愛寵を梳く

救済の使い方

 美容師だった母が、十歳の誕生日プレゼントにくれたヘアバンド。

 かぎ編みで、伸縮性の良いそれを、私はいつしか首に巻くようになった。



 理由は覚えていない。母が死んだことが原因かもしれないし、高校に進学したことがきっかけかもしれないし、一人暮らしを始めたせいかもしれない。



 私以外住民のいない、オンボロアパートの一室。

 先代の住人が遺していったローテーブルには、稚拙な罵詈雑言が脚の裏にまで侵食している。



 赤文字のバカ。紫のクズ。黄色のゴミ。紺色の死。



 もし私が、幸せは笑顔からと考えるご機嫌な性格をしていたら。これらの悪口をどう褒めるだろう。

 色鮮やかだと手を叩くだろうか。良く言葉を知っていると讃えるだろうか。



 ベランダと部屋とを隔てる掃き出し窓。ガムテープでヒビを隠したその向こうに、今にも雨を仕掛けてきそうな曇天立ち込める。

 光のくすんだ空間で髪は萎びて、湿っぽい空気で肌がベタつく。



 壁に掛かったセーラー服には、灰色のセーターが重なったまま。制服というのはとても便利だ。それを着るだけで自分がどこに属しているかを証明してくれる。自分が何者かを、決めつけてくれる。



 首のヘアバンドをなぞり、環境と同化するように目を伏せる。黒色で伸縮性の良いそれは、滞りなく呼吸ができて、物が飲み込めるくらいの気持ちいい力で、私の首を圧迫する。



 喉仏が発達していたら、きっと苦しいんだろうな。何気なく自分が男になった姿を想像したけれど、我ながら女らしさの欠片も無かった人生。浮かんだ像は、今の自分と大して変わらなかった。



「不幸に、なれなかったな…」



 義務教育を終えて、御役所の職員さんや当時の担任から強制的に選ばされた高校進学。

 

 入学してから一年半。強い意義を唱えられ続けたせいか。いつからか、義務感がなければ話せないようになった。それは教師とも、クラスメイトとも、コンビニのお兄さんとも。



 次第に他者との会話が億劫になっていった。以来、言葉の絶対数を補填するように、独り言の数が増えた。



 別に、自分以外の人間を悪者だとは思っていない。安易に手を出したら喰いかかってくる怪物には見えていない。触った途端に祟ってくるほど、器の小さい神聖として扱ってもいない。それぞれ色んなところで悩んで、色んなところで苦しんでいる。



 この世界では誰だって正義のヒーローだし、誰だって殺したいほど恨まれる悪役だ。そしてそれは同じ数だけ。この世はみんな幸福でいられるけど、例外なく、不憫に晒される。



「じゃあ、味方のいない私はどうなんだろ」



 RPGで勇者に選ばれた主人公の私。貧しくも未来の為にと村の人たちは物資を恵み、惜しみない激励をくれた。私はそれを序盤の森の中で全て放り捨てて、何食わぬ顔で迷い人と素性を偽り、隣の村に移り住むような人間だったと記憶している。


 世界を救うなんて大役は任されたくない。別れるリスクを背負うくらいなら、初めから恋人は作らない。敵が増えて欲しくないから、友達も作らない。そういう極端なプレイングしか出来ない。だから私は孤独であるはずだ。そうでなきゃ、辻褄が合わない。



 けれど、どうしてか。幸せだけは私を逃してくれない。



 物好きにも程度ってものがある。

 それ以上は進めない。



 けれど、遥か。



 奈落しか無い崖っぷちであれ、アイツはそこで目に見えない透けた道を、軽快に、警戒なく進んで行く。

 世界が闇に包まれたら光明の価値を引き上げる。人が死んだら思い出を輝かせる。



 行きたくもなかった修学旅行。撮りたくなかった集合写真。部屋の隅で耳を塞いで、鼓動は間違いだと信じて息を殺し続けた夜。



 みんなとの旅行、楽しくない? と、新卒採用された女教師に、明るい笑顔で聞かれた。楽しくなかった私は、つまらないと答えた。出来るだけ、嫌味にならないトーンで。



 そしたら女教師は、私もそうだったと嘘をついた。私はその嘘を聞き続けた。

 聞き続けて、最後にありがとうと返した。もう少し楽しんでみますと、嘘を付け加えて。



 すると女教師は喜んだ。嘘でヒーローになれたのが、嬉しかったのだろう。



 私は、みんな仲良くが、とても嫌い。

 振り返りたくなった時のためと、賢そうに大人は言う。




 ──ふざけるな。



 私はあなた達といた過去を、楽しかったと懐かしむ気なんてない。例え写真を高い額払って買って、大人になってからしばらくして見返しても、楽しいとも思わなければ、懐かしい気持ちにもならないだろう。


 未来の私は、経験を床に置いて放置するだけの私は、それらの写真を見てきっと謝る。辛い時に、何も動いて上げられなかった当時の自分に向かって。如何にも出来ない未来の自分は、勝手に泣いて、勝手に苦しむ。頭をなでることも、抱きしめてあげることもできないと、嗚咽を零して。



