第6話 懐かしい海
均整の取れた六角形だった大岩も、来ないうちに随分と姿を変えた。波に削られ、角が取れ……。目印に決めたときに比べると、いくらか小ぢんまりとしたような気がする。
「いつまでも、あの頃のまま……ってわけにはいかないよね」
初めて陸から海を見たとき、わたしは根拠もなく『この景色は何年経っても変わらない』と信じていた。だが、それは幸福な空想だ。確かに不朽ではあるかもしれないが、不変とはいかない。温暖化に伴う海水温と海面の上昇は、年々加速傾向にあるという。一見すると変化の兆候など感じられないが、わたしの愛する海は、刻一刻とその構成を書き換え、異物へと近付いていっている。
この二つの岩も同じ。ある日突然、跡形もなく消える事はないにせよ、徐々に失われていく事は少し考えればわかる。このまま海面が上昇していけば、その全容は覆い尽くされてしまう。六角形の大岩はまだしも、いま、わたしが足場にしている平たい岩などは、遠からず海中に飲み込まれるだろう。
……いずれ奪われ、失われる。わたしの愛するこの眺望は。今日、足を運んで正解だった。記憶にある景色と照合するなら、一日でも早いほうがいい。
てっぺんぎりぎりまで持ち上がった太陽が照りつける。季節外れのぎらついた日差しは、ステージ照明のように一人の影を映し出す。二股に分かれた脚……わたしの人間の形を容赦なく暴き立てていく、太陽系の中心に鎮座する
二人で声を合わせて願ったあの日と同じに、波の音がやけに耳に響いた。噂話と違って、誰の事も咎めない優しい調べ。いつもは心を慰めるそれも、帰れ帰れの大ブーイング。よそ者のわたしを追い立てているようだった。
でも、まだ帰らない。ゆっくりと陽の落ちる時間を待つ。
する事もない。話し相手もいない。何時間もの
若々しい容貌を保つわたしは、とうの昔に人間ではなくなっていたが、時間感覚に関していえば、いつまでも人間同様であるかに思われた。
しかし、唯一心を許した人間が死去したいま、どうやらわたしは歳月の経過を感じ取る機微をも錆び付かせてしまっているようだ。
悲しみから目を背け、痛みに耳を塞ぎ、感情を凍結させる事により、あらゆるつらさを退けた結果がこれだ。時を止めた自分で生き永らえた果てに得られるものなど、本当にあるのだろうか。
海水に指を浸しても、流れていく血はない。怪我ひとつない乾ききった素肌が塩気を含んだ飲めない水に濡れるだけ。
平らな岩の上に立つ。角が丸みを帯びてきた六角形の大岩の前は、二人のための特等席。一人では、わたしはここへは座れない。
独特の薫りの湿り気を帯びた風は、肌にも髪にも粘度を分け与えては去っていく。寄せては返す波の切れ目から、淡い黄緑色がひょっこり現れはしないかと、この期に及んで期待する。
あなたに会いたい。その姿をひと目見たい。この気持ちは、わたしの持っているなかで、いちばん若くて、ひとつだけ美しいと言ってもいいかもしれないもの。
彼を好きな自分が好きなだけ? 半分は正解。だけどもう半分は大間違い。
彼を想っているときの自分と彼の口から語られる自分の事は、どうしてか否定せずにいられる。たぶん、彼の隣に居座り続けるためだったら、なんだって頑張れるから。彼には、自分の汚い部分を見せてはいなかったから。
わたしね、本当はあんまり好きじゃなかったの。いちばん最初にもらった仕事。彼の前では強がっちゃったけど、憂鬱でどうにかなりそうだった。
なにもないわたしには、重大な役割なんて果たせない。誰かの人生の
なにをしても、他人に比べて全然ダメな気がした。みんな優しいから、褒めてくれても信じられなかった。……ああ、ほらまた責任をなすりつけて。真っ直ぐで裏も表もない言葉さえ疑ってばかりで、受け取る事がいつまでたっても苦手なまま。
きっと彼はすべてお見通しだった。でも、嫌な部分も醜い姿も隠したいと思うわたしを尊重してくれていた。いつだって気付かないふりで、わたしが嫌いなわたしまでまるごと包んで愛してくれる。彼自身が海みたい。……そう。わたしは彼を海の化身のように感じていた。
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