2章 妹尾遼汰の場合

第1話

廃ビルの中で砂と土埃にまみれてからすは苦しげに息をする。


ガラスの割れ落ちた窓から月のない夜空が覗く。

こんなはずではなかった。


生臭い血の臭いに顔をしかめながら鴉は繰り返し思考を巡らせる。


体に開いたあなの数などとうに数えるのをやめた。


死への恐怖など元より無い。


殺せない相手ではなかった。


ただ、こんなはずでは、と。


勝敗を分けたのは、死に損なった者と生きている者の差。


言葉にしてしまえばそれだけの、差。


しかしその圧倒的な差は、この場においてもはや逆転することはない。


「私の勝ちだ」


カツン、と高らかな踵の音と共に響く凛とした声に鴉は顔を上げ睨み付ける。


微かに燐光を放つその金眼に、狩人は満足げな表情を浮かべた。


もはや鴉に向けられた銃口を睨み返す気力はない。


「喜べ。お前は飼い殺し決定だから」


獣も息を潜める新月の夜、鴉は完敗した。


◆◆◆


この街には化け物が住み着いている。


人を踏み潰して殺すという凶行に及んだその犯人は、四人もの人間を殺してなお大した手掛かりもなく捜査は難航している。


しかも最近になって犯行がぱったりと止んでしまったせいか、聞き込みに駆けずり回ってもあまり成果はない。


巷では人外の仕業だのといった眉唾物まゆつばものの噂も流れているようだが、現場を直接この目で見た私も信じてしまいそうになる。


それほどまでに非日常的な犯行。


遺体の状態からおよそ地上百メートル以上から瞬間的に加圧されたことによる圧死。


もちろん飛び降りの可能性も視野に入れて捜査は進んだ。


自殺の手段に飛び降りを選ぶ人間は少なくない。


死者の身近な人間がいくら悩みを抱えているようには見えなかったと言っても所詮は他人、本当のところは死んだ本人しか分からないものだ。


しかし、その可能性は比較的早い段階で消去された。


現場に残っていたのだ。素足のものと思われる足跡が。


遺体のある場所から始まり、血だまりを抜け数歩歩いたところで忽然と消える謎の足跡。


それが週刊誌にすっぱ抜かれて人外説が囁かれることになったのだ。


その後も複数の現場で発見され続けたその足跡が同一人物のものであろうことは既に判明している。


「おーい、大槻おおつき


上司の呼ぶ声にカタカタとキーボードを走らせていた指を止めて顔を上げる。


「なんでしょう」


「今日非番だろ。もう上がれ」


「いえ、でも」


「いいから、上がれ。報告書は明日でいい。妹待ってるんだろ、たまには早く帰ってやれ」


しっし、と手を振るガタイの良い上司は話は以上だと言わんばかりにさっさと書類に視線を戻す。


「………はい。すみません。じゃあお先に失礼します」


「おう。気ぃつけて帰れよ。事故防止でな」


「はい」


上司に頭を下げてデスクを片付け、席を立つ。


時刻は既に午後九時を回っている。また文句を言われちゃうなぁ。


更衣室で手早く着替え、署を後にしながらメッセージアプリを開く。


『これから帰るよ』


『はーい。お疲れさま』


『何か買って帰る物ある?』


『なーい。ご飯出来てるよー。寄り道なんかしちゃ駄目だぜ?』


『分かった』


とぼけた顔のキャラクターがぐっと親指を立てたスタンプが送られてきて思わず口元が緩む。


スマートフォンを仕舞って歩調を上げる。


中央圏の外れにある自宅まではそんなに遠くないが、既に体力の限界が近いせいか足取りは重い。


早く家に帰りたい一心で歩みを進めていると、ふと物音が耳を掠めて足を止めた。


酔いつぶれた人間が吐瀉物としゃぶつを撒き散らしたような、そんな不快な音。


いい気なものだ。さぞかし人生を謳歌おうかしているんだろう。


好きなように飲んで好きなように吐いている、そんな輩に一瞥いちべつをくれてやろうと路地裏を覗き込んだ。


途端、せ返るような生臭さが鼻を突いた。


目の前に大きな肉塊が積まれている。


その大きさは人一人分より倍近く大きい。


サラリーマンだったのか赤く濡れたワイシャツが所々裂けてぬらぬらと光る何かが飛び出している。


ああ、と頭のどこかで冷静に目の前の惨状さんじょうを観察する自分が言う。


これは現場写真で何度も見た、踏み潰しの現場だ。


つまり、私が聞いた音は────


「ん?」


その暗がりの中で不意に声が聞こえた。


もぞりと肉塊がうごめき、全身が硬直する。


「アンタ、何してんの」


ひとつの肉塊だと思っていた塊からグチョグチョと音を立てて、すくと人影が立ち上がった。


浅い呼吸に合わせて目だけがキョロキョロと動き、そのあり得ない現象を脳に焼き付けていく。


人影は濡れた素足でアスファルトを踏みながらこちらに歩み寄り目を細める。


人外の仕業ではないか、と面白おかしく取り上げる週刊誌の記事を思い出す。


確かに、燐光を放つその双眸そうぼうは既に人のモノではない。


「─────」


逃げなければ。

でも、


こいつが、


こいつが、逃げなきゃ早くこいつが、逃げなきゃ逃げなきゃ血が捕まえなきゃ逃げなきゃ潰れた身体が逃げ


死。


足が、動かない。


延びてくる腕に全身が戦慄せんりつする。


死ぬ。


私はここで。


「───ぁ、れ」


暗転した視界に焼き切れた思考が過去の思い出をさかのぼっていく。


茉央まお───

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