牢獄、夢、街明かり — 鳶田さり

筑駒文藝部

牢獄、夢、街明かり

 私は囚われている。詳しくは知らない。罪を犯した覚えもなければ、戦争捕虜になった覚えもない。だが、私は囚われている。

 私は独りだった。外に出た記憶がない。ずっとここで生きている。物心ついた時から、いや生まれた時からかもしれない。私は私のことを何一つ知らない。この牢獄のせいで。私の周りには人はいなかった。看守もいない。食事や水はいつの間にかテーブルに置かれている。トイレやベッドは勿論のこと、ゲームやテレビ、パソコンまであり、なんら不足はなかった。

 だが、一つだけが欠けていた。自由である。ドアに鍵がかかっているというような生やさしいものではなかった。そもそもドアがないのだ。壁を壊そうとしたこともある。その先にあったのは、岩盤だった。ツルハシはなかったから、掘り進めるのは無理だった。

 ふとテレビやネットを見ると、そこには私が見たことのない景色が広がっている。人々が楽しそうに外を歩いている。何人かで連れ立って喋り、自由に街を歩き、好きなものを食べ、好きなところに住んでいる。そのことが私の自由を求める気持ちをより一層強くさせた。

 ここから抜け出したい。自由を得たい。そう思った。自由が得られるのならば、この何不足ない暮らしを捨てても良いと思った。

 だから排気口を見つけた時、狂喜乱舞した。これで抜け出せる、と。

 それは巧妙に隠されていた。私のように余程の執念を持つものでないと見つけられなかったであろう排気口。十分に人が通れる大きさであった。

 早速私はやすりで格子を破り、排気口の中へと這い進んだ。部屋の明かりが、段々と遠ざかっていく。私は安楽だが束縛された日常と訣別し、自由を手に入れるのだ。それはさぞ美しいであろう。どんなに苦しくとも、それがある限り私は生きる希望を失わない。長い間雲の如き存在であった自由に向かって、私は着実に進んでいるのだ。

 真っ暗な中、数十分程進んだであろうか。依然として先に光はない。しかし、私の自由を求める執念は、衰えることを知らなかった。自由を手に入れるためなら、雨が降ろうと槍が降ろうと進み続ける覚悟があった。

 その時だ。狭いトンネルに、けたたましく警報音が響き渡った。あわや鼓膜が破れようかという音量。私は思わず、前進を止めた。

 すると、後ろの方から何かが迫ってくる音がした。ロボットだろうか。どちらにせよ、自分は今追われている。そのことに気づいた私は、ひたすらに進みつづけた。ロボットの無慈悲と、人間の執念。ロボットには、最先端のモーターがあった。私には、たとえ命が尽き果てようとも前進せんとする情熱があった。壮絶な勝負は、数時間も続いたように感じられた。

 必死の逃走劇だった。

 どれだけの時間追いかけられているのか、いつまで逃げればいいのか、いい加減わからなくなってきた頃だ。ふっと音が消えた。殴られて耳が麻痺しているのか? 私はそう思ったが、痛みは感じない。恐る恐る振り返ると、そこには動かないロボットの姿があった。充電が切れたのである。私が勝ったのだ。私は束の間の安堵に身を浸した。だが、また新たなロボットが来るかもしれない。そもそも、出口はまだ先である。私は休む暇もなく、進み始めた。

 数時間後、私は街の中にいた。光明の中に。蒸し暑い夜の街だった。そこでは誰もが自由を満喫し、幸福に暮らしているように感じられた。ついに私もこの幸せを手に入れたのだ。

 しかし、私は、自由な暮らしとはなんなのか、どのようにすれば満喫できるのか、知らなかった。ずっと囚われていたのだ。当然である。私は老若男女が忙しなく蠢くむさ苦しい路上に茫然と立ち尽くすのみだった。皆が私に邪魔そうな視線を投げかけつつ通り過ぎたが、その時は気づかなかった。

 不意に、後ろから肩を叩かれた。肩を叩かれたことなど初めてだ。私は無意識に震えながら、振り返る。

 とても優しそうな、それでいてどこか闇のある男の顔がそこにあった。男は囁いた。

「僕の家にこないか。お腹が空いているだろう。美味しい食事を出してあげるよ。ベッドもある」

 私の本能が、行ってはならないと言っていた。何かがある。ついて行ったら、何か悲惨なことが起きる。自由になり、幸せになりたいのなら、行ってはいけない。しかし、私は疲れていた。一刻も早く休みたい。結局私は男について行くことにした。どこへ行こうが自由だ。半ば自棄になりながら、そんなことを呟いた。

「ここだよ」暫く歩いて、男が言った。なかなか広そうな家だ。裕福なのだろう。

 中に入ると、既に二人分の食事が置かれていた。

「いただきます」

 私は言い、早速食事に手をつけた。男も食べていた。あの部屋の食事よりも美味しかった。

 無心で食事を口に運び続け、3回ほどおかわりをし、眠くなってきたころだ。急に男が私に言った。

「自由かい?」

 質問の意図がよく分からず、黙っていると、男はこんなことを言い始めた。

「僕はこの世界を作った神だ。いや、看守というべきかもしれないな。君は自由か? あの不自由な部屋から出て、さぞ嬉しかっただろう。だが、外界で自由を満喫できているか? できていないだろう。自由なんて所詮そんなものなのだよ。自由で何ができる?」

 そこで男は言葉を切った。私に答えを求めているのだろう、と解った。だが、私は何も答えられなかった。自由。それは私にとって念願のものだったが、ただの幻想なのかもしれない。だが、そんなものを受け入れる気には到底なれなかった。

「ほら、何も答えられないだろう? そうなんだよ、自由なんてものは人間が作り出した妄想だ。無い物ねだりが得意な人間のね。気づいていたかい? あの部屋が牢獄なんじゃない、この世界全体が僕の作った牢獄なんだよ」

 男は続ける。

「ほら、街で騒いでる連中がいただろう? あいつらの方が君より賢いな。自分のことに目を向けようとしないんだから。全く要領がいいよ。彼らは楽に心地よく生きていられるね。

 それに比べて君はどうだ。君と同じ種類の先人たち――巷では哲学者と呼ばれているな――そいつらが勝手に妄想した自由なんてものにこだわり、何一つ不足のない部屋からわざわざ抜け出して、何がしたいんだか。呆れるね」

 私は膝から崩れ落ちた。今まで信じてきたものはなんだったんだ? 自由を求めたって、世間でより良い暮らしを築くためには、そんな綺麗事は捨てなければいけないのか。自由を捨てることが幸せになるのなら、自由を求めると不幸になるのなら――。




 何の不自由もない牢獄。食事や水はいつの間にかテーブルに置かれている。トイレやベッドは勿論のこと、ゲームやテレビ、パソコンまであり、なんら不足はなかった。

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