花園
「喰うって、どういう意味ですか」
火照る体に対して、脳は異常なくらい冷静で、感情は忘れてしまうほど静かだった。
触れられたくないものに触れられ、恐ろしいものと目が合っているのに、声色は崩れず震えもない。死を覚悟すると一気に冷静になるとも言うが、これも同じことなのだろうか。
「そっくりそのままの意味さ。君に
「初対面でいきなりそれ言われても、変態か不審者としか思えないです。あと私は人肉食べる趣味ないです」
「それは好都合だ。こう見えて、此方は人間以外の全ての生物を経験した存在なんだよ」
上半身を起こし、私の腹に跨った魔女は、頬に触れていた指を胸骨に立てる。花の香りに、痛覚が過敏になっているのだろうか。
筋肉に深く突き立てられた指は、骨ごと抉り取ろうとしている。そう思ってしまうほど、痛い。
気道が詰まって呼吸が覚束ない。視界も外側から段々とぼやけていく。
このままでは死んでしまう。分かっていながら抵抗する意志さえも芽生えなかったのは、タチトビ山の魔女が、選んだ望みを見せてくれたから。
「この花園はね、いつか私が喰われる時の為に用意した、テーブルクロスのようなものなんだ」
もう一つの手で私の唇をなぞりながら、魔女は語らい始める。
「人間以外の全ての生物を経験した此方の存在は、物質的ではなく概念的なのさ。名を掲げたことがないから説明がややこしいと思うけれど、要は『そういうモノ』なんだ。人間の姿でなければ、一人称だって必要ない超自然的で超越的なね」
ほぼ無呼吸状態の私が返事を返せるわけもなく、ただ入ってくる音を耳で拾い、脳で意味を処理する。
歪んでいるだろう私の顔に、魔女は何の反応も示さない。
指はどんどん深くまで入り込んでいく。無意識か加虐心によるものかは定かでないが、不快ではなく安堵が勝っている以上、突き飛ばそうとも、蹴り飛ばそうとも思わなかった。
相手は誰だって構わない。喰うか喰われるかであれば、私は喰われてしまいたい。
乱雑に、力任せに、肉を引き裂いて。頭が痛くなるくらい、骨を噛み砕いて。痛い、苦しいと叫んでも止まらない。しばらくしたら、速く喰い終われと文句を垂らす。溢れる嬉しさを抑えきれずに、気持ち悪く笑いながら。
喰われることは殺されること。誰かの糧として、消費されること。
だけど私は、ただ使われるだけでいい。私の命に感謝はなくていい。
喰ってくれてありがとうと言わせて欲しい。ただ喰われたいという、私の欲求を叶えてくれて。終わりにしてくれてありがとうと、言わせて欲しい。
「君に、そういう風に
瞳を閉じ、天を仰ぐ魔女。突風に吹かれ舞う花弁に包まれる姿に、夢想を覚える。
どうか、今この眼に映る光景が、夢であってほしくない。呼吸を止めてしまう痛みが、幻覚であって欲しくない。
タチトビ山は、花畑は、死んだときに来るトコロじゃない。逃げ道を探した人間が見る花畑であって、まだ生きている人間が訪れる場所。生きた人間が、終わりたいと思って訪れる場所。最後の最後で行方を知らせず。そうやって、この世が私を忘れ去る。
「なのに、概念の
狂おしくて好きな誰かを、決して離さぬような力を込めて。私の頬を両手で挟み、頭突きのように勢いよく顔を近づけた魔女と鼻先が触れる。
指を当てれば透過してしまいそうなほど白い肌。ゼロ距離にいても聞こえない呼吸。微かにも香ってこない、人特有の匂い。
まだ、魔女と私が混ざっていない証明。
「喰われる事は死ぬことだけれど、養分と解釈できる。死が此方を受け入れないないなら、此方もそれを受け入れる。けれど、終わらないは受け入れない。君に喰われて、花園を紅く染めて、私は終わってしまいたい」
「…よくわかんないですけど、魔女さんは自殺志願者なんですか? それとも聞きかじりの哲学拗らせた人生悲観論者?」
「どちらでもないよ。強いて言うなら、被食願望がある美しいお姉さんさ」
「そうですか。なんだっていいですけど、言ったとおり人を食べる趣味ありませんし、なんなら私は喰われたいんです。魔女さんこそ、私を食べてくれませんか?」
「んー、それは困るなぁ。君を食べても
中途半端に言葉を切って、魔女は顔を上げる。獣のような瞳が、鋭く光る。
「君が
魔女は両手の親指を私の口内にねじ込んで、力任せに下顎をこじ開けた。
