く右腕のせいで鼻等にも放てなかった。
そのせいで彼はハイドに近づけない。彼は今、大きな右手を壁に当てていた。すると左奥に通路が、白色の光を吐き出しながら現れた。そのままハイドは通路の奥へ消えていく。
僕はハイドを捕えようと、その場で立ち上がろうとする。しかし激痛が脛から広がり立てない。また跪く。だがアムが近寄り、僕の体を支えた。そして跪く僕にこう投げかけた。「カズヤ、大丈夫ですか。」「大丈夫ではないが…。こんなことは過去、何度もあった。」
「今は過去など無意味ですよ。それよりもここで屍はごめんですわ。もう少しでお父様、フォドを壊滅できると言うのに。でもあなたが屍になりないのなら、私も屍になりますわ。」「屍に等ならない。余りに冗談めいたことは言わないでくれ。とにかく今は…。」
「あまり怒らないでください。では追いかけましょう。私が支えになりますわ。」と、アムは僕の脇を持ち、そして立ち上がらせた。柔らかく温かい腕が、僕の皮膚を優しく包む。
その時、アムがまた呟いた。「鉄の匂いが血生臭いね。」「もはや僕は体全体が血生臭くなっている。」と、僕は黙ってこくりと肯く。だが僕達は容易に足を歩めなかった。
それはまた鳴る、銃声の轟音によって。ミハイルの放つ弾丸が道を遮る。僕は振り向く。ミハイルと銃口が睨みを聞かせていた。床にはミルがショットガンを抱き枕のようにして掴み、倒れこんでいる。
一方、ウィズは荒く息を吐きながら、ヒノキ机に思いっきりもたれかかっていた。目が上の空を向いている。「どうやら通してくれないらしい。」と、僕はアムに呟く。そして彼女の手を離す。ゆっくりとミハイルに近づく。
足がおぼつかない。まるで木偶の坊のように。ミハイルは鼻で笑う。だが僕は勢いよく彼に飛びついた。まるで野獣のように。ミハイルは弾丸を放つ。しかし右腕でそれを防ぐ。手の甲が激しく凹んだ。
僕は痛みに耐えながらも、左腕を刃に変える。そして彼の首元へ刃先を叩きこんだ。だがミハイルはそれを左腕で防ぐ。鐘を軽く叩いたような音が響き渡る。僕は一旦、彼の近くで着地した。刃先が数センチ欠けている。
ミハイルはその時を見て、右人差し指から弾丸を放とうとした。しかし僕はすぐさま、左足の踵部分で彼の右手を弾き飛ばす。ミハイルは体勢を崩す。そして足の痛みが響いているのか、上手く立ち直りが出来ていない。
僕は刃先となった左腕をまた元に戻す。そして指の先からミハイルの心臓目掛け、貴重な弾丸を一発放とうとした。しかし脛から広がる痛みが邪魔をする。
ミハイルはその痛みを味方にして、体勢を保とうとした。そして左手の指先をこちらへ向ける。空虚な目が僕を見つめる。だが突如として、ミハイルの態勢がまた崩れた。時を同じくして、ショットガンの銃砲が鳴り響いた。
ウィズがショットガンの引き金を引いた。僕は再度照準を合わせ、弾丸を放った。彼は自慢の左腕で防ごうと動く。しかし遅かった。弾丸が彼の心臓を貫く。小さな唸り声を上げて、仰向けになって倒れこむ。
血だまりが柿色の絨毯を赤一色に染めていった。恍惚と光る天井の光が、彼の死体を眩く照らし出した。僕はリズム整った息を上げる。そして僕はミハイルに近づいた。目が閉じかかろうとしている。すると彼はその事に気付いたのか、青ざめる唇を強引に動かした。
「カズヤ…。確か私達がこの腕を貰った時も、確かこんな感じだったな…。」「…。あぁ、そうだ。僕達はこの光を浴びながら、醜く暖かい両腕を捨てた。」「しかし嬉しかった…。ようやくフォドの戦士、として、立ち上がれること、となったら…。」
ミハイルの細い目が閉じていく。まるで幕締めのように。「僕も嬉しかった。余りに魅力的。父に認められた崇高な感覚。あれはとても良かった。」僕は呟く。ミハイルは口を尖らせ、白い歯を見せる。そして目は完全に閉じた。だが血は流れ続ける。
僕は彼の顔をじっと見る。嬉しい気持ちにはなれなかった。しかし涙は出ない。何か喪失したような、空っぽな悲壮感が僕の心を支配した。するとアムが近づく。「嬉しくなさそうね…。フォドの幹部を殺したと言うのに。」
「いくら裏切っても、元は仲間だったからな。ハイドもミカもそうだ。僕は正義を掲げる代わりに、親元を破壊しようとした。」と、僕は彼女に胸の内を明かす。
するとその途端、入り口のドアから足音が聞こえた。振り向く。フォドの隊員がやってきた。手に棍棒を持っている。だが襲ってこない。この惨状を見て、ただ茫然としていた。
僕はそんな彼らにこう伝える。「ミハイルは死んだ。総領のハイドも逃亡した。」隊員はその言葉を黙々と聞く。現実を受け入れていない様子。二人とも顔を向け合い、慌てていた。
僕はそんな彼等から目を逸らす。今はハイドを追いかけるのが先だった。僕は歩き出す。脛の傷口が開きながらも。アムも歩み出す。そしてこう囁いた。「お父様も殺すの…?」
「…。分からない。弾丸は残り一発。だが外してもこの両腕なら、人間一人は容易に殺せる。」「そう…。」と、アムは何か素っ気ない返事を返した。
歩く最中、ウィズとミルを見る。まだ彼等は力尽きていた。僕はそれを一目見る。だが今、僕の頭の中はハイド一色に染まっていた。そして奥へ不気味に続く通路へと入って行った。
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