あれは忘れもしない。

 美月が中学一年生のときだった。

 

 来客のチャイムに応じて、母が玄関のドアから顔を出した。今思えば、簡単にドアを開けてはいけないのだ。


「こんにちは、奥さん」


 妙に馴れなれしい男の声。二階の自分の部屋にいた美月はそのざらついた声が気になり、耳をそばだてた。


「人生困ったこと多いでしょう。ええ、奥さんもそうですか。山も谷もあります。私もいろんなことがありました。苦しいことのほうが多かったかもしれない」


 空が曇っているせいか、男の声がねっとりと聞こえる。


「でもね、ある時このパワーストーンと出逢えたんです。そうしたら、ほんとうにすべてが拓けていった。ぱあーっとです。何もかも運が味方をしてくれた。世のなかすべて、運と縁です。このパワーストーンはそれを引きよせてくれます。身につければ、負のオーラは消えてなくなる。飾っていただくだけでもオーケーですよ。ご家族の運命が拓けます。月に一回ですね、年十二回、石が届きます」


 美月は窓から下をのぞいた。長いくせ毛を束ねた澱んだ目の男が、黒いハンカチで額の汗をぬぐっていた。


「あ、そうだ。こちらはパワーソープと言いまして、牛乳の匂いがするとても洗いあがりのよい石けんです。これで体や髪を洗うと、運気が倍増いたします。今回とくべつに三個セットでお渡ししますよ」


「あら、ええ? でも……」


「奥さん、お悩みありますでしょう?」


 男は、車庫にとまった旧式のうす汚れたセダンを見やった。美月から母の姿は見えなかったが、ため息だけが何度も聞こえる。


「ほんとうに運気があがるんでしょうか」


 母がか細い声で訊くと、男は目をぎらりと光らせた。


「もちろんです、奥さん。ああ、私の話などよりも皆さまの体験談がよいですね」


 黒光りした鞄から手際よくA4の冊子を取りだすと、読みあげはじめた。パチンコ通いの夫が改心してくれた。姑とのひどい関係が改善した。子どもの病気が治った。


 そのとき父は一週間家に帰ってきていなかったし、弟の有樹は今年度が始まって以

降、部屋から出てこなくなった。初夏だというのに、流れる汗がとまらない。あの男はあきらかに変だ。なのにお母さん、なんで話を聞いているんだろ。はやく断ってくれたらいいのに。美月は祈るように目を閉じる。そもそもわが家にそんなものを買う余裕などない。


「おいくらなんですか」

 母の声がした。


 美月は反射的に部屋を飛びだし、階段を駆けおりると、外へ出るなり大声で叫んだ。


「だめーっ!」

「みいちゃん、どうしたの?」


 美月を見る母はいつもの母のようではあったが、虹彩がひとまわり大きく見えた。


「おや、お嬢さんですか。こんにちは」

 男がにやりと笑う。


「こんなものいらないよ」

「こんなものとは失礼ですよ」

 あごを引き、男はくっくと気味悪く笑う。


「あら、どうして? みんなを守ってくれるんですって」

 母が少女のように朗らかに言う。


「お母さん、そんなわけないでしょう」

「みんな、運が味方してくれるんですって」

「お母さん、しっかりして」

 美月を見ているのに、焦点が合っていない。


 お母さんの味方は私だよ。私なんだよ。こんな得体の知れない石じゃない。美月は泣きだしそうになるのをこらえ、母の肩を両手で揺らした。


 男はなかなか立ち去らなかった。母は終始おろおろしていた。美月は拳をきつく握りしめ、男をきっとにらみつづけた。そのうちに苛立ってきた男が、「邪魔すんな、この小娘がっ」と暴言を吐いたので、美月は心臓をおさえながらも「警察に電話します」とポケットから携帯電話を取りだした。母が以前使っていた古いものだ。男はぐちゃりと顔を崩して美月をにらみつけ、くそがっ、呪ってやる、また来てやるから、などと捨て台詞をたくさん吐いて去っていった。


 美月の足が、がくがくと音を立てて崩れおちる。

 地面に座りこんだ美月の横で、母はただ呆然と立っていた。そのうちに、母はしゃがみこみ、美月をぎゅっと抱きしめた。美月も母を抱きしめかえした。それから母は、子どもみたいにわんわん泣いた。美月の緑色のシャツが母の涙や鼻水を吸いこみ、濃い色へと変わっていく。私の服で足りるだろうか。美月は心配になった。強くなりたい。そう思った。


 後にも先にも、この日のできごとを母と話したことはない。

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