血も涙もない — 茅ヶ今千花

筑駒文藝部

血も涙もない

「別れましょう」

 レストランにて、恋人にそう告げられた男は言った。

「そうか」

 ずっと前から、男は自分と恋人との間に微々たるものではあるが、確かな「差」を感じていた。その差は無視できる程ではあったが、しかしスマートフォンの画面の割れのように、常に視界に入っているような、そんな感覚であった。

 男の脳裏を、走馬灯のように出来事が駆け巡る。それは「あの時こうしていれば」というような後悔から来るものでは決して無く、「あそこだな」と男が納得する為の、ただの確認作業であった。

 そのうちの一つをここでは紹介しよう。

 小袋が五袋ほど繋がれており、切り取り線から切って袋の中身を食べる、「おっとっと」のようなお菓子がある。これを二人で一袋ずつ食べる機会があった。食べるには当然切り取り線を切る必要がある。そのお菓子を持っていたのは恋人だったので、恋人がその切り取り線を切った。

 しかし恋人はうまく切り取れず、そのお菓子は袋が切れて開いてしまった方と、余分な切れ端がついてしまった方の二つに分かれた。すると恋人は、「開けるの失敗しちゃった」と言いながら、開いてしまった方を男に渡した。

 これが、男にとっては許せなかった。

 開いてしまった事自体は男にとってどうでもいい事であった。だが誰かと物を二等分する時に、「小さい方」を渡す、そこが許せなかった。もちろん、両袋ともお菓子の内容量にほぼ変わりはない。それは男も分かっていた。だが例えばケーキを二等分する時に、切る人間が失敗して、大きい方と小さい方を作ってしまった。その時、切った人間は責任を取って小さい方を取る。それが道理ではないかと男は考えていた。だから恋人にとってはおそらく取るに足らないものであった袋の切れ端は、男にとってひどく重要な意味を持っていたのだ。

 しかし、男はその事を顔にも出さず、何も言わず、ただ笑顔でその袋を受け取った。この不満が、自分以外の誰かにとっては本当にどうでもいい事であるのを分かっていたからだ。どうでもいいからこそ、自分のこの思いを口に出しても全く理解されないと考えた男は、その場を笑顔で乗り切ったのだった。

 そして、この例以外にも一通りこれまでにあった出来事を反芻し、確認作業が終わった男は、最後に別れようと思った、その理由を聞く事にした。恋人が自分に対して感じていた差は、一体なんだったのかが知りたかったからである。

 二人の差は本当に小さかったので、男か恋人の片方がもう片方に少しでも歩み寄れば、簡単に修復する事も可能であった。しかし、二人はそれを一切する事は無かった。というより、歩み寄らせなかったのだ。それは二人は何も変わらなかったという事で、ある意味では幸せな事だった。

 男は口を開いた。

「分かった」

「でも、なんで急に?」

 恋人は答える。

「このレストラン、無料で水が出てくるでしょ」

「ああ、そうだね」

「なのに、さっきあなたはわざわざドリンクを頼んだ。味がついているかついていないかの違いだけ、喉が潤うのは変わらないのに。これまでも、ずっとあなたのそういう所が許せなかった。もう我慢の限界だった」

「そうか」

「別れてくれる?」

「ああ、別れよう」

「さようなら」

「さようなら」

 そして恋人は自分の分の支払いを済ませ、レストランを後にした。

 そこには憎しみも悲しみも一切無かった。ただそこにある合意のみが二人をつなぎ合わせ、そしてそのままに別れさせたのであった。

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血も涙もない — 茅ヶ今千花 筑駒文藝部 @tk_bungei

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