 そんなの、幸せなんて呼べない。呼びたくない。呼べるような大人になりたくない。



 だから、放っておいてよ。



 悩んでいる姿。苦しそうな表情。不幸にしか繋がらない言葉。それは、あなた達がそう評価しているだけじゃないか。どうして、自分の価値観を正しいと信じて疑わないの。どうして、あなた達の前で歪む表情を、救済を求めていると解釈するの。





 それを、どうしてあなたは…



「幸せそうだねと言うの…お母さん」





 ここにあなたの魂はない。体はとっくに焼けて骨になった。その骨もとっくに砕いて埋めてしまった。



 この世であなたを覚えているのは私だけ。



 あなたに私を孕ませた男は、とっくにあなたを忘れていた。報酬のためによくしてくれた弁護士のおじさんからそう聞いた。

 お母さんの名前も声も、覚えていないって。すごく面倒くさそうに、気だるそうに、関係なさそうに言ったって。



 お母さん。あなたはきっと、私より不幸で、不憫で、不快な事ばかりの人生だったのでしょう。きっと私以上に、幸せの陰に追われながら死んでいったのでしょう。



 社会に出た途端に両親を事故で無くし、友人に裏切られ大金を失くした。

 借金を抱えながら必死になって大学を出たのに、勤め先で酷い扱いを受けた。それでも壊れそうな心を何度も取り繕いながら生きた。なのに無責任な社長は、ある日夜逃げして、職を失くした。

 抱かれた男には逃げられた。その男はあなたのことを綺麗に忘れ去った。



 そしてその男との間に、望んでもいない娘が生まれた。娘はあなたの下ですくすくと育った。




 その子はすくすくと育ってから、健やかに生きなくなった。




「もうこれ以上、幸せを、押し付けないで……」




 閉ざされた瞳から、涙が落ちる。

 もう、耐えられない。あなたのようには、取り繕えない。




 決壊の合図だった。




 不遇が重なって、不憫が連なって、不運に見舞われて。それでも笑顔で生きたあなたのように、私は生きられない。

 泣くことしか出来ない望まぬ命を、愛おしい思いで抱くことなんて出来ない。



 死んだあなたが夢に出てくるたびにうなされる。私の幸せを心から願っているあなたにうなされる。

 無償の愛に体が汚染される。視線の変わらないあなたの遺影が心を蝕む。



 私が生まれてすぐに、私を抱えて美容院に面接に行ったあなたは、何よりも私を受けいれてくれる環境を探していたね。そしてようやく辿りついた先で、優しくて素敵な人たちに巡り合えた。幼い私にそう話していたね。



 でも、あなたが死んだ途端にその人たちは手の平を返したよ。



 あなたのせいでみんなが損をしたって。産むしかなった娘に一生懸命になっていたあなたが、とてもうざかったって。あなたが守ってくれた娘に直接、大勢で言いに来たよ。



 全部、あなたが招いたんだよ。お母さん。私が幸せになるように命を懸けたお母さんが招いたんだよ。



 娘に文句を言いに来る同僚を。こっちの意見なんて聞かずに進学を進める過保護な公務員を。親のいない私を憐れむ同級生を。分からないながらに肯定する女教師を。



 全部あんたのせいだ。恵まれなかった私に、めぐみの名を与えたあんたのせいだ。




 だから、だからもう……




「これ以上、私の幸せを求めないでよ……」



 現実は、時に地獄より地獄の色をしている。

 未練もやり残しもない。私はいつだってこの身を切れる。

 


 ヘアバンドを首に巻くのは首が絞まるから。生を実感するには死を実感するのが良いと聞いたから。生を実感できるようにしておけば、常に死をイメージして、感じていられると思ったから。



 いつでも死ねる。いつでも死にたい。私を知る人たちの世界から、私を消したい。

 私の幸せを願うあなただけが、その邪魔をする。幸せを願われ続けることが一番苦しくて、ただずっと、そこから逃げたかった。



「不幸を望まない愛は、呪いでしかないんだよ。お母さん」



 ローテーブルの上に立ち、木目の剥がれた天井を見上げる。今にでも崩れてきそうな、ヒビだらけのその天井から何かが垂れているのに気づく。



 手に取ってみると、それはほぼ透明の糸だった。



 軽く引っ張ってみたが、切れる様子は無い。むしろ、人一人がぶら下がっても平気そうなほど強く、張りがあった。



 そう、まるで、何処かの蜘蛛の糸のように。



 粘着性がないから、手に張り付いたりもしない。指に絡めて巻き付けるのは、造作もない事だった。



 膝を曲げて、一瞬だけ宙に浮いた私は、その隙に足元のテーブルを蹴り飛ばす。

 飛んでいったテーブルとは逆方向に糸が傾き、身体は振り子のように揺れて、歪んだ円を描く。



 ヘアバンドがいつも以上に首を圧迫する。これでは物を飲み込むどころか、呼吸をするのにも障害がある。





 でも、もういいや。涙はこれで止まったんだ。



 お母さんの匂いがする、この糸で。

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