この人外は、本気で私に喰われようとしている。喰われることに戸惑いなどない。喰わせることに躊躇もない。進む道にたまたま居合わせた人を巻き込み、自分の目的を果たす為に使ってしまう。
だからこそ、なのだろうか。意志だった“喰わない”が、いつの間に“喰ってたまるか”の意地に変わっている。
意思と違って意地は、使い勝手が非常に悪い。『変えない』から『変えられない』では根本から違う。粘土を一定に形に固めるのと、プラスチックの形を変えるのでは訳が違う。
時に機械に、時に炎に。より大きな力を加えて、捻じ曲げる。そうしたらもう、切れた糸を結び直したみたいに、戻れなくなる。
舌の裏を、何かの液体が流れる。流動的な液体には適度な粘度がありながら、停滞することなくサラサラと食道に流れ込む。
酸味や塩味に近いが、より味蕾と擦れて、食べるのを臆するような、歯痒くなる味。いつまでも残る後味は、気持ち悪さと親密だった。
犬歯によって傷ついた親指から、止めどなく溢れる魔女の血液。
美味しくも不味くもない魔女の血に麻痺した脳は、身体を躍動させた。
か細く白い手首を掴み、魔女の親指を引っこ抜いた私は、腕ごと左右に振って投げ飛ばす。
魔女は2、3メートル転がっていって、小さな呻き声を上げる。
追うように、魔女の元へ向かう。腹を蹴って仰向けに直すと、呻く声はさらに小さくなり、音が低くなった。
この時、加虐心とは何であるかを身体で理解した。ただ赴くままに、喰う前の弱者を甚振る。屠ることもせず、生きたままに力で穢す。
蹂躙の言葉が頭を過る。けれど私の本能は、それを求めていない。
さっきまで、自分がやられていた時と同じように。魔女の腹に跨り、胸に爪を立てる。
優越感と高揚感が混ざり合う。ドロドロした腫れ物みたいで鬱陶しい。荒い呼吸を繰り返し、いよいよ獣と遜色なくなった私を、魔女は在ろうことか、自身の首元に引き寄せた。
「ごめんね。少しズルいけれど、
人間でなかった狭間に、魔女は何度喰われたのだろう。何度痛みを繰り返してきたのだろう。
意識は共有だったのだろうか。思考に動物の知能の差は無かったのか。感情は引き継げたのか。癒える時間はあったのだろうか。
死に続けて。なのに死にきれなくて。
それでも喰われて終わりたいと思う、魔女はやはり人間でも、綺麗なお姉さんでもない。
狂おしくなるほど、狂ってる。そんな、ただの、喰われたがりだ。
「さぁ、口を開けて。いつか、君の糧になるものだ」
円をイメージして口を広げる。血に染まった下の犬歯の隙間を縫って、零れた涎が魔女の首筋を濡らす。
完全に我を失っていた。魔女の声は届いても、その意味を理解する脳の部位は動いていない。ただ喰うためだけの準備を、身体は既に済ましていた。
「歯を当てたら、もう一回深く噛みこんで。引き裂くときは、曲線を描きながら。その方が、簡単に裂けるから」
魔女の喉仏に口を合わせ、断つように噛みこむ。この角度からでは、もう魔女は表情は見えない。
最後の最後に、人がどんな顔で、空を見上げるのか。
知らぬまま、私は魔女の喉を引き裂いた。
ミチミチと筋肉が繋がっていようと鈍い音を立てるが、二秒後にはブチブチと繊維が切れた音が聞こえてくる。
裂けるほど派手に吹きだす血液は生暖かく、顔に飛び散る毎に、理性が一つずつ失われていく。
筋肉に味は無いし、肉は硬いし、血はたくさんありすぎて飽きる。けれど喰うが止まらない。弱者を自由に犯している感覚が快感で快楽だ。
私が喰っている。私が喰っている。
喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる 喰ってる
首元から溢れ始めた魔女の血が、波紋を描くように花畑に広がる。
地面に敷き詰められる血吸い上げ、白百合は紅く色付き、瑠璃茉莉は血しぶきの斑を纏う。しかし少女は気付かない。自分が人間以外になった事にも。
腹から腸を引っ張り出した頃、捕食者はようやく辺りを見渡す。
晴天だった空は曇天に。鮮やかだった花畑は赤一色に。
目下で転がる死体は人間の形をしていない。両目の
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