屈辱

 美月のオフィスは街のど真ん中にある。

 まだ紫陽花の残る季節だというのに、通勤電車は冷蔵庫みたいに冷えていた。今日も紺のパンツスーツと、ヒール五センチの白いパンプス。きっちりと見せながらも、いざというときも対応できる防護服だ。たとえば、回し蹴りなど。美月はあの日以来、親戚の空手道場に通いはじめた。有樹も最初のころは一緒に行っていたのだが、すぐに辞めてしまった。

 電車を降りて階段をあがると、職場は目の前だった。ずきんと、のどが痛む。電車に乗っても、歩いても、エレベーターに乗っても、絶えずちくちく美月ののどを刺している。

「うん、んん。おはようございます」

 前方の菅田局長に挨拶をしたが、うまく声が出なかった。朝より悪化しているようだ。

「おう、おはよう、有賀くん。今日もまたいちだんとスタイルがよろしいですねえ」

 菅田局長は美月の全身をなめまわすように見た。

「録音しますよ」

 美月が言うと、局長は、おお、こわ、こわと言いながらもにやにやと足早にどこかへ去っていった。大手総合商社に勤める美月は、この手の嫌がらせには慣れていた。もちろん会社全体としては、男女平等という大義名分のもと働き方改革も進んでいるように見える。でも実際はというと、菅田局長のようにあからさまなことを言う人間もまだまだいるし、出世しそうな女性を内心うとましく思っている人間も少なくない。

 でも、ここで働くのだ。美月はこころに決めていた。なにせ、お給料がいい。新卒で就職してから、美月は実家に仕送りを続けていた。母は好きなように使いなさいと言ってくれたが、両親の年金で弟を食べさせていくのは容易なことではないはずだ。

 母は銀行の入金を確認するたび、ありがとう美月、と連絡をくれた。お礼なんていらないよ、と言いながらも、実感のこもった「ありがとう」は、美月の原動力だった。

「有賀さん、今日のプレゼン、期待してるよ」

 美月が席に着くなり、隣の席の光岡くんが、声とプレッシャーをかけてくる。優秀な彼は美月をライバルだと思っていて、いつもこういうひと手間を惜しまない。

「うん、ありがと」

 そう答えたつもりだったが、息がもれ出ただけだった。

 

 今日は大事なプレゼンがある。大きな外資系の企業と共同で行うプロジェクトに、GOサインがもらえるかどうかが、かかっている。

 

 スライドの準備は、いつも通りばっちりだった。それなのに、のどが痛くて声が出ない。唾を飲むだけでも痛い。急いで売店へ行き、のど飴を買ってなめてみたが、ちくちくにすーすーが加わっただけで、大した効果はなかった。

 気が重い。でも、やるしかない。逃げ道など最初からどこにもないのだ。父がふっとどこかへいなくなる時も、母が夜中にグラスをひとつずつ割る時も、有樹の部屋から沈黙しか返ってこない時も、美月がどうにかするしかなかった。


 時間は刻一刻と進み、プレゼンの時間がせまる。最大で三十人ほどが入れる会議室に移動する。部屋には、プロジェクトに関わる他社の人々が集まってきていた。パソコンの準備をしながら、美月は咳払いを何度もしたが、のどの通りは悪かった。

「さあ、皆さんおそろいのようなので、会議をはじめたいと思います」

 上司が声を張りあげる。トップバッターの美月は部屋の隅に待機していた。

「さあ、では有賀さんからお願いします」

 いつもなら緊張もせず、難なくこなせるプレゼンなのに、今日は足が鉛のように重かった。美月は前に出て一礼し、はじめさせていただきます、といつものように挨拶をした。

 のはずが、声が出ない。有声と無声の入りまじったすかし音。美月本人でさえ、なんと発声されているのかわからなかった。美月は、かまうものかと話を進める。スライドの一枚目を説明する。出席者が横の人と顔を見合わせ、ささやき合うのが見えた。

「それで、このヘルスケア部門と衣料の問題を組みあわせることによって……」

 一枚目を終え、次のスライドへ移ろうとしたとき、見かねた上司が美月に言った。

「有賀くん、大丈夫ですか? 声がまったく出ていませんよ」

 会議室が静まりかえる。

「実は、のどに骨が刺さりまして」

 美月は正直に伝えたが、この言葉も理解されてはいなかった。ただ、次の瞬間、会議室がどっと笑いに包まれた。

「お話ができないようなので、今すぐ病院へ行ってきてください」

 渋る美月に上司が小声で、「大丈夫。君のプレゼンはまた機会を設けましょう」と言ったが、そんな機会、二度とこないと美月はよく知っている。恥と悔しさが、頭をぐらぐらと泳ぐ。

「さあ、次は光岡くん。よろしく」

 上司の声と同時に、光岡はすっと立ち、爽やかな笑みを浮かべて、美月のスライドを消した。突っ立ったままの美月を、皆が見ている。お前はもういい。そう聞こえた。美月は深々と一礼をして、会議室を飛びだした。唇を強く噛み、こぼれ落ちそうな涙をこらえる。ベージュのトートを雑につかんで、エレベーターに飛びのった。これまでどんな屈辱にも耐えてきた。耐えてきたのに。


 行き先のない道を足早に駆けぬける。あてもないのにスピードを緩めることができない。私はいったいどこに行こうとしてるんだろう。手の甲に雨粒を感じる。空を仰げば、これでもかというほど青く晴れていた。腫れているのは私の目だ。こんなことで負けてたまるか。そう思いながらも、肚に力が入らない。無重力でひとり手足をばたつかせているような。何かにしがみつきたいのに、まわりには何もない。木切れ一本でいいのに。美月はただ歩きつづけた。

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