第10話
甘い。まるで少女から発する、可憐な匂いが鼻孔の中へと入ってくる。そして体全体が、繊細で柔らかい衣に包まれていた。
僕は瞼をゆっくりと開けた。暗い天井が、まるで日が落ちた暗雲の如く広がっている。一体ここは何処なのだと、当然の疑問を思い浮かべながら、上半身を上げた。
どうやら僕が寝っ転がっていた所はベットの上。紫陽花のような、艶やかな紫色のシーツが覆いかぶさっている。するとその時、激痛が横腹に走った。まるで矢が奥深くに刺さったかのように。
顔を顰めた。左手が咄嗟に、痛む横腹を抑える。その時、上半身に来ていた服がはぎ取られているのに気づく。代わりに包帯がたすき掛けのように、横腹から左肩にかけて巻かれていた。
僕は痛みと死闘を繰り広げながら、辺りを見渡す。広々とした部屋が広がる。縦に細長い。まるで高級ホテルの一室のようだ。
左側に大きなガラス埋め込まれた窓枠が一つ。そこから順に、粗がない艶やか衣装棚。その一メートル先、澄んだ水のように、きれいな鏡が供えられた化粧台が置かれていた。
僕はじっくりと部屋の中を見渡していると、左耳から女性の声が聞こえてきた。「あら、マサヤ。起きたのね。良かったわ。」甲高く、幼さが残った声。
僕はその声に聞き覚えがあった。振り向く。するとそこには、長髪の女性が座っていた。金髪、それが彼女の腰まで伸びている。ときめく少女のような黒い目が僕を見つめていた。
姿は二十代。顔が小さく、ふっくらとしている。青一色のドレスワンピースを着ている。雰囲気は少し幼さが残っているように見え、夢見る少女と言う風だった。それに何か、白い布に包まれた物が彼女の横に置かれていいる。
僕はその女性を一目見た時、誰と分かった。「アム…。」僕は彼女の名前を呟く「覚えていてくれたんですね。嬉しいですわ。」アムはうっとりとした態度でそう話す。「君が救ってくれたのか?」「えぇ、そうですわ。でも正確に言うなら、私専属の執事。」と、アムは言う。
すると右奥から、一人の黒のスーツを身にまとった執事が現れた。それは白髪が目立ち、頬に皴が寄る男性。しかし体格は一般の男性より大きく、鍛えられた体がスーツの上から主張していた。
僕は彼の姿を下から上へ、順に眺めていく。すると執事の肌黒い唇が開いた。「お怪我の具合は?」「少し痛むが、ある程度はましになった。それであなたの名前は…?」僕は答える。そして彼の名前を聞こうとした。
「私の名はエイモ・ハイリー。ハイド様とアム様にお使いする執事でございます。」エイモは簡潔に感情を込めず、淡々と語った。
するとアムが、僕達の話が終わった事を察したかのように、口を開いた。「でも、私はカズヤの命が救われたことがとても嬉しいですわ。」僕は彼女の方へ、また両目を向ける。
「そうか…。だが何故救った?お前はハイドの一人娘。確かに昔は共に暮らしていた。しかし救う理由などどこにもないはず。それか僕を皆に内緒で拷問をじっくり楽しむ気か。」僕は彼女に疑いを積もらせる。
「まさか。そんな物騒なことはしないですわ。ただあなたを助けた。それだけよ。そして思い出話をしたい。」アムはそう言った後、左手をあの布へ持っていく。一枚ずつ、ベールがはがされる。そして布の中から出てきたのは、一本のフルーツナイフ。
鋭利な刃先。それは丁寧に研がれ、光が当たらなくても、十分な輝きを放っていた。一体何処にフルーツがあるのだろうと、僕は思った。心が震え、手も連動して震える。
アムは僕の肩にもたれかかった。ナイフを僕の目の前へ持ってくる。「綺麗でしょ。これは私が一番大切にしている物。」「物騒だな。果物ならここにはないぞ。」「分かっていますわ。ただ見せたかっただけ。」アムはフルーツナイフを、布の上へ置いた。続けてアムは話す。
「それよりもあなたのその腕はいつ見ても美しい。私はその腕を付け替えてからのマサヤが好きよ。」と、右腕を優しく触りながら、彼女は甘美な口調で話す。
「僕にとってはもう過去のことだ。」僕は彼女の腕を強引に振り払う。くすぐられた感覚がまだ健在だった。「もう、別に触っていてもいいじゃない。」アムは不満を抑えきれなく仏頂面。
「そんなことをしている暇はない。こうしている内にもフォドは息づいてくる。」「ふーん。でも行く当てはあるの?」「地道に調査して見つける。」「ふふっ。可愛らしいわね。でも今じゃ時代遅れよ。」アムは嘲笑う。
