カメラ

 路地裏を抜けたせいか、見慣れない道に出た。顔をあげた瞬間、緑の木をかたどった奇妙な形の看板が目に飛びこんでくる。


『骨とります(小骨も可)

 木野根耳鼻咽喉科・ショキカケンキュウジョ』


 のどの骨は耳鼻咽喉科に行けばいいと、母が言っていたのをふと思いだす。病院に行く気はなかったが、今日はもう仕事もできない。のぞいてみるだけでもいいか。美月はそう思って、ビルの横の細い階段を上がった。

 三階まで来ると、小さな茶色のドアが見えた。息を整えながら自動消毒の機械に手をかざす。ペンギンの口からジェル状のアルコールがどろどろと流れでる、見たことのないタイプだった。手をすり合わせ、ドアを押すとカランカランと鳴った。

 

 受付には四十代くらいの女性がひとり座っていた。美月を確認すると、こんにちはと感じよく微笑む。

「初診ですか」

 こくりとうなずくと、保険証をお願いします、と女性は言った。財布から保険証を取りだし、女性に差しだす。

「では、問診票に記入を。掛けてどうぞ」

 ボールペンとクリップボードを手に、隅のソファーに座った。いたって普通の病院だ。微妙な黄土色のソファーは張りがあるともないとも言えないが、案外座り心地がいい。

 ええと、どの部分ですか。「鼻」じゃない。「耳」でもない。「のど」。

 「のど」の欄には「風邪を引いた」「腫れている」などあったが、そのどれでもなかったので、その他を選び、カッコ内に、魚(かます)の骨が刺さった、と書きこんだ。

 ボードを渡すと、女性は問診票を見て、ああ、かますですか、おいしいですよね、大きめだったかな。けっこういらっしゃるんですよ、のどに骨。

 美月はかますが大好きだった。母が昔よく焼いてくれたのだ。骨は少し多いけど、柔らかくてやさしい味がする。

「今日は、ショキカ希望ということではなかったですよね」

 ぽかんとして、ショ、ショと息を吐く私に、

「あ、違いますね。ごめんなさいね。最初からショキカだけを希望して来院される方もいらっしゃるので、院長に訊くように言われているんです。ではもうしばらくお待ちください」

 女性のえくぼに、ぼんやりと見とれる。

 

 ショキカ……。そういえば看板にもあったな。ショキカってなんだろう。院内の壁をきょろきょろと見回す。特にそれといった情報はなかった。

「有賀さん、有賀美月さん。診察室へどうぞ」

 名前が呼ばれてスライド式の白いドアを開けると、なかには五十代くらいの男性がちょこりとイスに座っていた。

「あー、どもども。今日はどうされました?」

 芸人のような軽い調子に拍子抜けしながら、美月は腹話術の人形のように口をぱくぱくと開けた。医師は問診票とのどを交互に指さす美月を見ながら、

「あー、のどの骨ですね。鯛はね、きついですよ。ああ、かますか。こりゃ、かますにかまされましたね。はっは」

 と言って高らかに笑った。

 美月の眉はぴくりともしなかったが、医師はかまわず続けた。

「はい。さて、見てみましょう。マスクをとってください。はい、口を大きくあけて」

 見えるところにはないことを、美月はわかっていた。自分で鏡を見て嗚咽しながら何度も骨を探したのだ。案の定、口の奥には見つからなかった。

「じゃあ、鼻からカメラを入れましょうか。ほそーい管なので、そんなにきつくはありませんよ。あ、右がいいね。じゃ鼻に痛み止めのスプレーを、はい、しゅっしゅっと」

 手際よく鼻にカメラが入っていく。美月はなされるがままだった。きつい。手をぶらんと下に垂らす。かます、食べなきゃよかった。後悔の念が押しよせる。するすると入りこんでいくカメラ。目の前の大画面には、自分ののどだといわれるものが、でかでかと映しだされた。

「はい、これから皆さんで探しますよ。見つけた人、優勝です」 

 これまで後方にいた二、三人の看護師さんがわいわいと画面に近寄ってきて、私ののどをまじまじと見た。妙に恥ずかくて苦笑する。

 医師がカメラを動かしていく。はい、右。ありませんね。はい、左。うーん、ありませんね。奥までいきます。あ、ここ声帯。皆さん、よく見て。かますです。目をこらして探してください。ありましたか。

 

 おそらく三分ほどだったのに、美月にはとてつもなく長く感じた。なのに、なかった。骨がない。こんなに痛いのに。声も出ないのに。せっかく病院まできたのに。美月が絶望を感じはじめたころ、医師が妙なことを言いだした。

「あー、そそそ。これはですね、有賀さん。かなり無理をしてきたのどです。見えない骨がぐさりと刺さっている可能性のあるのどですね。のどだけのことではないんです。奥の方にももっとあるかもしれない。たまってきたものがとうとうのどにまで到達してきた、ということです。一週間、二週間であらわれる痛みではない。十年、二十年。骨がじわじわと発生し、硬く大きくなっていく」

「見えない、骨?」

「うん、そそそ。あなたは感情的に無理をすることが多かったのではないでしょうか」

 美月は医師の口もとをただ見た。なんだ、この医師。思考がうまくまわらない。どうして、そんなことが耳鼻咽喉科でわかるのか。美月の鼓動が激しく波を打ちはじめる。


「どうして……」


「わかるかですか? それは私がのどの専門家だからです。いろんな方ののどを見てきました。やはり違いがあります。おそらくあなたの場合、もともととても繊細なこころをお持ちでいらっしゃる。なのに無理をして、強さで押しきろうとしてこられた。そこに歪みが生じ、体の内部に、まあ胸から上のあたりにですね、たまってきた。骨のように石化したものがのどまで到達し、とうとう痛みを発するようになった、といったところでしょうか。ほら、『苦しい』と感じるときは、脳内にストレスホルモンが出るのはご存じでしょう。ノルアドレナリンとか、コーチゾールとか。『楽しい』と感じるときは、ドーパミンやエンドルフィン、セロトニンなんですよね。これが通常なんです。あなたの場合は、わかりやすく言うとですね、逆なんです。ねじれている。『苦しい』ときに『楽しい』物質が出てきたり、その逆もしかりです。実際はもっと複雑な感情と脳内物質が存在しますが、それらがぐちゃぐちゃに乱れて、絡み合って、骨を大きくさせている。おそらく今そういう状況ではないかと。これはあくまでも私のひとつの予想です」


 医師は一気に話すと、呆然とする美月に小さな名刺を差しだした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る