「何か言いたいのか。」「あら、せっかく人が最重要拠点を教えてあげようと言うのに。」「重要拠点?」僕はその言葉に引っかかった。
「そうよ。私は知っているわ。」「やはり父が組織のリーダーだからか。」「まぁね。でも、そんな態度じゃ教えてあげないわよ。」アムは小悪魔のように嘲笑い、目を細めながら見つめた。
「条件は何だ?」僕は彼女の興にそそられる。「それはあなたの考える理想郷へ連れて行って下さること。あなたはこの町を変えようとしている。今の腐った町はもう空きましたわ。それにフォドも。昔はとても面白かったのに…。カズヤが抜けて面白くなくなりましたわ。」と、アムはそう甘美な声で呟きながら、僕にもたれかかる。そして左手で僕の胸筋辺りをやさしくさすった。
「混沌を見たいわけか。恐ろしい考えだ。さすが魔女。味方も巻き込む。これでは僕もいずれ捨てられるな。」僕は彼女の妙な考えに、恐ろしさを心底感じた。だが彼女の皮膚からは生暖かさを感じた。
アムは僕の考えを読み取っているのか、くすくすと笑った。「それはありませんわ。私はカズヤを見捨てない。死ぬときは共にですわ。それにあなたがこの家へ養子として訪れた時、私は心を打たれた。何かは分からないけれど。心の内がギュっと。それは支配欲からくるもではありませんでしたわ。」
「だが人は己の真実を隠したがる。アムのそれも支配欲が飛び火しすぎただけかもしれない。」「まさか…。でもそれはあなたにだって言えることでは?」「やられたな。言い返せない。」
僕達の会話はそこで終わった。生暖かい感触が、服の布地を通して僕の体に伝わってくる。僕は懐かしさを感じると同時に、取りつかれるような執着心を感じた。
僕は彼女の取引に応じようか考える。恐らく彼女の言っていることは本当だ。だがもし応じればアムとの関係は切っても切り離せなくなる。彼女の凄まじき信念は僕でも振り払えない。そのせいで首を縦に振ろうか戸惑った。
だがしかしここで断れば、後々になって響く可能性が高い。やはり今の状況では限界が来ている。ハイドの時のように毎回うまくいくわけではない。まるで茨の中にある財宝のようだった。
僕は数秒間、考え込む。そして覚悟を決め、結論を出した。「分かった。その願いを引き受ける。」アムはそれを聞き、ニヤッと僕の顔を見ながら笑った。それは小悪魔のような。そして数秒後、今度はアムの小さな口が開いた。
「契約成立。これから私は生と死を共にしますわ。」「嫌な言葉だ。ため息が出るくらい。」「そこまで卑屈にならなくても。私は悲しいですわ。」「済まなかった。だが一つ伺いたいんだが。資料はどうやって持ってくるんだ?」
「協力してくれる仲間だっていますわ。今はフォドにも亀裂が生まれている。それに反感を持つ物も少なくはありませんわ。あんな残忍非道な事をしているんですから。」「それもそうだ。だがアムも人の事は言えないがな。」「あなただっで。仲間を裏切り殺し、そして正義の味方を気取ろうとしているのですから。」「負けたな。」
するとその時、アムはまるで狂ったかのように、僕に抱き着いた。両腕の力を強める。僕は横腹が少し痛んだ。彼女の狂気の内が僕の体を優しく包む。甘い毒リンゴのようだった。
だが僕はその狂気に幾分耐えれなかった。数秒経った後、彼女から身体を半強引に話す。アムはその時、嫌な顔つきを呈した。僕はそれを無視しながら、こうは話す。
「それで重要な資料は何時、渡せるか?」「明日の朝、九時ででよろしくて?」受け取る場所はカズヤが決めて。」と、不機嫌なご様子でアムは話した。
「それじゃ場所は、ノーヴィル第三地区三番街のダン通りに建つ雑貨屋で頼む。あそこなら人は少ない。」「分かりましたわ。そう伝えておきます。」「それでその受け渡し人の特徴は。」「封筒を持たせますわ。姿形はフォド隊員と変わりませんから。」「分かった。注意して見よう。」
「取引の件はこれで終わりかしらね。でもカズヤ。ここからどうやって抜けるかは考えていた?ここから抜け出さないと、封筒は受け取れないわよ。」アムはわざとらしく、僕に聞いてくる。
「正面から突っ込む。」「でもここからどうやって出るのかしら?今はあなた達が暴れまわるから、警備がものすごく堅いわよ。」「だったらアムが突破口を開いてくれ。それくらいやってくれたっていいだろう?」「嫌だと言ったら?」「さっき言ったことを、今から有言実行する。」
「マサヤらしいわね。じゃ、その勇気に銘じて教えてあげますわ。午後の十二時にここから出てきなさい。その時間帯は警備が緩むわ。」「ありがとう。それくらいで十分だ。」僕は軽く頷く。
「気前強いわね。でも上半身裸で出るつもり?」「服はあるんだろ。」「えぇ、ここにありますわ。」アムはそう言うと、エイモへ目線を送る。
彼は少し尖った顎を下げ、その場でしゃがむ。そして何かを手に持ち、ベットへ近づいた。僕は彼が手に持つものを、眼を凝らし、見つめる。するとそれは昨日、物陰で脱いだ僕の衣服だった。
僕はそれをエイモから貰う。「これでまた元通りですね。」アムはくすくすと笑いながら、話す。僕はからかうその様子を後にして、服を着用する。その間、アムは興奮を抑えきれない眼差しを、僕へじっと、向けていた。
そして服を着終える。「似合っていますわ。」アムは両手を合わせ、歓喜の声を上げたかのような甲高い声を出した。「そうだな。僕もこれが一番肌に合う。」僕はジャンパーを手繰り探りいじりながら話した。
「カズヤ、まだお昼になるまで三十分ありますわ。」「そうか。それじゃ、もう出よう。」僕は彼女に無味乾燥な返事を返す。その後、目の前からまるで飛び出す勢いで、ベットから飛び降りた。
何処に出入口のドアがあるか、振り向く。右奥に西洋風のドアが聳え立つ。僕は終点をそこに合わせ歩いてく。するとアムがその前に立ちはばかる。
「そんな返事をしなくっもいいじゃない。」アムは納得していない様子だった。そのせいで彼女は僕の腰にまた抱き着いた。「少しいてもよくていいじゃない。」「済まないが行かなきゃならない。」「でもまだ昼まで三十分。お茶会は出来ますわ。」アムはより力を入れる。まるできつく縛られた大縄のように硬った。
僕は振りほどけなかった。力が嫌に出ない。まるで力が吸い取られているように。そのせいで数分、この体制を維持するしかなかった。沈黙。時計の針の小さな音がよく聞こえる。
しかしその音は僕の切り出した一声によって、一瞬の内にかき消された。「でも僕は早めにここを出たい。やはり長居は慣れない。」「…。分かりました。」アムは妥協点を見出したのか、両腕をそっと解く。太い大繩から柔らかな絹の糸に変わるような感触を覚えた。
「でも、私を連れて行ってくださいね。例えお父様を裏切ったとしても。あなたと一緒にいたい。」続けて彼女はそう言った。「…。分かった。でも資料は届けてくれよ。まずはそれが第一条件だ。」
「分かっていますわ。」「信用する。それじゃ。」と、僕は捨て台詞を吐いた後、ドアへ向かう。銅製で出来たドアノブを手に取り、開けようとした。その時、アムの声が聞こえる。また彼女の方を振り向いた。
「また会いますわよね。例え安寧な時でも、危機的な状況でも。私はあなたに惚れました。」アムは僕に向けて話しながら、近づく。僕は黙って聞いていた。
そしてアムが口を閉じた時、僕の至近距離まで迫っていたそして彼女の唇を僕の硬い唇に押し当てた。舌をいれてくる。それは強引に。
僕は半強制的なそのキスにあらがえなかった。そのまま数十秒、僕達は口付けを行う。エイモはただそれを見つめる。
そしてアムは満足なのか、唇をは離した。彼女の頬は赤い。目が煌めいている。一方僕は複雑な心境で彼女のように頬を赤らめれなかった。
するとアムはまた口を開く。「それではまた会いましょう。」僕はそれを聞き、ただ頷いた。頭が真っ白で口が思うように動かなかった。
そして僕は彼女から身体離し、ドアへ向かった。今はドアが必要だった。冷たいドアノブを持ち、思いっきり捻る。そうしてドアが開いた。
軋む音が聞こえる。その音を音楽替わりに聴きながら、僕は外へ出た。
その時、アムの顔は見なかった。十分だった。そして誰もいない、物静かな廊下を慎重に進んで行く。昼間の陽気な陽光が、窓から不気味に日差していた。
その時、チャイムの音が館全体に響き渡る。十二時を告げた合図だった。僕はその音を嫌に頭に響かせながら廊下を突き進んで行った。
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